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後編
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小さな蛇に身を変えて、ジェヌーンはフェレグの事ばかり考えながら人里近くの小道を進んでいた。
(ふふ、びっくりするだろうねあの子……ギャッ!)
上を見ると、人間がいた。その人間は、道を這っていた小さな蛇に気がつかず、踏み潰してしまったのだ。
蛇に変身している時は魔力が思うように使えないジェヌーンは、踏まれたショックで暫く動けなかった。
人間は、胴が踏み潰されて苦しむ蛇を見て、気持ち悪がって逃げて行った。
ジェヌーンは本当に死んだ蛇の様に干からびて道の端に転がっていたが、2日目に雨が降ってきて干からびた蛇の体に雨水が染み渡ると、徐々に元の姿に戻っていった。まだ痛くてたまらなかったが、体を引き摺って泉に帰って行った。(畜生…人間の奴め、人間の奴め!許さないからねえ。アタシの全魔力にかけても、ひどい目に遭わしてやる!)
怒りに我を忘れたジェヌーンの呪いで人間達はばたばたと病魔に倒れていった。人間達はこれは何かの呪いではないかと騒ぎ始めた。そうして幾日かが過ぎた朝、泉の上が騒がしくなった。羊達が来たのかと、ジェヌーンは上がって見たが、違っていた。それは、人間達が鳴らす太鼓の音や祈りの声だった。人間達は忘れかけていた産土の神、古の神がこの禍を起こしている事に気がついたのだ。人間達がジェヌーンに命乞いをしに来たのだ。
(ふん、今更来たって許してなんかやるもんかい。)
そう思いながらもジェヌーンは、人間達がこれから何をするのか興味を持って、じっと見ていた。すると、人間達は自分達の代わりに犠牲にする動物を差し出してきた。
(はーあ、生贄ね。人間てのはこういうの好きだねえ。ワタシゃ今まで一度もそんなもの要求した覚えはないんだけどね。ま、折角くれるんなら腹は減ってるし、頂くけどね…)
メエエと動物の鳴き声が聴こえた。あれ、この声は。
顔中、体中に様々な色の化粧や装飾品で飾られていたが、その動物はあの子羊、フェレグだった。
(フェレグ!)
子羊は人間の作った祭壇に乗せられて、足は縄で一括りにされている。傍らの男が斧を振り上げていた。
「やめておくれ!もういいから、お前達を許すから!」
ジェヌーンは叫んだ。
けれどもその声は人間達の鳴らす太鼓や祈りの声に掻き消されて届かなかった。
「やめて、その子は何も悪い事はしていないんだよっ。」
祭礼は最高潮に達していた。人間達にはジェヌーンの声は聴こえない。人間というものは、いつも、鈍感なのだ。ジェヌーンの叫び声は水面がザバザバ揺れだす現象を起こし、それを見た人間達は、生贄を古の神が喜んで、早くよこせと請求している様に感じただけだった。
「アタシは神さんなんかじゃない!だから、生贄なんかいらないんだー!」
斧を持った男は小さな子羊の首に斧を振り下ろした。
(やめてーーーーー!)
子羊は屠られて祭壇は血まみれになっていった。
その子はアタシのたった一人の友達なのに
ジェヌーンは目を塞いで泉の奥底に沈んでいった。
フェレグは死んでしまった。
泉の底で氷の様に冷たく動かなくなったジェヌーンは、もう人間に対して憎む事もできないくらい、悲しかった。
それどころか、自分の存在さえ、どうでもよくなって来ていた。
もう、いつ天使に見つかって殺されてもかまわないと思うほど。
真っ暗になった心の中でジェヌーンは呟いた。
「フェレグ…お前は、天国へ行けたのかい?」
ジェヌーンはたとえ自分が死んでも決してそこへは行けないだろうと思うと、胸が張り裂けそうだった。
愛していた。あの小さな子羊を、愛していた。
(神さ…ま。 アタシを一人にさせないで…下さい!)
ジェヌーンは生まれて初めて、神様に祈った。不器用に、ぎこちなく、けれどもその思いは何よりも誠実で。
(フェレグを、フェレグを……返してください、神さま!)
