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第2章 修練の時
38 優先順位
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乾いた唇を噛んだ瞬間、バタンと音がした。新藤が車から降りてこちらへやってくる。
「とにかく乗れ」
と車を顎で示し、自転車に手をかける。一希はハンドルを握る手に力を込めてそれに逆らった。
「いいんです、一人で帰れます」
「そりゃ帰れるだろうが、夜道で一人自転車なんか転がしてたら誘拐され放題だぞ。未成年の同居人を誘拐される身にもなってくれ。下手したら容疑者にされちまう。大迷惑だ」
確かにありうる筋書きだ。仕方なく自転車を降り、車の方へと押していく。
荷台には十分なスペースがありそうだ。一希がよっこらしょと自転車の向きを変えている間に、新藤がひらりと荷台に飛び乗った。上から自転車を引き上げようとする。一希はそれを助ける代わりに、自転車を引っ張って抵抗した。
「大丈夫です、自分でできますから」
思いのほか力が入ってしまったらしい。一希に自転車を引っ張られてバランスを崩しかけた新藤が、手を離してこちらを見下ろす。
「あ、すみません……」
ひやっとした瞬間、一希は我に返った。怪我でもさせたら大変だ。相手は現役の、しかも全国屈指の不発弾処理士。そう簡単に替えが利く人材ではない。
新藤の鋭い視線を額で感じた。一希は今しがたの行いを反射的に恥じながらも、純粋な反省を己の中に見出せずにいた。そんな自分の感情に戸惑う。荷台の上の師匠と目を合わせられなかった。正解はわかっているのに認めたくない。そんな気持ちをこれまた認めたくない。
「そうやって何でもかんでも自分一人でやろうとしてジタバタするのは昔からか?」
(ジタバタ……)
見苦しいし、子供じみていると自分でも思う。けれど。
「別にお前ができないから見てられなくて手伝うと言ってるんじゃない。俺の手が空いてるんだから使った方が効率がいいだろうが。もっと合理的に考えられないのか?」
合理的。その方が合理的なのはもちろんわかっている。けれど。
「引っ越しの時だってそうだ。俺になるべく荷物を運ばせまいと必死だったろ。朝一の単純労働で本来の二倍も三倍も無駄な汗をかいてたな。なぜそんなことをする?」
一希は唾をぐっと飲み込み、うつむいたまま言った。
「男の人にはわからないと思います」
新藤の声は聞こえてこず、視線だけを感じた。一希はいたたまれなくなり、自転車を荷台に立てかけ、黙って助手席に乗り込む。
ドアを閉めた瞬間、後悔した。どう考えても失礼すぎる。そこまで言うなら勝手にしろと追い出されるだろうか。
ルームミラーには、荷台に引っ張り上げた自転車を横にして安定させようとしている新藤が映っていた。一希は口の中を噛んで耐えた。自分が一体何に耐えているのかを知ろうとする気持ちと、そこから目を逸らそうとする気持ちが交錯する。
間もなくミラーから新藤の姿が消え、運転席のドアが開いた。それが再び閉まると、静けさが訪れた。
「冴島」
「……はい」
「埜岩でどういう扱いを受けたか知らんがな、不当だと思うなら正しく闘え。時間と労力の大いなる無駄だ。それに……」
新藤がキーを回し、エンジンがかかる。
「そのまま優先順位を履き違えててみろ。いつか必ず危険を招くぞ」
(優先順位……?)
理解しようとした。しかし、今すぐ出ていけと怒鳴られなかった安堵感の方が勝っていた。破門を言い渡されてもおかしくないだけのことをしてしまった自覚はある。申し訳ないし、情けない。しかしそれは、自責の念とは明白に異なっていた。正体不明な何かを責め、何かにこだわる自分の心理に、馴染みがあるようなないような不透明な感覚。
帰宅すると、新藤はすぐに電話をかけ始めた。
「ああ俺だ。ん、見付けた。……ああ、問題ない。騒がしたな。……そういう説教はまた後で聞くから。今は忙しいんだ、切るぞ」
と言って本当に切ってしまう。
「先生、今のって……」
「菊さんだ」
と言いながらもう次のダイヤルを回している。菊さんというのは、例の売店を営む菊乃のこと。
「見付けた、って私のことですか?」
「ああ」
(帰りが遅いからって、菊乃さんにまで……もしかして先生、偶然通りかかったわけじゃなくて、私を探しに?)
そういえば、今新藤が着ている黒のトレーナー上下は、本人がいたく気に入っているらしき部屋着だ。この格好で家を出たり帰宅したりするのをこれまでに見たことはなかった。
「あ、もしもし。ん。何度もごめんな。さっきのやつ大丈夫だったよって、母さんに言っといてくれるか? ん? さっきの、って言えばわかる。ん、頼むぞ。……あ? それを言うなら『さらば』だろ。……おお、またな」
電話を切った新藤が呟く。
「何だよ『さばら』って」
「ひょっとして、カイト君、ですか?」
「ああ。相変わらず元気が余ってる」
「檜垣さんのところにまで……すみません、お騒がせして」
「別に捜索を頼んだわけじゃない。そっちに行ってないかと聞いただけだ。今後は遅くなるようなら事前に知らせていけ。外泊する場合も同じだ」
(外泊!?)
まさか、今日遅くなったのは埜岩で嫌な目に遭って鬱憤晴らしに男のところにしけこんでいたとでも思われたのだろうか。しかし、そうじゃありませんとわざわざ説明するのも取って付けたようで気が引ける。
「はい。お手数をおかけしました。以後気を付けます」
「ん」
言うべきことを言って聞くべきことを聞いたら、その後にまで長々と引きずることはない。それは新藤の長所、もとい、一希にとってありがたい点の一つだった。
「とにかく乗れ」
と車を顎で示し、自転車に手をかける。一希はハンドルを握る手に力を込めてそれに逆らった。
「いいんです、一人で帰れます」
「そりゃ帰れるだろうが、夜道で一人自転車なんか転がしてたら誘拐され放題だぞ。未成年の同居人を誘拐される身にもなってくれ。下手したら容疑者にされちまう。大迷惑だ」
確かにありうる筋書きだ。仕方なく自転車を降り、車の方へと押していく。
荷台には十分なスペースがありそうだ。一希がよっこらしょと自転車の向きを変えている間に、新藤がひらりと荷台に飛び乗った。上から自転車を引き上げようとする。一希はそれを助ける代わりに、自転車を引っ張って抵抗した。
「大丈夫です、自分でできますから」
思いのほか力が入ってしまったらしい。一希に自転車を引っ張られてバランスを崩しかけた新藤が、手を離してこちらを見下ろす。
「あ、すみません……」
ひやっとした瞬間、一希は我に返った。怪我でもさせたら大変だ。相手は現役の、しかも全国屈指の不発弾処理士。そう簡単に替えが利く人材ではない。
新藤の鋭い視線を額で感じた。一希は今しがたの行いを反射的に恥じながらも、純粋な反省を己の中に見出せずにいた。そんな自分の感情に戸惑う。荷台の上の師匠と目を合わせられなかった。正解はわかっているのに認めたくない。そんな気持ちをこれまた認めたくない。
「そうやって何でもかんでも自分一人でやろうとしてジタバタするのは昔からか?」
(ジタバタ……)
見苦しいし、子供じみていると自分でも思う。けれど。
「別にお前ができないから見てられなくて手伝うと言ってるんじゃない。俺の手が空いてるんだから使った方が効率がいいだろうが。もっと合理的に考えられないのか?」
合理的。その方が合理的なのはもちろんわかっている。けれど。
「引っ越しの時だってそうだ。俺になるべく荷物を運ばせまいと必死だったろ。朝一の単純労働で本来の二倍も三倍も無駄な汗をかいてたな。なぜそんなことをする?」
一希は唾をぐっと飲み込み、うつむいたまま言った。
「男の人にはわからないと思います」
新藤の声は聞こえてこず、視線だけを感じた。一希はいたたまれなくなり、自転車を荷台に立てかけ、黙って助手席に乗り込む。
ドアを閉めた瞬間、後悔した。どう考えても失礼すぎる。そこまで言うなら勝手にしろと追い出されるだろうか。
ルームミラーには、荷台に引っ張り上げた自転車を横にして安定させようとしている新藤が映っていた。一希は口の中を噛んで耐えた。自分が一体何に耐えているのかを知ろうとする気持ちと、そこから目を逸らそうとする気持ちが交錯する。
間もなくミラーから新藤の姿が消え、運転席のドアが開いた。それが再び閉まると、静けさが訪れた。
「冴島」
「……はい」
「埜岩でどういう扱いを受けたか知らんがな、不当だと思うなら正しく闘え。時間と労力の大いなる無駄だ。それに……」
新藤がキーを回し、エンジンがかかる。
「そのまま優先順位を履き違えててみろ。いつか必ず危険を招くぞ」
(優先順位……?)
理解しようとした。しかし、今すぐ出ていけと怒鳴られなかった安堵感の方が勝っていた。破門を言い渡されてもおかしくないだけのことをしてしまった自覚はある。申し訳ないし、情けない。しかしそれは、自責の念とは明白に異なっていた。正体不明な何かを責め、何かにこだわる自分の心理に、馴染みがあるようなないような不透明な感覚。
帰宅すると、新藤はすぐに電話をかけ始めた。
「ああ俺だ。ん、見付けた。……ああ、問題ない。騒がしたな。……そういう説教はまた後で聞くから。今は忙しいんだ、切るぞ」
と言って本当に切ってしまう。
「先生、今のって……」
「菊さんだ」
と言いながらもう次のダイヤルを回している。菊さんというのは、例の売店を営む菊乃のこと。
「見付けた、って私のことですか?」
「ああ」
(帰りが遅いからって、菊乃さんにまで……もしかして先生、偶然通りかかったわけじゃなくて、私を探しに?)
そういえば、今新藤が着ている黒のトレーナー上下は、本人がいたく気に入っているらしき部屋着だ。この格好で家を出たり帰宅したりするのをこれまでに見たことはなかった。
「あ、もしもし。ん。何度もごめんな。さっきのやつ大丈夫だったよって、母さんに言っといてくれるか? ん? さっきの、って言えばわかる。ん、頼むぞ。……あ? それを言うなら『さらば』だろ。……おお、またな」
電話を切った新藤が呟く。
「何だよ『さばら』って」
「ひょっとして、カイト君、ですか?」
「ああ。相変わらず元気が余ってる」
「檜垣さんのところにまで……すみません、お騒がせして」
「別に捜索を頼んだわけじゃない。そっちに行ってないかと聞いただけだ。今後は遅くなるようなら事前に知らせていけ。外泊する場合も同じだ」
(外泊!?)
まさか、今日遅くなったのは埜岩で嫌な目に遭って鬱憤晴らしに男のところにしけこんでいたとでも思われたのだろうか。しかし、そうじゃありませんとわざわざ説明するのも取って付けたようで気が引ける。
「はい。お手数をおかけしました。以後気を付けます」
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