68 / 80
第5章 もう一つの卒業
68 ユキ
しおりを挟む
待合室に行ってみると、奥に小学生ぐらいの姉弟と祖父らしき高齢の男性。左手には文庫本を読むサラリーマン風の男性が一人。そして右手の入口近くに、不安げな表情でうつむく女性がいた。年齢は悦子より一つ二つ上だろうか。特別美人でも、目立つタイプでもない。メイクもほとんどしていない風で、長い髪を低い位置で一つに束ねている。清潔感の漂う出で立ちながら、その沈んだ面持ちのせいか、どこか影のある印象を受けた。
彼女がふと顔を上げた。目が合うと、お互い相手が何者なのか、察しがついてしまった。女の勘というものだろうか。悦子は思い切って声をかけた。
「あの……もしかして、大輝さんの?」
ええ、と彼女は立ち上がって会釈した。悦子も軽く頭を下げて応える。
「あの……柿村悦子と申します」
「東条ユキです」
(東条……この人が……)
デモランジュの常連衆が、大輝の本命の最有力候補として挙げた名だ。しかし、今はそんなことを言っている場合ではない。
「あの……大輝は?」
「先ほど……手術室に入ったところです」
「しゅっ……」
悦子は言葉を失った。手術が必要になるほどの怪我を一体どうして負ったのだろう。たまらず嗚咽を漏らす。咳き込むように尋ねた。
「な、何が、あったんですか?」
悦子の問いかけに、東条ユキは表情を曇らせ、
「ちょっと……」
と入口の扉を指差して目配せをする。二人は静かに待合室を出た。廊下の隅でユキが言う。
「お腹を……刺されたんです」
「刺された?!」
あまりにも予想外の事態に、悦子は思わず両手で顔を覆った。
「容体については私も詳しいことは聞けてないんですけど、緊急手術ですって。それなりに危険な状態みたいで……手術が終わるまでは何とも言えないって……」
悦子が青ざめて黙り込むと、今度はユキが尋ねた。
「よくわかりましたね、この病院」
「あ、なんか、大輝のご親戚の方からお電話いただいて……」
「親戚?」
そういえば、あの電話の女性はどうやって悦子の番号を知ったのだろう、と今さら疑問を抱き、すぐに一つの可能性に思い至った。
「あ、多分、大輝の携帯の直近の着信を見たんだと……私、八時過ぎに何度かかけたので」
「でも、携帯は……」
と言いかけたまま、ユキは何か引っかかるような顔をしていたが、すぐに思い直したように続けた。
「相手の人……大輝のこと刺した人、若い女の人で……」
「東条さん、現場にいらしたんですか?」
「ええ。私が救急車を呼んで、一緒に警察も来て……大輝はその人と立ち話してたんです。私は少し離れてて内容は聞こえなかったんですけど、彼女の手に包丁みたいなものが……」
悦子は、ごくりと唾を飲み込んだ。
「彼女急に逆上して、多分自分の手首を切ろうとして……私が慌てて近寄ろうとしたら大輝が『来るな』って。その直後です、刺されたのは。彼女の方も腕に怪我をしてたのと、パニックになっちゃってて一緒に運ばれたから、この病院のどこかにいるはずですけど」
悦子は咄嗟に彼女の無事を祈った。もちろん大輝ことの方がよっぽど心配だが、大輝がこんな形で命を落とすはずがないという思いがその心配を打ち消そうとしていた。それに、もし彼女が助からないようなことがあれば、大輝は一生自分を責め続けるだろう。
「それって……例の、別れ話のせい、ですか?」
悦子がそうぽつりと呟くと、ユキは向かいの壁を見つめ、深いため息をついて言った。
「ええ、多分。それにしてもまさかこんなタイミングで……大輝も運がないですね」
「こんなタイミング?」
「その別れ話、私にしたのが昨日で、ようやく片付いていざって時に……」
「え? 東条さんにも……?」
ユキは、いぶかしむような目を悦子に向けた。
「私のこと……どこかで?」
「あ、すみません。噂で……大輝は東条さんと付き合うために断捨離してるって」
ユキは寂しげに微笑んだ。
「噂ほど当てにならないものはないですね」
「でも、今日、会ってらしたんじゃ……?」
ユキは、悦子の疑問を何となく気まずそうに受け止めた。
「残念ながら、大輝と一緒だったわけじゃないんです。彼の家の近くに隠れて待ってたんです。大輝が……好きになったかもしれない人っていうのを見てみたくて、後を尾けるつもりで。そしたら私以外にも待ち伏せしてる人がいたっていう……。私とは違う目的で」
悦子は、ユキの言葉の一つひとつをゆっくりと呑み込んだ。
「……じゃあ、本命の人がいるっていうのは、本当なんですね」
ユキはちょっと意外そうな顔をした。
「言われませんでした? 他の奴とシェアしたくない……束縛したい人ができたって。その人とちゃんと向き合ってみたいから、他の関係は全部終わりにしたいって」
本人からそう聞かされたような気分になり、「終わり」という言葉に悦子は動揺した。
「あの、私、その話はまだ……。今日、会うことになってたので。でも、こんなことになっちゃったから……」
そう口にしてから、悦子は、何か変なことを言ってしまったかと慌てた。それぐらい、ユキはショックを受けた様子で目を見開いていた。
「さっき、例の別れ話っておっしゃったから、てっきり……」
「あ、まだ、直接本人からは……」
ユキはしばらく黙って何やら考え込んでいる様子だったが、じきに再び口を開いた。
「今日、約束してたんですよね? 大輝、何か言ってませんでした?」
「何か? ああ、大事な話があるって……」
「……それだけ?」
「はい。でも、一人ずつ終わらせてるって噂を聞いた時から、覚悟はしてましたから」
「好き……ですか? 大輝のこと」
「そりゃあ、みんな……東条さんだって……」
と悦子が見やると、ユキは重たい瞬きを一つした。悦子は遠慮がちに尋ねた。
「東条さん、大輝とはもう……長かったんですよね? あの、これも噂で……」
「長いっていっても……他の人がどうなのか知りませんから」
それは悦子だって同じだ。大輝の「守秘義務」ゆえ、噂以上のことは知りようがない。
「そんな話されたぐらいで、諦めなんてつかないんじゃないですか?」
「もちろん、簡単じゃないけど……でも、よくわかりました」
「わかっ……た?」
「大輝に聞いたんです、その人のどこが『好きかもしれない』のか」
「そしたら……何て?」
ユキは、大輝の言葉を思い起こすかのように、長いこと黙って空を見つめた。
「それは……本人から聞いてください。大輝もそれを望んでるはずですから」
悦子は、今日聞くはずだったその別れ話を、必ず大輝自身から聞けるようにと祈った。
彼女がふと顔を上げた。目が合うと、お互い相手が何者なのか、察しがついてしまった。女の勘というものだろうか。悦子は思い切って声をかけた。
「あの……もしかして、大輝さんの?」
ええ、と彼女は立ち上がって会釈した。悦子も軽く頭を下げて応える。
「あの……柿村悦子と申します」
「東条ユキです」
(東条……この人が……)
デモランジュの常連衆が、大輝の本命の最有力候補として挙げた名だ。しかし、今はそんなことを言っている場合ではない。
「あの……大輝は?」
「先ほど……手術室に入ったところです」
「しゅっ……」
悦子は言葉を失った。手術が必要になるほどの怪我を一体どうして負ったのだろう。たまらず嗚咽を漏らす。咳き込むように尋ねた。
「な、何が、あったんですか?」
悦子の問いかけに、東条ユキは表情を曇らせ、
「ちょっと……」
と入口の扉を指差して目配せをする。二人は静かに待合室を出た。廊下の隅でユキが言う。
「お腹を……刺されたんです」
「刺された?!」
あまりにも予想外の事態に、悦子は思わず両手で顔を覆った。
「容体については私も詳しいことは聞けてないんですけど、緊急手術ですって。それなりに危険な状態みたいで……手術が終わるまでは何とも言えないって……」
悦子が青ざめて黙り込むと、今度はユキが尋ねた。
「よくわかりましたね、この病院」
