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第三十一話 ターニャの答え

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「これでもう、オレがターニャに内緒にしていたことは何もないよ」

 ヘクターは私の目を見つめながら、これまでの出来事と彼の気持ちを明かしてくれた。

 ナディル様から話を聞いていなかったらもっと驚いていたと思うけれど、幼い頃の私がヘクターに出会っていたこと、また、ずっと陰ながら私を見守っていてくれたことは、とてもびっくりしたものの、素直に嬉しいと思えた。

 第一学年の頃から、どうしてヘクターに言い寄られている?からかわれている?のかずっと謎だった私としては、彼の気持ちが分かってスッキリしたという気持ちも大きい。正直に言うと、ところどころ若干引いたけれど…それすらも彼の私への気持ちの深さだとポジティブに捉えたら、やはり嬉しいし、それを嬉しいと思える時点で、私の気持ちは決まっているのだと思う。嫌いな相手に想いを寄せられたところで、申し訳ないけれど困惑するか気持ち悪いと思ってしまうだけなのだから。

 それになんだかんだ言って、学院で過ごしたこの三年間で、私は彼に甘えてしまっているという自覚があった。無意識下で、彼は自分の味方なのだと、いつの間にか認識してしまっていたのだ。これが彼の刷り込みなのだとしたら恐ろしいが…。

 そして何より、この数か月間で自覚していたこともある。
 学院祭の夜に彼に指摘され、将来リーリエ様とアルベール様のお子様に関わる自分を想像してみた。乳母や教育係になる自分の姿と、その時にいるであろう自分の家族の姿。すべて想像の産物でしかないが、私の子どもと私のそばに在るはずの夫をイメージしたときに、ヘクター以外の顔が浮かばなかったのだ。それくらい、彼とこの先も共に在ることが、私には自然だと感じられていた。

「あ、もうひとつだけ言いそびれていたことがあった」

 どう答えようか考えていたところ、唐突なヘクターの言葉で思考を遮られた。

「今日の祝賀会のターニャのドレス、とても似合っていたよ。本当に綺麗で、だからこそターニャを見つめている男たちの目から隠してしまいたかった。誰よりも先に褒めて、ダンスを申し込みたかったのにタイミングを逃してしまって…」

 ヘクターは本当に面白くないといった表情だ。

「本当はあのドレスを着ているターニャにこの花束を渡したかったな。肝心なところで間が悪い、情けない男でごめん。まさかターニャが青紫のドレスを着るなんて思ってもみなかったから驚いたよ。オレにとって、あの色はターニャのイメージそのものなんだ。幼い頃、初めて出会った日に着ていたエプロンドレスの色で、あのときに話してくれたターニャの夢の花の色、そしてオレがこの三年間、憧れて追い続けた色」

 ヘクターは、手に持っていた青紫の花束を私に差し出した。自分自身が品種改良をしようとしたからこそ、このためにどれほどの時間と努力を要したのかが分かる。そしてそれほど幼い頃から、彼が私のことを想ってくれていたことに、胸が高鳴る。

「ターニャ、愛してる。このスターライトリリーは、ターニャがいなければこの世になかったものだし、ターニャのために咲かせたんだ。…受け取ってもらえる?」

 今こうして、夢の花束を携えて、もう一度真摯に想いを告げてくれたヘクターを見つめるだけでドキドキする。喜びが胸の奥底から溢れてきて、これから先、何でも出来そうな気持ちになる。

 だから、私もきちんと伝えよう。

「…ヘクター、私も、ヘクターのことが好き。…えっと、だから…結婚のお申し出、喜んでお受けします…」

 いざ言葉にしようと思ったら声が出なくて、最後の方が尻すぼみになってしまった。しかもなぜか敬語に戻ってしまった。
 まあ一生に一度の大事なことだし、丁寧に答えても悪くないよね?小さな声になってしまったけれど、私の声はちゃんと彼に聞こえただろうか。

 俯いてしまった顔を上げてヘクターを再度見つめると、彼は固まっていた。

「…ターニャ、ほんとに?本当に本気で言ってる?」

「…うん。私もヘクターのことが好きなの…ずっと自分の気持ちに答えが出せなくて…待たせてごめんなさい。その、ヘクターの気持ちが聞けて、嬉しい。ありがとう。スターライトリリーも…本当に嬉しい」

 今度は先ほどよりは少しだけ大きな声で言えた。そしてようやく、ヘクターが差し出してくれていた花束を受け取った。ヘクターは固まったままだけど、受け取って良いんだよね?

 花束を抱えると、ふわりと香りが漂ってくる。伝説の青紫の百合、スターライトリリー。その花びらは、透明感のある青と紫の中間くらいの色で、私の想像よりもずっと綺麗だった。

「この百合を咲かせるまで、本当に大変だったでしょう?嬉しいけど、私も協力したかっ……わあ!」

 固まっていたヘクターが突然立ち上がり、私を強く抱きしめた。「きゃあ」みたいな可愛い悲鳴が出せないところが我ながら女として残念だと思う。

「ちょ、ちょっとヘクター!せっかくのお花が潰れちゃうから!ちょっと待って!」

 私とヘクターの間で花束が挟まれて潰れる形になり、私が花の心配をすると、ヘクターがポイッと花束をベンチに置いた。花束のあった隙間を埋めるように、ヘクターはぎゅうぎゅうと私を抱きしめてくる。座ったままだと抱きしめにくいからか、彼はすっと私を抱きかかえるようにして立たせてから、もう一度しっかりと抱きしめる。

「いやだ、花は確かにターニャのために用意したものだけど、これからいくらでも持ってくる。良いから、今はオレのことだけ考えてくれない?」

 ヘクターの言葉に、首から上の体温が急上昇したのを感じる。先ほどまで鼻先にあった百合の香りが遠ざかり、ヘクターの香水と、彼自身の匂いに包まれる。この匂いは、前から嫌いじゃない。ううん、好きと言っていいのだと思う。すごく安心する香り。

 耳元で低く囁く彼の声が全身に響いていく。
 愛してる、嬉しい、夢みたいだ…と何度も繰り返される。
 
 だから私も、精一杯の気持ちを込めて、彼の背中に手を回した。同じ想いなのだと、彼に伝わるように。
 そして抱きしめられているこの状況はとても恥ずかしいけれど、やっぱりとても安心する。私がこれから帰る場所は、ここなのだと感じる。

 ヘクターの大きな手が、私の頭の頂点にポンと置かれ、そこから滑り降りるように髪を撫でてから、私の耳から左頬を包むように、そっと添えられる。宝物に触れるように、優しく。

 じわじわと彼の手の温かさが私の頬に伝わったと同時に、静かに彼の唇が落ちてきた。一度離れてから、もう一度、少しだけ強く。

 私はこの幸せを、温かさを、スターライトリリーの香りと彼の匂いを、きっと一生忘れないだろう。


 ∴‥∵‥∴‥∵‥∴‥∴‥∵‥∴

 翌朝、この日で卒業生全員は退寮となるため、慌ただしくなる前にと、朝食をSクラス全員で一緒にとった。皆が集まって早々に、ヘクターが私との婚約を宣言し、場は騒然となった。

「ちょ、ちょっとヘクター!まだ親にも言ってないのに!」

 慌てる私にヘクターは笑って答える。

「オレの父親からはもう許可を取ってるし、ターニャのご両親にもとっくに挨拶済みだよ?」

「ええっ!?」

 いつの間にか外堀は埋められていたらしい。なんというか根回しの良さがさすがヘクターとしか言いようがなかった。両親からは、私がヘクターのことを好きなら認めるとの言質を取っているそうだ。

「安心してくれターニャ。王宮勤めの際に住む部屋を同室にしようとしたヘクターの計画は、俺がすでに潰してある」

 呆れた声でアルベール様がとんでもない発言をした。
 私はヘクターとアルベール様を交互にキョロキョロと見るが、その反応から言って、どうやら事実らしい。ヘクターはわざとらしく視線を逸らして口笛を吹いている。

 戸惑う私に、ドンッという衝撃があった。

「ターニャ――――!!淋しいですけれど、でも、良かったですわ!ヘクターに変なことされたらいつでもわたくしに言うんですのよ!侯爵家の権力を使ってでも全力で叩き潰しますわ!」

 ピヴォワンヌ様が凄い勢いで抱き着いてきた。リーリエ様はなぜか目を潤ませている。

「ターニャ…良かったわ。ずっと私たちを応援してくれたターニャに幸せになってほしかったの…」

 そしてエヴリン様は…

「いやー、良かったですねー!ターニャがずっと返事しないから、焦ったりウジウジしたりしてるヘクターも面白かったですけどー。ねえねえヘクター、昨夜何かあったんでしょー?何て言ったのー?」

