直違の紋に誓って

篠川翠

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第一章 二本松の種子

混迷

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 剛介が「奥羽諸藩に会津の追討命令が下された」との知らせを聞いたのは、手習所でのことであった。それを告げたのは、儒学の講師であった三谷与之助みたによのすけであった。一月十七日のことである。丁度その日は、手習いの日に当っていた。
「皆、静かに」
 三谷が、授業を始める前に咳払いをした。
「昨日、仙台の探索方より早馬が入った。上方より、会津の追討命令が下されたとのことである」
 広間はどよめいた。
 会津が朝敵にされた。それは、京都を守ってきたはずの会津藩が奸賊に落とされたということを意味する。あの誰よりも帝の信任の篤かった会津が。
「先生、それは我が藩も戦になるということですか?」
 成田才次郎が挙手し、先生に三谷に訊ねた。
「分からぬ」
 三谷も、青ざめた顔をして伝えた。
「現在、丹波様や日野様を始めとする御家老方や、番頭の方々などが相談しておる。むやみやたらに騒ぐな」
 そうは言われても、会津と二本松は隣国である。徳川という主人がどこまで持ちこたえるのか。そして二本松の仁義はどのように果たされるのか。幼い剛介には、隣国である「会津が奸賊にされた」というだけで、十分衝撃的だったのである。
「では、本日の講義を始める。駒之助、先日の続きから読みなさい」
「はい」
 同級の渡邊駒之助が、「有曰く」と声を張り上げた。剛介たちも、それに続く。

 有子のたまわく、その人となりや、孝悌にしてかみを犯すことを好む者はすくなし。上を犯すことを好まずして乱をおかすことを好む者は、いまだこれ有らざるなり。君子はもとつとむ。本立ちて道る。孝悌はそれ仁を為すの本なるか。

「よろしい。次に高橋。この意味を述べよ」
 後ろにいた高橋七郎が続けて解釈を述べた。
「人間の生まれつきが、孝行で従順だというのに上役に逆らいたがる者は、まず珍しい。その上役に逆らいたがらない者が内乱を起こしたという例は、まだ聞いたことがない。立派な人間は根本を大切にする。根本が固まると道は自然にできる。孝行で柔順だと言われること、それが仁の徳を完成させる根本と言っても良い。そのような意味です」
「うむ、その通りだ」
三谷が、我が意を得たり、とばかりに頷いた。
「お前たちも、まずは父上や母上に孝悌を尽くすのだ。さすれば、それが上役に従うことにもつながり、殿への忠義へとつながる。この二本松の安寧にもつながろう。よいか」
 はいっ、と一同が答えた。
 だが、剛介の胸中には不安の暗雲が広がった。お偉方は、どのような方策を取るのだろう。
 何となく、会津とは戦いたくないなあ。
「こら、剛介!」
 三谷の叱責が飛んだ。
「ぼさっとするな。もう一度、今のところを読んでみよ」
 隣に座っていた馬場定治(さだじ)が、剛介の脇腹を突いた。どうやら上の空であったのは、同級生にもしっかり見抜かれていたようである。
 剛介は、慌てて心持ち大きめの声で、「有子曰く」と声を張り上げた。

 木村道場に入門が許されてからの剛介の日常は、多忙である。基本的には、朝六ツ時(六時)からは、儒学の塾。半刻ほど四書五経について学び、一度帰宅して母が支度してくれた朝食を、急いで食べる。それから藩士のための馬場に向かって馬術の鍛錬に励む。馬場で乗馬訓練と馬の世話が終わると、今度は剣術の鍛錬である日夏道場へ足を運んで、竹刀を振るい終わる頃には、既に日は高くなっている。日夏道場の片隅で各々弁当を広げて早めの昼食を取り終わると、今度は正午九ツ時から一刻ほどの手習所の授業が待っていた。
 木村道場に行くのは、手習所の授業が終わってからのことが多い。手習所には、十一歳から十三歳の者が会するため、自ずと皆で北条谷に向かうようになった。
 初めてミニエー銃を手にしたとき、剛介はその重さにびっくりした。重さは、約3.6kgもある。大きさは兄が心配していたように銃身が長く、立てると剛介の胸の辺りまであった。また、弾込めから発射まで十一もの工程があり、操作がえらく複雑である。農民や猟師が時折狩りに使うという火縄銃とは、明らかに違うものであった。それでも士分の子弟である剛介らは、いずれはこのミニエー銃が支給されるはずであった。その時を想像すると、銃の重さも大きさも、さほど気にならない。
 一方、足軽が扱うというゲベール銃も持たせてもらった。こちらは銃身が約五寸、重さは約4.8kgもある。銃太郎は、このゲベール銃すら軽々と振り回すのだった。
「銃太郎先生は、子供の頃から十匁もある銃を持ち上げていらっしゃったんだって」
 興奮気味に、篤次郎が話している。すっかり銃太郎に心酔しているのか、その顔は、若干上気しているようだった。美少年と大人達の間でも評判の高い篤次郎が顔を赤らめると、形容しがたい可愛さがある。
 だが、まだ小兵の剛介らには扱うのはミニエー銃すら難しい。まずは銃を支えられる体力をつけよと銃太郎に命じられていたので、剛介たちは城門まで駈けてくるのがこのところの日課になっている。
 それに加えて、既に剛介の日課になっていた素振りの回数を倍に増やすことにした。
「早く、あの銃を手にして奸賊を一人でも倒してやるんだ」
 そう意気込む剛介を、半左衛門は心配そうに見つめていた。

