雨が降れば

シシカイ

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 ◇◆◇◆◇


 カッパと出会ったのはつい一週間前のことだ。

 あの日も雨が降っていた。

 透明なビニル傘を叩く雨の音が心地よい。

 僕はじっとりと濡れた欄干に肘をつき、橋の上から川をじっと眺めていた。こんな日は仕事なんてせずに、こうして濁った川の色を見ながらじっとしている雨音を聞いているに限る。

 時折、僕の後ろを傘が色とりどりの傘が行き交う。誰もこちらを見ない。それもそのはずだ。僕はいつもこの傘と同じ透明で、誰にも気づかれないようなそんな存在なのだから。


 しばらく眺めているうちに一つの傘が川に近づいていく。はっとするような冴えた赤い傘だった。

 僕は興味が湧いてそれを観察していた。

 とぷん。
 赤い傘は川に落ち、流された。ものすごい速さで視界から消える赤。

 残ったのは傘の持ち主だろうか。

 真っ黒なパーカーを羽織り、真っ黒なパンツを履いている。この暑さでよくもまあそんな格好をするもんだ。

 僕がぼんやりとそれを見ていると、傘の持ち主らしき真っ黒な塊は川に飛び込んだ。

 僕は驚いて自分の持っていた傘を投げ捨て、走った。

 自殺だ。真っ先にそう思った。

 誰かに助けを求めなければと思い、スマホを取り出す。

 一瞬、僕の手は止まる。躊躇している場合か。人の命がかかっているんだぞ。

 真っ先に浮かんだ警察への番号を頭の中から消去して、消防署への番号を思い起こす。

 改めて震える手でスマホをタップした。

 しかし、スマホは雨に濡れてなんの反応も示さない。

 僕は焦りながら、スマホを袖口で拭った。通話の画面をたちあげることが出来たが、すぐにホーム画面に戻ってしまう。焦れば焦るほど上手く操作ができない。

 僕は唇を噛み締めて、スマホをポケットに戻した。

 今はとりあえず落ちた場所に急ごう。そう判断して、走ることに専念した。

 さほど大きくない橋なので目当ての場所には直ぐに着いた。

 そこには既に人影はない。

 僕は怖々と濁った川に近付いて中を覗き込んだ。水流はごうごうと唸りを上げて流れていく。

 本当にこの中に人が飛び込んだのか。

 手が震える。

 やっぱり、一人では何ともできない。助けを求めなくては。僕はもう一度決心を決めてポケットに手を入れた。

「危ないよ、お兄さん」

 丸めた背中に降ってきたのは少年の声だった。

 振り返ると、真っ黒なパーカーを着た少年が立っていた。少年はびしょびしょに濡れていて、顎からはぽたぽたと雫が垂れていた。うっすらと黒い服に浮かぶのは、濁った色の砂のあと。

 川に落ちたのはこの子だと僕はすぐに分かった。

「雨の日に川に近づいちゃダメだって習わなかった?」

 少年は涅色の瞳を細めて、あどけなく笑う。その顔があまりにも綺麗で、僕は何も言えなくなった。

「雨の日は水嵩が増してるから危ないし、ここにはカッパが出るんだよ?」

「……カッパ?」

 ようやく口に出来た言葉はそれだけだった。

 それでも、少年は僕が反応したのを見て、とても嬉しそうに頷く。

「そう。川に人を引き摺りこんで尻子玉を抜いたり、イタズラする妖怪のこと。知らない?」

 僕は河童のことかと心の内に小さく頷く。

 確かに僕の生まれた土地にある沼にはそういう伝説があった。詳しくは知らないけど、魚の目玉が好きな妖怪で沼の魚の目玉が片方しかないのは河童のせいなんだとか、川に人や牛を引き摺りこんでは溺れさせたり、殺したりするんだとか、そんな話を聞いた気がする。

 イタズラ好きで悪意なく人を困らせ、殺す妖怪。そんな印象があった。

「聞いたことがあるかもしれない」

「それは話が早くて助かる。カッパはこういう日に人を騙して川に引き摺りこみたがるんだよ。仲間が欲しいのか、人の体温が恋しいのか、カッパは人が好きなんだ。ぼやぼやしてると捕まっちゃうよ。さっさと帰った方がいいと思うな」

 少年の言うことは僕を煙に巻くような発言ばかりだったけれど、本当に僕を心配しているようだった。

「それなら、君もびしょ濡れだから早く帰った方がいいよ。風邪を引いたら大変だ」

 僕がそう言うと、少年は目を見開いてじっと僕を見つめた。

 何か変なことを言っただろうか。

 僕も少年をじっと見つめる。

 先に動いたのは少年の方だった。頬を緩め、天気にそぐわぬ、軽やかで明るい笑顔が向けてくる。

 僕の胡散臭い笑顔とは大違いだ。

 僕は眩しいモノでも見るみたいに目を細めた。

「そんなことを言われたのは初めてだ。ありがとう」

 少年はそう言って僕の手を握る。その手は冷え切っていて僕の体温をじんわりと奪う。

 僕は奪われた体温を取り戻すように少年の掌を握り返した。

「でもね、俺のことは気にしないで」

「なんで?」

「俺もカッパだから」
 少年は寂しそうに笑ってそう言った。

 ああそうか。他人の体温が恋しくて、仲間が欲しいと言うのは自分の話だったのか。僕は漸く理解した。

「それなら、うちに来ればいい」

「え?」

「君はカッパなんだろう。人恋しいって自分で言っていたじゃないか。寂しいなら一緒に来ればいい」

 僕はそう言って、有無を言わさず、少年の手を引いた。
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