正徳寺の会見

浮田葉子

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正徳寺の会見

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天文二十二年、四月下旬。
斎藤山城守さいとうやましろのかみ利政としまさ、のちに出家して道三どうさんと名乗る、は織田信長へ対面の申し出をした。
天文十八年に利政の娘帰蝶きちょうが信長にしてから初めてのことである。
利政も信長も、お互いの顔を知らない。
この頃、祝言に親が同席しないのは、取り立てて珍しいことではなかった。
いわば人質の遣り取りである。しかるべき代理を立てて執り行った。

近年、信長の評判が特に悪い。いや、もともと良い評判など聞いたことも無かったのだが。
利政に面と向かって「婿殿は大うつけですぞ」と口々に言う。それも一人や二人ではない。
「いや、うつけではないのだ」
と利政はいつも言ってはいたのだが、流石に無視できぬ程の罵られよう。
本当に馬鹿だったらどうしよう、と一抹の不安が胸をよぎったとか過らなかったとか。
ともあれ対面し、その真偽を見極めるには丁度良い、と思い立って文を書いた。

「富田の寺内町正徳寺しょうとくじまで出向きますので、織田上総介かずさのすけ殿もここまでお出で下されば幸いです。対面致したい」

富田という所は人家七百軒ほどあり、豊かである。
正徳寺は石山本願寺より住職を派遣してもらい、また、美濃・尾張両国の守護より許可状を貰い税を免除されている。
不輸不入の地、つまりは権力の介在できぬ、いわゆる聖域であった。
二人が対面するのに相応しい場所だといえるだろう。

信長はあっさりと返事を寄越した。承知した、とそれだけである。
利政は軽く笑った。首をられるかもしれぬという恐れはないのか。
つい先頃、平手政秀ひらてまさひでが自刃した。織田信秀の重臣、信長の守役。そして信長と帰蝶との婚姻の立役者でもあった。
重鎮の死により、尾張における信長の立場はますます危うい。
このまま同盟を続けてよいものか、それとも。同盟は破棄、足掛かりとして信長の首級くびを上げ、尾張一円平らげてしまおうか。
或いはそんな利政の思惑すらも見越して準備万端、やってくるのか。
大バカ者故、そのようなことを思いもしないのか。
「帰蝶が何か含ませていそうなものだがな」
利政は髭をしごいた。
最近帰蝶からの文は信長を褒めそやすものばかり。
あの帰蝶が、信長はもと一の男だという。
して目が曇ったか。それとも、所詮は女子だったということか」
とつぐ前、利政は懐剣を渡し、帰蝶に迫った。「うつけならば、討て」と。
帰蝶はにこりと笑って見せた。まだ十五の少女が嫣然と、言う。
「信長殿がまことうつけならば、そう致しましょう。ですが嫁いで後、信長殿が素晴らしい夫と思えるかもしれませぬ」
「ふむ。そうさな」
「その際父上にご油断あらば、この懐剣、父上に向けることになるやもしれませぬ」
「ふはははは、好きにせよ。それでこそ我が子」
きらきらと輝く双眸は力に満ち、美しく聡明だった。
女にして置くには惜しい器量。帰蝶が男であったなら、天下に名だたる大名になったであろうに。

ふ、と利政は笑った。感傷的に過ぎる。
信長は如何いかなる者か。いずれにせよ、会えばわかるだろう。
取るに足らぬ小物ならば、討ち取ってしまえば良い。
揶揄からかってやるも一興か」
利政は古老の者七、八百人ほどに折り目正しい肩衣かたぎぬ・袴、と上品な身支度をさせた。
正徳寺の御堂の縁に並んで座らせ、その前を信長が通るように準備。
その上で、町外れの小家こやに隠れ、信長の行列を盗み見ることとした。
信長が凛々しい美濃勢を見て、驚愕するところを笑ってやろうという魂胆だ。
利政の行列を見物する富田の者らは眩しさに目を細めた。
こんなにも麗しい行列は見たことがない。涼やかに身支度した侍が八百人も。
流石は斎藤の殿、と歓声が彼方此方から聞こえる。
この人数では織田の殿が入る隙間が無かろうよ。
利政はふふん、と少しばかり得意気に髭を扱いた。

