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幕間 剣聖を捨てた時
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剣聖とは、最強の称号の一つである。
一種の到達点であるそこへ辿り着いたとき、私の剣は揺らぎ始めた。
ただ剣を振り、勝利を重ねる。体力の鈍りを、技の磨きで補完する。
……そんな日々に辟易としていたのか、もしくは弱くなっていく自分に耐えられなかったのかもしれない。
深手を負った際、手厚く看護をしてくれた女性と、親密な関係になるのは早かった。
当初、妻という存在で自分の弱さを隠そうとしているか、なにかを補完しているのではないか? と悩んだことがある。
しかし、娘が産まれてからは、そんなことを考えることも無くなっていた。
年老いた男に、若い妻、幼い我が娘。
剣を振る時間は減っていたが、心は満たされていた。
金を得ることよりも、自分の欲求を優先した生き方をしていたからだろう。生活は苦しかったが、それでも幸せだったと断言できた。
……だが、そう思えたのも娘が十歳になるまでだった。
娘が重い病に罹ったのだ。
医者が言うには、高い薬を継続して与えれば、数年で完治するとのことだった。
金は稼げばいい。しかし、すぐにでも薬を与えなければ、娘の命は危うい。
思い当たる限りの場所へ赴き、額を土に着けて嘆願した。
しかし……。
「――だって、あなたも助けてはくれなかったじゃないですか」
若いころの行いが良くなかったからだろう。手を貸してくれる者は、誰一人いなかった。ひどいときは、嘲笑われたことすらあった。
食事をとる時間すらも惜しみ、目の下は黒く染まり、頬をやつれさせ、汚れた服で駆け回る。
今考えれば、これも良くなかった。せめて身だしなみだけでも整えなければ、会おうとすら思ってもらえない。だが当時の私には、そんな簡単なことも分かっていなかった。
ついに力尽き、道端で腰を下ろす。立ち上がる気力は無く、茫然と地面を見ていた。
絶望の中で浮かぶのは、家族の顔と、この剣を悪に染めて金を稼ぐという選択肢だ。
……要人の一人でも殺せば、多額の金を払う国はいくらでもある。
どうせ剣しかない。他のやつなんて知ったことか。娘さえ助かればそれでいい。
どす黒いものに頭の中が染まりかけていたとき、俯いている私の隣に子供が座った。足の大きさから、年頃は娘と同じくらいだろうか。
少年が言う。
「どうしたおっさん。嫌なことでもあったのか?」
「……あぁ」
「誰かに話すだけで気が楽になることもあるぜ?」
大人は誰も話を聞いてくれもしなかったのに、子供は話を聞くと言ってくれるとは。
情けなさや、恨みつらみがない交ぜとなり、ポツリポツリと少年に身の内を語った。
「ふーん、なるほどなぁ」
話を終えると、少年が立ち上がる。そのときにようやく、少年の顔を見ることができた。
瞬間、目を見開く。
少年の名はセス=カルトフェルン。この国の第六王子だった。
少し離れたところにいる者は護衛だろうか。なぜか彼らはセス殿下ではなく、大きな馬車を守っているようにも見えた。
ここでまた、黒い感情が湧き立つ。
都合の良いことに、護衛たちとは距離がある。セス殿下を連れ去り、彼の身柄と引き換えに、家族の無事と薬を要求すれば……?
