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序章
episode:1
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春の温かな日差しに包まれる中、ルーレシアス王国の王女として一人の赤子が生を受けた。髪も瞳もルビーのような赤い色。
名はラビル・ルーレシアス。
「まぁ、なんて可愛らしい子なのかしら!」
「ああ、本当に可愛らしい……ビリアス。妹をちゃんと可愛がってやるのだよ?」
「うん、わかってるよ。お父様」
この新たな家族の一員が増えて微笑み合う肖像画は、今も長い廊下の豪華な額縁に収められて飾られている。
時折、お母様やお父様がこの肖像画を見つめてよく微笑み合っているのを王城内で知らぬ者は居ない。
そんなこんなで誕生から早10年。
心優しい両親と、不器用ながらも優しい兄である第一王子のビリアスに愛される平和な日々を送っていた。
平和で穏やかで幸せではあるけれど、最近ふと思う事があった。
時折、王城の外から聞こえる賑やかな声に一度も城を出た事がないのを退屈に思うようになっていたのだ。
ぼんやりと自室から窓の外を眺めていると、ちょうど馬車に手荷物を乗せていた兄ビリアスの姿が目に入り、ラビルは駆け出していく。背後でメイドが注意する声は聞こえないフリだ。
「お兄様! どこかお出かけするの?」
「……ああ。今日はフィラスの家で約束がある」
「そう……。あ! じゃあ、お兄様。明日のご用事は、」
「ラビル。ビリアスは今から親交関係を広げるのが大切な事なんだよ。分かってくれるね?」
いつも通り言葉少ない兄に言葉を重ねようとした矢先、いつの間にか近くに来ていた父の僅かに困ったような声に続きは呑み込む。
「……はい、お父様」
「うん、良い子だ。じゃあ、行こうか、ビリアス」
「はい。……ラビル」
「お兄様? 何か忘れ物でもーー!」
「帰ったら、また今日の‘お話’するから」
「お兄様……。うん、待ってるから早く帰ってきてね!」
馬車に乗る直前、くしゃりと軽く髪を撫でてビリアスはふわりと微笑む。その笑みにラビルも自然と微笑みを返す。
緩く振っていた手は馬車が見えなくなったところで、ゆっくりと降ろす。
(やっぱり、お兄様は優しいなぁ)
2つ上の兄であるビリアスは昔ほどラビルと共に過ごす時間はなくなっていた。
ルーレシアスは小国とはいえ、第一王子であるビリアスはいずれ国王となる身だ。
その為に今の内から交友関係を広げておく為に、公爵家達の子息や婚約者候補とのお茶会に出向いたりと、日中は王城に居ない方が多くなった。
昔からあまり口数は多くなく分かりにくい兄ではあるが、城内に居る時は本を読んでくれたり、外の話を聞かせてくれる。
妹であるラビルを大切に思ってくれているのは分かっていたから、ラビルは兄が大好きだった。
また王城内にはベテランといったメイドや執事しかおらず、歳の近い子は居らず兄が居ないと話し相手が居なくて退屈な日々。
*
そんなある日のことだった。
(はぁ……今日はお兄様もいないし、お父様もお母様もお仕事で退屈だなぁ)
いつものように自室の椅子へ腰掛けて、中身の無くなったカップを持て余してぼんやりと窓の外を眺めていた時、ふと違和感に気付く。
(……あれ? あそこの壁、なんか微妙に歪んでる?)
中庭で慌ただしく物干し竿から手慣れた動きで洗濯物を片していくベテランのメイドを視界の隅に捉えながらも、じっと一か所を凝視する。
しかし、窓を挟んで距離があるからかその場所はよく見えない。
(うーん、気になる。ちょっとだけ見に行ってみようかな)
思い立ったが吉日、とばかりにラビルは周囲に人が居ないのを目視で確認して窓から庭へ出た。
先程まで忙しなく洗濯物を片していたベテランメイドはさすがベテラン、既に全て回収し終えたらしく姿はない。
中庭の目立たない場所ではあるが、確かにそこは微妙に境目が他とは違う気がする。
その場所へ近付いてそっと手で触れると、ガラガラと壁の一部が音を立てて崩れてしまった。咄嗟の出来事に動揺して、すぐ周囲へと視線を走らせるがちょうどメイド達は夕飯の支度の時間だからか、近くには誰も居ない。
ホッと安心してもう一度、その場所を見ると子供の1人くらいは通り抜け出来るような穴が出来ていた。
(……そういえば、先日に激しい嵐があったからその影響かしら?)
