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出征

蕾④

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   大王も立ち上がって「おおっ!」と、思わず声を漏らすほどの迫力で、重臣たちは余りの凄まじさに押し黙ったまま、目を凝(こ)らして成り行きを見守っている。


それほど経たないうちに、爽やかな風がすっと砂塵を押し流していき、警護の長と小碓の姿が徐々に露となる。


長の剣は地面を抉(えぐ)るように食い込んでいて、そこから紙一重といった距離に、小碓も無傷のまま佇(たたず)んでいた。


程なくすると、重臣たちのどよめきが朝堂を包み込んで、大王も小さなため息をついてから、何ごともなかったように高御座に腰を据える。


俄(にわ)かには信じられない。と、そのように言いたげだった長は、如何にも怪訝な面持ちで一層眉をしかめている。


幾(いく)ら頭に血が上ったと言っても、相手はやはり大王の子である。長も本気で傷つけようとまでは考えていなかった。


それでも、小生意気な態度を戒(いまし)めるくらいのつもりで、鼻先を翳(かす)めるほどの距離を、全力をもってして剣を振るってみせたのだが……。


その小碓は微動だにしなかったのである。

剣の速さが余りに鋭すぎて、動こうにも動くことができなかっただけなのか。

ただ、余裕のある微笑を崩せなかったことを鑑(かんが)みれば、そう考えるにはやはり無理があった。


「何故、避けようとなさらなかった」


長は剣を引きながら不審に思っったことを率直に訊ねた。

すると、小碓はくすっと小さく吹き出して笑い、
「始めから外すことが分かっていたからだ」と、端的に答える。


「ほう、警護の兵ごとき下賤(げせん)な者が、御子を傷つけることなどあり得ぬと、そのようにお考えか?」


眉間に皺(しわ)を寄せて語気を荒げる長に、小碓は慌てながら頭(かぶり)を振った。


「そうじゃない。お前がどう動くかを、前以(まえも)って知る。それこそが『神手(かみて)剣法』の基礎なんだ」


「そんな馬鹿なことが……」


そこまで言いかけたところで、警護の長は何か心当たりでもあったのか、しかめていた眉をぐっと持ち上げると、門の端で漫然と微笑んでいる高倉下(たかくらじ)を一瞥(いちべつ)した。


彼が『神手』と呼ばれる所以(ゆえん)は、相対する者がまるで操られているかのように見えることからきた通称である。


聞く話に寄ると、敵が意識して剣を繰り出すまでの間に、どこを攻めてくるかを瞬時に読み解いて、攻撃が迫るよりもずっと速く、敵を討ち伏すことができるという。


その極意とは、瞳孔の動きを的確に把握することに始まり、更にはじん帯や骨格、筋肉などの動きを見極める目を養うことにある。


それができれば、少なくとも敵より先んじて動作に移すことも可能で、あとは厳しい修練を重ねて、考えるよりも早く剣を扱(あつか)えるようになったなら、相手が誰であっても破ることは至難の業だといえた。


『神手剣法』には二十四ほどの型があるといい、覚えることはさほど難しいことではなかったが、その威力を十分に引き出すには何十年もの鍛錬が必要だと云われている。


指南役の高倉下であっても、技を完全に会得したとは言い難く、また加齢が進むにつれて技量は衰えていくばかりで、今以上に研鑽(けんさん)を重ねることは難しい。


それ故に、当代きっての使い手と呼べるのは、東征(とうせい)の折に剣術を習得した大王ということになる。




「そうか。あの剣法を扱えるというわけか」


 護衛の長は独り言のようにそう呟くと、喜悦に浸るような笑みを覗かせた。


大王のみが扱えるという至高の神技と、思いがけず相対する機会に恵まれたのである。それを武官の彼が喜ばないはずがなかった。


技の完成度は六割ほどと言っていたが、それでも『神手剣法』には違いない。拙(つたな)さの中でも、それなりに真髄を見ることは適うはずだ。


「正直なところ、下らないお遊戯(ゆうぎ)に付き合わねばならぬと、少なからず辟易(へきえき)していたところだが。まさか、このような好機を得ようとはな」


警護の長は如何にも嬉しそうに言って、顎(あご)に蓄えた無精髭(ぶしょうひげ)を感慨深そうに擦(さす)る。


「どれほどの力がついたのか。俺もそれを知りたいんだ。だから……」


小碓も漫然と微笑んだまま、そこまで言いかけたところで天尾羽張剣を翻(ひるがえ)し、肩口の辺りで白刃を横たえるように身構える。そして、


「余計なことなど考えずに、本気で打ち込んでこい!」と、晴れやかな表情で明朗に言い放った。


警護の長はそれに応じて、芯(しん)から響くような唸(うな)り声を上げる。

得物の剣を高らかに掲(かか)げて駆け出すと、砂塵を舞い上げながら喚声と共に突進していく。




 凄まじい勢いから振り下ろされる猛撃に、小碓は慌てることなく半円を描くように足を運ばせて、最小限の動きで身体を翻(ひるがえ)す。


それとほぼ同時に、上半身を反転させながら遠心力を得て白刃を一閃させた。


次の瞬間には痛烈な火花と、甲高い金属音が激しく鳴り響き、小鳥の羽音が一斉に沸き起こった。


長は小碓の剣を退けると、少しも怯(ひる)むことなく猛々しく攻め立てる。




衛兵たちが用いる剣術は、誰にでも扱えるようにあくまでも基本に忠実で、ひとを魅了するような優美さや、翻弄(ほんろう)するくらいの巧妙さなどは皆無(かいむ)に等しい。


まさに、朴訥(ぼくとつ)にして実直というべきか。単調で読みやすい太刀筋ではあるものの、研鑽(けんさん)を続けるほどに、無駄な動きのない攻撃こそ計り知れない破壊力を生む。


その辺の衛兵ならいざ知らず、近衛兵の長にまで上りつめた者であれば、剣を振るう速度や重みも相当なものだった。


奮然と襲いかかる剣を受け流すにしても、束(つか)を握った手のひらに強烈な衝撃と僅かな痺(しび)れを覚える。何度も受け切るには、余りに負担が大きかった。


小碓は軽妙に身体を翻しながら、次々と繰り出される攻撃を必死になって掻(か)い潜る。

それでも、長が三つほど斬りつけるごとに、一つは鋭い反撃を繰り出して思いどおりにやらせることはしなかった。




 端から見れば、明らかに護衛の長のほうが優勢である。柄にもなく文官たちも手に汗握って、二人の仕合を食い入るように眺めていた。


仕切り直しから三十合ほどに及んだところで、長はおもむろに肩で体当たりをして、小碓は思いがけず体勢を崩してしまった。


その瞬間「おおっ!」と、諸官の喚声が木霊し、膠着(こうちゃく)していた状況に変化が生ずる。


警護の長はここぞとばかりに剣を頭上に掲げると、渾身の力を込めて必殺の一刀を振り下ろした。

誰もが決着をみたと予測したものの、それに反して身の毛がよだつほどの金属音が木霊する。


双方ともに譲ることはせず、交叉(こうさ)した剣で競(せ)り合い、ぎりぎりと白刃の擦(こす)れる物音が鳴り続けている。


小碓は歯を食いしばって踏み止まる。懸命に抗(あらが)う青年の姿を目にして、周囲からは自ずと感嘆と安堵の声が漏れていた。


「至高と云われる『神手剣法』とは、この程度のものか!」


長が唸(うな)るような声でそう言えば、それまで張り詰めていた小碓の表情は、俄(にわ)かに緩んで微笑へと転じた。


「ここに居たのが以前の俺だったなら、一瞬のうちに叩きのめされていただろうな」


小碓はふとそのように呟いたかと思えば、鍔(つば)迫り合いを演じていた持ち手を唐突に緩めて、長の得物をいとも容易くいなしてみせる。


風に靡(なび)く柳のように、その肢体はゆらりと力なく移ろう。

小碓は留まることなくたおやかに揺らめいて、斜(なな)めに傾いた身体を瞬く間に旋回させる。

それに伴(ともな)って、朝陽を浴びた白刃が弧(こ)を描くように一閃(いっせん)した。


警護の長は予想だにしない動きに目を奪われながらも、慌てて仰(の)け反(ぞ)ることで背後から迫った剣から、どうにか逃れることができた。


ところが、やり過ごしたはずの白刃は、次の瞬間には袈裟懸(けさが)けにして襲いかかり、それも必死に避(さ)けたとしても、すぐに翻(ひるがえ)って刺突(しとつ)が繰り出される。




小碓が流れるように振るう太刀筋は、それまでとは明らかに異なっていた。

剣の速度に抑揚(よくよう)があって、予測もつかないところから斬り込んでくるものだから、警護の長は防戦一方となる。


剣を交えたときの金属音も小気味よく響き、まるで剣舞でも演じているかのようだ。

少なくとも、端から見ていた者たちの目にはそんなふうに映っていた。


その表情も一変して、どこか余裕をもって喜色を為しつつも、青年らしい活気に満ちた彩りを鳶色(とびいろ)の双眸(そうぼう)に宿している。


「至高にはまだ程遠いが『神手』の真髄を見せてやる!」


小碓は高らかにそう言い放つと、縦横無尽に剣を振るって激しく攻め立てる。

反撃する暇(いとま)すら与えず、その切っ先は幾度となく彼の肢体をかすめた。


警護の長はまさに為す術なく、全ての攻撃を退けることも難しくなる。

形勢も一瞬にして明らかとなり、完膚(かんぷ)なきまで追い込まれていく。


小碓が加減を加えていなければ、今ごろはその白刃によって斬り刻まれていたことだろう。


風向きが変わってから十数合と及ばないうちに、颯(さつ)と振るう小碓の剣が長の得物を両断し、返した切っ先がその喉(のど)もとを捉える。




「そこまでだ!」


 ほぼ時を同じくして、晴れやかな一声が朝堂に響き渡った。

それを発したのは高御座(たかみくら)の大王であり、おもむろに席を立って正殿の端まで出向く。


諸官たちは歓声を沸く間もなく、その場で慌てるように傅(かしず)いた。


「小碓よ、見事であった」


大王はそう言ったあと、


「よくぞ、そこまで磨き上げたものよ」と、人目も憚(はばか)らずに破顔(はがん)する。


立場は大王といえども、やはり人の子である。子供の成長が嬉しくないはずはなかった。


「如意流弧(にょいりゅうこ)の型だな。まだまだ荒さは残るが、二年ほどの修練にしては大したものだ」


小碓は剣を逆手に持ち直して跪(ひざまず)く。


「もったいなきお言葉に存じます」


落ち着き払ったように整然と答えながらも、予期せず父親から褒められたことで、自然と胸が高鳴って強い高揚感を覚えていた。


また、こうも思った。過去に褒められたのは、いつのことだっただろうかと。


誰にも気付かれないように、顔を俯(うつむ)かせる。自分でも驚くほどに、頬(ほほ)が綻んでどうしようもなかったからだ。





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