84 / 92
第5章 記憶
84 覚悟
しおりを挟む
九月二日。田辺千尋は、万一に備えて動きやすい服装で、という坂口からの指示通り、着古したスラックスとスニーカーで警察署に現れた。長尾が先ほど見かけた時には、泣き腫らしたような目が痛々しかったが、それでも背筋をぴんと伸ばし、健気に前を向いていた。
昨日の田辺へのブリーフィングの時、浅葉は田辺の説得材料になるはずの重大な事実に敢えて触れず、長尾には「何か付け足すことがあるなら、後は任せる」と言って部屋を出た。
長尾はしばし迷った末、田辺には「いろいろ難しいと思うけど、ゆっくり考えてね」とだけ声をかけて浅葉の後を追った。
警察は間違いなく彼女の助けを必要としている。躊躇させるようなことはなるべく言わず、協力に傾かせるための情報は極力告げておきたい。あれはそういう場だった。
浅葉だって自らこの戦法を強く推した以上、田辺が引き受けてくれることを想定し、期待してもいたはず。だが、恋人を前にしてどんな思いでブリーフィングの中身を取捨選択したのか……。
それを考えると、十五年前に浅葉の父親が警部として抗争収拾のために出動し、その現場で殉職したという経緯を「付け足す」ことは長尾にはできなかった。それを知れば彼女は、断りたくても断れない状況へと追い込まれてしまう。今朝、田辺がこの依頼を引き受けたと聞いた時、長尾は心底安堵した。
長尾は、配置や段取りの最終確認をそろそろ始めたかったが、浅葉が見当たらない。
「さては……」
案の定、ガラス張りの喫煙室にその姿があった。
浅葉は普段全く吸わない。ただ、目の前の事件に何か不安要素がある時、現場に向かう前に喫煙室を使うことがあった。儀式のようなものなのだろう。浅葉が喫煙室に入ったら他の者は出ていくこと、浅葉が自ら出てくるまでは話しかけないことが暗黙の了解になっていた。
「しかし、長いな」
長尾がしびれを切らしてガラス越しに覗くと、浅葉は二本目に火を付けているところだった。普段ならこもっても五分程度。煙草もせいぜい火を付けてくわえる程度なのだが、今日はやけに深々と吸い込んでいる様子だ。
長尾の経験上、一度喫煙室に入り、そして出てきた浅葉にはそれ以降何の心配もないとわかっていたが、いつまでも出てこない浅葉など初めてだ。そのストライプのスーツの背中を眺めながら、現場でブレんのだけは勘弁してくれよ、とぼやく。
これまでそんな心配をしたことはない。感情も私生活も全く匂わせない浅葉は、長尾にとって最高の相棒だった。しかし、浅葉も恋をするらしいという新しい概念が長尾の脳にインプットされた今、長年慣れ親しんできた法則がどこまで頼りになるのかは未知数だ。
生半可な気持ちでわざわざこんな相手を選ぶとは思えない。浅葉も人の子だ。個人的な感情から一瞬の迷いが生じることもないとは言えない。そうなれば全員の命に関わる可能性だってある。
「できないなら下りろと言ってやろうか……」
今それを言ってやれるのは長尾しかいない。しかし、そう簡単に代わりが見つかるぐらいなら苦労しないのも確かだ。宇田川は、浅葉が長いことこだわり続けてきた男だった。
長尾が頭を抱えかけた時、扉が開いた。煙の匂いと共に浅葉が現れる。その表情に苦悩の色はなかった。長尾に対して何かと容赦のない、いつもの浅葉の顔。
こうなったらもう長尾が気を揉むことはマイナスにしかならない。命が惜しければ浅葉を信じろ、と長尾は自分に言い聞かせた。
昨日の田辺へのブリーフィングの時、浅葉は田辺の説得材料になるはずの重大な事実に敢えて触れず、長尾には「何か付け足すことがあるなら、後は任せる」と言って部屋を出た。
長尾はしばし迷った末、田辺には「いろいろ難しいと思うけど、ゆっくり考えてね」とだけ声をかけて浅葉の後を追った。
警察は間違いなく彼女の助けを必要としている。躊躇させるようなことはなるべく言わず、協力に傾かせるための情報は極力告げておきたい。あれはそういう場だった。
浅葉だって自らこの戦法を強く推した以上、田辺が引き受けてくれることを想定し、期待してもいたはず。だが、恋人を前にしてどんな思いでブリーフィングの中身を取捨選択したのか……。
それを考えると、十五年前に浅葉の父親が警部として抗争収拾のために出動し、その現場で殉職したという経緯を「付け足す」ことは長尾にはできなかった。それを知れば彼女は、断りたくても断れない状況へと追い込まれてしまう。今朝、田辺がこの依頼を引き受けたと聞いた時、長尾は心底安堵した。
長尾は、配置や段取りの最終確認をそろそろ始めたかったが、浅葉が見当たらない。
「さては……」
案の定、ガラス張りの喫煙室にその姿があった。
浅葉は普段全く吸わない。ただ、目の前の事件に何か不安要素がある時、現場に向かう前に喫煙室を使うことがあった。儀式のようなものなのだろう。浅葉が喫煙室に入ったら他の者は出ていくこと、浅葉が自ら出てくるまでは話しかけないことが暗黙の了解になっていた。
「しかし、長いな」
長尾がしびれを切らしてガラス越しに覗くと、浅葉は二本目に火を付けているところだった。普段ならこもっても五分程度。煙草もせいぜい火を付けてくわえる程度なのだが、今日はやけに深々と吸い込んでいる様子だ。
長尾の経験上、一度喫煙室に入り、そして出てきた浅葉にはそれ以降何の心配もないとわかっていたが、いつまでも出てこない浅葉など初めてだ。そのストライプのスーツの背中を眺めながら、現場でブレんのだけは勘弁してくれよ、とぼやく。
これまでそんな心配をしたことはない。感情も私生活も全く匂わせない浅葉は、長尾にとって最高の相棒だった。しかし、浅葉も恋をするらしいという新しい概念が長尾の脳にインプットされた今、長年慣れ親しんできた法則がどこまで頼りになるのかは未知数だ。
生半可な気持ちでわざわざこんな相手を選ぶとは思えない。浅葉も人の子だ。個人的な感情から一瞬の迷いが生じることもないとは言えない。そうなれば全員の命に関わる可能性だってある。
「できないなら下りろと言ってやろうか……」
今それを言ってやれるのは長尾しかいない。しかし、そう簡単に代わりが見つかるぐらいなら苦労しないのも確かだ。宇田川は、浅葉が長いことこだわり続けてきた男だった。
長尾が頭を抱えかけた時、扉が開いた。煙の匂いと共に浅葉が現れる。その表情に苦悩の色はなかった。長尾に対して何かと容赦のない、いつもの浅葉の顔。
こうなったらもう長尾が気を揉むことはマイナスにしかならない。命が惜しければ浅葉を信じろ、と長尾は自分に言い聞かせた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
旧校舎の地下室
守 秀斗
恋愛
高校のクラスでハブられている俺。この高校に友人はいない。そして、俺はクラスの美人女子高生の京野弘美に興味を持っていた。と言うか好きなんだけどな。でも、京野は美人なのに人気が無く、俺と同様ハブられていた。そして、ある日の放課後、京野に俺の恥ずかしい行為を見られてしまった。すると、京野はその事をバラさないかわりに、俺を旧校舎の地下室へ連れて行く。そこで、おかしなことを始めるのだったのだが……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる