恋の駆け出し記念日 ~23歳の地味処女にやたら優しいイケメンは、誰よりも真面目なワケありプレイボーイでした~

生津直

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第5章 もう一つの卒業

68 ユキ

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 待合室に行ってみると、奥に小学生ぐらいの姉弟と祖父らしき高齢の男性。左手には文庫本を読むサラリーマン風の男性が一人。そして右手の入口近くに、不安げな表情でうつむく女性がいた。年齢は悦子より一つ二つ上だろうか。特別美人でも、目立つタイプでもない。メイクもほとんどしていない風で、長い髪を低い位置で一つに束ねている。清潔感の漂うで立ちながら、その沈んだ面持おももちのせいか、どこか影のある印象を受けた。

 彼女がふと顔を上げた。目が合うと、お互い相手が何者なのか、察しがついてしまった。女の勘というものだろうか。悦子は思い切って声をかけた。

「あの……もしかして、大輝さんの?」

 ええ、と彼女は立ち上がって会釈えしゃくした。悦子も軽く頭を下げて応える。

「あの……柿村悦子と申します」

「東条ユキです」

(東条……この人が……)

 デモランジュの常連衆が、大輝の本命の最有力候補として挙げた名だ。しかし、今はそんなことを言っている場合ではない。

「あの……大輝は?」

「先ほど……手術室に入ったところです」

「しゅっ……」

 悦子は言葉を失った。手術が必要になるほどの怪我を一体どうして負ったのだろう。たまらず嗚咽おえつを漏らす。咳き込むように尋ねた。

「な、何が、あったんですか?」

 悦子の問いかけに、東条ユキは表情を曇らせ、

「ちょっと……」

と入口の扉を指差して目配せをする。二人は静かに待合室を出た。廊下の隅でユキが言う。

「お腹を……刺されたんです」

「刺された?!」

 あまりにも予想外の事態に、悦子は思わず両手で顔を覆った。

「容体については私も詳しいことは聞けてないんですけど、緊急手術ですって。それなりに危険な状態みたいで……手術が終わるまでは何とも言えないって……」

 悦子が青ざめて黙り込むと、今度はユキが尋ねた。

「よくわかりましたね、この病院」

「あ、なんか、大輝のご親戚の方からお電話いただいて……」

「親戚?」

 そういえば、あの電話の女性はどうやって悦子の番号を知ったのだろう、と今さら疑問を抱き、すぐに一つの可能性に思い至った。

「あ、多分、大輝の携帯の直近の着信を見たんだと……私、八時過ぎに何度かかけたので」

「でも、携帯は……」

と言いかけたまま、ユキは何か引っかかるような顔をしていたが、すぐに思い直したように続けた。

「相手の人……大輝のこと刺した人、若い女の人で……」

「東条さん、現場にいらしたんですか?」

「ええ。私が救急車を呼んで、一緒に警察も来て……大輝はその人と立ち話してたんです。私は少し離れてて内容は聞こえなかったんですけど、彼女の手に包丁みたいなものが……」

 悦子は、ごくりと唾を飲み込んだ。

「彼女急に逆上して、多分自分の手首を切ろうとして……私が慌てて近寄ろうとしたら大輝が『来るな』って。その直後です、刺されたのは。彼女の方も腕に怪我をしてたのと、パニックになっちゃってて一緒に運ばれたから、この病院のどこかにいるはずですけど」

 悦子は咄嗟とっさに彼女の無事を祈った。もちろん大輝ことの方がよっぽど心配だが、大輝がこんな形で命を落とすはずがないという思いがその心配を打ち消そうとしていた。それに、もし彼女が助からないようなことがあれば、大輝は一生自分を責め続けるだろう。

「それって……例の、別れ話のせい、ですか?」

 悦子がそうぽつりと呟くと、ユキは向かいの壁を見つめ、深いため息をついて言った。

「ええ、多分。それにしてもまさかこんなタイミングで……大輝も運がないですね」

「こんなタイミング?」

「その別れ話、私にしたのが昨日で、ようやく片付いていざって時に……」

「え? 東条さんにも……?」

 ユキは、いぶかしむような目を悦子に向けた。

「私のこと……どこかで?」

「あ、すみません。噂で……大輝は東条さんと付き合うために断捨離してるって」

 ユキは寂しげに微笑んだ。

「噂ほど当てにならないものはないですね」

「でも、今日、会ってらしたんじゃ……?」

 ユキは、悦子の疑問を何となく気まずそうに受け止めた。

「残念ながら、大輝と一緒だったわけじゃないんです。彼の家の近くに隠れて待ってたんです。大輝が……好きになった人っていうのを見てみたくて、後を尾けるつもりで。そしたら私以外にも待ち伏せしてる人がいたっていう……。私とは違う目的で」

 悦子は、ユキの言葉の一つひとつをゆっくりと呑み込んだ。

「……じゃあ、本命の人がいるっていうのは、本当なんですね」

 ユキはちょっと意外そうな顔をした。

「言われませんでした? 他の奴とシェアしたくない……束縛したい人ができたって。その人とちゃんと向き合ってみたいから、他の関係は全部終わりにしたいって」

 本人からそう聞かされたような気分になり、「終わり」という言葉に悦子は動揺した。

「あの、私、その話はまだ……。今日、会うことになってたので。でも、こんなことになっちゃったから……」

 そう口にしてから、悦子は、何か変なことを言ってしまったかと慌てた。それぐらい、ユキはショックを受けた様子で目を見開いていた。

「さっき、別れ話っておっしゃったから、てっきり……」

「あ、まだ、直接本人からは……」

 ユキはしばらく黙って何やら考え込んでいる様子だったが、じきに再び口を開いた。

「今日、約束してたんですよね? 大輝、何か言ってませんでした?」

「何か? ああ、大事な話があるって……」

「……それだけ?」

「はい。でも、一人ずつ終わらせてるって噂を聞いた時から、覚悟はしてましたから」

「好き……ですか? 大輝のこと」

「そりゃあ、みんな……東条さんだって……」

と悦子が見やると、ユキは重たいまばたきを一つした。悦子は遠慮がちに尋ねた。

「東条さん、大輝とはもう……長かったんですよね? あの、これも噂で……」

「長いっていっても……他の人がどうなのか知りませんから」

 それは悦子だって同じだ。大輝の「守秘義務」ゆえ、噂以上のことは知りようがない。

「そんな話されたぐらいで、諦めなんてつかないんじゃないですか?」

「もちろん、簡単じゃないけど……でも、よくわかりました」

「わかっ……た?」

「大輝に聞いたんです、その人のどこが『好きかもしれない』のか」

「そしたら……何て?」

 ユキは、大輝の言葉を思い起こすかのように、長いこと黙ってくうを見つめた。

「それは……本人から聞いてください。大輝もそれを望んでるはずですから」

 悦子は、今日聞くはずだったその別れ話を、必ず大輝自身から聞けるようにと祈った。
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