小家の中、今か今かと信長を待ち受ける利政。
行列が来たと見え、元気な足軽共の足音が響いてくる。
「来たか」
うふふと笑って窓から外を覗いた利政はうっと息を詰めた。
まず目に入ったのは行列の前を走る足軽勢。見るからに威勢のいい者たちだ。
続いて見えたのが弓、鉄砲。五百程もあろうか。
利政は苦々し気に口を歪めた。戦支度だ。
供の者どころか軍勢を率いてきたわけだ。いざともなれば戦も辞さぬ、また、易々やすやす討ち取られもしない、と。
しかもこの時分、あれだけの鉄砲を揃えるとは。
利政は鉄砲に関してはそれほど興味はなく、新しい玩具のひとつとしてしか見ていなかった。
その威力を目にして猶、それほどの脅威になるとは思っていなかったのだ。
しかし、ひとつひとつが玩具であっても、数が五百ともなれば話は違う。
今後、戦の仕方は変わるかもしれない。
後から後から湧いて出る程の鉄砲部隊を見やり、利政は嘆息する。
「しかし、」
肝心の信長の姿が見えないことに利政はまた、眉間の皺を深くした。
この会見にどれほどの兵を率いてきたというのだ。ここまででざっと七、八百。利政が率いてきた美濃勢と変わらぬ人数である。
「見えましたぞ」
家臣の言葉に利政は二度ほど目を見張った。
信長の前後に付き従う長い朱槍。柄は三間半約6.4メートルもあろうか。美濃勢の物よりはるかに長い。それが二百程も。
槍隊の中頃に立派な騎馬があった。
信長である。
茶筅髷ちゃせんまげを萌黄の平打ち紐で巻き立て、湯帷子ゆかたびらを袖脱ぎに。
金銀飾りの太刀と脇差の柄を荒縄でき、太い麻縄を腕輪に。
腰の周りには猿廻しのように火打ち袋、瓢箪を七つ八つもぶら下げて。
虎皮と豹皮を四色に染め分けた半袴はんばかまを履いていた。
それだけではなく、態度もそれ以上に奇抜。
馬に片膝立ててだらしなくくつろぎ、柿か瓜かに齧り付いている。
想像以上であった。
あれのどこが日の本一の婿であるか。
いや、あの体勢で落馬もせずに乗っていられるのは寧ろ凄いか。
くだらないことを思う程、利政は混乱していた。
信長の騎馬が通り過ぎ、そしてまた槍が二百、三百と続く。
ざっと千人。
信長めの度肝を抜いてやろうと仕組んだが、こちらが仰天してしまった。
何という軍勢だ。美濃の者が貧弱にすら見える。
八百人もの礼装した侍の軍勢が、である。
なんとも面白くない。
利政の見守る中、信長は動じた様子もなく、正装する美濃勢の前を通り過ぎ、正徳寺の境内へと入っていった。
隣で様子を窺っていた息子の義龍は怒髪天を衝く有様。
「あんな男と真面目くさって対面なぞできるか!ばかばかしい、俺は帰るぞ!」
足音高く帰ってしまった。
「バカめ。大うつけであるならばそれ相応の対処のしようもあろうよ」
息子の有様に却って冷静になった利政は居住まいを正し、寺へ向かった。
信長の身形みなりは、無礼を理由に討ち果たしても文句は出るまいと思わせるものだ。
罷り間違っても大切な人物との面会に着るものではない。
さて、どうやって屠ってやろうか。

利政はわざと遅れて対面所へ入った。
信長を先に待たせて置き、利政が遅れていくことで焦らせようとの魂胆だった。
交渉において上位に立つため、よく行われる手段ではある。
しかし、利政は屏風から顔を覗かせ、またも驚愕することとなった。

御堂の縁の柱に凭れ掛かり、庭を眺める美しい若武者が居た。

誰だ。
利政は混乱する。
信長以外に居るはずがない。だが、あれはあまりにも違い過ぎる。
髪はげに結い、ぴしりとした褐色かちんの長袴を纏い、金銀細工の見事な小刀を差した、横顔も涼し気な若者。

あれは誰だ。

織田信長。
尾張の大うつけ。帰蝶の婿。見目麗しい若武者。

頭ではわかっているものの、すっかりと度肝を抜かれた利政であった。
なるほど、これが帰蝶の見込んだ男。日の本一の婿か。
段々と楽しくなってきた利政である。
さて信長は、利政が屏風を押しのけて出て来たのを横目で見ながらも知らんぷりで庭を眺めている。
堀田道空ほったどうくうがゴホンと咳払いをした。道空はこの会見の仲介役である。
「こちらが山城守殿でございます」
と声を掛けると、やっと信長は振り向いた。
「お出でになったか」
袴捌きも鮮やかに。
「織田上総介信長にござる」
信長は座敷に入ると、利政に対し礼を尽くした挨拶をした。
身のこなしも優雅。ううむ、と利政は唸った。
ちらと見やれば織田方も驚きを隠せぬ有様で騒めいている。
蛹が蝶になるほどに、見事な変貌ぶりを見せつけた信長であった。

道空が湯漬けを給仕した。
盃を交わし、対面は穏やかに過ぎた。

打てば響く。
信長は敏い男でもあった。利政はどんどんと愉快になっていく。
国のこと、敵のこと、政のこと。何の話題を振ってもぴしりと答えが返ってくる。
「帰蝶の様子は如何いかがか」
楽し気に目を細める利政に、信長は飄々と答えた。
「良き妻にございます。随分とこの身を案じてくれ申した」
利政の盃が止まった。
「ほほう、それはまた如何して」
ぎらりと光る双眸は蝮の二つ名に恥じぬもので。
けれど信長はさらりと流した。
「舅殿がこの機に乗じ、それがしを喰らうのではないかと」
「ふははは、そのようなこと有ろうものかよ」
これは確かに日の本一の婿かもしれぬ。
信長は利政にその気が有ったことを見抜いている。そして今は無くなったことも。
喰らってしまうには勿体ない。
この若者は胆力がある。いずれ育てば尾張・美濃のみならず、もっと大きな大名になるやもしれぬ。
帰蝶の婿に選んで正解であった。
ふつふつと笑いが浮かんできて、嚙み殺すのが大変だ。
利政は始終上機嫌であった。

「また近いうちにお目に掛かろう」

途中、茜部あかなべにて猪子高就いのこたかなりが利政に言った。
ご機嫌取りのつもりだったのだろう。陽気な声であった。
「信長殿はどうやら評判通りのうつけでございましたな」
利政は目を細め、鼻を鳴らした。その目は節穴か。
「そのうつけの門前に、我が子らは馬をつなぐことになろうよ」
不機嫌になった利政に高就は畏れ入り、慌てて下がった。

それ以来、斎藤利政の前で織田信長をうつけ呼ばわりする者は居なくなったという。

信長は利政をわざわざ二十町ほども見送った。
行列を成せば美濃勢と織田勢の槍の長さの差は一目瞭然。
織田勢は見せ付けるように掲げて行った。
美濃勢はもしや背中から撃たれるのではないかとびくびくとしていたが、利政は平然と背を向け美濃へと帰っていく。
それを見て信長は「舅殿に信用された」と嬉しがったとか。

お互い、抱いた印象は悪くなかった。
どころか利政はこの時より信長にぞっこん惚れ込んでしまった。
信長の方も舅殿、と利政を慕い、帰蝶としては嬉しい限りであったようで。
その後、利政と帰蝶との文の遣り取りに加え、信長とも幾度も文通をしていたようだ。

利政、道三はその後、自らの死にぎわに美濃の国譲り状と称される文を、信長に宛てている。
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