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棲みつく鬼胎

奇禍⑥

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 剥(はぎ)ぎ取られた布は、火災の上昇気流に乗って何処までも舞い上がる。

そして、凛々しい容貌を目にした官吏は、見覚えのあるその顔つきに、俄か(にわ)に表情を曇らせた。


「父上は随分と惨たらしい沙汰を命じているんだな」


小碓は厳しい面持ちでそう言い、なおも続けて、


「それとも、これはお前の勝手な判断か?」と、憤りを表すように声を低めて訊いた。


周囲を取り巻く衛兵たちの中でも、あからさまに動揺が走った。


年嵩(としかさ)の者は概(おおむ)ね気づいたようだが、若い者は確信まで得られずに半信半疑の者もいれば、その正体に全く気づかない者もいる。


「あれはやはり小碓の君では?」

「そうだとしても、どうしてこのようなところに……」

「それはともかく、俺たちのやっていたことをご覧になられていたのではないか」


そういったことを口々に囁きながら、彼らの高圧的な態度は一変して騒然となった。

それとは対照的に、見覚えのない若者が出てきたことで、集落の住人たちは未だに事態を掴めずにいる。


「一体何が起こっているんだ」

「それにしたところで、明らかに奴らの様子が変だぞ」

「あいつは一体何者なんだ。小宇迦さまとは面識があるようだが……」


集落を吹き抜ける風が草木を靡(なび)かせるように、小碓の登場はその場にいた者たちの心を一往にざわつかせる存在となった。


「まだ動ける者は火を消すんだ。このままだと丘陵一帯が火の海となるぞ!」


小碓が声を張り上げて指示を出すと、住人たちの視線は自ずと小宇迦の許へと集まった。


「あいつの言う通りだ。俺たちの手で故郷を守れ!」


その一喝で、住人たちはようやく抑圧から解き放たれて、各々が思い思いに行動へと移していく。熟達した老人たちの指揮に従って、誰もが的確な動きをみせる。


「何を勝手な真似を!」


それを阻もうと、若い衛兵がいきり立って槍を振り上げるが、すぐに他の衛兵が遮って手出しさせなかった。


「若君の御前だ。余計なことをするな」


中年の衛兵が顔を強張らせてそう言えば、若い衛兵は困惑したように眉根に皺(よせ)を寄せる。


「若君とは?」


彼の質問に対して、中年の衛兵は険しい面持ちで「主上(しゅじょう)の御子だ」と端的に告げる。


若い衛兵はそれで全てを察したのか、瞬く間に顔を青ざめさせると、怯えたような眼差しで小碓の方を見遣った。


「そ、それでは、此処での沙汰が主上に筒抜けとなるのでは?」


「それはまだ分からん。御子は主上と折り合いが悪く、今は市街でお暮らしだと聞き及んでいる」


若い衛兵はそれを聞くと、ひとまず安堵のため息をついた。それから視線を先輩の衛兵へと戻すと、


「その小碓の君とは、確か愚鈍として名が知れている御方では?」

そう怪訝な面持ちで訊ねた。

そして、そんな男を畏れる必要があるのか。と、問いたげな顔つきで首を傾げてみせる。


「今はなりゆきに任せるしかあるまい」


その言葉が示すように、小碓と官吏は双方ともに視線を外すことなく並び立っている。

一人は気合を漲(みなぎ)らせて毅然と向き合い、もう一人はどこか余裕をもった表情で悠然と立ち合う。


「これは小碓の君。このようなところでお目にかかろうとは。ご無礼につきましては平(ひら)にご容赦を」


官吏は少しも悪びれる素振りもみせず、平然と微笑を絶やさぬまま、形だけは慇懃(いんぎん)に首を垂れてそう言った。


しかし、胸中では小碓のことなど全く歯牙にもかけていないのだろう。形式ばった伏し目からは、どこか嘲弄するような雰囲気が見て取れた。


「それに致しましても、惨たらしい沙汰とは聞き捨てなりませぬな」


少しばかり間を置いて、官吏は頭を上げながらゆったりとした口調で続けた。


「貴方さまもご覧になられていたかと思いますが、この下賤な者どもは主上の代理である私に盾突いたのです」


更に諭すように続けて、

「これは主上の権威にも関わる由々(ゆゆ)しき問題。民どもに示しをつける為にも、厳正な処罰も時に必要かと存じます」と、自分たちを正当化するかのように、公然と言ってのけた。


