出航、前夜

生津直

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1  忘年会

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「酔った勢い」というのは、きっかけとして実に十分すぎる。道を誤らせるにも、奇跡を引き寄せるにも。この世に酒がなかったら、色恋の七割はまずスタートラインに乗らないだろう。

 私と和気わきさんもそのクチだった。



 新卒で入ったブラック企業を一年半で辞めた私は、心療内科でうつ病予備軍と診断された。治療に専念するための半年ほどのNEET生活を経て、リハビリがてら派遣で短期の仕事を転々とすること一年。登録先の派遣会社にようやく長期就業の希望を出せるまでに回復した。

 それから間もなく紹介されたのがこの事務職。丸の内の外資証券会社で、実家から通うにも便利だ。若干の英語力が必要とされるせいか、時給も他と比べてだいぶいい。

 いつになく身の引き締まる思いで、雇用契約書に署名をする。

 秀野由実ひでのゆみ

「由実」っていう漢字を人に説明する時、「理由の由に現実の実」じゃあまりにかわいくなさすぎるから、「由緒の由に果実の実」と言うことにしている。

 この新しい職場の上司が和気わきさんだ。名刺には「何とかマネージャー」と書いてあった気がするが、外資文化のせいか、役職者たちはみんな名字に「さん」付けで呼ばれている。一般社員同士はニックネームだったり、「さん」付け、「君」付け、いろいろだ。

 私の仕事は主にデータ入力で、正社員さんたちに言われたことを淡々とこなしていればよかった。和気さんとは、普段の勤務時間中に直接話をする機会はほとんどなく、私の近くの席にいる正社員の姉様方ねえさまがたに時々何かを言いに来る時にちらっと顔が見え、声が聞こえる程度。だからじっくり観察できるのは、週一で行われるチームミーティングの時ぐらいだった。

 顔は「まずくない」程度でやや童顔気味。声はちょっと高め。中肉中背で、スポーツはそこそこできそう。中年のおっさんにしてはかなり爽やかな方で、いつもにこやかな印象。あぶらぎってもいないし、いやらしくもないが、その分、男をあまり感じさせない、どちらかといえば中性的な雰囲気があった。つまり、マッチョな肉食系に俄然がぜん弱い私のタイプとはかけ離れている。



 勤務開始から三ヶ月ほど経ったある日、隣のチームと合同での忘年会に私も呼ばれた。呼ばれたといってもタダではなく、傾斜ありの会費制だったけれど。

 小綺麗こぎれいな居酒屋のお座敷で、社員さんたちは最初のうちこそ気をつかって派遣の私たちを話の輪に入れてくれていたものの、そのうち酒が回ってくると、だんだん私たちにはわからない昔話に花を咲かせ始めた。結果的に何となく派遣は派遣でまとまり、同年代の女ばかり数人、小声で「将来への不安」大会になる。

 私だって、このまま一生派遣で食っていけると思ってるわけじゃない。でも、この職場で正社員に昇格できる見込みはおそらくない。週五日働くこと自体に体が慣れてきたら、先のことを考えて就職活動も始めなくてはなあと漠然と思ってはいるが、何がしたいと決まっているわけでもないし、それ以前に雇ってくれる会社があるのかどうかすら怪しい。

 手に職、と人は言うが、このちっぽけな私に一体何ができよう。苦労して何か資格を取ったとしても、AIに取って代わられるのでは、という心配は尽きないこのご時世。面倒くさいからさっさと扶養に入りたい、なんて思惑もつい浮上してしまうけれど、婚活は婚活で大変そう。それに、見事ご成婚にこぎつけたって、旦那の稼ぎ、いや、旦那の命自体、未来永劫のものではないわけで……。

 アラサーの派遣同士、共感だけは得られるけれど、解決への手がかりはさっぱりだ。こうなったらもう溜め息しか出ず、咲くものも咲きやしない。

 とめどなく愚痴がこぼれるのは別に珍しくもないし、それだけなら別にどうということはなかったのだが、一人「酒豪」と自称する意識高い系崩れの女がいて、私はつい大人気おとなげなくそれに張り合ってしまった。いや、話の中身については適当にいなしていたのだが、酒量の方で。

 メニューを眺めては「みんなまだ平気?」とわざとらしく周囲のグラスを見回し、自分だけ強い酒をガンガン注文しまくる血気盛んなプリンセス。こいつにあんに物申してやりたくて、ついつい「じゃ私もそれ」を繰り返した。飲み放題というシステムが今日ほど恨めしかったことはない。

 そうこうするうちにお決まりの一本締めで会はお開きになり、二次会はカラオケということになったらしい。派遣メンツは皆これで帰るらしく、私もその流れに乗ろうとしていた時、

「秀野さんは?」

と声がかかった。いつもよりさらに一回り機嫌の良さそうな和気さんだった。

「あ、私はさすがに……」

 我ながら遠慮丸出しのセリフ。本気で辞退するつもりがないことはバレバレだっただろう。

「よかったら、ちょっとだけ行かない? まだ九時過ぎだし」

 まだそんな時間なのか、という驚きもあった。社員さんたちがどんな歌を歌うのか、好奇心も刺激された。うちのチームでいつもお世話になっているノリのいい姉様方がいい感じに酔っ払っていてかわいいな、とも思った。要するに、「ちょっと飲みすぎたが意識はまだはっきりしている」時の常で、無駄に血が騒いでいた。

「でも、派遣みんな帰っちゃって……」

「いや、うちそういう余計な線引きは全然ないから大丈夫だよ。同じチームの仲間なんだし、楽しくやろうよ。あ、二次会は支払いも心配しなくていいし」

「そう……ですか?」

 そろそろしぶるふりをやめてもいいかなと思った時、それを後押ししてくれる声が上がった。

「え、なになに? ヒデちゃんも? 行けそ? 行けそ?」

 秀野のヒデを取って、私は姉様方にそう呼ばれている。

「あ、お邪魔じゃないようでしたらじゃあ……ちょっとだけ」



 そんなやりとりを経てカラオケ店にやってきたのは、うちのチームを中心に七、八人ほど。

「一人『三』ずつ。あ、ヒデちゃんはゼロね。残りは和気さん持ちで。ありがとうございまーす!」

「あ、すみません。ありがとうございます。皆さんごちそうさまです」

 ……そう、この時は私も、まだまともに御礼が言えるぐらいの正気を保っていたのだ。
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