2 / 5
2
しおりを挟む
◇◆◇◆◇
カッパと出会ったのはつい一週間前のことだ。
あの日も雨が降っていた。
透明なビニル傘を叩く雨の音が心地よい。
僕はじっとりと濡れた欄干に肘をつき、橋の上から川をじっと眺めていた。こんな日は仕事なんてせずに、こうして濁った川の色を見ながらじっとしている雨音を聞いているに限る。
時折、僕の後ろを傘が色とりどりの傘が行き交う。誰もこちらを見ない。それもそのはずだ。僕はいつもこの傘と同じ透明で、誰にも気づかれないようなそんな存在なのだから。
しばらく眺めているうちに一つの傘が川に近づいていく。はっとするような冴えた赤い傘だった。
僕は興味が湧いてそれを観察していた。
とぷん。
赤い傘は川に落ち、流された。ものすごい速さで視界から消える赤。
残ったのは傘の持ち主だろうか。
真っ黒なパーカーを羽織り、真っ黒なパンツを履いている。この暑さでよくもまあそんな格好をするもんだ。
僕がぼんやりとそれを見ていると、傘の持ち主らしき真っ黒な塊は川に飛び込んだ。
僕は驚いて自分の持っていた傘を投げ捨て、走った。
自殺だ。真っ先にそう思った。
誰かに助けを求めなければと思い、スマホを取り出す。
一瞬、僕の手は止まる。躊躇している場合か。人の命がかかっているんだぞ。
真っ先に浮かんだ警察への番号を頭の中から消去して、消防署への番号を思い起こす。
改めて震える手でスマホをタップした。
しかし、スマホは雨に濡れてなんの反応も示さない。
僕は焦りながら、スマホを袖口で拭った。通話の画面をたちあげることが出来たが、すぐにホーム画面に戻ってしまう。焦れば焦るほど上手く操作ができない。
僕は唇を噛み締めて、スマホをポケットに戻した。
今はとりあえず落ちた場所に急ごう。そう判断して、走ることに専念した。
さほど大きくない橋なので目当ての場所には直ぐに着いた。
そこには既に人影はない。
僕は怖々と濁った川に近付いて中を覗き込んだ。水流はごうごうと唸りを上げて流れていく。
本当にこの中に人が飛び込んだのか。
手が震える。
やっぱり、一人では何ともできない。助けを求めなくては。僕はもう一度決心を決めてポケットに手を入れた。
「危ないよ、お兄さん」
丸めた背中に降ってきたのは少年の声だった。
振り返ると、真っ黒なパーカーを着た少年が立っていた。少年はびしょびしょに濡れていて、顎からはぽたぽたと雫が垂れていた。うっすらと黒い服に浮かぶのは、濁った色の砂のあと。
川に落ちたのはこの子だと僕はすぐに分かった。
「雨の日に川に近づいちゃダメだって習わなかった?」
少年は涅色の瞳を細めて、あどけなく笑う。その顔があまりにも綺麗で、僕は何も言えなくなった。
「雨の日は水嵩が増してるから危ないし、ここにはカッパが出るんだよ?」
「……カッパ?」
ようやく口に出来た言葉はそれだけだった。
それでも、少年は僕が反応したのを見て、とても嬉しそうに頷く。
「そう。川に人を引き摺りこんで尻子玉を抜いたり、イタズラする妖怪のこと。知らない?」
僕は河童のことかと心の内に小さく頷く。
確かに僕の生まれた土地にある沼にはそういう伝説があった。詳しくは知らないけど、魚の目玉が好きな妖怪で沼の魚の目玉が片方しかないのは河童のせいなんだとか、川に人や牛を引き摺りこんでは溺れさせたり、殺したりするんだとか、そんな話を聞いた気がする。
イタズラ好きで悪意なく人を困らせ、殺す妖怪。そんな印象があった。
「聞いたことがあるかもしれない」
