君の思い出

生津直

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第5章 記憶

83 決意

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 廊下に出た長尾は、大部屋に向かおうとする浅葉を追いかけた。

「なあ」

 その声に浅葉が振り向く。面と向かって聞くなら今しかない。長尾は覚悟を決めて切り出した。

「お前さ、田辺に協力頼むって話、最終的にかなりプッシュしたんだろ?」

 長尾は当初、千尋の協力を得るためにこそ浅葉が交際を演じているのだと思った。しかし、本当に気持ちがあっての恋愛なのだとしたら、大切な相手をこんな危険な場に差し出す神経は理解し難かった。

「ああ」

「いいのかよ。麻紀勢まきせ組にも目付けられてんだろ」

 千尋本人には過去の話しかしていないが、宇田川が自由の身となった今、対立する麻紀勢組で、再び千尋を利用して宇田川を脅す計画が持ち上がる可能性がある。

「それは柏崎かしわざき時代の話だ。菅野かんのになってからは、素人衆には一度も手を出してない」

 麻紀勢組による八年前の田辺千尋誘拐計画が頓挫とんざしたのは、このトップ交代劇が最大の理由だと浅葉は見ていた。しかし、たとえ千尋自身が狙われる可能性は低いとしても、宇田川に対する攻撃に巻き込まれる恐れは十分ある。

 長尾は食い下がった。

「そもそもリスク分の価値あんのか? 宇田川がこっちの要求すんなりむとは思えねえだろ。奴にしてみりゃ、立て直しの最大のチャンスがパアになんだぞ」

 宇田川は朝木里あさぎり会の二番手だが、会長は長い間やまいの床に伏し、宇田川の服役中は会長の息子が一時的にその座を埋めていた。結果的にすっかり弱体化した朝木里会に宇田川が帰ってくるという図式だ。

 麻紀勢組との対立は今に始まったことではなく、この取引を中止したところで、いずれ激しい抗争に発展することはおそらく避けられない。つまり、取引を諦めろというのは事実上、麻紀勢組と和解した上で朝木里会を解散し、足を洗えという意味になる。

 長尾が見る限り、宇田川はプロそのものだった。その判断に千尋の存在が影響するなど、眉唾まゆつばものでしかない。しかし浅葉は例によって全く揺らがなかった。

「最終的には呑む」

「なぜわかる?」

 浅葉は長尾の目を見据えて言った。

「そんな気がするんだ」

 その言葉に長尾は口をつぐんだ。気がするで済むか、と普通なら怒鳴り散らしてもよさそうな場面だが、浅葉がそんな気がする、と言う時は大抵何か根拠がある。これまで、浅葉の「そんな気」が外れたことは一度もなかった。長尾はため息混じりにその場を離れた。



 千尋は、いい加減泣き疲れた頃、今日の浅葉の言葉を思い出していた。

 もう十年以上前の話だけど、その手の抗争に一般人が巻き込まれたことがあるんだ……。

 今回もそれと状況が似ており、過去の教訓から検挙よりも人命を優先することになったという。しかし、その十五年前の事件にはまだ続きがあった。千尋は帰宅後に思い立ってパソコンを開き、検索してそれを知ってしまった。

 千尋の七歳の誕生日に、同じ首都圏内で起きていた悲劇。浅葉が千尋に対してその結末を伏せたことが、今の千尋にとって唯一の希望といえば希望ではあった。しかしそれは、逆らい難い疑念の前にかすんでしまっていた。

 浅葉が最初から、警察の目的達成のために恋人を装って千尋を手懐てなづけたのだとしたら……。

 千尋は、再び流れ出す涙を膝で拭った。

 千尋を見つめた目、千尋に触れた手、溢れるほどに注がれた愛情。どれも本物としか思えなかったが、人をだますことはある意味浅葉の仕事の一部だろう。

(そうだよね。話がうますぎたよね……)

 もし全てが嘘だったならそれほど悲しいことはないが、不思議と、許せないという気持ちは湧かなかった。浅葉が誰よりも切実にこの取引の中止を望んでいるのだとすれば、それにはもっともな理由がある。そのために、出所してくるこの男を説得すべく、一年という長い任務を浅葉が明日全うしようとしているなら……。

 その計画を最後の最後で棒に振らせるチャンスが今千尋の手中にある。だが、千尋はどうしてもそんな気になれなかった。

(そのお陰で見させてもらった、一年の長い夢……)

 千尋は、浅葉と過ごした時間のひとコマひとコマを思い出していた。誰かのことをこれほど狂おしいまでに思い、求めたことはかつてなかった。浅葉の意図がどうであれ、彼に対する自分の気持ちは変わらないような気がした。勘違いもここまで完璧にさせてくれれば、悔しさすら湧かない。

(嘘ならせめてつき通して。あなたとの美しい思い出はけがしたくない……)

 一睡もせずに迎えた朝七時半。千尋は昨日のバッグから、携帯と坂口の名刺を取り出した。
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