鬼と天狗

篠川翠

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第二章 尊攘の波濤

江戸震撼(7)

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 ――京の藩邸から江戸の藩邸へ、そして江戸藩邸から二本松の国元へと「攘夷の日取りが決まった」との知らせがもたらされたのは、皐月になろうという頃だった。将軍後見職である一橋慶喜は家茂に先立って京を発ち、攘夷実行を進めるために現在帰府への途にあるという。
 京の二条城の幕議で攘夷期限が決められた会議の日は四月十九日。その席で、五月十日が攘夷実行の日取りと決められた、ということだった。
 これを重臣らが集められた会議の席で朗々と報告したのは、和左衛門である。そして、その席で渋々といった体で、丹波は「朝廷からも別途命令が下される可能性もある」と皆に告げた。
 和左衛門、そして丹波の報告に耳を傾ける長国公の表情からは、その心中が読めない。帝から直接「夷狄討伐」の命令が二本松に下されれば、二本松の国元を守る兵も出府や上洛が命じられるかもしれなかった。そうなれば、誰が二本松の国土を守るのか。家老や郡代、番頭、各種奉行らが頭を寄せ合って議論するのを、鳴海は末席で黙って聞いていた。
 鳴海は、和左衛門や丹波の報告で気になったことがあった。なるほど、将軍目代である慶篤は先に帰府して江戸の治安について受け持ち、ようやく将軍後見職である慶喜も江戸へ戻ってきた。だが、肝心の将軍家茂は、英仏軍艦が摂津(大阪)に来航するとの風聞を受け、摂津湾の防備を整えると称して未だ二条城に詰めているのである。
 幕閣らの真意としては朝廷との円滑な関係を探りつつ、攘夷実行をする気がない故に諸々の名目をつけて、意図的に家茂を江戸に帰さないのではないか。だとすれば、今ここで感情的な議論をしても意味がない。
「――どう思われる、鳴海殿」
 末席にいる自分に声が掛けられたと鳴海が気付くまで、しばしの間があった。声を発した主は、丹羽一学だった。意外な人物から声を掛けられたものである。
「それがしは、詰番の身でござる。藩政についての意見を具申するなど、分を越えまする」
 一旦は謙遜して回答を避けようとしたものの、一学はこちらを見据えている。何か、意図があるのだろう。
「守山藩の者と幾度となくやりあっているのであれば、今更身分について言い立てる必要はございますまい。貴殿の率直な意見が聞きたい」
 謹厳な表情を崩さずに、一学はさらりと述べた。なるほど、身分についてやかましい丹波をも納得させ、かつ勤皇党の感情的な議論に流されない冷静な意見が聞きたいということか。ちらりと丹波の方へ目をやると、丹波も真剣そのものの表情である。
「では、忌憚なく申し上げる」
 肚を括って、鳴海は正面に体を向けた。
「幕府に、本気で攘夷を実行する気はございますまい」
「何だと?」
 目を釣り上げて怒る和左衛門を尻目に捉えながら、鳴海はその理由を述べていった。一旦通商を約束しておきながら反故にするのは、国際法にもとるらしいこと。そうなれば、それを口実に諸外国が日本を蹂躙しようとする可能性が高いこと。また、一旦港を開いてしまった以上、貿易で利を上げる者も増えている。それらを全て取り締まるのは、不可能なこと。朝廷側の嫌がらせだとしても、武将の総帥たる将軍家茂が江戸に帰されないというのは、命令の指揮系統を握る者がいないということであるから、その指揮を待たなければ各国の兵は身動きが取れないこと、等々……。
「生糸を始め換金性の高い農作物ばかりに力を注ぎ、商いで利を貪るなど、以ての外であろう。汚らわしい。第一、農民が苦しめられているのは、明らかに神奈川開港のせいでござる。横浜鎖港は当然の処置」
 そう言い捨てた和左衛門を、丹波がじとりと睨みつけた。商人と近しい丹波への当てこすりであるのは、明白である。
「ですが和左衛門さま。昨今の天候不良や出水で米が上がらぬとなれば、廻米として江戸で売り捌いていた収益は当てになりますまい。幕府からこうもたびたび手伝いを申し付けられれば、尚の事。別の歳入を獲る方法を講じなければ、藩の国力を上げることも幕府の求めに応じることも叶いませぬ」
 やはり同席していた新十郎が、きっぱりと言い切った。刹那、和左衛門の顔が歪められた。首を巡らせると、新十郎の言葉に一学も肯いている。この様子からすると、一学に鳴海と守山藩の因縁を教えたのは新十郎なのだろう。新十郎と一学もまた、一学の妻を通じて義兄弟であるから近づいても不思議ではないのだが。
「諸事、質素倹約を持って有事に備えるのが武士の美徳ではないか」
 和左衛門の怒りの矛先が、今度は新十郎に向けられた。だが、ここは新十郎も譲れないところなのだろう。
「それが限界に来ているのが、現在の二本松の有様でありましょう。ですな、丹波様」
 新十郎の言葉に、鳴海はぎょっとした。ずっと中立を貫こうとしていた新十郎が、初めて皆の眼の前で丹波の立場に賛同してみせた。義理の親子でありながら、和左衛門とたもとを分とうとしている――。
「現在の藩の財務を支えているのは、義父上の仰る『汚らわしい』者らだという事実を、無視されるおつもりですか。二本松の民は、何も米を作る農民ばかりではございませぬ」
 新十郎も、本気で怒っている。対する和左衛門も、顔を青ざめさせて憤怒の色を隠しきれない。さすがの鳴海も、口を挟む隙がなかった。
 不意に、咳払いが聞こえた。
「話を、幕府の動きに戻して頂けますかな?」
 咳払いの主は、与兵衛だった。その声に我に返ったか、和左衛門・新十郎親子も慌てて頭を下げる。助かった。
「――前述の論拠を踏まえれば、幕府は攘夷を本気で実現する気はございますまい。朝命が下る可能性も、二本松藩の規模や事情を考えれば、即日という可能性はまずありませぬ」
 鳴海はようやく言葉を繫いだ。
 二本松が江戸への出兵を命じられたのは、一昔前から富津砲台の警備に当たっている経験があり、比較的江戸に近い藩だという地理的な関係もあるだろう。藩としては痛い出費には変わりがないのだが。
「鳴海殿の申されること、道理であるな」
 日野源太左衛門も、肯いている。
「然らば、如何するべきと鳴海殿はお考えか?」
 一学は、再び鳴海に問いを投げかけた。
何処いずこからにせよ、『攘夷』を直接命じられるまでは、軽挙妄動は控えるべきかと存じまする。幕府の動きを見ている限り、朝命の是非についてはそれから考えても遅くはございますまい」
 鳴海は内心冷や汗をかきながら、思うがままに述べた。望んでいないのに、とうとう政論の場まで引きずり出されるようになってしまった。これも、発端は守山藩の三浦との因縁が出来てしまったからである。面倒事に巻き込まれたくない自分の性格からすれば、避けたかった事態であるにも関わらず、だ。
「丹波様。如何に?」
 せめて、議論の責任は丹波に引き取ってもらいたい。鳴海は、丹波に水を向けた。
「よくぞ申した、大谷鳴海」
 言い方は相変わらず傲岸不遜だが、丹波の怒気は和らいでいた。それにほっとして、鳴海も頭を下げる。
「殿」
 丹波が長国公に決断を促した。
「――朝命のことは、おいおい考えていこう。今は、徒に足元を危うくすべきではない。よって、しばし待て、和左衛門」
 公の言わんとするところは、「五月十日を過ぎるまで、軽挙を控えよ」ということだった。一同がひれ伏し、江戸からの報告待ちということで藩論は定まった。
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