「会津が奸賊とされた」という知らせは子供らにも衝撃を与えたが、大人はその知らせの対応を巡って苦慮していた。
 二月五日には再び会津藩より武井寛平、清水作右衛門が来藩して、会津の苦境を訴えた。今回対応に当たったのは、丹羽一学と、新十郎である。
「伏見の戦いは、会津藩としても不本意であった」
 武井が、心底無念そうに述べた。今や、会津は朝敵扱いをされている。
 会津は数年に渡って王事のために尽力してきたが、今やその功労も水泡に帰した。もとより朝廷に対して異心があるわけではない。 
 一通り会津の事情を述べた後に、「会津に協力しては頂けまいか」と武井は申し出てきた。
 が、二本松も藩の命運がかかっている。内心は会津藩に同情を禁じえないものの、軽々しく「会津につく」とも返答しかねる。 
 一学と新十郎は、丹波に復命して次の指示を待った。
「会津については、どの藩も気にしているだろうな」
 丹波が、眉根を寄せた。
「理左衛門らは何と?」
 一学らは、先に探索に出していた今泉らの報告を待っていた。そろそろ、二本松に戻ってきていても良い頃である。
「理左衛門が戻ってきて言うには、仙米の動向は、未だ行方を見極められないとのことだ。相馬、下手渡しもてど、三春などは、大藩の動きを様子見しているそうだ」
「ふむ」
「黄山にも、探索をさせていたそうですな」
 黄山の報告も気になるところだ。中島黄山は城下に住む蚕卵紙業を営む商人である。商人ではあるが、学があり、諸国の志士とも交遊がある。津々浦々に顔が利き、遠方まで足を運んでは藩のための武器の調達なども担っていた。時には彼の商いに乗じて、藩が密かに探索を依頼してる人物でもあった。
「黄山は、仙台で武井殿に会うた。二本松にも会津と同じ様に、徳川の旧恩に報じてほしいと言われたと報告してきておる」
「どの藩も、まだ態度を決めかねているということですな」
 一学が考え込む。
「仙米の意向が分からぬことには、どうにも動けまい」
 丹波は苛立った様子で答えた。
「では、まずは、仙米の意向を確かめさせましょう」
 この話し合いの結果、用人の安井九左衛門、郡奉行の遠藤段助が仙台に向かった。さらに、再度黄山にも仙台に向かうように指示を出す。
 奥羽きっての大藩である仙米二藩の意向を確かめようと、仙台には各藩から使者・探索方が到着し、その往来は日夜絶えることがなかったという――。
 時を同じくして、京にいた在京家老の江口三郎右衛門らは、勤王の意を朝廷に伝えている。
 朝廷からは頻繁に出征を督促する使者が京の藩邸に来ていたが、どの藩もまだ朝廷の命令を実行しかねていた。

「何だと!」
 丹波がその知らせを受けたのは、二月十一日だった。聞けば、奥羽鎮撫総督府なるものが設置され、有栖川宮熾仁親王を奉じて、正式に会津討伐が決まったというものだった。しかも、土佐、芸州など西の諸藩が、続々と錦旗の下に集って上京しているという。丹波はますます苦悩した。
 会津と戦う必要は感じていない。だが、薩長と会津の旧怨は双方頂点に達していた。その火の粉が二本松にも降り掛かってくるのは、もはや時間の問題だった。
 藩内でも竹内や渡邊、三浦らに代表される勤王派もおり、藩が一丸となって立ち向かわなければならない今、軽々しくこれからのことを口にできなかった。
 さらに十六日には、二本松藩が城番となっていた白河城の任期が終わり、兵二百名が帰藩した。後任は仙台藩である。その対応にも、丹波は追われた。新政府の総督・大総督にも「会津討伐の基本方針をご教示願いたい」と問い合わせたが、返ってきたのは「会津は実々死謝の外これなく」というにべもない返答だった。会津は死んでその罪を償えとの言葉に、丹波は言葉を失った。
 そのような不穏な空気が漂う中、藩主である長国公が久しぶりに帰国した。それも、幼君五郎君を伴っての帰国である。五郎君は今年御年十三歳になられる、長国公の養子である。一柳家から迎えた幼君は、まだまだ可愛らしい幼子であった。
 長国公は病弱ではあるが、暗愚ではない。
 帰国されたその日、長国公は大広間に重臣を集めると、きっぱりと宣言した。
「会津と死生をともにせん」
 重臣一同は、畳に額をこすりつけた。藩主の言葉は絶対である。公の意向は、既に江戸藩邸に居るときから決まっていたのだろう。
「仙台と共に、会津を救わねばならない」
 長国公の言葉で、丹波も肚を括った。
 いずれ、この地も戦となるやもしれぬ。丹波は屋敷に銃太郎を呼び出した。
「わが藩は薩長と干戈を交えるかもしれぬ。会津と死生を共にすると、殿がお決めになられた」
 丹波の言葉に、銃太郎は顔を上げた。
「そなたは、子弟の砲教育を急げ。足りぬものはあるか」
 銃太郎が力強くうなずいた。
「大砲と新式の銃が足りませぬ」
「そうか」
 二本松藩の銃は、まだ旧式のゲベール銃や、火縄銃が主要な火力であった。聞けば、鳥羽・伏見の戦いではそれらの武器では薩長に到底及ばず、幕府軍はさんざんに負けたという。新式のミニエー銃はまだわずかしか二本松藩になく、急ぎ求める必要があった。
「黄山にも、近々上方の探索に向かわせる。足りない物があれば、遠慮せずに申し付けよ」
 丹波は銃太郎に命じた。
 銃太郎は早速その翌日に城下の黄山を訪い、小銃や武器弾薬の調達を依頼した。
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