普通に考えれば、そんなことが成功するはずもない。だが、もしかしたら?と考えてしまうほどに、このときの私は愚かだった。
震える指先を伸ばす。……しかし、手は宙を切った。
「ちょっと待っててくれよ」
セス殿下の背を見ながら、これで良かったのだと自分に言い聞かせる。後少しで、取り返しのつかないことをするところだった。
……そうだ、こうしている場合では無い。
やるべきことを思い出し、立ち上がる。本当に人へ話したことが良かったのか、少し力が戻っているように感じた。
「待った待った」
立ち去ろうとした私の背に、セス殿下が声を掛ける。彼は手招きし、こちらへ来るように伝えていた。
不思議に思いながら近づくと、セス殿下は口うるさい細身な男になにかを言われている。
しかし、聞く耳を持たずに意見を通し、細身な男は額を押さえて首を横に振った。
どこからか荷車が持って来られ、その上にズシリと箱が置かれる。
セス殿下は箱を叩き、ニカリと笑った。
「ちょうど良かった。これやるよ」
意味が分からないまま背を押され、言われた通りに箱を開いた。
――金だ。
普通ではあり得ないほどの、だが今の私には求めてやまない金が、そこには詰め込まれていた。
「薬代に使ってくれ。余ったら……んー、よく分からん! 好きしてくれ!」
セス殿下は立ち去ろうとしたが、そういうわけにはいかない。能無しと言われている子供が持てるような金額では無く、感謝よりも恐怖を覚えた。
引き止めると、セス殿下は困った顔を見せる。代わりに説明を始めたのは、細身の男だった。
「……王位継承者は、十歳になると資金を渡されます。普通であればその金を元手になにかをするのですが……セス殿下は、良く分からないし、そこら辺のやつにくれてやろうと仰りました」
男の顔は歪んでおり、セス殿下の選択を愚かだと蔑んでいることが分かった。
しかし、これは本当にもらってもいい金らしい。ただ困惑していたのだが、ふと気付いて片膝を着いた。
「こ、このご恩は必ずお返し致します。我が身を――」
「いや、忘れてくれ」
「……はい?」
驚きのあまり顔を上げると、セス殿下は笑いながら言った。
「俺は金の使い道とか分からないし、そもそも金を持ってるのも嫌なんだ。もし感謝するなら、そうだな。陛下と国にでも感謝してくれ!」
屈託なく笑う顔と目を見て、セス殿下の言葉に嘘は無いと分かってしまう。
彼は心の底から金を必要としておらず、その目はなにも求めていなかった。
絶望では無い。諦観だ。僅か十歳の少年が、なにも期待せずに生きている。
その事実がただ恐ろしく、言葉を失う。……私にできたことは、その背が見えなくなるまで見送ることだけだった。
薬を与えれば、娘の体調は回復に向かい始めた。
法外な値段な薬も、金さえ積めば手に入る。金をかければ、早く届けさせることもできる。私は、金というものを軽視して生きてきたことを、この一件で認識した。
よって、娘の体調が落ち着いてからは、もう少し金を求める生き方を始めようと決め、一からやり直すことにした。
まず最初に、自分の老いを受け入れて、剣聖の称号を返上した。
戦場に出て、好きに戦うことを止め。
護衛の任で、倒すよりも守りを重視し。
腕を見せてほしいと望む人のところへ向かい、その技を見せた。
助けを望む人のところへ赴き、その顔を笑顔に変えた。
金を得ていく過程で、人との繋がりも増えていく。その結果として、城へ行くことも多くなり、セス殿下のことを知る機会も増えた。
……姿を隠しながら見ていて分かったが、彼は噂されているような能無しでは無かった。
母親を失い、なんの後ろ盾もない中。生きるのに必死になっている賢い少年だった。
あらゆる力を持たず、部屋に引き篭もり、夜中に書庫へ赴いては本を持ち出して戻る。それが、セス殿下の日常だった。
当初、書庫の鍵がなぜ開いているのかを疑問に思ったが、その答えはすぐに分かった。一人で足掻いている我が子へ、直接的な手を貸すことはできずとも、鍵を開けておくことくらいは簡単なことだったようだ。
自分に自信が持てず、力になってくれる者もいない。