「それは話が早くて助かる。カッパはこういう日に人を騙して川に引き摺りこみたがるんだよ。仲間が欲しいのか、人の体温が恋しいのか、カッパは人が好きなんだ。ぼやぼやしてると捕まっちゃうよ。さっさと帰った方がいいと思うな」
少年の言うことは僕を煙に巻くような発言ばかりだったけれど、本当に僕を心配しているようだった。
「それなら、君もびしょ濡れだから早く帰った方がいいよ。風邪を引いたら大変だ」
僕がそう言うと、少年は目を見開いてじっと僕を見つめた。
何か変なことを言っただろうか。
僕も少年をじっと見つめる。
先に動いたのは少年の方だった。頬を緩め、天気にそぐわぬ、軽やかで明るい笑顔が向けてくる。
僕の胡散臭い笑顔とは大違いだ。
僕は眩しいモノでも見るみたいに目を細めた。
「そんなことを言われたのは初めてだ。ありがとう」
少年はそう言って僕の手を握る。その手は冷え切っていて僕の体温をじんわりと奪う。
僕は奪われた体温を取り戻すように少年の掌を握り返した。
「でもね、俺のことは気にしないで」
「なんで?」
「俺もカッパだから」
少年は寂しそうに笑ってそう言った。
ああそうか。他人の体温が恋しくて、仲間が欲しいと言うのは自分の話だったのか。僕は漸く理解した。
「それなら、うちに来ればいい」
「え?」
「君はカッパなんだろう。人恋しいって自分で言っていたじゃないか。寂しいなら一緒に来ればいい」
僕はそう言って、有無を言わさず、少年の手を引いた。
カッパと出会ったのはつい一週間前のことだ。
あの日も雨が降っていた。
透明なビニル傘を叩く雨の音が心地よい。
僕はじっとりと濡れた欄干に肘をつき、橋の上から川をじっと眺めていた。こんな日は仕事なんてせずに、こうして濁った川の色を見ながらじっとしている雨音を聞いているに限る。
時折、僕の後ろを傘が色とりどりの傘が行き交う。誰もこちらを見ない。それもそのはずだ。僕はいつもこの傘と同じ透明で、誰にも気づかれないようなそんな存在なのだから。
しばらく眺めているうちに一つの傘が川に近づいていく。はっとするような冴えた赤い傘だった。
僕は興味が湧いてそれを観察していた。
とぷん。
赤い傘は川に落ち、流された。ものすごい速さで視界から消える赤。
残ったのは傘の持ち主だろうか。
真っ黒なパーカーを羽織り、真っ黒なパンツを履いている。この暑さでよくもまあそんな格好をするもんだ。
僕がぼんやりとそれを見ていると、傘の持ち主らしき真っ黒な塊は川に飛び込んだ。
僕は驚いて自分の持っていた傘を投げ捨て、走った。
自殺だ。真っ先にそう思った。
誰かに助けを求めなければと思い、スマホを取り出す。
一瞬、僕の手は止まる。躊躇している場合か。人の命がかかっているんだぞ。
真っ先に浮かんだ警察への番号を頭の中から消去して、消防署への番号を思い起こす。
改めて震える手でスマホをタップした。
しかし、スマホは雨に濡れてなんの反応も示さない。
僕は焦りながら、スマホを袖口で拭った。通話の画面をたちあげることが出来たが、すぐにホーム画面に戻ってしまう。焦れば焦るほど上手く操作ができない。
僕は唇を噛み締めて、スマホをポケットに戻した。
今はとりあえず落ちた場所に急ごう。そう判断して、走ることに専念した。
さほど大きくない橋なので目当ての場所には直ぐに着いた。
そこには既に人影はない。
僕は怖々と濁った川に近付いて中を覗き込んだ。水流はごうごうと唸りを上げて流れていく。
本当にこの中に人が飛び込んだのか。
手が震える。
