鬼と天狗

篠川翠

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第一章 義士

小原田騒動(2)

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  打ち合わせを済ませて帰宅し、夕餉を取り終わると、鳴海は「郡山に出張してくる」と告げた。郡山は二本松の領内ではあるが、城下からはやや距離がある。数人で行くとなると、泊り仕事になりそうだった。
 食後の席でそれを告げると、寛いだ空気はたちまち微妙なものに転じた。
「兄上……」
 なぜか衛守が軽蔑を込めた眼差しで鳴海を睨みつけ、りんは顔を伏せた。それだけでなく、水山や玲子も、眉を顰めているではないか。
「何か問題でもあるか?」 
 鳴海の無邪気な問いに、衛守が強張った顔のまま答えた。
「郡山で、まさか妓楼にでも行こうというのではないでしょうね」
 その言葉に、鳴海は顔に血を上らせた。遅まきながら与兵衛が苦笑したわけを理解したのである。
 郡山は宿場町であるが、聞くところによると、旅行者のためのもてなしとして、その手の店も何件かあるらしい。二本松城下から離れていることもあり、不届者はここで女を買って遊んでいるとの噂もあるのだった。だが、鳴海は頼まれて郡山に行くだけであり、女と遊ぶ趣味もなかった。
「衛守、私がそのようなことをすると思うのか?」
 鳴海は顔を朱に染めながらも、反論を試みた。
「兄上にそのおつもりがなくとも、先方で気を利かせて、女を用意するということもあるでしょう?」
 鳴海より年下の癖に、早くから恋人とよろしくやっていた衛守は、その手の話もなぜか詳しい。衛守の言葉にりんがますます俯き、鳴海はいたたまれなかった。
「まあ、鳴海さんももう子供ではありませんから。間違いを起こさず、彦十郎家の名を貶めるような真似をなさらなければそれで結構です」
 気を利かせたつもりかもしれないが、玲子の言葉も、さらに鳴海を窮地に追い込むだけだった。平然としているのは、水山だけである。
 水山は何か考え込んでいる様子だったが、しばらくして、口を開いた。
「鳴海殿。ひょっとすると、郡山には守山の者らも出入りしているかもしれませんな」
 義父の言葉に、先程まで色事絡みで鳴海を批判していた衛守も、急に真面目な顔になる。
「それは、以前丹波様から頼まれていたことと関係があるのでしょうか?」
 色事から話題が逸れたことにほっとしながらも、鳴海も義父の言葉について考えねばならなかった。
 確かに郡山は、阿武隈川対岸の守山からは、目と鼻の先である。二本松領内の宿場町ではあるが、町の性質上、他藩の者が出入りしていても怪しまれない。丹波が警戒する尊皇攘夷の不逞浪士が潜入していたとしても、気が付かないだろう。
「詰番に就かれた鳴海殿が今更探られることもないでしょうが……。尊皇攘夷の輩には、用心なされよ」
 水山の言葉に、鳴海は重々しく肯いた。

 鳴海らが連れ立って郡山に向かったのは、それから数日後のことだった。年の瀬だということもあり、上町、通称陣屋の地は賑わっていた。陣屋から奥州街道を横切って延びる安積国造神社あさかくにつこじんじゃへの参道を辿れば、年始の縁起物である張り子やまさるを売る露店も見られた。郡山には、二本松城下とはまた違う活気がある。
 代官所は陣屋の中心にあるが、鳴海らの訪問は、幕府の代官や郡山及び大槻の名主らを警戒させかねない。そこで、私用ということで扱ってほしいと、郡代ら上層部には話を通してあった。また、郡山代官の錦見には、四人の旅籠の手配を頼んであった。錦見が手配してくれた大野屋は、あまり目立たないが落ち着いた雰囲気の宿だった。
「鳴海殿。このような場に顔を出されるのは意外でした」
 宿に荷を下ろすなり、成渡が口元を上げた。この男は、鳴海より一つ年下という関係もあって、鳴海の昔からの顔馴染みの一人である。剣術や弓術の腕はなかなかのものだが、それだけでなく、なぜか子供の頃からえらく算盤に長けていた。鳴海も基本的な算術はできるが、この男は鳴海が算盤を弾いている間に、鮮やかに財政状況を分析してみせる。将来勘定奉行の位にでも就いたら藩の財政を立て直すのではないかと、鳴海は密かに思っていた。 
「馬代はいくらだった?」
 財布から金を取り出そうとして、鳴海は戸惑った。大身の彦十郎家では、自分の馬を飼うゆとりがある。普段は自分の馬を使って移動していることもあり、宿場の馬を乗り継いで移動する機会はない。そのため、貸馬の相場がわからないのだ。
「二本松から郡山まで五里十七丁。それに三分の二を掛けて一人あたり一六〇文です」
 鳴海が計算するまでもなく、またたく間に成渡が答えた。それが四人分、さらに宿代も組頭である鳴海が負担しなければならない。大身の見栄を張るというのも、なかなか辛いものだ。鳴海が一分金を成渡に渡すと、成渡はさっさとそれを懐にしまい、問屋に全員分の貸し馬代を支払うために一旦外へ出ていった。
「鳴海殿。今回はかたじけない」
 この話を持ってきた市之進と共に、代官の錦見と戸城が頭を下げた。鳴海は、首を振ってそれをいなした。
「それがしも、今はまだ修行中の身。遠慮なく申されよ」
 鳴海の言葉に、錦見は状況を説明した。
 現在、代官所には幕府の道中奉行の手代である小野という者が来ている。小野もこの仕事は長いから、農民たちに無理難題を押し付けていることは重々承知していた。だが、東北諸藩の大名の妻子の下向予定や、蝦夷へ向かう幕府の公用役人の予定、さらに幕府の人員供出の予定がこの後も山積みであり、二本松藩の協力なくしては全てが成り立たないという。しかし二本松藩の人員供出も既に限界を迎えており、農民が姿を消した記録である「欠落帳」は、その人数が増えつつあった。
「先日の御前会議において、和左衛門殿が仁井田村の遠藤らの伊勢参りを咎めていたな」
 鳴海がふと思い出してそのことを持ち出すと、市之進は苦笑した。
「あれは和左衛門様の吝嗇癖もあるでしょうが、これ以上の農民らの欠落を防ぎたい思惑もあったでしょう。糠沢でも、珍しい話ではありません。新十郎様が上手く処理してくださったから、良いようなものの」
「なるほど」
 難しいものだ。これが、鳴海の職分であったならば、処理できるかどうか自信が持てない。 
「鳴海様。他人事のように申されますが、農民らは、一〇〇石につき一人を出さなければならない決まりでしょう?農繁期に寄人馬を出せと言われる、兵には取られる、おまけに才覚金も取られるでは、農民が一揆を起こしても不思議ではないですぞ」
 孫九郎が、眉根を寄せている。その言葉に、錦見や戸城が首を縦に振った。
 言われてみればその通りで、武官である鳴海としても、農兵として働いてもらうはずの民に逃げられては困る。多少なりとも農民の機嫌を取っておかなければならない。
「ところで、代官所には既に名主らが集っているのですね?」
 問屋に支払いを済ませてきた成渡が戻ってきて、錦見に尋ねた。
「左様。既に代官所の広間に集っております。どの名主もやはり一言ある様子」
 錦見の言葉に、鳴海は一同を見渡した。
「行こう」
 一同は、刀を腰に挿して立ち上がった。
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