そんな普通の少年が、私の恩人だった。
返しきれないほどの恩がある。どうにかして、セス殿下の力になりたい。
常々そう考えていた私に、一つの好機が訪れた。
セス殿下が、オリアス砦の司令になることが決まったのだ。
すぐに傭兵仲間などから情報を集めたが、オリアス砦の状況は芳しくなく、セス殿下は見捨てられたのだ、と噂になっていた。
私は妻と娘に事情を話し、あらゆる伝手を頼り、セス殿下の馬車へ同乗することに成功した。
馬車の中で、僅かに胸が高鳴っている自分に気付く。
――ようやく、あの方の力になれる。
そう思うだけで、全盛期と変わらぬほどの力が漲るのを感じるのだった。
……しかし、出会ってからの行動には問題があったかもしれない。
信頼してもらいたい、本心を話してもらいたい、絶対に裏切らない。そんな思いをどうしても伝えたく、いきすぎた行動や言動をしてしまった。
たまたまうまくいったが、まだまだ私も未熟者だ、ということをこの歳で自覚することとなった。
一種の到達点であるそこへ辿り着いたとき、私の剣は揺らぎ始めた。
ただ剣を振り、勝利を重ねる。体力の鈍りを、技の磨きで補完する。
……そんな日々に辟易としていたのか、もしくは弱くなっていく自分に耐えられなかったのかもしれない。
深手を負った際、手厚く看護をしてくれた女性と、親密な関係になるのは早かった。
当初、妻という存在で自分の弱さを隠そうとしているか、なにかを補完しているのではないか? と悩んだことがある。
しかし、娘が産まれてからは、そんなことを考えることも無くなっていた。
年老いた男に、若い妻、幼い我が娘。
剣を振る時間は減っていたが、心は満たされていた。
金を得ることよりも、自分の欲求を優先した生き方をしていたからだろう。生活は苦しかったが、それでも幸せだったと断言できた。
……だが、そう思えたのも娘が十歳になるまでだった。
娘が重い病に罹ったのだ。
医者が言うには、高い薬を継続して与えれば、数年で完治するとのことだった。
金は稼げばいい。しかし、すぐにでも薬を与えなければ、娘の命は危うい。
思い当たる限りの場所へ赴き、額を土に着けて嘆願した。
しかし……。
「――だって、あなたも助けてはくれなかったじゃないですか」
若いころの行いが良くなかったからだろう。手を貸してくれる者は、誰一人いなかった。ひどいときは、嘲笑われたことすらあった。
食事をとる時間すらも惜しみ、目の下は黒く染まり、頬をやつれさせ、汚れた服で駆け回る。
今考えれば、これも良くなかった。せめて身だしなみだけでも整えなければ、会おうとすら思ってもらえない。だが当時の私には、そんな簡単なことも分かっていなかった。
ついに力尽き、道端で腰を下ろす。立ち上がる気力は無く、茫然と地面を見ていた。
絶望の中で浮かぶのは、家族の顔と、この剣を悪に染めて金を稼ぐという選択肢だ。
……要人の一人でも殺せば、多額の金を払う国はいくらでもある。
どうせ剣しかない。他のやつなんて知ったことか。娘さえ助かればそれでいい。
どす黒いものに頭の中が染まりかけていたとき、俯いている私の隣に子供が座った。足の大きさから、年頃は娘と同じくらいだろうか。
少年が言う。
「どうしたおっさん。嫌なことでもあったのか?」
「……あぁ」
「誰かに話すだけで気が楽になることもあるぜ?」
大人は誰も話を聞いてくれもしなかったのに、子供は話を聞くと言ってくれるとは。
情けなさや、恨みつらみがない交ぜとなり、ポツリポツリと少年に身の内を語った。
「ふーん、なるほどなぁ」
話を終えると、少年が立ち上がる。そのときにようやく、少年の顔を見ることができた。
瞬間、目を見開く。
少年の名はセス=カルトフェルン。この国の第六王子だった。
少し離れたところにいる者は護衛だろうか。なぜか彼らはセス殿下ではなく、大きな馬車を守っているようにも見えた。
ここでまた、黒い感情が湧き立つ。
都合の良いことに、護衛たちとは距離がある。セス殿下を連れ去り、彼の身柄と引き換えに、家族の無事と薬を要求すれば……?
