婚約破棄?いいえ、国家処理です。――女皇陛下は何もご存じありません

あう

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第21話 塩プリン事件

第21話 塩プリン事件

 久しぶりに、客が来ることになった。

 といっても、かつて伯爵家の応接間に列をなしていた上位貴族ではない。子爵家の遠縁という、微妙な立場の客人だ。

 それでも夫人は言った。

「まだ我が家の体裁は保たれていると、示さなければなりません」

 東棟は差し押さえ目前。倉庫は空になりつつある。借入証書は山積み。

 だが、銀器だけはまだ残っていた。

「甘味を出しなさい」

 夫人が命じる。

「ええと……プリンを用意いたしました」

 エルマが両手で盆を抱えて入ってきた。

 白く、つややかで、見た目は完璧だ。

「やればできるじゃない」

 セレスティアが鼻を鳴らす。

 子爵夫人が微笑む。

「伯爵家の甘味は評判と伺っておりますわ」

 その言葉に、夫人は胸を張った。

「当然です」

 銀のスプーンが、なめらかな表面を割る。

 最初に口に運んだのは、セレスティアだった。

 次の瞬間。

「しおっぱー!」

 高い悲鳴が応接間に響いた。

 子爵夫人の手が止まる。

 夫人が恐る恐る一口。

 顔が固まる。

「……塩?」

 アルドリックも口に入れ、すぐに吐き出した。

「どういうことだ!」

 エルマが目を丸くする。

「え? そんなはずは……」

 自分の皿を震える手で口へ。

 そして。

「しょっぱー!」

 慌てて吐き出す。

「す、す、すいません! 砂糖と塩を間違えました!」

 必死に頭を下げる。

 子爵夫人は引きつった笑みを浮かべたまま、そっとスプーンを置いた。

「お、お気になさらず……」

 だが目は完全に引いている。

「味見はしたのか!」

 アルドリックが怒鳴る。

「しました! ……たぶん……」

「たぶんとは何だ!」

 セレスティアは水を掴み、一気に飲み干す。

「こんな恥……!」

 夫人の顔は真っ赤だ。

 応接間に、微妙な沈黙が落ちる。

 子爵夫人はゆっくり立ち上がった。

「本日は、これで失礼いたしますわ」

 予定より早い辞去。

 玄関まで見送る間、誰も目を合わせない。

 扉が閉まった瞬間、夫人が叫ぶ。

「何をしているのあなたは!」

「申し訳ありません!」

 エルマは何度も頭を下げる。

 涙目だ。

 声も震えている。

 だが、テーブルの上に置かれた砂糖壺と塩壺は、よく見れば形が違う。

 蓋の印も違う。

 それを確認する余裕は、誰にもなかった。

 アルドリックは苛立ちを隠さない。

「次はないぞ」

「は、はい!」

 エルマは震えながら返事をする。

 だがその夜、王都では小さな噂が広まった。

 ――伯爵家の塩プリン。

 笑い話として。

 軍需投機の失敗に続き、応接間での失態。

 信用は、数字だけでなく、評判でも削られる。

 セレスティアは鏡の前で歯ぎしりする。

「どうしてこうなるのよ……!」

 答えはない。

 屋敷の中は、以前より少しだけ騒がしく、そして少しだけ軽くなった。

 秩序が崩れ始めている。

 だがまだ誰も、それが“序章”に過ぎないと気づいていなかった。

 エルマは厨房で静かに皿を洗う。

 泡の向こうで、小さく息を吐く。

 甘いはずのものが、しょっぱくなる。

 それは些細な失敗。

 そう、見える。

 だが伯爵家の崩れは、確実に一段深くなっていた。
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