鬼と天狗

篠川翠

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第二章 尊攘の波濤

守山藩(4)

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 三人が濃い目の味付けが施された旨煮をつまんでいると、座敷の外で人の騒ぐ気配がした。
「笹川村の農民が……」
 そんな言葉が聞こえてきて、鳴海は眉を顰めた。なぜ、こうも自分が郡山に出張してくると、変事が持ち上がるのだろう。
「お食事中に申し訳ありませぬ、錦見様。大善寺村の農民らを、笹川村の郷士らが捕まえたとの由でございます」
 顔を覗かせたのは、検断役の今泉である。今泉の言葉に、同席していた錦見も顔を曇らせた。
「大善寺村は、守山藩の領分ではないか。守山陣屋に差し出すのが筋であろう」
 錦見の言う通り、大善寺村は守山藩の領地であった。対して、笹川村は二本松藩領である。もっとも、この両村は阿武隈川を挟んだだけの関係であり、日頃から人馬の往来は活発であった。
「それはそうなのですが、笹川村の者曰く、どうも農民共が越訴するつもりではないかと申しまして……」
 今泉は、困惑しきっている。越訴とは、自藩の領主に自分らの言い分が聞き入れてもらえない場合に、他藩の人間に働きかけて自分たちの言い分を認めてもらうよう運動してもらうことを言う。もっとも、越訴を受け入れる側も事後の処理が面倒であるから、歓迎するとは言い難い事態であった。
「面倒なことになり申したな」
 新十郎も、苦り切った顔をした。
「現在、守山は頼升殿が将軍公に従って京に上っておろう。その最中で守山陣屋も人が少ない故、強行を働けると踏んだか」
 確かに、新十郎の言う通りかもしれなかった。
「農民は、何と申しておる」
「白坂宿の助郷の寛恕を願い出たいというのが、奴等の言い分のようでございます」
 今泉が、恐る恐るといった体で口上を述べた。白坂宿は、白河と下野の境にある宿所である。国境の白河関を抱えている宿であるが、守山からは十里ほどもある。日帰りは当然無理であり、幕府の道中奉行も当地の地理情報を把握しないまま命じたとしか、思えない距離であった。のみならず、一部は下野の芦野宿の大助郷を命じられているという。
「守山の三浦平八郎殿には連絡したか?」
 新十郎が、今泉に尋ねた。二本松藩にとっては因縁の相手ではあるが、守山陣屋の実務の責任者は、平八郎である。今泉が平八郎に連絡をするのは当然であった。
「それが、あちこちで農民共が行方をくらましているようで……。それらを追いかけているのか、三浦様の所在がつかめないとのこと」
 今泉の言葉に、三人は顔を見合わせた。同時多発的に農民が失踪したとなれば、予てから示し合わせていたものに違いないだろう。
 と、そこへ足音も高く駆け込んできたのは、当の三浦平八郎だった。
「錦見殿。こちらへ我が守山の民が参っているとの由、まことでござるか」
 その息は荒く、顔も強張っている。部屋に入ってきた平八郎は、鳴海と新十郎の姿を認めるとすっと目を細めたが、特に何も言わなかった。鳴海が平八郎と顔を合わせるのはこれで三度目だが、これほど余裕がない平八郎は初めてである。
「三浦殿。そこにいる今泉によれば、笹川で大善寺村の者を捕らえたそうだ」
 錦見が、落ち着いた声色で返答した。
「直ちに、その者らを守山へ帰す所存でござる」
 農民の脱走は、平八郎にとっても大きな失態に違いなかった。まして、散々虚仮にしてきた二本松藩の者に失態を見られたとあっては、恥もいいところである。
「三浦さまあ。そこにいらっしゃるのでしょう?どうか、儂らの言い分をお聞き下せえ」
 庭先から、大声で呼ぶ声がした。あれは、脱走してきた農民に違いない。陣屋の庭は白洲も兼ねているから、代官である錦見の判断を仰ぐために、郡山陣屋の手下らは引っ立てた農民をこちらに回したのだろう。これだけ騒がれては、話を聞かずに帰すわけにはいかない。新十郎が、ちらりとこちらに視線を寄越した。どうやら、話だけは聞くつもりのようだ。
 錦見も肯き、下男に命じて一旦三人の食膳を下げさせると、庭に面した面した障子を開けさせた。庭には、既に荒縄で縛られた男が二人、正座させられている。
 男の懐には、「上」と認められた封書が刺さっているのが目に止まった。紛れもなく、上訴状である。
半内はんない儀七ぎしちか」
 天を仰ぎながら、平八郎が呟いた。守山藩の実務役である彼は、これらの者を見知っているらしい。
「二本松藩の御陣屋の庭先を汚すとは、何事か」
 農民らを叱りながらも、その声色には微かに憂慮の色が滲んでいた。鳴海には、それが意外に感じられた。
「したっけ、三浦様。儂らがはるばる白坂宿まで助郷にいけば、村の作事はどうなります。もう大善寺村には、まともな男手はほとんど残っていねえ」
 鳴海の隣では、新十郎がじっと何かを考え込んでいる。何か、腹に一物あるようだ。
「その懐に入れているのは上奏文に相違ないな?これも好機であろう。声に出して読み上げてみよ」
 笑顔で応対する新十郎の傍らで、平八郎が苦虫を噛み潰したような顔をしている。二本松藩の者らには、守山の内情を知られたくないに違いない。だが、新十郎に声を掛けられた農民は、ぱっと喜色を顔に浮かべた。
「では、遠慮なく申し上げます」
 新十郎は、側に付き添っていた下士に鷹揚に肯いてみせ、縄を一旦解かせた。兵助はたどたどしいながらも、声を張り上げて上奏文を読み始めた。

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