久遠の鼓動

神楽冬呼

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第6章 久遠

離りゆく恋君の温もり

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『結界の能力は絶大だ。自ら危険を回避する事ができるし、鍛練すれば防御も攻撃にも使える万能な能力です』

結界はもっと使い勝手がいいものだと思っていた。
葵は目の前にある磨りガラスのような壁に手を当てる。
触れている感触がないのに、確かにそこにある。
目の前と両側面、あと頭上にそれがあり、背後はそのまま部屋の壁、座っているのは布団の上だから六方向にある訳ではないようだ。
頭上に置いては手を伸ばすと触れられる高さなので、立ち上がれたものではない。
「単純な目的作用の初歩的な結界だな」
詠一が壁を外から叩きながら呟く。
「俺を閉め出す為だけのもんだな」
確かにこれではもう何かされることはないだろうけれど、葵自身も完全に閉じ込められた。
「……何で結界が」
結界の能力は、継承の儀を済ませないと使えないのだと聞いた。
継承の儀がどんなものかはわからないが、そんなことをした覚えはない。
「『証』がそこまではっきり出ていれば使えるだろうな」
詠一は結界ギリギリのベットの上に胡座をかいた。
結界の向こう側は霞んでいて表情までは見えないが、不思議と口調は穏やかに聞こえる。
「だけど、継承の儀を受けてないし」
「継承の儀も何もあったもんじゃないだろ。前総帥はとうの昔に死んでる」
「そんな事、誰も……」
要さえも言っていなかった。
「まあ、それはそうか、前例を知る者がいないからな」
詠一は随分と気を抜いているのか、首を左右に傾けストレッチをしている。
「総帥が予期せぬ事態で逝去した場合、後継となる者は『証』の有無で選ばれていた。そもそも、継承の儀なんて建前みたいなもんで、無くたっていい。継承の儀がないと駄目な流れにしていただけだ」
葵は詠一が顔を向けていない事を確認してから、破かれた服の隙間から『証』を見た。
くっきりと現れていれば鮮やかな朱色なのに、肌の色に溶けて消えそうな程に薄まり、模様も朧げだ。
思い返すと、要は『証』が出ただけでかなり衝撃的な反応をしていた。
『証』が出ただけ、継承の儀を受けなければ能力は引き継がれないと言う前提であれば、そこまで深刻な段階ではなかったのではないかと、今なら思える。
(要くん、知ってたのかも)
『証』の出現がイコールで能力の継承、能力を得れば総帥の資格を有すると分かっていたなら納得できる。
結界の能力を使いたいと言った時の態度も頷ける。
そう思うと、涙が浮かんだ。

今、会いたくてたまらない。
きっと今頃、懸命に探している。
逢いたい…

「あの男が恋しいわけか」
泣いていることに気づいたのか、詠一が酷く優しい声をかけてきた。
「だったら解放してくれるの?」
膝を抱えこみ、葵は顔を伏せる。
「これをどうにかしない限り、無理だろ」
詠一がコンコンと結界を叩いて見せた。
「…………じゃあ、どうにかしたら解放して」
「それとこれとは別問題だな」
「それなら放っておいて」
今更ながらじわじわと詠一に対する怒りが湧き上がってきた。
服を破かれ、キスされ、あちこち触られた嫌悪感が胸を締め上げてくる。
自分の体が汚れた気がする。
(気がするんじゃない…汚れたんだ)
例えようもない罪悪感と劣等感が頭をもたげた。
「ここから出られないんだから、見張ってなくていいでしょう?」
少しでも詠一に消えて欲しい。
「そう言うなよ。これから長い付き合いになるんだから」
「冗談はやめてっ」
そんな事態、耳にしただけでゾッとした。
「冗談じゃない、至って本気だよ」
「私は長く付き合うつもりは……」
そう言えば詠一の目的、欲しいものって。
ショックのあまり忘れていたが、葵はあの時に言っていた詠一の言葉を思い出す。
『証を持つ君そのものだよ』
一族再興ではない、それでいて総帥の『証』を必要とするのは何故だろうか。
詠一は何をしたいのだろうか。
それがわからないまま要の元へ戻っていいのだろうか。
現状を打開する力がないなら、現状を利用するのも一つの戦略に思えた。

