恋の駆け出し記念日 ~23歳の地味処女にやたら優しいイケメンは、誰よりも真面目なワケありプレイボーイでした~

生津直

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第5章 もう一つの卒業

77 傷

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「小学校六年の時、体育のマラソンの後に具合悪くなって早退したの。帰ったら彼女は仕事に行ってるはずの時間なのに、和室の方から物音がして……やべえ誰かいる、と思って、バット持ってふすまを開けた」

 大輝は重い瞬きを一つし、唾を飲んだ。

「そしたら、畳の上に彼女がいて、その上に男が……。強盗か何かだと思ってバットで殴りつけたら……あいつだった。その後のことはよく憶えてない。気付いたら俺は自分の部屋で寝てて、口ん中ざっくり切れてて、隣で俺のパジャマを着た彼女が泣いてた。服を着てしまえば……ついさっきあんなにたくさんあったあざも傷も、どれ一つ見えなかった」

 悦子は吐き気を催し、そっと深呼吸した。

「俺はその前から離婚しろって言い続けてたけど、その日以来俺まで標的になり出したもんだから彼女も真剣に離婚を考え始めたわけ。俺はあいつと顔合わせる度にわざと挑発して殴られて、自分で傷を悪化させて写真撮って、離婚調停の時に虐待の証拠として出したらそれなりに慰謝料が入ってさ。養育費も結構取れることになって。あいつ、実家から出たらなおさらとっとと別れたかったと思うんだよね。でも彼女には俺を育てる金がなかった。彼女は頼み込んで結婚を維持して、それに付け込まれて奴の慰安婦になってたんだと思う」

 悦子はショックに震える体をなだめるのに必死だった。大輝は一つ深呼吸して続けた。

「強姦まがいの現場を俺が目撃したことで、彼女の被害の程度が発覚して、俺がやっつけられて、最終的には離婚に繋がったわけなんだけど……それには一つ副作用があった」

(副作用……)

「その瞬間はさすがにそういう目で見たわけじゃなかったんだけど……まあ多分アドレナリンが出まくった状態で彼女の裸体を見てしまったせいで、おかしくなったというか……」

 大輝は長いこと地面を見つめていた。やがて悦子の手を取り上げ、そこにひたいを預けた。片方の手が両の目頭をぎゅっとつまんだ。その手の影の中で滴が一つ、乾いた肌を伝っていった。腹の傷をはるかにしのぐ痛みが、彼の過去から噴き出してくるようだった。

「サユリを抱いてみたいと思った」

 大輝の声なき慟哭どうこくが天を突く。

「俺の身長がギリギリ彼女を超えた頃……。俺は未だに、あれ以上の罪悪感を知らない」

 震える呼吸の隙間から、言葉が絞り出された。

「自分で処理しようと思うと、いちいち彼女の姿が浮かんでしまう。一体どんな顔をしてどんな声を出すんだろう、どんな味がするんだろうって。そんなことを考えてしまう自分が汚らわしくて、憎くて仕方なかった。俺にも流れてんだなと思った。あの男と同じ血が」

 あの男……。生物学上は大輝の父親にあたる男。大輝がいつか、「あんなクソみたいな奴」と呼んだ男だ。

「でも……死なないことは彼女との約束だった。何があっても、お互い最後までちゃんと生きるって。二人暮らしを始めた頃、よくそんな話をしてた。今思えば、彼女はきっと自分に言い聞かせて……」

 眉間でこぶしを握る大輝を、悦子は直視できなかった。少年の繊細な心を傷め付けた残酷な青春時代が姿を現しかけていた。円形脱毛症になり、死にたくなるほどの多大なストレスの原因は父親からの暴力ではない。その陰にあった、行き場のない、許されない、大輝自身の激しい恋心だ。そして、そこにふんだんに燃料を注いだ、たぎるような十代の性欲。

「道端に咲いてる花すらもエロく見えるような時期にそんな爆弾を抱えてしまって……俺はとにかく用事を作って、そっち方面を考える暇がないようにした。部活とか、生徒会とか、思い付くこと全部やって」

 クリリンが言っていたのがおそらくその頃のことだろう。

「でも中三の秋には代替わりで暇になっちゃってさ。もちろん受験勉強はあったけど、一人でじっとしてることは一番の毒だった。そんな時に体がどんどんでかくなって、勝手に力が付いてきて、頭でどうにかできるキャパを超えてしまって、ついに俺は全然関係ない生身の女に手を出した。年末に年齢を偽って行った怪しいパーティーで。お互い酔っ払って」

 つまりそれが大輝の初体験だ。

「結局、その方法でとりあえずしのげるっていうか、何とか自分を肯定できそうだってことに気付いて、でも一人じゃとても追いつかなくて、二週間の間に俺は四股をかけた。その後はもう数えてもいない。一人に絞る気はないって予め宣言するようになったのは、高校入ってからの話」

 周りが恋愛もどきの淡い惚れた腫れたに一喜一憂している頃には、すでに若きドン・ファンが誕生していたのだ。峰岸大輝の割り切った遊びの歴史は、悦子の漠然とした想像以上に長いものだった。

「サユリとは……これからどうするか考えなきゃならなかった。それは、俺にとっては彼女と果たして一緒になれる可能性があるのかっていう問題で、彼女にとっては、この息子と普通に親子としてやっていけるのかどうか、だった。彼女は自分の結論を俺には言わずに実行に移した。それがあと一歩遅かったら、俺はマジで気が狂ってたかもしれない。でも……俺よりもっと気が狂いそうなのは彼女の方だったろうな。そんな簡単なことも、その頃の俺にはわかってなかった」

(彼女こそ、大輝が一番深く傷付けてしまった相手……)

 悦子はようやく理解した。大輝がいつか、「勝手に本気になって勝手に傷付いた人の比じゃない」と言った意味を。

「彼女がいなくなった翌日に、いきなりお坊さんから電話があってさ。彼女が昔世話になった人だったらしくて、何か困ったことがあったら電話しなさいって番号くれて。それと、彼女からの伝言。生活費は二十歳になるまで毎月振り込んでくれるってことと、高校だけは必ず卒業しろ、大学に行くのかどうか知らせてこいっていう指令。それから……俺の結婚式に呼んでくれって」

(大輝の結婚式に……)

「新郎の母親として……。それが彼女の夢。多分、今でも」

 悦子が大輝の恋人なのではないかと期待したサユリの表情を、悦子は忘れられない。

「その日まで会うつもりはないってさ。それがつまり、事実上の勘当」

 彼女は大輝を捨てたのではない。逃げ出したのでもない。大輝に時間を与えたのだ。それは大輝にも痛いほどわかっているはずだ。

「俺はその番号に二回だけ電話した。一つは高校卒業の報告。そん時に大学には行かないって話もして……もう一つは、何年か経って収入に少し余裕ができた時。もし困ってるなら援助するよって。まあ、案の定返事はなかったけど」

 大輝がその番号に、三度目の電話をかける日は来るのだろうか。
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