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棲みつく鬼胎

奇禍④

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余りに衝動的な振舞いだっただけに、小碓もやってしまった後のことまでは、さすがに気が回っていなかった。


ほんの僅かでも考える余地があったのなら、こうなることは容易に予測できたはずだ。

少なくとも、冷静さを保ててさえいれば、こんなふうに行き詰まるような展開にはならなかっただろう。


文字通りに官吏を蹴散らしても、事を荒立てただけで何が解決するわけでもない。それはただの憂さ晴らしにしか過ぎず、事態は更に悪化したと断じざるを得なかった。


けれども、奴らの暴挙をまざまざと見せつけられて、何もせずに見て見ぬ振りを徹(とお)せたかといえば、到底できるはずもない。

後悔すべきはその手法のみで、凄惨な状況を打破することには何の迷いもなかった。


軽はずみな妄動に、ほとほと愛想が尽きる。

小碓は自らをそう嘲笑って、思わずため息をついた。これからの進展を慮(おもんばか)ると、どうしたって気が重くなる。


まず、意識を取り戻した官吏が怒り狂うことは想像するに容易い。

住人たちへの横暴も一層過酷さを増すだろうし、当事者である小碓には殊更(ことさら)な報復が待ち受けているに違いない。


我が身一つだけで遁走するのであれば、さほど難しいことはない。今すぐにでも山中に飛び込んで、ほとぼりが冷めるまで雲隠れしておけば済む話だ。

しかしながら、それでは後に残された小宇迦や住人たちを見殺しにするのと同じである。


皆で窮地を脱するにはどうしたものか。

小碓が賢くもない頭を悩ませて、色々と思案に暮れていたところ、足音を立てることもなく背後から手のひらが肩に触れた。


小碓は驚愕するのと同時に戦慄を覚えた。

もしも、これが衛兵のものであったなら、次の瞬間には串刺しにされていたとしてもおかしくなどない。それからは呼吸も儘(まま)ならず、腹を括(くく)ってそのときを待つことしかできなかった。 


だが、幾ら待ってみても痛みを感じることはない。刺される瞬間を待ち侘びるというのも案外苦しいものだ。


遂には小碓も焦れったくなり、意を決して振り返ってみる。すると、そこには衛兵ではなく小宇迦の姿があった。


官吏の嗜虐によって生じたのだろう。その顔には青あざや裂傷が幾つかあり、口唇からは鮮血が滴っている。


小碓はほっと安堵したのも束の間だった。余りにも痛ましい姿を目にして、図らずも眉をひそめていた。

それでも、小宇迦は彼らしい頑健な眼差しを少しも損なうことなく、毅然とした佇まいで立ち上がっている。


「大丈夫なのか」


正体を知られてもいないというのに、咄嗟に口を突いて出た言葉がそれだった。そして、生傷だらけの身体を支える為に自然と肩を貸そうとする。


小宇迦は邪魔臭いとばかりに小碓を強烈に突き飛ばして、


「何のつもりだ!」と、彼の表情はまさに怒髪天を衝くかのようだ。


「まさか、まだつけていたとはな」


「な、何のことだよ」


小碓も駄目もとで、一度はわざとらしく惚けてみたものの、


「しらばっくれるな!」と、食い気味に怒鳴られる始末だ。


その口振りから察するに、すでに小碓の素性に気づいているらしい。


それも当然のことで、露になった服装も然ることながら、声色や体格まではさすがに誤魔化しようがなかった。


顔を布で覆って隠していたとしても、先ほどまで一緒だった小宇迦からすれは一目瞭然で、付け焼刃の小細工は何の意味も為していなかった。


「お前にだけは見られたくなかった」


心の奥底から捻り出したような声は、様々な感情を帯びて微かにうち震えていた。憤りはもちろんのこと、悔しさや惨めといった思いも複雑に絡み合っている。


はらわたが煮えくり返るほどに情けなくて、小宇迦がそのように呟いてしまうのも致し方ないのかもしれない。


この境遇に貶(おとし)めたのは、他でもなく目の前にいる小碓の父親だ。


更に、朝廷は生かさず殺さずといった生活を強(し)いることで、住人たちから感情と思考力を奪っていった。

それはつまり、畿内を統治していた一族の矜持(きょうじ)や、自尊心を失わせることに繋がる。


集落の住人たちにあるものといえば、その日をどうにか生き抜くことと、少しでも苦痛を和らげることだけだ。


まさに、生きる屍(しかばね)と化していた。いや、巧妙に仕向けられたのである。ヤマト王権の支障とならない為に。


小碓はそれを知ってか知らずか、住人たちに要らぬ情けをかけて、あまつさえ憐憫の情すら抱いている。

こんな馬鹿げた話が他にあるだろうか。虐げる者の憐みなど、小宇迦にとっては屈辱以外の何ものでもなかった。


「そんなに俺を卑(いや)しめて愉しいのか!」


「卑しめるだって?」


小碓には何のことだか皆目見当もつかなかった。

怪訝な面持ちで首を傾げていると、小宇迦は苦痛で顔を歪めながらも、眼光には遣り切れない口惜しさを滲ませた。


「地面を這いずる虫けらの気持ちなんて、お前には一生かかっても分からない」


「誰が虫けらだって言うんだ?」


打てば鳴るような早さで訊き返すが、小宇迦の感情を逆撫でするだけで、これといった明確な答えは返ってこなかった。




 ややあって、小碓は一つ息を吐き出して、真摯な眼差しを小宇迦へとくべた。


「お前は『大穴持(おおあなむぢ)』の仲間だ。それ以上でもそれ以下でもないさ」


小石を持ち上げるくらいの手軽さでそう言って、更に続けるには、


「だってそうだろう。因縁めいたことが遠い過去にあったとしても、俺やオウカに何の関係があるっていうんだ」と、何ともあっけらかんとした口振りで、実に他愛もなく言ってのけた。


小宇迦にとってみれば、それは余りにも思いがけない言葉だった。


溌剌(はつらつ)とした表情から察するに、この場を取り繕う為だけに出任せを言ったようにも思えないし、かといって、それを本心だと受け容れるにはどうしても抵抗があった。


これまでの経緯を考慮すると、二人は当然のように憎み合うべき間柄である。少なくとも、小宇迦はそうして生きてきた。


仮に、彼の父親が大王を退けてさえいれば、二人の運命は今と大きく異なっていた。

小碓が易々と手放そうとしているものは、本来であれば小宇迦が手にするはずだった。


尊敬して止まない偉大な父親。優しく麗(うるわ)しい母親。物資が途切れることのない穏やかな宮城に、最先端の知識や技術だって集まる。


そこでは満ち足りるような生活が営まれていて、薄暗い山中での暮らしとは全く違った、本当に素晴らしい日々を送っていたことだろう。




ただの逆恨みなのだとは分かっていた。

東征の後に産まれた小碓には、何一つ罪がないということも。それでも、小碓の奔放な姿を見る度に、何時もどす黒い感情が渦巻いていた。


妬(ねた)みや嫉(そね)み、憤りに悔しさ。

小碓が宮城から飛び出したと知ったときには、資格のない人間が居座るからだと、愚行を嘲笑して快味に浸ったこともあった。それで自分自身が報われることもないのに。


「関係ないはずがないだろう」


 自らの狭量さに嫌悪感を抱きながらも、真摯な面持ちで端的にそう言った。

すると、それを聞いた小碓は、馬鹿なことを言うなとばかりに笑い出して「いや、それはないから」と、やや呆れ顔で首を振ってみせた。


「どうしてそう言い切れる?」


「簡単な話さ。俺は親父(おやじ)と似ても似つかないし、オウカだって父親の身代わりなんかじゃない。だから、過去に捉われる必要なんてないんだよ」


わざわざ口にしなくても分かり切ったことだったが、言い得て妙というべきか、その言葉は不思議と心地良く響いた。


小宇迦も胸に風穴を開けられたような気がして、何も考えられずに呆然と立ち尽くすことしかできなかった。

過去に捉われることはない。そう言ってくれたひとは、今までに誰一人としていなかった。


顔すら覚えていない父親の遺志を継ぐこと。生き残った者の追憶に寄り添うこと。そして、大王やその配下、息子の小碓を忌み嫌う感情ですら、その全ては二度とは取り戻せない過去から端を発している。


小宇迦の人生は夢想の中に埋没していた。そのことにふと気がついたのである。


「これから先は俺とオウカで築き上げていけばいいんだ」


小碓は一呼吸おいてから、心のままに素直な気持ちを打ち明けた。


「俺が恨んでいるとしてもか?」


当てつけのような質問に、小碓は照れ臭そうに項(うなじ)の辺りを掻いて、


「無理にとは言わないけど」と、何とも複雑そうな面持ちで苦笑する。


その顔つきで笑いを誘われたのか、小宇迦は吹き出したように相好を崩すと、まんざらでもなさそうな微笑を綻ばせた。


それほど長い付き合いではないが、小宇迦の屈託のない笑顔を初めて目にして、小碓はようやく認めてもらえたような気がした。それが変に嬉しくて、自然と頬が緩んでしまう。




 そのとき、不意に耳を塞ぎたくなるような奇声が周囲に木霊する。金物を引き裂くときのような、それはもう凄まじい絶叫だった。


小碓と小宇迦は揃えたように目を丸くして振り向いたところ、そこには鼻血で顔中を朱に染めた官吏が、両脇を衛兵に支えられて起き上がっていた。




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