 相変わらず面白いことが大好きなエヴリン様は全力でヘクターをいじっているが、そのトゲは私にも刺さっているので止めていただきたい。

 クラスメイトたちは、ヘクターと私の微妙な関係について気付きながらも、私が答えを出すまでずっと見守ってくれていたようだ。皆から祝福され、とても恥ずかしかったけれど、やはり嬉しくもあった。

 三年間(ナディル様とカイは二年だけど)を共に過ごしたクラスメイトたちとの別れは名残惜しかったが、高位貴族である彼らとはこれからいくらでも会う機会があるだろう。それぞれのこれから先の健闘と健勝を祈り、全員でロータス先生に別れの挨拶に行ってから、解散となった。


 退寮後、私は数週間の休暇を実家で過ごしてから、ジプソフィラ子爵家で住み込みで働き始める予定だ。数か月後には婚姻準備のため、リーリエ様が王宮に移り住むことになるので、私も子爵家から同行する。

 リーリエ様の荷物を子爵家の馬車へ積み込み、しばしのお別れを惜しみ合ってから、リーリエ様を見送った。私の荷物の大半は、リーリエ様の馬車で一緒に子爵家へ届けてもらえることになったので、少し大きめのトランクひとつが、私の手荷物だ。少し重いけど、両手で持てば問題なく歩ける。

 私の実家がある街は、王都から乗合馬車で一刻ほど。馬車乗り場へ向かおうとトランクを持ち上げたところ、すぐに私の手から重さが消えた。

「ターニャの荷物、これだけ?」

 いつの間にか現れたヘクターが、私の荷物を持っていた。

「ヘクター、なんでここに?アルベール様と一緒にもう出発したんじゃなかったの?」

 私は驚いて尋ねた。

「実はオレも休暇をもらったんだ。三年間も四六時中アルのお守をしてたんだからね、少しくらい休んだってバチは当たらないさ。さ、うちの馬車を呼んであるから、ターニャの家まで送るよ。ご両親にも改めて挨拶したいし」

 いろいろと突っ込みどころはあったが、すでにアルベール様は出発済みで、ヘクターの実家であるマグワート子爵家の馬車を呼んであると言われたこの状況で、断るのも気が引けた。

「今断ろうかと思って迷ったでしょ。良いんだよ、ターニャはもうオレの婚約者になるんだから。素直に甘えなさい」

「…うん、ありがとう。私もヘクターと一緒にいられるのは嬉しいし、うちの両親にどういう話になっているのかは詳しく聞きたいと思ってたから。でも、荷物は自分で持てるわ」

「良いんだって。この大きさだとターニャの両手がふさがっちゃうし、それじゃオレが嫌だ」

 そう言ってヘクターは右手で私の荷物を軽々と持ち上げ、左手に私の手を取った。私の顔も赤いと思うけれど、ヘクターの顔も赤い。それでも、ヘクターの嬉しそうな笑顔に、私もつられて笑顔になる。

 マグワート子爵家の馬車に乗せてもらったが、寮の前を出発してからすぐ、学校の正門に続く並木道に差し掛かるところで、ヘクターにお願いして一度馬車を停めてもらった。最後にもう一度だけ、母校を見たかったから。

 三年前の入学式の朝、十歳で前の「私」の記憶を得てから全力を尽くしたという自負はあっても、内心はとても不安な気持ちでこの場所に立っていた。
 無事に使用人科の首席合格を果たし、リーリエ様の侍女として貴族科特別クラスで共に学ぶことができた。私はこの学院で、生涯の主人だけでなく、たくさんの友情を見つけた。ピヴォワンヌ様が断罪されることもなく、願っていた大団円エンドを迎えることができた。いや、それ以上かもしれない。だって私は、一生を共にしようと思える、とても大切な人にも出会えたのだから。

 隣を見ると、私を追って馬車を降りてきたヘクターがいる。白亜の学舎を見つめる私を見て、なんとなく考えていることが伝わったのかもしれない。

 私たちは顔を見合わせて微笑み合い、手を繋いで馬車へ戻るのだった。


 ∴‥∵‥∴‥∵‥∴‥∴‥∵‥∴

「ばあや!!起きて!ねえ、起きてったら!!」

「……なんですかお嬢様、そんな大きな声を出して…」


「ばあや!聞こえているか!目を閉じないでくれ!なあ、ばあや!」

「……ええ、聞こえてますよ。……いつ以来でしょうねえ、ぼっちゃまが私をばあやと呼ぶなんて…」


 今際の際いまわのきわの私の左側には、現国王であるぼっちゃまと、他国の公爵夫人となられたお嬢様がいる。その向こうには、ぼっちゃまのお子様方と、お嬢様のお子様方もいる。