基本的に天候が穏やかな日の多いルーレシアス王国だが、年に数回だけは激しい嵐に襲われる日がある。両親や兄は嵐を嫌っていたが、ラビルは少し違った。
もちろんルーレシアス王国が誇る美しい花々が強風や豪雨で散らされてしまうのはとても悲しいし、激しく窓を叩く音は恐ろしい。けれど、嵐の時だけは多忙な両親も兄も城内に居てくれるのだ。
その時だけは家族全員で穏やかな時を過ごせる。だから、ラビルは嵐がそこまで嫌いにはなれなかった。
どうやら今回の嵐はちょっとしたイタズラを残していたようだ。
穴の外から僅かに聞こえるのは城のすぐ近くにある王都ルーレンからの賑やかな声。
恐らくこんなチャンスはもう無いだろう。城に仕える騎士たちは巡回も厳しく、虫の一匹たるもの城内には入れないという完璧ぶりだ。
今、こうして穴の第一発見者となったこの瞬間でなければ翌日か、早ければ今日にはもうこの穴は塞がってしまうだろう。悩む時間などない。
(……ちょ、ちょっとだけならいいよね?)
少しばかり自分に言い聞かせるようにラビルはその穴へと飛び込んだのだった。
*
道に迷うのではと思っていたラビルだったが、王都ルーレンまでは一本道で思っていたよりもすぐに到着できた。
「すごい……ここが王都ルーレンなんだ!」
城内にも多くの人が居たがそれはメイドや執事、騎士達と城に仕える者達。誰もが子供とはいえ、王族であるラビルには頭を下げて礼儀正しく接する。
もちろん子供ながらにそれが仕える者達としての礼儀だとは分かっているが、それが少し寂しかった。近くには大勢の人が居るのに寂しい、と。
けれど、ここは違う。
多くの人が自分の意思で歩いて、話していて、何よりも表情が活き活きとしている。大人も子供も、皆が楽しそうだった。
初めて目にしたその光景はただただ、ラビルの視線と思考を一人占めした。
だからこそ、気付けなかった。
知らず知らずのうちに市井の賑わいに夢中になっていたせいで、その賑わいの中心から遠ざかってきているという事に。
ラビルがハッとして周囲を見渡す頃には視界に入ったのは、覆い茂る緑ばかり。
そこでふと以前、父が言っていた言葉を思い出す。
『いいかい、ラビル。王都は自然で溢れていて食糧などには困らないが、森の中は危険だから絶対に一人では行かないようにな。……まぁ、城の外にはまだ当分出ないだろうから問題ないか』
なんて朗らかに笑っていらしたお父様、ごめんなさい。今絶賛その森の中にいます。
泣きだしたい気持ちを必死に堪えて、自分自身を奮い立たせる為にもパシッと自分の両手で両頬を叩く。
「だ、大丈夫よ、ラビル。きっと出られるわ。来た道を戻ればいいだけなのだから!」
そうして気合いを入れて歩みを進めたがもはや、どのくらいの時間が過ぎたのか分からない。気が付けば真上にあったはずの太陽が沈みかけていた。
「……どうしよう、全然分からない。……わたし、ずっとこの森から出られないのかな……」
気合いを入れた筈なのに、朱色の瞳からじわりと何か熱いものが込み上げてくる。
「ううん、ダメ……泣いたらダメよ、ラビル!」
必死に涙を堪えようと真上を向いた瞬間、草むらがガサガサっと大きく揺れた。
(な、何か……居る……?)
草むらが揺れる音が近づいて来る。何かがこちらに向かってきているのだ。
(ど、どうしよう……怖い! お父様、お母様……お兄様!)