天が白く光った。ジェヌーンは上を向いた。この泉に差し込む、真昼よりも明るい光はよく知っている。
昔必死で逃げ回った天の光、天使の光だった。
(ああ、やっぱり。アタシは地獄へ堕とされるんだね…。)
白衣をまとった、真っ白な翼の天使が下りて来た。
「ジェヌーン。」天使が言った。
「見つかっちゃったよ。アタシを殺しに来たんだね。」
「ジェヌーン。」
「いいよ、早くやっとくれ…。」
ジェヌーンは眼を瞑った。この瞬間を、昔あんなに恐れてたのに、今はとても静かな気持ちだった。
そしてとても懐かしい…。
「ジェヌーン、僕だよ。」
「………」
ジェヌーンは片目を開けた。天使はとても澄んだ眼差しでジェヌーンを見つめていた。まるであの、
「フェレグ?」
とっさにジェヌーンはそう聞いてしまっていた。
「そうだよ。やっとわかってくれた。」
その言葉を聞いた時にはもうジェヌーンはフェレグに抱きついていた。子供の様に、泣きじゃくって。
「お前…っ、アタシのせいで…殺されて…」
「いいんだよ。あれが、僕らの贖罪だから。」
(え?)ジェヌーンはうろたえた。
「長い間、つらい思いをさせて、ごめんね。ジェヌーン。」
フェレグはジェヌーンを優しく抱いて舞い上がった。
「一緒に天国へ帰ろう。」
ジェヌーンは驚いて言った。
「ア、アタシは行けないんだよ。だって、アタシはリリスの子なんだよ。…神さんの敵なんだよ?」
天使は笑って言った。「忘れてるよジェヌーン。」
「リリスだって、元は天使だよ。それも僕らがとても憧れていた優しい天使だった。」
フェレグは、あんぐりと口を開けて聞いているジェヌーンに頬ずりして言った。
「それにね、僕は頼まれたんだ。」
「地上に残して来てしまった大切な宝物を見つけて来て欲しいってね。」
ジェヌーンは、暫く黙っていたが、その次に来る、フェレグの言葉を聞きたくて、質問した。
「それは、誰だい?」
フェレグはにっこり笑って答えた。
「君のお母さん。」
長い…長い孤独から、やっと解放されたジェヌーンは、地上に最後の一瞥をおとして言った。
「たまにゃ、神さんも粋なことしてくれるんだねぇ。」
天使と悪魔の中間に位置する霊の一種を、一部のアラビア人はこう呼んでいる。
「ジェヌーン」と。
END.
(ふふ、びっくりするだろうねあの子……ギャッ!)
上を見ると、人間がいた。その人間は、道を這っていた小さな蛇に気がつかず、踏み潰してしまったのだ。
蛇に変身している時は魔力が思うように使えないジェヌーンは、踏まれたショックで暫く動けなかった。
人間は、胴が踏み潰されて苦しむ蛇を見て、気持ち悪がって逃げて行った。
ジェヌーンは本当に死んだ蛇の様に干からびて道の端に転がっていたが、2日目に雨が降ってきて干からびた蛇の体に雨水が染み渡ると、徐々に元の姿に戻っていった。まだ痛くてたまらなかったが、体を引き摺って泉に帰って行った。(畜生…人間の奴め、人間の奴め!許さないからねえ。アタシの全魔力にかけても、ひどい目に遭わしてやる!)
怒りに我を忘れたジェヌーンの呪いで人間達はばたばたと病魔に倒れていった。人間達はこれは何かの呪いではないかと騒ぎ始めた。そうして幾日かが過ぎた朝、泉の上が騒がしくなった。羊達が来たのかと、ジェヌーンは上がって見たが、違っていた。それは、人間達が鳴らす太鼓の音や祈りの声だった。人間達は忘れかけていた産土の神、古の神がこの禍を起こしている事に気がついたのだ。人間達がジェヌーンに命乞いをしに来たのだ。
(ふん、今更来たって許してなんかやるもんかい。)
そう思いながらもジェヌーンは、人間達がこれから何をするのか興味を持って、じっと見ていた。すると、人間達は自分達の代わりに犠牲にする動物を差し出してきた。
(はーあ、生贄ね。人間てのはこういうの好きだねえ。ワタシゃ今まで一度もそんなもの要求した覚えはないんだけどね。ま、折角くれるんなら腹は減ってるし、頂くけどね…)
メエエと動物の鳴き声が聴こえた。あれ、この声は。
顔中、体中に様々な色の化粧や装飾品で飾られていたが、その動物はあの子羊、フェレグだった。
(フェレグ!)