「ターニャ、だめだ。まだ行かないでくれ」

 右側には、私の手を両手できつく握りしめる夫の姿。彼は学生の頃からずっと変わりなく、私を愛し、支え続けてくれた。生涯の主の最期を看取り、私が気落ちしてからも、明るく寄り添ってくれた。

「母上、これがお別れなんて嫌だ」

「お母様、目を閉じちゃだめよ!」

「おばあちゃま、どうしたの…?」

「ばーちゃん!」

 夫の隣には、息子と娘。可愛い孫たちもいる。みんな今は遠くに住んでいるのに、わざわざ来てくれたのだ。

 ………良い人生だった。たくさんの素晴らしい人に出会い、愛し、愛されることができたのだ。悔いなどない。あるとしたら、彼を残していってしまうことだけ。

 最後の力を振り絞り、生涯愛した人のダークブルーの瞳を見つめる。子どもたちにも受け継がれたこの色が、私は何よりも愛おしかった。

「…待ってるから、ゆっくり来てね。愛してるわ、ヘクター…」


 ∴‥∵‥∴‥∵‥∴‥∴‥∵‥∴

「…ーニャ!ターニャ‼ちゃんと大きく息を吸って!息を止めちゃダメだよ!」

 気付くと、真っ青な顔をしたヘクターが私に必死で声をかけていた。
 お腹が意味が分からないレベルで痛い。前の「私」の世界では鼻からスイカが出るって例えた人がいたはずだが、その意味も分からない。痛い場所はそこじゃない。

 フ―――、フ―――、と荒い息を必死で整えながら、私は渾身の力を下腹部に込めた。先ほどは痛すぎて一瞬意識が飛んでいた、というか、危うく前世で言うところの三途の川にボートで漕ぎ出してしまうところだった。
 こんなところでまだ死ねない。私のばあや人生は始まったばかりなのだから。

 痛みから気を反らすためにアホなことを考えていると、ようやくゴールが近づいてきた。最後にグリンと何かがお腹から飛び出してきた感覚がある。

「………ん、……んぎゃーーーー!あんぎゃーーーー!」

「おめでとうターニャさん、ヘクターさん!さあさあ、まだ処置があるのでお父さんはとっとと出てっておくれ!」

「ちょ、ターニャ!ターニャ大丈夫?ターニャーーーーー!」

 私は精一杯の力を込めて笑顔を作り、夫を見送った。この世界では出産の場に夫が立ち会うというのはまず有り得ないのだが、陣痛開始から丸々一日悶え苦しみ、私の意識が飛び始めたときに、産室の扉を蹴破る勢いでヘクターが荒れ狂ったため、特別許可を得て立ち会わせてもらった。
 私としても彼に手を握ってもらうと気持ちが落ち着いたので結果オーライというやつだろう。無事に赤ちゃんが生まれた瞬間に、彼は産婆さんにホイッと追い出されたが。そして扉の外でまだ何か叫んでいる。周りにご迷惑をおかけしてとても申し訳ない。

 ベテランの産婆さん二名によって、手際良くへその緒を切られ、体中をふき取ってから清潔な布で包まれた赤ちゃんは、元気よく泣いている。ヘクターを追い出した産婆さんが私の枕元に赤ちゃんを連れてきてくれた。

「ターニャさん、長い時間よく頑張ったわね。元気の良い男の子だよ!おめでとう」

 長い戦いを終えてようやく会えた息子。いや、よくよく考えると私が戦っていた相手はこの子なのだが、顔を見た瞬間疲れや痛みが飛んでいってしまった。

「…ちいさい、…かわいい」

 嬉しさと感動と、でもやはり思い出せば全身に残っている疲労感とで、私の目からは涙が溢れた。

 心の中には、喜びに沸く私と、冷静に感想を述べる私がいる。冷静な方の私は脳内に様々なメモを書いていく。やはり主人であるリーリエ様が妊娠や出産をする前に、私が身をもって体験して良かったと思う。


 ∴‥∵‥∴‥∵‥∴‥∴‥∵‥∴

 出産から一週間が経ち、私の体調がだいぶ落ち着くと共に夜泣きとの長い戦いが始まった頃、アルベール様とリーリエ様が、王宮内の私たち夫婦の部屋へ訪ねてきてくれた。
 ふたりは私たちの息子の誕生を心から祝福してくれた。リーリエ様に至っては文字通り泣いて喜んでくれた。相変わらず私の主人は最高に可愛い方だ。

「それにしても、ヘクターにここまで先を越されるとはなあ…それも完璧なタイミングで…」

 アルベール様の言葉に、ヘクターは満面の笑みで答える。

「そりゃあね、ターニャの夢は昔からずっと“ばあやになること”だからね。妻の夢を叶えるためならオレだって頑張るさ」

「頑張ったのはターニャの方だろうが」

 相変わらずこの主従は仲が良いなあと、私も思わず笑ってしまう。

 王立学院卒業から二年と二月が経ち、私は無事に息子を出産することができた。
 アルベール様は二月前に王太子に即位され、併せてリーリエ様と盛大な式を挙げた。学院卒業から二年間、様々な政策を成功させたアルベール様と、慈善事業に積極的に取り組まれたリーリエ様は、国民から絶大な人気を誇っている。晴れて王太子夫妻となったおふたりは、先月ハネムーンを終えてお戻りになったばかりだ。

 リーリエ様が出産を控えた私が心配で置いていけないと、ハネムーンを拒否しようとしたときは焦ったが、第一子は予定よりも遅れることが多いし、何より学院生活を含め五年もお預けを食らったアルベール様が不憫すぎるので、旅行には予定通り出かけてもらった。

 ちなみにその間のヘクターは、私を独り占めできるのは今だけだと、存分に甘やかしてくれた。それを予期していたピヴォワンヌ様やエヴリン様が遊びに来て、ヘクターと火花を散らしたこともあったが、出産前に夫との時間をのんびり過ごせたことは私にとっても幸せだったと思う。

 私とヘクターは、今から一年ほど前に結婚した。主人たちより先に結婚するのはいかがなものかと思い躊躇っていた私に、ヘクターが言ったのだ。

「ターニャはアルとリーリエ様のお子様の乳母になりたいんだろう?だったら彼らより先に結婚するのが当たり前だよ」

 確かに、彼の言うことは一理あった。アルベール様とリーリエ様は仲睦まじいおふたりなので、結婚したらすぐに子どもを授かる可能性も高いと思われる。
 乳母になるためには自分の子どもがある程度大きくなっていないと手が離せない状態になってしまうし、子どもは授かりものなので、計画通りにできるとも限らないのだ。
 それに、前の「私」の知識があっても、妊娠と出産というのは私にとっても未知の世界だった。学院入学前に産婆の師匠の下で勉強したこともあるが、少なくともリーリエ様に先立って自分が経験し、少しでも主人が安心して出産に臨めるようにサポートしたいという気持ちもあった。

 第一、ヘクターが少しでも早く私と結婚したがっていることは知っていたので、愛する彼の願いを叶えてあげたいという気持ちもあり、私は了承したのだった。

 結果として、親孝行な息子は完璧なタイミングで私のお腹に宿り、無事に生まれてくれた。というのも、侍女としてリーリエ様の婚礼関連の準備をすることは悲願だったので、リーリエ様の結婚式が安定期前であったり、はたまた臨月や出産直後であったり、という状況はできれば避けたかったのだ。
 その頃私のお腹はだいぶ大きくなっていたが、動き回りすぎなければ書類の確認やドレスや小物のチェックなどは問題なくできたので、息子には感謝しかない。

 ベビーベッドで眠る息子の頬をツンツンとつつくと、ふにゃりと表情が動いた。そして…

「…!ヘクター!目が開いたわ!」

 私は慌ててヘクターを呼ぶ。生まれてから今日まで、息子はまだ一度もその目を開いてくれなかったのだ。すぐにヘクターは私の隣に飛んできた。アルベール様とリーリエ様もベビーベッドの反対側から覗き込む。

「…青かあ~~~~」

 ヘクターはちょっと残念そうに言った。彼は、息子の瞳の色が私と同じダークブラウンであってほしいと前々から言っていたのだ。たった今開いたばかりの息子の瞳は、濃い青色をしていた。成長と共に色が変わることもあると聞くので、大きくなったらヘクターそっくりのダークブルーになるのではないかと思う。
 私は、出産の際に見た夢を思い出す。あんな日が、いつか本当にやってくるかもしれない。

「がっかりしないでよ、ヘクター。私のいちばん大好きな色なんだから」

 私の言葉に、ヘクターは一瞬驚いたような顔をしてから、幸せそうに微笑んだ。



 愛しい夫と息子、大切な主人一家と共に、私は生きていくのだ。

 いつの日か、完全無欠のばあやになる日を夢見て。

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