前も後ろもあるのは緑ばかりで、どちらへ行けば城へ戻れるのかも分からない。けれど、近付いてくる音は止まらない。意を決してギュッと瞳を強く閉じた、その時。
「あれ? 君、こんな所で何してるんだい?」
固く閉じた瞳を恐る恐ると開けば、目の前に立っていたのは太陽を反射させたかのような美しい金の髪と、宝石ベニトアイトのような
濃い青の瞳を持った少年が居た。
その美しい碧眼と視界が重なった瞬間、まるでおとぎ話のワンシーンかのような映像が頭の中で溢れだす。
『――ちゃん、僕は……君のことが、――」
「君、本当に大丈夫? 具合が悪いのかい?」
脳内で聞こえた声色と、目の前の少年の声色は全然違う。それなのに何故か声が重複して聞こえた。
知らない筈なのに、どこかで聞いたような懐かしくて安心する声。
「……あの時、なんて言ったの? ――……くん」
「……え? 今の名前……あっ、ちょ、危ない!」
ふっとラビルの意識が遠のく。背中に温かな体温を感じながら。
『もう、お兄ちゃん! いつまで寝てるの!』
『うーん……あと5分だけ。可愛い妹よ……』
『だーめ。そう言ってから、もう10分以上経ってるんだからね?』
(この記憶は……なに?)
毎朝、朝が苦手な兄を起こす妹。
居間にはトーストとコーヒーという、簡易な朝食。
そう、妹は料理が得意ではないのだ。
唯一作れる(焼くだけだが)トーストですら、片方はほぼ焼けていない生の状態だが、もう片方は焦げが目立っていた。
(知らない……こんな記憶、知らないはずなのに……)
頭では拒絶している。けれど、心が確かに覚えていた。
『お、今日も朱音のトーストはまずくて最高だな!』
『うっ! じゃあ、コウ兄が作ってよ。私より料理うまいんだから』
『朝飯は可愛い妹のまずい料理がいいから却下』
焦げすぎたトーストを苦々しく口に入れていれうのは、兄の紅輔。
そして、妹の名前が朱音。
……遠い、いつかも分からない遠い昔に’わたしだった人’
幼い頃、交通事故で両親を失った私はずっと2つ上のコウ兄に守られて生きてきた。
コウ兄は頭脳明晰、運動神経抜群と、更に身内贔屓なしに容姿も整っていて女性からとても人気があった。バレンタインには他校からも本命チョコを持ってくる女子生徒が居たほどだ。
でも、兄が特定の人を作ることはなかった。
理由は「妹が居るから恋人に割く時間はない」
過度のシスコンだというのは、大学でもバイト先でもかなり有名だった。
兄は自分が恋人を作ったら私が一人ぼっちになってしまうから、と心配してくれる優しい人。
一緒に居れなくなるのは寂しいけれど、でも本当は遠くない未来に誰よりも幸せになってほしい。……幸せに、なってほしかった。
そう、あの事故が起きるまでは。強く願っていた。
兄は朝シフトのバイト、私は大学の授業が朝から入っていたので支度を終わらせると、二人揃って家を出る。兄のバイト先は大学のすぐ近くで道は直前までほぼ一緒なので、いつも一緒に家を出るのが習慣になっていたのだ。
ちなみに兄と私は同じ大学の1年と3年。だけど兄は特待生という優秀ぶりに反して、私はぎりぎり合格という大きな差がある。
昔は優秀な兄と、何をしても普通な私とで途方もない能力差が嫌な時期もあったが、兄はそれを鼻に掛けるどころかいつでも私を褒めてくれた。
だから、そんな優しい人に醜い嫉妬なんてしてはいけないいうのはすぐに気付けた。疎むどころかよく懐くようになったら、いつの間にか兄がシスコンを拗らせたとかなんとか。