「あ、なんか、大輝のご親戚の方からお電話いただいて……」
「親戚?」
そういえば、あの電話の女性はどうやって悦子の番号を知ったのだろう、と今さら疑問を抱き、すぐに一つの可能性に思い至った。
「あ、多分、大輝の携帯の直近の着信を見たんだと……私、八時過ぎに何度かかけたので」
「でも、携帯は……」
と言いかけたまま、ユキは何か引っかかるような顔をしていたが、すぐに思い直したように続けた。
「相手の人……大輝のこと刺した人、若い女の人で……」
「東条さん、現場にいらしたんですか?」
「ええ。私が救急車を呼んで、一緒に警察も来て……大輝はその人と立ち話してたんです。私は少し離れてて内容は聞こえなかったんですけど、彼女の手に包丁みたいなものが……」
悦子は、ごくりと唾を飲み込んだ。
「彼女急に逆上して、多分自分の手首を切ろうとして……私が慌てて近寄ろうとしたら大輝が『来るな』って。その直後です、刺されたのは。彼女の方も腕に怪我をしてたのと、パニックになっちゃってて一緒に運ばれたから、この病院のどこかにいるはずですけど」
悦子は咄嗟に彼女の無事を祈った。もちろん大輝ことの方がよっぽど心配だが、大輝がこんな形で命を落とすはずがないという思いがその心配を打ち消そうとしていた。それに、もし彼女が助からないようなことがあれば、大輝は一生自分を責め続けるだろう。
「それって……例の、別れ話のせい、ですか?」
悦子がそうぽつりと呟くと、ユキは向かいの壁を見つめ、深いため息をついて言った。
「ええ、多分。それにしてもまさかこんなタイミングで……大輝も運がないですね」
「こんなタイミング?」
「その別れ話、私にしたのが昨日で、ようやく片付いていざって時に……」
「え? 東条さんにも……?」
ユキは、いぶかしむような目を悦子に向けた。
「私のこと……どこかで?」
「あ、すみません。噂で……大輝は東条さんと付き合うために断捨離してるって」
ユキは寂しげに微笑んだ。
「噂ほど当てにならないものはないですね」
「でも、今日、会ってらしたんじゃ……?」
ユキは、悦子の疑問を何となく気まずそうに受け止めた。
「残念ながら、大輝と一緒だったわけじゃないんです。彼の家の近くに隠れて待ってたんです。大輝が……好きになったかもしれない人っていうのを見てみたくて、後を尾けるつもりで。そしたら私以外にも待ち伏せしてる人がいたっていう……。私とは違う目的で」
悦子は、ユキの言葉の一つひとつをゆっくりと呑み込んだ。
「……じゃあ、本命の人がいるっていうのは、本当なんですね」
ユキはちょっと意外そうな顔をした。
「言われませんでした? 他の奴とシェアしたくない……束縛したい人ができたって。その人とちゃんと向き合ってみたいから、他の関係は全部終わりにしたいって」
本人からそう聞かされたような気分になり、「終わり」という言葉に悦子は動揺した。
「あの、私、その話はまだ……。今日、会うことになってたので。でも、こんなことになっちゃったから……」
そう口にしてから、悦子は、何か変なことを言ってしまったかと慌てた。それぐらい、ユキはショックを受けた様子で目を見開いていた。
「さっき、例の別れ話っておっしゃったから、てっきり……」
「あ、まだ、直接本人からは……」
ユキはしばらく黙って何やら考え込んでいる様子だったが、じきに再び口を開いた。
「今日、約束してたんですよね? 大輝、何か言ってませんでした?」
「何か? ああ、大事な話があるって……」
「……それだけ?」
「はい。でも、一人ずつ終わらせてるって噂を聞いた時から、覚悟はしてましたから」
「好き……ですか? 大輝のこと」
「そりゃあ、みんな……東条さんだって……」
と悦子が見やると、ユキは重たい瞬きを一つした。悦子は遠慮がちに尋ねた。
「東条さん、大輝とはもう……長かったんですよね? あの、これも噂で……」
「長いっていっても……他の人がどうなのか知りませんから」