最大限、現状を利用して、有益な情報を引き出す。
第一に結界の制御コントロールを身につける。
もう二度と触られたくない。
触らせない。
そして要の元に帰ろう。

「とりあえず、だ。結界の発動おめでとう」
結界のせいで表情は読めないが、詠一は嬉しそうなな声を弾ませながらベットを降りた。
「君の『初めて』に出会えて光栄だよ」
勘に触る言い回しに葵は不快感を覚えながら切り裂かれた胸元の服をギュッと握りしめる。
「着替えを用意するよ。もっとも着替える為にはその結界、物質透過できないとだが」
そう言って詠一は笑ったようだった。
そのまま扉の向こうへと消える。
悔しいけれど詠一が言う通りで、兎に角、自分自身をも閉じ込めているこの結界をどうにかしなければいけない。
(ぶっしつとうか?物を通せる状態?)
葵は結界に手を当てる。
感触のない磨りガラスそのもの。
見せたくない、拒みたい、そんな気持ちを表した様な防御壁。
(これ具現化だ……)
治癒能力とは違い、目に見えて触れている。
要が水を蛇へと変える様に、結界の壁も思う仕様に変化できるかもしれない。
葵は結界に片手のひらを当てたまま、坐禅を組んだ。
『まずは、感覚を探ります』
目を閉じると、あの日に聞いた要の声が蘇る。
己の体の中にある音に耳を澄ませ、体の中にある流れを知る。
脈打つ、命の流れ…
誘導してくれるあの指先はない。
自分で流れを掴むしかない。
(えっと…確か、感じる様を、素直に受け止め、感覚を研ぎ澄ます)
要の言葉を思い浮かべる。
鼓膜の近くで聞いたその声を、背中から伝わる体温を…
『鼓動の速さ…肌への刺激、体温、…血の流れを感じ、イメージしてください』
その胸に耳を寄せると聞こえてくる鼓動、滔々と流れる大河の様に、乱れなく流れる逞しい律動。
体温の低い指先が優しく労わる様に触れる肌の記憶。
指先も、手のひらも、細いがしっかりと逞しい腕も、擦れ合う肌も、粘膜の細部に至るまで…
意識すればするほど、要の体温を思い出してしまう。
まるでその温もりがなければ、自分の体温など意味が無いようにさえ思えてくる。
結界に当てた手のひらが震え、葵は溢れる涙を堪えた。
自分の体に耳を澄ますと、嘆きばかりが聞こえてくる。
会いたい、逢いたいと痛切に心が叫ぶ。
引き裂かれた何かを求めるように。
離れている今が堪らなく寂しい。
狂おしいほどに触れて欲しくなる。
結界をコントロールしようとして、こんな気持ちになるなんて…
葵は涙を拭い、結界に両手を当てた。
簡単に制御できるものじゃないのはわかっている。
だけれど、帰りたい。
どうしても、要の元へ帰りたい。
痛切な想いで葵は目を閉じ、感覚を研ぎ澄ます。
今必要なのは、きっと想いの具現化だ。
視界はクリアにしたいし、結界が固定されたものでは困る、防御壁の機能は欲しいけど、物質透過はして欲しい。
自分に合わせて移動してくれる結界。
フッと手のひらにあった抵抗が消え、一気に視界が開けた。
結界が消えたように思える。
ベットから降りてみるが、そこに何かがあるようには見えない。
多くを望み過ぎて消してしまったようだ。
消えたら消えたで、新たに結界を作り出せるのか不安になった。
監禁されている今の状況下、身を守る手立ては欲しい。
(……どうしよ)
葵は青ざめて立ち尽くした。


詠一は缶コーヒー片手にモニターを眺め、ほくそ笑む。
日向 葵がいる部屋にはカメラが仕掛けてあり、部屋のどこに居ても様子を伺えるようになっている。
強制的にだが、結界の発動は確認できた。
今回の目的は果たしている。
(恋君の元に戻ろうと必死だな)
恋しがり、泣いて、奮起して、恋しがり、また泣く。
感情の機微が見て取れる様は面白い。
何を考えているのか全く窺い知れないあの男とは対照的である。
そして野良猫みたいに警戒心剥き出しで威嚇してきたあの少女とも違う。
片鱗があるとすると、時折垣間見せる気の強さくらいか。
日向 葵にはまだまだ見えない部分が多い。
なぜ接触からの覚醒だったのか、しかも能力の覚醒が極端に遅い。
『証』が出たからにはそれなりに天使えの血が濃いはず……能力の覚醒は容易いはずだが。
画面の中の日向 葵は扉や窓のチェックを始めている。
捕らえられ部屋の片隅で震えるような女ではないあたりは、実に興味深い。
欲を言えば、このまま手元に置いてみたいが、あの男が黙ってはいないだろう。
あの男が有する西園寺グループの組織力を敵に回すにはまだ足りないものがある。
恐らく逃げ切れてもあと2日程度……
(それまでは楽しむとしよう)
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