けれど平凡だった幸せは兄が9歳、私が7歳の時、両親の交通事故で大きく崩れ落ちた。お葬式の時は頭も、目もズキズキと腫れ上がるくらいにわんわん泣いた。
兄も辛かった筈なのに、お葬式の時どころか私の前で涙を見せたことは一度もなかった。
……でも、私は知っていた。
深夜、喉が渇いて水を飲みに行こうとキッチンに向かったら仏壇の前で声も出さずに一人で泣いていたこと。強いと思った兄も、私と同じ……むしろ、それ以上に苦しくて、悲しんでいるのだと。それからは守られるばかりではなく、私も兄を守れるようになりたいと強く思った。
両親は複数の生命保険などに入っていたのと、過失が完全に相手側だったとして多額の慰謝料とでお金は子供二人が成人するまでには十二分過ぎるほどにあった。
でも、兄は両親を失ったのと引き換えに得たお金に頼りたくはないと必要最低限の金額しか使わず、バイトが出来るようになってから日常生活のお金は全て兄のバイト代で賄っていた。
そして、私が中学生になる頃、近所にある家族が引っ越して来た。
それが白那 亜美歌ちゃん、朋騎くんという双子の姉弟との出会いだった。
『新しく引っ越してきた白那 亜美歌です。よろしくね? あ、こっちは弟の朋騎。ほら、ご挨拶して?』
『あ……ぼく……その……と、朋騎……うう』
『あらら……緊張しちゃったかな。ちょっと内気な子なんだけど、お隣さん同士これから仲良くして貰えたら嬉しいな』
いつもニコニコと笑顔を絶やさなくて優しい亜美歌ちゃんと、いつも亜美歌ちゃんの後ろに隠れるようにしてビクビクしていた朋騎くん。
『それと、今日はちゃんと亜美歌ちゃんに優しくしてあげなきゃダメだよ?』
『……べ、別にイジメてはないぞ?』
『コウ兄は言い方がキツ過ぎるの。どこかの朋騎くんの爪の垢を煎じて飲ませないとかなー』
『あいつは優しいんじゃなくて、ムッツリの貧弱野郎なだけで――』
『コウ兄。それ以上言ったら当分、口きかないからね?』
『そ、そんなの……辛く過ぎて考えただけで泣くぞ!!!』
つづく
名はラビル・ルーレシアス。
「まぁ、なんて可愛らしい子なのかしら!」
「ああ、本当に可愛らしい……ビリアス。妹をちゃんと可愛がってやるのだよ?」
「うん、わかってるよ。お父様」
この新たな家族の一員が増えて微笑み合う肖像画は、今も長い廊下の豪華な額縁に収められて飾られている。
時折、お母様やお父様がこの肖像画を見つめてよく微笑み合っているのを王城内で知らぬ者は居ない。
そんなこんなで誕生から早10年。
心優しい両親と、不器用ながらも優しい兄である第一王子のビリアスに愛される平和な日々を送っていた。
平和で穏やかで幸せではあるけれど、最近ふと思う事があった。
時折、王城の外から聞こえる賑やかな声に一度も城を出た事がないのを退屈に思うようになっていたのだ。
ぼんやりと自室から窓の外を眺めていると、ちょうど馬車に手荷物を乗せていた兄ビリアスの姿が目に入り、ラビルは駆け出していく。背後でメイドが注意する声は聞こえないフリだ。
「お兄様! どこかお出かけするの?」
「……ああ。今日はフィラスの家で約束がある」
「そう……。あ! じゃあ、お兄様。明日のご用事は、」
「ラビル。ビリアスは今から親交関係を広げるのが大切な事なんだよ。分かってくれるね?」
いつも通り言葉少ない兄に言葉を重ねようとした矢先、いつの間にか近くに来ていた父の僅かに困ったような声に続きは呑み込む。
「……はい、お父様」
「うん、良い子だ。じゃあ、行こうか、ビリアス」
「はい。……ラビル」
「お兄様? 何か忘れ物でもーー!」
「帰ったら、また今日の‘お話’するから」
「お兄様……。うん、待ってるから早く帰ってきてね!」
馬車に乗る直前、くしゃりと軽く髪を撫でてビリアスはふわりと微笑む。その笑みにラビルも自然と微笑みを返す。
緩く振っていた手は馬車が見えなくなったところで、ゆっくりと降ろす。
(やっぱり、お兄様は優しいなぁ)
2つ上の兄であるビリアスは昔ほどラビルと共に過ごす時間はなくなっていた。
ルーレシアスは小国とはいえ、第一王子であるビリアスはいずれ国王となる身だ。
その為に今の内から交友関係を広げておく為に、公爵家達の子息や婚約者候補とのお茶会に出向いたりと、日中は王城に居ない方が多くなった。
昔からあまり口数は多くなく分かりにくい兄ではあるが、城内に居る時は本を読んでくれたり、外の話を聞かせてくれる。
妹であるラビルを大切に思ってくれているのは分かっていたから、ラビルは兄が大好きだった。
また王城内にはベテランといったメイドや執事しかおらず、歳の近い子は居らず兄が居ないと話し相手が居なくて退屈な日々。
*
そんなある日のことだった。
(はぁ……今日はお兄様もいないし、お父様もお母様もお仕事で退屈だなぁ)
いつものように自室の椅子へ腰掛けて、中身の無くなったカップを持て余してぼんやりと窓の外を眺めていた時、ふと違和感に気付く。
(……あれ? あそこの壁、なんか微妙に歪んでる?)
中庭で慌ただしく物干し竿から手慣れた動きで洗濯物を片していくベテランのメイドを視界の隅に捉えながらも、じっと一か所を凝視する。
しかし、窓を挟んで距離があるからかその場所はよく見えない。
(うーん、気になる。ちょっとだけ見に行ってみようかな)
思い立ったが吉日、とばかりにラビルは周囲に人が居ないのを目視で確認して窓から庭へ出た。
先程まで忙しなく洗濯物を片していたベテランメイドはさすがベテラン、既に全て回収し終えたらしく姿はない。
中庭の目立たない場所ではあるが、確かにそこは微妙に境目が他とは違う気がする。
その場所へ近付いてそっと手で触れると、ガラガラと壁の一部が音を立てて崩れてしまった。咄嗟の出来事に動揺して、すぐ周囲へと視線を走らせるがちょうどメイド達は夕飯の支度の時間だからか、近くには誰も居ない。
ホッと安心してもう一度、その場所を見ると子供の1人くらいは通り抜け出来るような穴が出来ていた。
(……そういえば、先日に激しい嵐があったからその影響かしら?)
基本的に天候が穏やかな日の多いルーレシアス王国だが、年に数回だけは激しい嵐に襲われる日がある。両親や兄は嵐を嫌っていたが、ラビルは少し違った。
もちろんルーレシアス王国が誇る美しい花々が強風や豪雨で散らされてしまうのはとても悲しいし、激しく窓を叩く音は恐ろしい。けれど、嵐の時だけは多忙な両親も兄も城内に居てくれるのだ。
その時だけは家族全員で穏やかな時を過ごせる。だから、ラビルは嵐がそこまで嫌いにはなれなかった。
どうやら今回の嵐はちょっとしたイタズラを残していたようだ。
穴の外から僅かに聞こえるのは城のすぐ近くにある王都ルーレンからの賑やかな声。
恐らくこんなチャンスはもう無いだろう。城に仕える騎士たちは巡回も厳しく、虫の一匹たるもの城内には入れないという完璧ぶりだ。
今、こうして穴の第一発見者となったこの瞬間でなければ翌日か、早ければ今日にはもうこの穴は塞がってしまうだろう。悩む時間などない。
(……ちょ、ちょっとだけならいいよね?)
少しばかり自分に言い聞かせるようにラビルはその穴へと飛び込んだのだった。
*
道に迷うのではと思っていたラビルだったが、王都ルーレンまでは一本道で思っていたよりもすぐに到着できた。
「すごい……ここが王都ルーレンなんだ!」
城内にも多くの人が居たがそれはメイドや執事、騎士達と城に仕える者達。誰もが子供とはいえ、王族であるラビルには頭を下げて礼儀正しく接する。
もちろん子供ながらにそれが仕える者達としての礼儀だとは分かっているが、それが少し寂しかった。近くには大勢の人が居るのに寂しい、と。
けれど、ここは違う。
多くの人が自分の意思で歩いて、話していて、何よりも表情が活き活きとしている。大人も子供も、皆が楽しそうだった。
初めて目にしたその光景はただただ、ラビルの視線と思考を一人占めした。
だからこそ、気付けなかった。
知らず知らずのうちに市井の賑わいに夢中になっていたせいで、その賑わいの中心から遠ざかってきているという事に。
ラビルがハッとして周囲を見渡す頃には視界に入ったのは、覆い茂る緑ばかり。
そこでふと以前、父が言っていた言葉を思い出す。
『いいかい、ラビル。王都は自然で溢れていて食糧などには困らないが、森の中は危険だから絶対に一人では行かないようにな。……まぁ、城の外にはまだ当分出ないだろうから問題ないか』
なんて朗らかに笑っていらしたお父様、ごめんなさい。今絶賛その森の中にいます。
泣きだしたい気持ちを必死に堪えて、自分自身を奮い立たせる為にもパシッと自分の両手で両頬を叩く。
「だ、大丈夫よ、ラビル。きっと出られるわ。来た道を戻ればいいだけなのだから!」
そうして気合いを入れて歩みを進めたがもはや、どのくらいの時間が過ぎたのか分からない。気が付けば真上にあったはずの太陽が沈みかけていた。
「……どうしよう、全然分からない。……わたし、ずっとこの森から出られないのかな……」
気合いを入れた筈なのに、朱色の瞳からじわりと何か熱いものが込み上げてくる。
「ううん、ダメ……泣いたらダメよ、ラビル!」
必死に涙を堪えようと真上を向いた瞬間、草むらがガサガサっと大きく揺れた。
(な、何か……居る……?)
草むらが揺れる音が近づいて来る。何かがこちらに向かってきているのだ。
(ど、どうしよう……怖い! お父様、お母様……お兄様!)
前も後ろもあるのは緑ばかりで、どちらへ行けば城へ戻れるのかも分からない。けれど、近付いてくる音は止まらない。意を決してギュッと瞳を強く閉じた、その時。
「あれ? 君、こんな所で何してるんだい?」
固く閉じた瞳を恐る恐ると開けば、目の前に立っていたのは太陽を反射させたかのような美しい金の髪と、宝石ベニトアイトのような
濃い青の瞳を持った少年が居た。
その美しい碧眼と視界が重なった瞬間、まるでおとぎ話のワンシーンかのような映像が頭の中で溢れだす。
『――ちゃん、僕は……君のことが、――」
「君、本当に大丈夫? 具合が悪いのかい?」
脳内で聞こえた声色と、目の前の少年の声色は全然違う。それなのに何故か声が重複して聞こえた。
知らない筈なのに、どこかで聞いたような懐かしくて安心する声。
「……あの時、なんて言ったの? ――……くん」
「……え? 今の名前……あっ、ちょ、危ない!」
ふっとラビルの意識が遠のく。背中に温かな体温を感じながら。
『もう、お兄ちゃん! いつまで寝てるの!』
『うーん……あと5分だけ。可愛い妹よ……』
『だーめ。そう言ってから、もう10分以上経ってるんだからね?』
(この記憶は……なに?)
毎朝、朝が苦手な兄を起こす妹。
居間にはトーストとコーヒーという、簡易な朝食。
そう、妹は料理が得意ではないのだ。
唯一作れる(焼くだけだが)トーストですら、片方はほぼ焼けていない生の状態だが、もう片方は焦げが目立っていた。
(知らない……こんな記憶、知らないはずなのに……)
頭では拒絶している。けれど、心が確かに覚えていた。
『お、今日も朱音のトーストはまずくて最高だな!』
『うっ! じゃあ、コウ兄が作ってよ。私より料理うまいんだから』
『朝飯は可愛い妹のまずい料理がいいから却下』
焦げすぎたトーストを苦々しく口に入れていれうのは、兄の紅輔。
そして、妹の名前が朱音。
……遠い、いつかも分からない遠い昔に’わたしだった人’
幼い頃、交通事故で両親を失った私はずっと2つ上のコウ兄に守られて生きてきた。
コウ兄は頭脳明晰、運動神経抜群と、更に身内贔屓なしに容姿も整っていて女性からとても人気があった。バレンタインには他校からも本命チョコを持ってくる女子生徒が居たほどだ。
でも、兄が特定の人を作ることはなかった。
理由は「妹が居るから恋人に割く時間はない」
過度のシスコンだというのは、大学でもバイト先でもかなり有名だった。
兄は自分が恋人を作ったら私が一人ぼっちになってしまうから、と心配してくれる優しい人。
一緒に居れなくなるのは寂しいけれど、でも本当は遠くない未来に誰よりも幸せになってほしい。……幸せに、なってほしかった。
そう、あの事故が起きるまでは。強く願っていた。
兄は朝シフトのバイト、私は大学の授業が朝から入っていたので支度を終わらせると、二人揃って家を出る。兄のバイト先は大学のすぐ近くで道は直前までほぼ一緒なので、いつも一緒に家を出るのが習慣になっていたのだ。
ちなみに兄と私は同じ大学の1年と3年。だけど兄は特待生という優秀ぶりに反して、私はぎりぎり合格という大きな差がある。
昔は優秀な兄と、何をしても普通な私とで途方もない能力差が嫌な時期もあったが、兄はそれを鼻に掛けるどころかいつでも私を褒めてくれた。
だから、そんな優しい人に醜い嫉妬なんてしてはいけないいうのはすぐに気付けた。疎むどころかよく懐くようになったら、いつの間にか兄がシスコンを拗らせたとかなんとか。
けれど平凡だった幸せは兄が9歳、私が7歳の時、両親の交通事故で大きく崩れ落ちた。お葬式の時は頭も、目もズキズキと腫れ上がるくらいにわんわん泣いた。
兄も辛かった筈なのに、お葬式の時どころか私の前で涙を見せたことは一度もなかった。
……でも、私は知っていた。
深夜、喉が渇いて水を飲みに行こうとキッチンに向かったら仏壇の前で声も出さずに一人で泣いていたこと。強いと思った兄も、私と同じ……むしろ、それ以上に苦しくて、悲しんでいるのだと。それからは守られるばかりではなく、私も兄を守れるようになりたいと強く思った。
両親は複数の生命保険などに入っていたのと、過失が完全に相手側だったとして多額の慰謝料とでお金は子供二人が成人するまでには十二分過ぎるほどにあった。
でも、兄は両親を失ったのと引き換えに得たお金に頼りたくはないと必要最低限の金額しか使わず、バイトが出来るようになってから日常生活のお金は全て兄のバイト代で賄っていた。
そして、私が中学生になる頃、近所にある家族が引っ越して来た。
それが白那 亜美歌ちゃん、朋騎くんという双子の姉弟との出会いだった。
『新しく引っ越してきた白那 亜美歌です。よろしくね? あ、こっちは弟の朋騎。ほら、ご挨拶して?』
『あ……ぼく……その……と、朋騎……うう』
『あらら……緊張しちゃったかな。ちょっと内気な子なんだけど、お隣さん同士これから仲良くして貰えたら嬉しいな』
いつもニコニコと笑顔を絶やさなくて優しい亜美歌ちゃんと、いつも亜美歌ちゃんの後ろに隠れるようにしてビクビクしていた朋騎くん。
『それと、今日はちゃんと亜美歌ちゃんに優しくしてあげなきゃダメだよ?』
『……べ、別にイジメてはないぞ?』
『コウ兄は言い方がキツ過ぎるの。どこかの朋騎くんの爪の垢を煎じて飲ませないとかなー』
『あいつは優しいんじゃなくて、ムッツリの貧弱野郎なだけで――』
『コウ兄。それ以上言ったら当分、口きかないからね?』
『そ、そんなの……辛く過ぎて考えただけで泣くぞ!!!』
つづく
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