やっぱり、一人では何ともできない。助けを求めなくては。僕はもう一度決心を決めてポケットに手を入れた。
「危ないよ、お兄さん」
丸めた背中に降ってきたのは少年の声だった。
振り返ると、真っ黒なパーカーを着た少年が立っていた。少年はびしょびしょに濡れていて、顎からはぽたぽたと雫が垂れていた。うっすらと黒い服に浮かぶのは、濁った色の砂のあと。
川に落ちたのはこの子だと僕はすぐに分かった。
「雨の日に川に近づいちゃダメだって習わなかった?」
少年は涅色の瞳を細めて、あどけなく笑う。その顔があまりにも綺麗で、僕は何も言えなくなった。
「雨の日は水嵩が増してるから危ないし、ここにはカッパが出るんだよ?」
「……カッパ?」
ようやく口に出来た言葉はそれだけだった。
それでも、少年は僕が反応したのを見て、とても嬉しそうに頷く。
「そう。川に人を引き摺りこんで尻子玉を抜いたり、イタズラする妖怪のこと。知らない?」
僕は河童のことかと心の内に小さく頷く。
確かに僕の生まれた土地にある沼にはそういう伝説があった。詳しくは知らないけど、魚の目玉が好きな妖怪で沼の魚の目玉が片方しかないのは河童のせいなんだとか、川に人や牛を引き摺りこんでは溺れさせたり、殺したりするんだとか、そんな話を聞いた気がする。
イタズラ好きで悪意なく人を困らせ、殺す妖怪。そんな印象があった。
「聞いたことがあるかもしれない」
「それは話が早くて助かる。カッパはこういう日に人を騙して川に引き摺りこみたがるんだよ。仲間が欲しいのか、人の体温が恋しいのか、カッパは人が好きなんだ。ぼやぼやしてると捕まっちゃうよ。さっさと帰った方がいいと思うな」
少年の言うことは僕を煙に巻くような発言ばかりだったけれど、本当に僕を心配しているようだった。
「それなら、君もびしょ濡れだから早く帰った方がいいよ。風邪を引いたら大変だ」
僕がそう言うと、少年は目を見開いてじっと僕を見つめた。
何か変なことを言っただろうか。
僕も少年をじっと見つめる。
先に動いたのは少年の方だった。頬を緩め、天気にそぐわぬ、軽やかで明るい笑顔が向けてくる。
僕の胡散臭い笑顔とは大違いだ。
僕は眩しいモノでも見るみたいに目を細めた。
「そんなことを言われたのは初めてだ。ありがとう」
少年はそう言って僕の手を握る。その手は冷え切っていて僕の体温をじんわりと奪う。
僕は奪われた体温を取り戻すように少年の掌を握り返した。
「でもね、俺のことは気にしないで」
「なんで?」
「俺もカッパだから」
少年は寂しそうに笑ってそう言った。
ああそうか。他人の体温が恋しくて、仲間が欲しいと言うのは自分の話だったのか。僕は漸く理解した。
「それなら、うちに来ればいい」
「え?」
「君はカッパなんだろう。人恋しいって自分で言っていたじゃないか。寂しいなら一緒に来ればいい」
僕はそう言って、有無を言わさず、少年の手を引いた。
0
あなたにおすすめの小説
罰ゲームって楽しいね♪
あああ
BL
「好きだ…付き合ってくれ。」
おれ七海 直也(ななみ なおや)は
告白された。
クールでかっこいいと言われている
鈴木 海(すずき かい)に、告白、
さ、れ、た。さ、れ、た!のだ。
なのにブスッと不機嫌な顔をしておれの
告白の答えを待つ…。
おれは、わかっていた────これは
罰ゲームだ。
きっと罰ゲームで『男に告白しろ』
とでも言われたのだろう…。
いいよ、なら──楽しんでやろう!!
てめぇの嫌そうなゴミを見ている顔が
こっちは好みなんだよ!どーだ、キモイだろ!