「民衆を虐げておいて何が権威だ!」


小碓はその高慢な態度も然ることながら、まるで子供を言い包めるかのような口振りがどうにも癪(しゃく)に障り、思わず怒気を露にして一喝した。


「お前たちが恩賞を横領しようとしたり、オウカや母親を辱しめたりしなければ、彼らだって手向かうことはなかったはずじゃないのか!」


そのように感情に任せて怒鳴り散らしたあと、気持ちを落ち着かせるように一息ついて、


「集落の人たちは大王に抗っているんじゃない。お前のように朝廷の威を借りて、あくどい真似をする下衆な役人に憤っているんだ」と、至極真っ当な意見を口にした。


 それから程なくして、唐突に薄気味悪い笑声が滞っていた沈黙を打ち破る。


「下衆な役人、ですか……」


官吏は独り言のようにそう呟くと、それと同時に目を見開いて穿(うが)った笑みを覗かせた。


「それは奴らも以前に行ってきたこと。身から出た錆(さび)とでも言うのでしょう」


ぼそぼそと呟くように言って、その狂気染みた視線を消火に追われている住人たちへと向けた。


「畿内を治めていたといっても、実際は民衆を力ずくで抑え込んでいただけ。私たちは重い租税に喘(あえ)ぎ苦しみ、奴らの栄華を眺めていることしかできなかった」


官吏の言う『奴ら』とは何者なのか。怪訝な面持ちで耳を傾けていた小碓には、何に対して言っているのかも理解できていなかった。


それを見て取ったのか、官吏はくつくつと肩を震わせて笑い、侮蔑(ぶべつ)するような眼差しで小碓を捉えていた。


「まったく。物分かりの悪い御子さまは世間を知らな過ぎますな」


嘆息を交えてそう言ったあと、尚も非難を続ける。


「無頼の輩と徒党を組み、毎日のように酒を呷っては女に感(かま)けて遊び呆けておられる。そのように愚鈍なお方が、何を息巻いて仰(おっしゃ)っておられるのやら」


「今回のこととは何の関係ないだろう!」


小碓がむきになって打てば鳴るような早さで言い返せば、官吏は指先で口鬚を扱きながら、やれやれといった面持ちでため息をつく。


「まだ分からないのですか。貴方がここで何をしようとも、私にとっては何の妨(さまた)げにもならないのですよ」


「お前たちの度重なる悪事を、父上に洗いざらい伝えると言ってもか?」


父親の名前を持ち出すことに少なからず抵抗はあったが、それで事態が収束するのならと、小碓は毅然とした態度で真っ向から脅しをかけた。


それはまさしく最期の切り札のようなもので、居丈高な官吏も大王を意識するとなれば、さすがに尻込みして然(しか)るべきだと思っていた。

ところが、官吏の反応はそんな安直な考えとは全く相反するものだった。


「実に、面白いことを仰られる」


官吏は笑いを堪えるようにそう言ったあと、遂には吹き出して呵呵大笑する。


「主上が御子さまの言うことを、真に受けるとでも思っているのですか?」


余りにも馬鹿馬鹿しいとばかりに訊ねて、


「教養もなければ、これといった実績もない。遂には宮城を追われた貴方を、誰が信用するというのでしょう」と、これみよがしに問い詰める。


「それは……」


それが全くの正論だっただけに、小碓は返す言葉も見つからずに口を噤んでしまった。

官吏の言うように、市街で放蕩に耽(ふけ)るような愚息の言い分を、大王が容易に聞き入れてくれるかといえば、その自信はまるでなかった。


無知蒙昧(むちもうまい)のならず者よりも、曲がりなりにも国に従事する役人とを比較して、どちらの弁に信頼をおくかなど敢えて語るまでもない。




 完全に形勢は決した。

いや、許より官吏を論破できるだけの能力を持ち合わせていないのだから、当然といえば当然の結果といって他ならない。


「さあ、ご理解頂けたのなら、早々にお立ち退き下され。そもそも、此処は貴方さまのような高貴な御方が、足を踏み入れて良いような所ではございませぬ」


「そうはいくものか。お前たちが立ち去るまでは、俺も此処を離れる気はない!」


それはもう理屈抜きの考えなしで、子供のように駄々を捏(こ)ねているだけに過ぎなかった。


その発言がどんなに愚かしく滑稽であるかを、小碓も十分に承知の上だった。しかしながら、それ以外に手立てがないこともまた事実なのである。


正直なところ、大王の子という身許さえ明かしてしまえば、この場はどうにか収めることができると安易に考えていた。


それがどうだ。官吏は小碓など許より眼中にないといった様子で、全く取りつく島もないではないか。

反対に、日頃の行いを咎(とが)められ、不出来さを罵(ののし)られる始末。もはや立つ瀬もなかった。


すると、官吏は呆れたように苦笑して、頭を抱えながら首を小さく振った。


「何と青臭いことを申されるのか。このように愚鈍な小童(こわっぱ)が御子とは、臣下として全く口惜しいばかりですよ」


そうして悲嘆するような言葉を聞いた衛兵からも、嘲笑や失笑、また嘆息などが漏れ聞こえてくる。

けれど、立ち尽くしたままの小碓には、どうすることも適わなかった。それが紛れもない真実であると、自分自身で思い込んでいるのだから。


「もういい。お前は白檮原(かしはら)に戻れ!」




 小碓がどうしようもなくなったとき、唐突に小宇迦の叫び声が響き渡った。

彼の傍らには負傷した老母の姿もあり、すでに集落の女性たちから手当てを受けていた。


どうやら、小碓と官吏が言い争っているうちに、機敏な息子によって救い出されていたようだ。そのお手並みにはつくづく感心させられる。


「これは俺たちの問題だ。お前に迷惑をかけるつもりはない」


小宇迦は先ほどとは異なり、柔らかい口調でそう言って、ゆったりとした足取りで此方へと向かってくる。

彼の左手は腰の剣に添えられていて、その表情は異様なほど優しく穏やかだった。


「馬鹿な真似はよせ!」


小碓も覚悟のほどを察したのか、弾かれたように声を張り上げる。


「朝廷の役人を殺めたらどうなるか。お前も知らないわけじゃないだろう」


徐々に近づいてくる小宇迦に、小碓はそのように叫んで手のひらを差し向ける。それでも足取りが止まることはない。


「ああ、知っているさ」と、小宇迦は平然と受け答える。


「罪科はお前だけでは済まされない。親兄弟はもちろんのこと、一族郎党に至るまで死罪となるんだぞ」


「覚悟の上だ」


小宇迦の返答はいつも明快で揺るぎない。

それが何とも切なく思わせた。火災を消し止めるときの煙なのだろうが、その小柄な身体に薄墨色の靄(もや)がかかって見える。


誰一人として助けられない自分の不甲斐なさと、思い通りにならない世の中の不条理に対して、どうにも憤慨せずにはいられなかった。


激情が行き過ぎてなのか、小碓は自分でも思いがけないような行動に出てしまう。

おもむろに両膝を屈して跪(ひざまず)くと、額を何度も泥土に押しつけながら叩頭したのだ。




「どうかこの通りだ。彼らを見逃してやってくれないか」


それが余りにも突拍子もない振舞いだっただけに、官吏や衛兵のみに限らず、その場にいた誰もが暫くの間は呆気に取られた。


 どれくらい時間が経ったのか。程なくして官吏のくつくつという笑声が不気味に木霊し、次いで衛兵たちの笑声が辺りに響き渡った。


「あの偉大なる大王の子が、私ごとき下っ端に媚(こ)びへつらっておる。なんと愉快痛快なことか!」


官吏は憚(はばか)ることなく声高に叫ぶと、歓喜ここに極まるとばかりに大笑した。

それから跪く小碓を蔑視しながら、如何にも得意満面の笑みで口髭を摘んでいる。


「しかし、解(げ)せませんな。下々の民衆など、所詮は大王の所有物。それにも劣る畜生同然の奴婢(ぬひ)の為に、何故そこまでするのか……」


呆れたようにため息を交えてぼやく官吏を、小碓は真っ直ぐな眼差しで仰視する。


「奴婢だろうが何だろうが、オウカは俺たちの仲間であることには違いない」


それを聞くや否や、官吏や衛兵たちは可笑しさを堪え切れずに抱腹絶倒する。


「実に下らない」や「馬鹿馬鹿しい」といった声が飛び交う中、少し離れた所で聞いていた小宇迦は、無様に蹲(うずくま)る御子を一瞥(いちべつ)して、小碓よりも悔しさを奥歯で噛みしめていた。




「良い機会です。教えて差し上げましょう」


官吏は穿った笑みを湛えてそう言うと、近くにあった木製の鍬(くわ)を手に取り、おもむろに住人たちが身を寄せていた場所へと近づいていく。


「奇麗事では何も為せませぬ。現世(うつしよ)では力こそが全てなのです!」


声高に叫んで両腕を振り上げたかと思えば、前列にいた老人を躊躇することなく殴打した。


ひどく鈍い物音がして、打たれた老人は敢えなく白目を剥いて横たわる。頭部からは鮮血が溢れ出し、手足は引きつったように痙攣(けいれん)している。


「しかしながら、こやつ等は愚かにも私に歯向かい、ひいては主上に盾突いたのです。もはや生き長らえる意味などありますまい」


唖然とする小碓を余所に、官吏は狂ったように高笑いを響かせながら、恐れおののく住人たちに暴虐の限りを尽くす。


「私をもっと愉しませてくれ。今度は貴様らが地面を這いずり回る番だ!」


まさに、その光景は正気の沙汰ではなかった。


「止めろ!」という小宇迦の喚声は微塵にも届かず、衛兵たちもそれに倣(なら)って再び嗜虐し始める。


小宇迦の手は自ずと剣の束を握り締めた。そして、意識することなく颯爽と駆け出している。


立ち塞がろうとする衛兵を軽快に潜り抜けていき、すらりと白銀の刀身を引き抜く。その目に映るのは、自分の民を無下に虐げる鬼畜のみである。




ところが、小宇迦がそこにたどり着くよりも前に、その眼前を覆うように深紅の鮮血が噴き出して舞い散った。


それから、声ともならない叫喚が木霊して、むせ返るような臭いが鼻をつく。

小宇迦はそれに随分と慣れ親しんでいて、異変に気づくまでに少しばかり時間を要した。


細身の肢体を血染めの刃が見事に貫いている。官吏の口から鮮血が吹き出し、呻るような声が三拍ほど続く。


肉を引き裂く生々しい物音がして、白金の閃光を放っていた刀身が引き抜かれる。すると、串刺しとなっていた官吏はその場に力なく倒れ込んだ。


そんな事態に直面していた小宇迦は、返り血を浴びて朱色に染まった小碓の顔を見遣った。

その表情は意外と平然としたもので、未だに眉をしかめて憤懣を露にしている。




「これでいい。こんな奴は死んで当然だ」


そのように呟いた小碓の横顔を、澄んだ月明かりが照らしつける。

手に携えた刀身を鮮血が滴り、冷やかな青光と相まって何とも美しい光景であった。



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