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棲みつく鬼胎

月に照らされて⑤

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 沼河別(ぬまかわわけ)の率いる一軍は、街道を抜けて白檮原(かしはら)の宮城へと向かう。


物々しい騒音に何かあったのではないかと、市街地の民衆が次々と家を飛び出してきて、大路は夜更けだというのに随分と人だかりができていた。

その中には石健彦(いわたけひこ)や久須波(くすは)たちの姿もあった。


『大穴持(おおあなむぢ)』の面々は、酒戸を飛び出した小宇迦(おうか)と小碓(おうす)を探していたところで、白檮原に帰還した軍勢と出くわしたようである。


「こうなっちまったら、あいつらを探すのも一苦労だな」


思いも寄らず人混みに巻き込まれて、石健が頭髪を掻き毟りながらぼやくと、久須波も苦笑を浮かべて同調するように頷いてみせた。


そのとき、野次馬に紛れていた一人が、唐突に素っ頓狂な喚声を発する。


「お、おい。あれって!」


その男がおもむろに指を差した先、縄に繋がれて連行されている青年の姿が目に飛び込んできた。


臙脂(えんじ)の衣に瑠璃(るり)の頸珠(くびたま)。遠目でもそれが小碓だということは、彼を知る者であれば誰でも分かる。


篝火(かがりび)に照らし出された彼の表情は、いつになく憔悴したような様子で、その足取りも覚束ないようにふらついていた。



「なんであいつが?」


誰に訊いた訳でもない石健の問いかけに、久須波も当惑を隠し切れずに「そんなの知るかよ」と、吐き棄てるように答える。


すると、何を思ったのか、石健は大きな図体で勢いよく人混みを掻き分けていき、大路の前列まで進み出る。

それから少しばかり息を吸い込んだかと思えば、


「おおい、そんなところで何をやってんだよ、オウ……」と、そこまで言いかけたところで、あとについてきた久須波が慌ててその口を塞いだ。


「馬鹿なのか! わざわざオウスだと知らせるつもりか!」


囁くような声でありながらも、久須波は眉を吊り上げて叱咤する。


そう言われるともっともな話で、御子の小碓が連行されていることを大っぴらにする必要はない。

そのことを民衆が知れば、今以上に騒がしくなることは想像するに容易い。


ただ、無駄に大きな濁声が小碓の耳にも届いたのか、急に顔を上げて左右を見回し始める。

そして遂には、野次馬の中に石健と久須波を見つけ出すと、彼らしい屈託のない笑顔を無理にでも覗かせてみせた。


「すまない。オウカのことを頼んだぞ!」


それが小碓の言い残した最後の伝言だった。その姿は屈強な将兵に囲まれたまま、すぐに見えなくなってしまう。


小宇迦を頼むと言われたところで、石健や久須波には何のことだか皆目検討もつかない。

二人が怪訝な面持ちで顔を見合わせていると、大きな影がその前をふっと横切った。


立派な白馬に跨(またが)り、金色の冑(かぶと)は見るに美しく、鮮やかな花浅葱(はなあさぎ)の外套(がいとう)が風にはためけば、鉄(くろがね)の挂甲(けいこう)が灯火で煌いた。


それを目にした民衆から歓声が沸き起こり、皆は口々に「沼河別命(ぬまかわわけのみこと)」の名を連呼する。


それも当然のことで、彼はヤマト王権が誇る四道将軍のひとり。東征の折に勇猛果敢な働きで大王を補佐したことでも勇名を馳せていたからだ。


「親父……」


その凛然とした姿を目にして、久須波は自ずとそのように口ずさんでいた。

また、沼河別も一瞬のうちだけ彼の呆然とした顔に目を落とすが、そのあとはまるで何事もなかったかのように前に向き直る。


そうして二人は言葉を交わさぬまま、気づけばすでにすれ違っていた。


「親父さんって確か、ヤマトよりも東にある大国に備えて、お前の兄貴と国境に赴任しているんだったよな」


近くで全てを見届けていた石健は、遠慮がちにそう訊ねた。


すると、久須波は表情では冷静を装いながらも、どこか居た堪れなさを滲ませて、静かに「そうだな」と、まるで関心がないと言わんばかりに淡々と答える。

しかしながら、その目は正直で父親の背中が見えなくなるまで追っていた。



 一軍は小碓を連れて宮城へと向かっていき、あとに残された民衆もそのうちに各々が家路に着き始める。


しばらくすると、大路は祭りの後のように元の深夜の闇にとっぷりと浸っている。



「なあ、これからどうするんだ」


取り残されたように立ち尽くしている久須波に、石健はため息を交えてそう訊ねた。


「まずはオウカを探さないとな。話はそれからだ」


久須波の言うように、今はまだ何も明るみとなっていなかった。

小碓と小宇迦の間で何が起きたのか。それも然ることながら、そもそも小宇迦が何故『大穴持』に関わろうとしたのか。その理由も判然としない。


そして、東国に睨みを利かせていたはずの将軍、沼河別命の帰還。

彼らの知らないところで、少しずつではあるが現世(うつしよ)の有様に変化が起きつつあるのかもしれない。




 一方、官吏殺害の嫌疑で連行された小碓の身柄は、夜が明けるまで牢(ろう)に収容する運びとなった。


御子が捕縛されたという一報で、一時は宮廷内も蜂の巣を突いたように騒がしくなったが、時間を追うごとに冷静さを取り戻していく。

明朝の朝廷にて、大王より直々に裁きが下されることになり、今はその時が訪れるのを待つことしかできなかった。




 隔離された牢獄は静寂だけが支配しており、格子(こうし)から射し込む斜月の明かりが苔(こけ)に覆われた石塀を照らし出していた。


丘陵から吹き込んでくる心地良い風の音が、微かに耳へと触れる。他には何の音も聞こえてこない。

静けさの中、先ほどまで抱いていた不安や、初めて人を殺めた高揚感も自然と収まっていく。


身体を横たえてみれば、まだ春先ということもあってなのか、石畳の床は思いのほか冷たかった。

独特のかび臭さが立ち込めて、思うように呼吸も儘ならない。


人ひとりが寝るだけの広さしかない牢に、小碓はたった独りで閉じ込められていた。

監守は檻を挟んだ前の通路を、厳めしい顔つきで稀(まれ)にうろつく。


昼下がりの長閑(のどか)な野原で、穏やかな木漏れ日と美しい女性の膝枕に抱かれて、気持ちよくうたた寝をしていた。


それはそう遠くない記憶だ。あれから急転直下、こうなってしまうことを果たして予期できただろうか。

小碓はふとそんなことを思って、不意に可笑しくなり笑声を零す。



 目を閉じてみると、まず瞼の裏に思い浮かんだものは、官吏を剣で貫いたときの光景だ。

まさか自分が刺されるとは思ってもみなかったのか、倒れていく官吏の不可解そうな表情は、今になっても鮮明に思い起こすことができる。


苦悶や哀願に染まった眼差しは、次第に穏やかなものに変わって、様々な感情を巡らせるような色彩をしていた。

滔々と流れ出る自らの鮮血を目にして、官吏は一体何を思っていたのか。それはもう誰にも分からない。


そのうちに、小碓は胸の奥底から熱くなっていくのを感じた。瞼の裏で思い浮かんだのは父母の顔だ。


二人にどれだけの悲しみと憤りを抱かせてしまったのか。それを考えると胸を抉(えぐ)られるような思いがして、とても平常心ではいられなかった。


とんでもないことを仕出かしてしまったという悔悟の情と、今でも間違ったことをしていないと肯定する情熱との狭間で、結論の出ない苦悩を延々と抱き続けている。




 少しばかり乱れた呼吸を整えながら、額にじわりと浮かんだ汗を拭う。

小碓はふっと息を吐き出してから、覚悟を決めたようにゆっくりと目を見開いた。


すると、柔らかな月明かりが包み込んでくれていて、何も変わらない石壁の景色がそこにあった。


「今更、どうすることもできないか」


小碓は自嘲するように小さく鼻で笑い、独りでにそう呟いた。


それから間もなく、どこかで大きな翼をはためかせるような物音がしたかと思えば、格子窓の月明かりを遮るものが一瞬だけ通り過ぎていった。


「全く、呆れて言葉も出ねえよ」


そして、すぐに何の前触れもなく、静寂と苦悩を打ち破る声が何処からか聞こえてきた。


「馬鹿につける薬でもありゃいいのにな」


その声はまた聞こえてきた。聞き間違いなどではない。

続けて悪態をついたのである。甚(はなは)だ耳障りな声は、異様なほど甲高くて頭の中を直接震わすように響く。顔をしかめてしまいたくなるような声色だ。


小碓は慌てたように身体を起こし上げると、何度も狭い牢内を見回してみたが、当然のことながら人影などあろうはずがない。


「おいおい。てめえの目玉は節穴か?」


今度は聞き耳をたてていたお陰で、声がした方向もはっきりと分かった。それは頭上にあった格子窓の向こうから確かに聞こえてきたのである。


小さな格子の外には、月光に浮かび上がった影がある。大きな肢体は艶やかな光沢を放ち、珠玉のような目玉をくりくりと動かす。


鋭い嘴(くちばし)を左右に振って、一度だけ「カアー」と甲高く鳴いてみせた。

所謂(いわゆる)ところの鴉(からす)がそこにぽつんと居るのが目に留まった。





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