ひょんなことで海とつき合ったおれ…。
だが、それが…とんでもないことになる。
────あぁ、罰ゲームって楽しいね♪
この作品はpixivにも記載されています。
【完結 一気読み推奨】片想いの相手が「そろそろ恋愛したい」と言ったので、用済みの俺はニートになることにしました。
はぴねこ
BL
高校生の頃、片想いの親友に告白した。
彼はノンケだったから玉砕して友人関係も終わるものだと思っていた。
もしかすると気持ち悪いと軽蔑される覚悟までしていたのに、彼は「今は恋愛をしている時間がないんだ」と自分の夢を語ってくれた。
彼は会社を興した祖父のことをとても尊敬していて、自分も起業したいと熱く語ってくれた。
そして、俺の手を握って「できれば親友のお前には俺の右腕になってほしい」と言われた。
同性愛者の俺のことを気持ち悪いと遠ざけることもせずに、親友のままでいてくれた彼に俺は感謝して、同じ大学に進学して、大学の頃に彼と一緒にゲームを作成する会社を起業した。
あれから二十年間、本当に二人三脚で駆け抜けてきた。
そして、昨年売り出したVRMMOが世界的に大ヒットし、ゲーム大賞を取ったことを祝うパーティーで親友が語った言葉に俺の覚悟も決まった。
「俺もそろそろ恋愛したい」
親友のその言葉に、俺は、長年の片想いを終わらせる覚悟をした。
不憫な拗らせアラフォーが”愛”へと踏み出すお話です。
久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…
しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。
高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。
数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。
そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…
伝説のS級おじさん、俺の「匂い」がないと発狂して国を滅ぼすらしいい
マンスーン
BL
ギルドの事務職員・三上薫は、ある日、ギルドロビーで発作を起こしかけていた英雄ガルド・ベルンシュタインから抱きしめられ、首筋を猛烈に吸引。「見つけた……俺の酸素……!」と叫び、離れなくなってしまう。
最強おじさん(変態)×ギルドの事務職員(平凡)
世界観が現代日本、異世界ごちゃ混ぜ設定になっております。
交際0日婚の溺愛事情
江多之折(エタノール)
BL
死にたくはない。でも、生きたくもない。ふらふらと彷徨う根無し草は、世界の怖さを知っている。救いの手は、選ばれた者にだけ差し伸べられることも知っている。
だから緩やかに終わりを探して生きていた。
──たった数回の鬼ごっこを経験するまでは。
誠実すぎて怖い人は、4回目の顔合わせで僕の夫となる。
そんな怖がりな男と誠実な男の、結婚生活の始まり。
■現実だけど現実じゃない、そんな気持ちで読んでください。
■家庭に関してトラウマを抱えている方は読まない方が良いと思います。
兄弟カフェ 〜僕達の関係は誰にも邪魔できない〜
紅夜チャンプル
BL
ある街にイケメン兄弟が経営するお洒落なカフェ「セプタンブル」がある。真面目で優しい兄の碧人(あおと)、明るく爽やかな弟の健人(けんと)。2人は今日も多くの女性客に素敵なひとときを提供する。
ただし‥‥家に帰った2人の本当の姿はお互いを愛し、甘い時間を過ごす兄弟であった。お店では「兄貴」「健人」と呼び合うのに対し、家では「あお兄」「ケン」と呼んでぎゅっと抱き合って眠りにつく。
そんな2人の前に現れたのは、大学生の幸成(ゆきなり)。純粋そうな彼との出会いにより兄弟の関係は‥‥?
皇帝陛下の精子検査
雲丹はち
BL
弱冠25歳にして帝国全土の統一を果たした若き皇帝マクシミリアン。
しかし彼は政務に追われ、いまだ妃すら迎えられていなかった。
このままでは世継ぎが産まれるかどうかも分からない。
焦れた官僚たちに迫られ、マクシミリアンは世にも屈辱的な『検査』を受けさせられることに――!?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる