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第4章 命賭す者
96 後継者
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「研究って、ちなみにどういう……」
「お前にぺろっとしゃべれるぐらいなら大した研究じゃないな」
「……そう、ですよね。魅力的なお話なんですか?」
「まあな」
「義理とかじゃなくて……先生ご自身がなさりたいと?」
「ああ」
「でも、お父様の大切な施設を手放してまで動く気はないって……」
「手放したくないからこそ保留にしてたんだ。後継者が育つまで待ってくれと」
思わず耳を疑った。
「そんな……それなら、私なんかより前に処理士の資格を持ってる人がいくらでもいたじゃないですか」
「施設を一つ売っ払うことと、親の形見を譲ることは違う」
だからこそなおさら、「なぜ自分に」と思わずにはいられない。
「私は……あの時なんか、今よりもっとどうしようもなくて、ただの身の程知らずな助手崩れで……」
「そうだな。その通りかもしれん」
否定してくれないところがいかにも新藤らしい。
「でも、俺には極楽鳥の雛に見えた」
(……私が?)
「処理士の日常を見てみたい。お前はそう言ったろ」
「……はい」
「俺も同じだ。お前の日常を見てみたかった」
「先生……」
「誰もが当たり前に憎んできた相手を、右に倣って自動的に憎むことは簡単だ。だがそんな中、お前は一番難しいはずの道をごく自然に、まるで赤ん坊が母親を求めでもするように選び取ろうとしていた。自分は直接の加害者でも被害者でもない。でも、両者を隔てている罪を見て見ぬふりはできない。その罪を周りにつられて恨むより、自分のものとして償うことに己を捧げたい、と」
一希はそれを聞き、あの日の新藤を思い出していた。ただただ雲の上の人だった。
「どんな風に寝て起きて、どんな飯を食って、毎日どんな暮らしをしていればそんなことが言えるのか……お前の足跡を踏んで歩いてみれば、俺にも何かが掴めるんじゃないかと思ってな。ま、俺はお前にはなれんってのが結論だが、お陰で非常に有意義だった」
一希は、信じられない思いでその言葉を受け止める。まさかそれほどまでに自分のことを買ってくれていたなんて。
新藤は不意に歩みを進めた。どっしりとした安全靴が砂利混じりの土を踏み、数歩先で止まる。
新藤の足元に影を作っている白い光。一希はその源をまっすぐに見つめた。夜空に突き刺した画鋲の頭のような月。目に染みる。
もし、嫌だと言ったらどうなるのだろう。そんな自信はない、補助士のままでいたい、あるいは、業界を離れて家庭に入りたい、とでも言い出したら、新藤はどう反応するだろう。実際、どこまで本気かは別として、そんな弱音が喉まで出かかっていた。
何と答えればよいのかわからないまま、新藤の後頭部でそよぐ髪を見つめた。床屋に行きそびれてそのままなのだろう、中途半端な長さだ。
「お前が継いでくれるなら……」
二人の間を、柔らかい夕暮れの風が渡っていった。
「俺は今までで一番やりたい仕事ができる」
(先生……)
つくづく意外だ。一希には、新藤は根っから現場の人というイメージがあった。それを離れてまでやりたいことがあったなんて……。
命令や指示ではない。これは、新藤から一希への頼み事だ。他の誰でもない、冴島一希への。自分がまさか断るはずなどないと、最初からわかりきっている。迷うふりをしたくなるのは、自分の中の女の部分がごねているだけだと自覚できていた。いっそみっともなく駄々をこねてしまえたら楽だろう。しかし、それは新藤を困らせ、失望させるだけだ。
熱いものが一筋一希の頬を伝い、夜風に冷やされる間もなく、後から後から込み上げては流れ落ちた。まるでこの二年間の全てがあふれ出るように。
初めて門を叩いた日の緊張感。住み込み指導の申し出。いろんなことがありすぎた共同生活。どの場面も、この人に対する思いに満ち満ちていた。それは憧れであり、それは感謝であり、それは恋だった。どれももはや、単独の感情として切り離すことなどできない。
「お前にぺろっとしゃべれるぐらいなら大した研究じゃないな」
「……そう、ですよね。魅力的なお話なんですか?」
「まあな」
「義理とかじゃなくて……先生ご自身がなさりたいと?」
「ああ」
「でも、お父様の大切な施設を手放してまで動く気はないって……」
「手放したくないからこそ保留にしてたんだ。後継者が育つまで待ってくれと」
思わず耳を疑った。
「そんな……それなら、私なんかより前に処理士の資格を持ってる人がいくらでもいたじゃないですか」
「施設を一つ売っ払うことと、親の形見を譲ることは違う」
だからこそなおさら、「なぜ自分に」と思わずにはいられない。
「私は……あの時なんか、今よりもっとどうしようもなくて、ただの身の程知らずな助手崩れで……」
「そうだな。その通りかもしれん」
否定してくれないところがいかにも新藤らしい。
「でも、俺には極楽鳥の雛に見えた」
(……私が?)
「処理士の日常を見てみたい。お前はそう言ったろ」
「……はい」
「俺も同じだ。お前の日常を見てみたかった」
「先生……」
「誰もが当たり前に憎んできた相手を、右に倣って自動的に憎むことは簡単だ。だがそんな中、お前は一番難しいはずの道をごく自然に、まるで赤ん坊が母親を求めでもするように選び取ろうとしていた。自分は直接の加害者でも被害者でもない。でも、両者を隔てている罪を見て見ぬふりはできない。その罪を周りにつられて恨むより、自分のものとして償うことに己を捧げたい、と」
一希はそれを聞き、あの日の新藤を思い出していた。ただただ雲の上の人だった。
「どんな風に寝て起きて、どんな飯を食って、毎日どんな暮らしをしていればそんなことが言えるのか……お前の足跡を踏んで歩いてみれば、俺にも何かが掴めるんじゃないかと思ってな。ま、俺はお前にはなれんってのが結論だが、お陰で非常に有意義だった」
一希は、信じられない思いでその言葉を受け止める。まさかそれほどまでに自分のことを買ってくれていたなんて。
新藤は不意に歩みを進めた。どっしりとした安全靴が砂利混じりの土を踏み、数歩先で止まる。
新藤の足元に影を作っている白い光。一希はその源をまっすぐに見つめた。夜空に突き刺した画鋲の頭のような月。目に染みる。
もし、嫌だと言ったらどうなるのだろう。そんな自信はない、補助士のままでいたい、あるいは、業界を離れて家庭に入りたい、とでも言い出したら、新藤はどう反応するだろう。実際、どこまで本気かは別として、そんな弱音が喉まで出かかっていた。
何と答えればよいのかわからないまま、新藤の後頭部でそよぐ髪を見つめた。床屋に行きそびれてそのままなのだろう、中途半端な長さだ。
「お前が継いでくれるなら……」
二人の間を、柔らかい夕暮れの風が渡っていった。
「俺は今までで一番やりたい仕事ができる」
(先生……)
つくづく意外だ。一希には、新藤は根っから現場の人というイメージがあった。それを離れてまでやりたいことがあったなんて……。
命令や指示ではない。これは、新藤から一希への頼み事だ。他の誰でもない、冴島一希への。自分がまさか断るはずなどないと、最初からわかりきっている。迷うふりをしたくなるのは、自分の中の女の部分がごねているだけだと自覚できていた。いっそみっともなく駄々をこねてしまえたら楽だろう。しかし、それは新藤を困らせ、失望させるだけだ。
熱いものが一筋一希の頬を伝い、夜風に冷やされる間もなく、後から後から込み上げては流れ落ちた。まるでこの二年間の全てがあふれ出るように。
初めて門を叩いた日の緊張感。住み込み指導の申し出。いろんなことがありすぎた共同生活。どの場面も、この人に対する思いに満ち満ちていた。それは憧れであり、それは感謝であり、それは恋だった。どれももはや、単独の感情として切り離すことなどできない。
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