子羊は人間の作った祭壇に乗せられて、足は縄で一括りにされている。傍らの男が斧を振り上げていた。
「やめておくれ!もういいから、お前達を許すから!」
ジェヌーンは叫んだ。
けれどもその声は人間達の鳴らす太鼓や祈りの声に掻き消されて届かなかった。
「やめて、その子は何も悪い事はしていないんだよっ。」
祭礼は最高潮に達していた。人間達にはジェヌーンの声は聴こえない。人間というものは、いつも、鈍感なのだ。ジェヌーンの叫び声は水面がザバザバ揺れだす現象を起こし、それを見た人間達は、生贄を古の神が喜んで、早くよこせと請求している様に感じただけだった。
「アタシは神さんなんかじゃない!だから、生贄なんかいらないんだー!」
斧を持った男は小さな子羊の首に斧を振り下ろした。
(やめてーーーーー!)
子羊は屠られて祭壇は血まみれになっていった。
その子はアタシのたった一人の友達なのに
ジェヌーンは目を塞いで泉の奥底に沈んでいった。
フェレグは死んでしまった。
泉の底で氷の様に冷たく動かなくなったジェヌーンは、もう人間に対して憎む事もできないくらい、悲しかった。
それどころか、自分の存在さえ、どうでもよくなって来ていた。
もう、いつ天使に見つかって殺されてもかまわないと思うほど。
真っ暗になった心の中でジェヌーンは呟いた。
「フェレグ…お前は、天国へ行けたのかい?」
ジェヌーンはたとえ自分が死んでも決してそこへは行けないだろうと思うと、胸が張り裂けそうだった。
愛していた。あの小さな子羊を、愛していた。
(神さ…ま。 アタシを一人にさせないで…下さい!)
ジェヌーンは生まれて初めて、神様に祈った。不器用に、ぎこちなく、けれどもその思いは何よりも誠実で。
(フェレグを、フェレグを……返してください、神さま!)
天が白く光った。ジェヌーンは上を向いた。この泉に差し込む、真昼よりも明るい光はよく知っている。
昔必死で逃げ回った天の光、天使の光だった。
(ああ、やっぱり。アタシは地獄へ堕とされるんだね…。)
白衣をまとった、真っ白な翼の天使が下りて来た。
「ジェヌーン。」天使が言った。
「見つかっちゃったよ。アタシを殺しに来たんだね。」
「ジェヌーン。」
「いいよ、早くやっとくれ…。」
ジェヌーンは眼を瞑った。この瞬間を、昔あんなに恐れてたのに、今はとても静かな気持ちだった。
そしてとても懐かしい…。
「ジェヌーン、僕だよ。」
「………」
ジェヌーンは片目を開けた。天使はとても澄んだ眼差しでジェヌーンを見つめていた。まるであの、
「フェレグ?」
とっさにジェヌーンはそう聞いてしまっていた。
「そうだよ。やっとわかってくれた。」
その言葉を聞いた時にはもうジェヌーンはフェレグに抱きついていた。子供の様に、泣きじゃくって。
「お前…っ、アタシのせいで…殺されて…」
「いいんだよ。あれが、僕らの贖罪だから。」
(え?)ジェヌーンはうろたえた。
「長い間、つらい思いをさせて、ごめんね。ジェヌーン。」
フェレグはジェヌーンを優しく抱いて舞い上がった。
「一緒に天国へ帰ろう。」
ジェヌーンは驚いて言った。
「ア、アタシは行けないんだよ。だって、アタシはリリスの子なんだよ。…神さんの敵なんだよ?」
天使は笑って言った。「忘れてるよジェヌーン。」
「リリスだって、元は天使だよ。それも僕らがとても憧れていた優しい天使だった。」
フェレグは、あんぐりと口を開けて聞いているジェヌーンに頬ずりして言った。
「それにね、僕は頼まれたんだ。」
「地上に残して来てしまった大切な宝物を見つけて来て欲しいってね。」
ジェヌーンは、暫く黙っていたが、その次に来る、フェレグの言葉を聞きたくて、質問した。
「それは、誰だい?」
フェレグはにっこり笑って答えた。
「君のお母さん。」
長い…長い孤独から、やっと解放されたジェヌーンは、地上に最後の一瞥をおとして言った。
「たまにゃ、神さんも粋なことしてくれるんだねぇ。」
天使と悪魔の中間に位置する霊の一種を、一部のアラビア人はこう呼んでいる。
「ジェヌーン」と。
END.
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こんにちは 聖書の世界感が楽しそう^^
フェレグに会うため、ジェヌーンの冒険が始まる?
こんばんは 聖書ではないんですけど、伝説の…まあチャンプルーです(;^_^A