鬼と天狗

篠川翠

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第二章 尊攘の波濤

竹ノ内擬戦(1)

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 江戸から藩公の奥方らがようやく帰国し、鳴海ら家臣も、大書院にて奥方である久子に初めてお目見えした。
 久子は大垣藩出身の姫君であるはずだが、言葉に西方の訛は少なく、おっとりとした雰囲気を持つ女人というのが、鳴海が久子を目にした印象だった。
「皆の者、よろしゅう頼むな」
 そう述べて口元を和らげた久子は、確かに長国公が側に置いておきたがるのも無理はないと、落の間に詰めている鳴海ら詰番の者らの間でも、後で評判になったほどだった。
 それにしても、江戸は荒れているらしい。そもそも二本松藩が江戸の警固を命じられたというのも、参勤交代の緩和で諸方の大名屋敷が空屋敷となり、そこを根城とした不逞浪士のたまり場となっているからである。それだけでなく、本来は十日ほどで帰京するはずだった将軍家茂が、思いの外長く京に留め置かれている。
 一旦は将軍の上洛に随行させることを目的として結成された筈の浪士組も、京に到着した途端に頭目の清河という者が「尊皇攘夷」の真意を口にしたものだから分裂し、清河ら主だった者は江戸に呼び戻されたという。当然幕府から信用されるわけがなく、「所詮、出自の不確かな者らは信用できない」との空気が江戸でも漂っているという知らせが、江戸藩邸からもたらされていた。
「朝廷側も、やり方が姑息ですよねえ」
 志摩はそう言って嘆息した。与兵衛の方針で尊皇攘夷については滅多に語らぬ男だが、藩士の半数近くが江戸に詰めているとなれば、留守居役を申し付けられた者らも、多少なりとも鬱憤がたまってこようというものである。
 そもそも家茂と和宮の婚姻、則ち「公武合体」も、その遠因は幕府の開国政策の失敗を、朝廷の権威を借りて挽回しようとしたことにある。公武合体を推し進める取引条件として朝廷側が提示したのが、孝明帝が望む「攘夷実行」だった。それが無謀だと知りつつ、当時の幕閣らは和宮降嫁を実現したのである。推し進めた者らは、越前の松平慶永、宇和島藩の伊達宗城、土佐藩の山内容堂らなどだった。また、それらの面々が「聡明な人物」として将軍候補として推していたのが、水戸藩出身の一橋慶喜である。だが、この一橋慶喜はどうにも腹の底が読めないところがあり、今ひとつ信用の置けない人物というのが、世間の一般論だった。
 そんな世間話を、持参した武教全書を読みながら鳴海は聞き流していた。鳴海自身もまたしても守山の三浦に振り回されかけたばかりであり、忸怩たるものはある。だが、たとえ不本意ながら政治的な事案に関わっていたとしても、自身の職分はあくまでも兵務。そう思い、空き時間に兵学の修練をしておくつもりだったのである。
「山鹿先生の武教全書ですか」
 顔を俯かせて一心に読み耽っている鳴海の脇から、樽井弥五左衛門がひょいと覗き込んだ。三浦権太夫の義兄であるが、本人はそれほど尊皇攘夷の話題には興味がないらしい。
 話しかけられて、鳴海は顔を上げた。樽井の方が鳴海より年下とはいえ一応は同僚であるから、無視するのも憚られた。
「まだまだ至らぬ身だが、江戸組の在府が長引けば、交代させられることもあるかもしれぬと思ってな」
 富津の例を鑑みても、またいつ「幕命」と称して二本松藩の出張が命じられるものか分からなかった。攘夷派の主張する所の「夷狄」が攻めてくるかどうか定かではないが、戦の備えをするに越したことはないだろうというのが、鳴海の考えである。
 鳴海が読んでいたのは、武教全書の四の下にある「伏戦」の節だった。
「『兵法に曰く、捜伏の法遠く虜地に入り、営塁生じいに疎く、道路険溢なれば、其の伏を設くることを恐れ、尤も当さに先づあばくべし』でしたな」
 意味としては、「伏兵を捜す際に気をつけなければならない点として、遠く敵地に入りその陣地に不案内であるときに、道が険しく狭い場合、そこに伏兵がいないかを恐れよ。まずそれを暴くことが肝要である」という意味合いである。
 鳴海は、樽井の言葉に肯いてみせた。
「もっとも、書物で兵法の知識を得たとしても、それが実際の振る舞いに通じるかはわからぬが」
「左様ですな」
 今落の間に詰めている詰番らは、皆実戦経験がない。いや、それは既に番頭の任務に就いている者らも同じだろう。だが、昨今の不安定な情勢の中で、何かをしていないとどうにも落ち着かないのだった。
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