普通に考えれば、そんなことが成功するはずもない。だが、もしかしたら?と考えてしまうほどに、このときの私は愚かだった。
震える指先を伸ばす。……しかし、手は宙を切った。
「ちょっと待っててくれよ」
セス殿下の背を見ながら、これで良かったのだと自分に言い聞かせる。後少しで、取り返しのつかないことをするところだった。
……そうだ、こうしている場合では無い。
やるべきことを思い出し、立ち上がる。本当に人へ話したことが良かったのか、少し力が戻っているように感じた。
「待った待った」
立ち去ろうとした私の背に、セス殿下が声を掛ける。彼は手招きし、こちらへ来るように伝えていた。
不思議に思いながら近づくと、セス殿下は口うるさい細身な男になにかを言われている。
しかし、聞く耳を持たずに意見を通し、細身な男は額を押さえて首を横に振った。
どこからか荷車が持って来られ、その上にズシリと箱が置かれる。
セス殿下は箱を叩き、ニカリと笑った。
「ちょうど良かった。これやるよ」
意味が分からないまま背を押され、言われた通りに箱を開いた。
――金だ。
普通ではあり得ないほどの、だが今の私には求めてやまない金が、そこには詰め込まれていた。
「薬代に使ってくれ。余ったら……んー、よく分からん! 好きしてくれ!」
セス殿下は立ち去ろうとしたが、そういうわけにはいかない。能無しと言われている子供が持てるような金額では無く、感謝よりも恐怖を覚えた。
引き止めると、セス殿下は困った顔を見せる。代わりに説明を始めたのは、細身の男だった。
「……王位継承者は、十歳になると資金を渡されます。普通であればその金を元手になにかをするのですが……セス殿下は、良く分からないし、そこら辺のやつにくれてやろうと仰りました」
男の顔は歪んでおり、セス殿下の選択を愚かだと蔑んでいることが分かった。
しかし、これは本当にもらってもいい金らしい。ただ困惑していたのだが、ふと気付いて片膝を着いた。
「こ、このご恩は必ずお返し致します。我が身を――」
「いや、忘れてくれ」
「……はい?」
驚きのあまり顔を上げると、セス殿下は笑いながら言った。
「俺は金の使い道とか分からないし、そもそも金を持ってるのも嫌なんだ。もし感謝するなら、そうだな。陛下と国にでも感謝してくれ!」
屈託なく笑う顔と目を見て、セス殿下の言葉に嘘は無いと分かってしまう。
彼は心の底から金を必要としておらず、その目はなにも求めていなかった。
絶望では無い。諦観だ。僅か十歳の少年が、なにも期待せずに生きている。
その事実がただ恐ろしく、言葉を失う。……私にできたことは、その背が見えなくなるまで見送ることだけだった。
薬を与えれば、娘の体調は回復に向かい始めた。
法外な値段な薬も、金さえ積めば手に入る。金をかければ、早く届けさせることもできる。私は、金というものを軽視して生きてきたことを、この一件で認識した。
よって、娘の体調が落ち着いてからは、もう少し金を求める生き方を始めようと決め、一からやり直すことにした。
まず最初に、自分の老いを受け入れて、剣聖の称号を返上した。
戦場に出て、好きに戦うことを止め。
護衛の任で、倒すよりも守りを重視し。
腕を見せてほしいと望む人のところへ向かい、その技を見せた。
助けを望む人のところへ赴き、その顔を笑顔に変えた。
金を得ていく過程で、人との繋がりも増えていく。その結果として、城へ行くことも多くなり、セス殿下のことを知る機会も増えた。
……姿を隠しながら見ていて分かったが、彼は噂されているような能無しでは無かった。
母親を失い、なんの後ろ盾もない中。生きるのに必死になっている賢い少年だった。
あらゆる力を持たず、部屋に引き篭もり、夜中に書庫へ赴いては本を持ち出して戻る。それが、セス殿下の日常だった。
当初、書庫の鍵がなぜ開いているのかを疑問に思ったが、その答えはすぐに分かった。一人で足掻いている我が子へ、直接的な手を貸すことはできずとも、鍵を開けておくことくらいは簡単なことだったようだ。
自分に自信が持てず、力になってくれる者もいない。
そんな普通の少年が、私の恩人だった。
返しきれないほどの恩がある。どうにかして、セス殿下の力になりたい。
常々そう考えていた私に、一つの好機が訪れた。
セス殿下が、オリアス砦の司令になることが決まったのだ。
すぐに傭兵仲間などから情報を集めたが、オリアス砦の状況は芳しくなく、セス殿下は見捨てられたのだ、と噂になっていた。
私は妻と娘に事情を話し、あらゆる伝手を頼り、セス殿下の馬車へ同乗することに成功した。
馬車の中で、僅かに胸が高鳴っている自分に気付く。
――ようやく、あの方の力になれる。
そう思うだけで、全盛期と変わらぬほどの力が漲るのを感じるのだった。
……しかし、出会ってからの行動には問題があったかもしれない。
信頼してもらいたい、本心を話してもらいたい、絶対に裏切らない。そんな思いをどうしても伝えたく、いきすぎた行動や言動をしてしまった。
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