それは悦子だって同じだ。大輝の「守秘義務」ゆえ、噂以上のことは知りようがない。
「そんな話されたぐらいで、諦めなんてつかないんじゃないですか?」
「もちろん、簡単じゃないけど……でも、よくわかりました」
「わかっ……た?」
「大輝に聞いたんです、その人のどこが『好きかもしれない』のか」
「そしたら……何て?」
ユキは、大輝の言葉を思い起こすかのように、長いこと黙って空を見つめた。
「それは……本人から聞いてください。大輝もそれを望んでるはずですから」
悦子は、今日聞くはずだったその別れ話を、必ず大輝自身から聞けるようにと祈った。
0
あなたにおすすめの小説
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
愛されないと吹っ切れたら騎士の旦那様が豹変しました
蜂蜜あやね
恋愛
隣国オデッセアから嫁いできたマリーは次期公爵レオンの妻となる。初夜は真っ暗闇の中で。
そしてその初夜以降レオンはマリーを1年半もの長い間抱くこともしなかった。
どんなに求めても無視され続ける日々についにマリーの糸はプツリと切れる。
離縁するならレオンの方から、私の方からは離縁は絶対にしない。負けたくない!
夫を諦めて吹っ切れた妻と妻のもう一つの姿に惹かれていく夫の遠回り恋愛(結婚)ストーリー
※本作には、性的行為やそれに準ずる描写、ならびに一部に性加害的・非合意的と受け取れる表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。
※ムーンライトノベルズでも投稿している同一作品です。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を
澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。
そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。
だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。
そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。
ハイスぺ幼馴染の執着過剰愛~30までに相手がいなかったら、結婚しようと言ったから~
cheeery
恋愛
パイロットのエリート幼馴染とワケあって同棲することになった私。
同棲はかれこれもう7年目。
お互いにいい人がいたら解消しようと約束しているのだけど……。
合コンは撃沈。連絡さえ来ない始末。
焦るものの、幼なじみ隼人との生活は、なんの不満もなく……っというよりも、至極の生活だった。
何かあったら話も聞いてくれるし、なぐさめてくれる。
美味しい料理に、髪を乾かしてくれたり、買い物に連れ出してくれたり……しかも家賃はいらないと受け取ってもくれない。
私……こんなに甘えっぱなしでいいのかな?
そしてわたしの30歳の誕生日。
「美羽、お誕生日おめでとう。結婚しようか」
「なに言ってるの?」
優しかったはずの隼人が豹変。
「30になってお互いに相手がいなかったら、結婚しようって美羽が言ったんだよね?」
彼の秘密を知ったら、もう逃げることは出来ない。
「絶対に逃がさないよ?」
魔性の大公の甘く淫らな執愛の檻に囚われて
アマイ
恋愛
優れた癒しの力を持つ家系に生まれながら、伯爵家当主であるクロエにはその力が発現しなかった。しかし血筋を絶やしたくない皇帝の意向により、クロエは早急に後継を作らねばならなくなった。相手を求め渋々参加した夜会で、クロエは謎めいた美貌の男・ルアと出会う。
二人は契約を交わし、割り切った体の関係を結ぶのだが――
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる