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悲嘆
悲嘆からはじまる
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悲嘆の夢魔は、痛めた足をふり回すのをやめて、力なく足を下ろしていた。
見た目どおりならば、これで自在に動き回ることはできなくなっただろう。反対側の足も切り刻んでしまえば、完全にその場から動けなくなるはずだ。
ラトスは言葉の代わりに、夢魔の無傷の後ろ足を指差しながらセウラザの顔を見た。
セウラザはすぐにうなずき、剣をかまえる。大剣の剣身が分裂をはじめ、無数の刃となってラトスの左右に展開した。それを確認して、ラトスはまた走りだした。
悲嘆の夢魔までは、まだ距離がある。
ラトスは走りながら、夢魔の様子をじっと観察した。
人の腕に似た四本の前足のうち、一本は手首から先が無くなっている。だが、ふり回すように戦えばまだ使えるだろう。夢魔の破壊力が低下したとは言えない。
ラトスが切り刻んだ足は十分に痛めつけたので、だらりと黒い石畳の上に伸びていた。そのため、巨大な夢魔の身体は斜めにかたむいていた。一見、動きづらそうに見える。
しかし油断はできない。大きな四本の前足のうち、一本でもラトスの身体に届けば、ラトスとメリーの身体はつぶされてしまうことだろう。こちらがどれほど斬りつけても、向こうはたった一撃で勝負が決められるのだ。
それでも、自在に動き回ることができなくなれば、勝機はある。
ラトスは夢魔の無傷の後ろ足に向かって、飛ぶように走った。後ろには、先ほどと同じようにセウラザがぴたりと付いてきている。聴力は完全にもどっていないが、すぐ後ろからガチャガチャと甲冑の音が鳴っていた。
鈍く濁った金属音を聞きながら、ラトスは二振りの短剣をにぎりなおした。かすかに握力が弱まっているのが分かる。あまり時間はかけられない。この夢魔の先にも、まだ悪夢の回廊はつづいているのだ。ここで力を使い果たすわけにはいかない。
巨大な夢魔の身体が、目前にせまっていた。
ラトスは目を見開き、上体を低くして走りつづけた。
左右から赤黒い影がせまってきているのが、目の端に映っている。その影へ合わせるようにして、セウラザがはなつ無数の刃で作られた刃の壁が、ラトスの左右に展開していった。
伸びる短剣をかまえ、ラトスは剣先を夢魔の足に向けた。
同時に、夢魔の大きな鳴き声が、ひびきわたった。音の衝撃が全身をふるわせ、やっともどりかけた聴力をまたも奪っていく。三度目だからか、音の衝撃で頭の奥がふるえた。鋭い痛みが、全身を駆け巡っていく。
ラトスは歯を食いしばって、短剣の剣身をいきおいよく伸ばした。
剣先が、赤黒い毛におおわれた足に突き刺さる。その感触を手に感じ取った瞬間、ラトスの左右から強い衝撃が走った。夢魔の前足が、左右に展開していた刃の壁にぶつかったのだ。
左右から、刃の壁に削り取られた黒い塵がふきだしてくる。塵が視界をさえぎった。だが、迷うことはない。伸ばした短剣に向かって、一直線に走るだけなのだ。
このまま行く。
そう思った時、ラトスの肩を、メリーが弱々しく何度もたたいてきた。
何だろうと、思う瞬間はなかった。肩をたたく理由がすぐに分かったのだ。
視界を奪う黒い塵以外の、濃い影が見えた。影は、またたく間に濃くなっていく。
上だ。
上から、別の腕がふり下ろされているのだ。
セウラザの刃の壁が、ラトスの頭上に展開できそうにないと、メリーがラトスの肩をたたいているに違いなかった。
ラトスは伸びた短剣の柄を強くにぎり、歯を食いしばった。伸びた剣をふりあげて、ひねる。そして、一気に縮ませた。剣身が縮む力で、ラトスの身体は前に引っ張られた。そのいきおいを殺さないように、ラトスは黒い石畳を蹴りあげる。身体は宙に浮きあがり、剣身が縮む力によっていきおいよく前方に飛びだした。
直後、ラトスのすぐ後ろで大きな衝撃が走った。ふり返らなかったが、直前までラトスが走っていた場所に、夢魔の腕がふり下ろされたのだろう。間一髪で夢魔の攻撃を避けたラトスの身体は、夢魔の足に突き刺さった短剣が縮むいきおいそのままに飛び、一息で大きな足に近付いた。
大きな足にたどり着く直前、ラトスは黒い短剣をかまえなおす。赤黒い毛におおわれた場所目掛け、鋭く突き立てた。
黒い短剣が突き刺さった周りから、黒い塵がふきだした。それを見てラトスは、何度も黒い短剣を夢魔の大きな足に突き刺した。次第に大きな足はふるえだし、崩れるように倒れはじめた。
両方の後ろ足に力を入れられなくなった悲嘆の夢魔は、その場で座り込むような形になる。
ラトスは夢魔の巨体に潰されないよう、素早く後退した。
目の前に、崩れ落ちた悲嘆の夢魔の胴体が落ちてきた。
夢魔の胴体は、前から見るかぎり、全て黒い鱗のようなものでおおわれていた。間近で見る鱗は、思っていた以上に分厚い。つらぬくのは困難に思えた。
ラトスは顔をあげる。黒い涙を流しつづける、夢魔の頭が見えた。
涙が、全身を濡らしつづけている。黒い鱗が、さらに分厚くなっているようだった。先ほどまで黒い鱗がほとんどなかった四本の前足には、腕全体をおおうように黒い鱗ができあがっている。
鱗でおおわれた腕を見て、ラトスはにがい顔をした。この硬い鱗は、刃がたやすくとおらない。セウラザの刃の壁も、今までどおり防げないだろう。
ラトスは、夢魔の周囲を見回した。崩れ落ちた大きな後ろ足は、左右に伸びている。まるで理性を持って、黒い石畳の道を塞いでいるかのようだった。何とか乗り越えていけなくもないが、夢魔が見逃すとは思えない。もたついたところに四本の前足がふり下ろされたら、たやすく潰されてしまう。
悪徳の悲嘆そのものだと、ラトスはにがい顔をして思った。
悲嘆が悪徳とされるのは、涙を他人に見せつけ、涙を武器や防具として使うからだ。そして、自らはその場で動かず、相対する者を己の意に添うように行動させる。
今の状況が、まさにそれだった。
崩れ落ちて左右に広がった後ろ足を利用して、ラトスたちの動きを制限しようとしている。
ただ泣いているだけに見えるが、愚かではないのだ。
きっと最初から、隙をついて突破するという方法は取れなかった。だが、涙によって生まれた黒い鱗は、正面から崩せそうもない。
ラトスは短剣をにぎりなおしてみた。
明らかに握力が弱くなっている。これ以上小競り合いをする余裕は無さそうに思えた。悲嘆の夢魔と戦う前から、慣れない戦いをつづけてきたのも蓄積されているのだろう。
そろそろ終わらせてしまいたい。
だが、どうやって?
じっと夢魔を観察しているうちに、崩れ落ちて泣きつづけていた夢魔が動きはじめた。黒い涙が固まって、全身が真っ黒になっている。赤黒い毛はほとんど見えなくなっていた。それを見て、ラトスは舌打ちした。
もう悩んでいる暇はない。
ラトスはふり返って、後ろにひかえていたセウラザを見た。
セウラザは、無表情のままラトスを見ていた。ラトスがにがい顔をしながら短剣をにぎった腕を頭の高さまでかかげると、彼は静かに目をつぶり、うなずいた。
悲嘆の夢魔なら、勝ち目はある。
ラトスは前に向きなおり、泣きつづけている夢魔の顔をにらみつけた。
涙で真っ黒になった夢魔の顔が、妹を失ったばかりの自分のようだと、ラトスは思った。
ならば、これを越えなければ。
握力が弱まった手で、ラトスは二振りの短剣をなるべく強く、にぎりしめた。
目の前の巨大な夢魔が、ゆっくりと四本の前足をふりあげている。
それを見あげながら、ラトスとセウラザはゆっくりと後退した。
退いていく二人を見て、夢魔は泣きながら大きな鳴き声をはなつ。同時に、四本の前足をふり下ろした。
音の衝撃によってラトスとセウラザは一瞬硬直したが、落ちてくる四本の前足の軌道を見ながら、後ろに飛んで避けた。避けた直後、ラトスは切り返すようにして前方に走りだす。黒い石畳にたたきつけられた夢魔の前足に飛び乗った。伸びる短剣の剣先を、踏みつけた前足に向ける。鋭い音をたてながら剣身を伸ばし、夢魔の足をつらぬいた。
夢魔の足をつらぬいても、ラトスはそのまま剣身を伸ばしつづけた。
伸びるいきおいでラトスの身体が浮きあがる。そしていきおいよく飛びあがった。狙いは、巨大な夢魔の頭上だ。ふるえだした手を叱咤して、ラトスは伸びる短剣の柄を必死につかんだ。
やがて巨大な夢魔の頭の前まで、ラトスの身体が舞いあがる。
その身体を追うようにして、下から三本の夢魔の前足がふりあげられた。短剣を伸ばした力だけで夢魔の上空に舞いあがっただけのラトスには、ふりあげられた夢魔の前足は避けられない。
頼むと、ラトスは祈るように下を見た。
そこには、セウラザの刃の壁が展開していた。
ふりあげられた三本の夢魔の前足は、刃の壁に激突した。その衝撃を足の下で感じたラトスは、刃の壁を見据えながら黒い短剣をかまえた。黒い鱗におおわれた夢魔の前足は、刃の壁ではおそらく耐えられない。だが、いきおいは殺せているはずだ。そう信じて、刃の壁に向かって、黒い短剣をかまえた。
そしてついに、刃の壁は砕けた。夢魔の三本の前足が、姿をあらわす。
前足をおおっていた黒い鱗は、いくらか剥がれ落ちていた。ふりあげられたいきおいも多少弱まっている気がする。
おさえられるだろうか。
黒い短剣の剣身に、夢魔の三本の前足のうち、一本がふれた。その衝撃は、予想以上に重かった。短剣をにぎる腕が砕けるのではないかと思うほどだった。
短剣の剣身は、夢魔の前足に深く食い込む。黒い塵がふきだした。だが、ふりあがる前足のいきおいは止まらない。短剣をにぎるラトスの手が、腕が、肩が悲鳴をあげた。
駄目だったか。
ラトスがそう思った瞬間、目の前に黒い靄のようなものが渦巻きはじめた。
戦っている最中だったので、ラトスはその黒い靄が一瞬、夢魔の身体からふきだしている黒い塵なのかと思った。しかし、そうではなかった。
これは、今まで時々自身におそいかかってきていた、あの黒い靄だ。
なぜこんな時に?
ラトスは、傷のある頬を引きつらせた。黒い靄は、ラトスの意に反して、渦を巻きながら広がりつづけていく。
ついに黒い靄が目の前をおおい尽くしたとき、ラトスの周りの時間が止まったようになった。
黒い短剣の先に、夢魔の圧力を感じない。
何が起こったのだ。ラトスは驚いたが、自身の顔は引きつったまま動かなかった。
目の前で渦巻いている黒い靄が、ゆっくりと動いていく。次第に、黒い短剣をにぎっている腕の周りに集まりはじめた。そして、夢魔からふきだしている黒い塵をむさぼるようにして吸いこみはじめた。黒い靄は、黒い塵を取りこんだ分だけ大きく、濃くなっていった。
その様子は、実に気味が悪いものだった。
黒い靄が、生きているかのように動いていたからだ。
ラトスは恐ろしくなって、うごめいている黒い靄からはなれようとした。しかし、時間が止まっているからなのか、身体は動かなかった。
周囲の黒い塵を食い尽くした黒い靄は、黒い短剣をにぎっているラトスの左手の上を這いまわりはじめた。そして、手の表面に貼り付くと、黒い靄は左手に吸いこまれていった。
その直後、黒い短剣をにぎる左手に、夢魔の圧力を感じた。
いつの間にか、ラトスの周囲の時間は流れはじめていた。何が起きたのかと、混乱している暇はない状態にもどされた。
夢魔の三本の前足が、鞭のようにおそいかかってきている。
そのうちの一本は、ラトスがにぎる黒い短剣で、まだおさえこんでいた。その後ろから、二本の腕がせまっている。すぐにでも目の前の一本をはじき返して、次の腕に備えなければならない。
ラトスは、気味の悪い黒い靄のことを頭から追いだした。
黒い短剣をにぎる腕に力をこめ、押しだす。
なんだ?
腕を押しだした瞬間、ラトスの肩ががくりと前方にずれた。
軽い。
夢魔の前足から圧力は感じるが、腕が砕けるほどの圧力が消えていた。ラトスの左腕ひとつで、楽々と押し返せるほどになっている。
何か不測の事態が、夢魔に起こったのだろうか。
ラトスの身体をあと少しで吹き飛ばせる絶好の機会だったはずだ。好機を逃してでも対処しなくてはならないことが、今起こったのだろうか。
まさかと思って、ラトスは腕を伸ばしながらセウラザがいるほうに目を向けた。
セウラザは剣をかまえたままだった。散り散りになった無数の刃を回収するため、新しい行動に移ってはいない。夢魔の別の攻撃がはじまっているようにも見えなかった。
なぜ攻撃が軽くなったのか。
刹那の間に、周囲に目を向けて考えてみたが、ラトスには分からなかった。だが、この好機を逃すわけにはいかない。今は目の前に集中して、この三本の前足をはじき返すだけだ。
ラトスは軽くなった最初の前足に向けて、黒い短剣を押しだしながら横に薙ぎ払った。はじかれたその足は、今までにないほどの黒い塵をふきだして、崩れ落ちていった。
つづけて二本、足がせまってくる。
ほぼ同時に、ラトスの身体をはさみこむように、左右から飛んできていた。
同時にさばけるだろうか。
逡巡した瞬間、ラトスの右肩をメリーの手がたたいた。
肩をたたくメリーの手の力は、弱々しいものではなくなっていた。ラトスは、右側にふり返る。メリーの顔は見えなかったが、ラトスの後ろで、メリーの腕が垂れさがっていた。その腕の先には、銀色の細剣がにぎられていた。剣身に、わずかな光が集まりはじめている。
それを見て、ラトスは背中にいるメリーにうなずいてみせた。
左側から飛びこんでくる夢魔の前足に向けて、黒い短剣をかまえる。剣先が、巨大な足に深々と突き刺さった。
同時に、ラトスの右後ろから光があふれた。メリーの剣の光だ。右からおそいかかる夢魔の足を受け止めたのだろう。ラトスの右頬に、チリチリと衝撃の圧が伝わってくる。
弱っているメリーの腕では、夢魔の攻撃を長く受けつづけられないだろう。
ラトスは、突き立てた黒い短剣を思いきり右方向に薙ぎ払った。左側の夢魔の前足が吹き飛ぶ。その足も、最初の前足と同様に軽かった。黒い塵をふきだし、崩れ落ちていく。
崩れ落ちる左側の前足を目端に見ながら、ラトスは身体を右方向にねじった。
右からおそいかかってきていた最後の前足に、黒い短剣を横から突き立てる。その足はメリーの剣の光に当てられて、すでにだいぶ弱っていた。
ラトスは歯を食いしばる。いきおいそのままに、身体をねじった。夢魔の最後の前足に、短剣が深く食い込む。
黒い塵が、破裂するようにふきだした。同時に、右側からおそいかかってきていた前足は、半分吹き飛んだ。宙で崩壊し、落ちていく。
これで終わったと、ラトスは伸びつづける短剣の柄をにぎりしめた。真下には、悲嘆の夢魔の頭が見えた。
悲嘆の夢魔は涙を流しながら、ラトスとメリーの姿を見あげていた。
狼のような大きな口を開けている。
飛びあがって噛みつきたくとも、傷付いた両足には力が入らないだろう。四本の前足もない。この夢魔には、もう打つ手がない。
ラトスは、伸ばしていた短剣の剣身を元の長さにもどした。落下しながら、もう一度剣身を伸ばす。狙うは、悲嘆の夢魔の巨大な背中。
悲嘆が悪徳なのは、人にその涙を見せつけて、武器や防具とするからだ。
ならば背中には、涙が流れていかない。
見えないところで涙するのは、美徳だからだ。
ラトスが伸ばした短剣の剣身は、悲嘆の夢魔の背中に突き刺さった。落下しながら突き刺さったので、剣は夢魔を深くつらぬきながら引き裂いていく。同時にラトスは、剣身を徐々に縮めていった。夢魔の頭の上から、首の裏側に降り立つ。
夢魔の首裏から見下ろすと、夢魔の背中にはほとんど黒い鱗が見当たらなかった。尻尾にだけ、黒い鱗が付いている。ラトスが予想したとおり、背中側は無防備同然だった。
「じゃあ、な」
ラトスは夢魔の首の後ろから、小さく声をこぼす。
涙を流しつづけている夢魔に向けて、黒い短剣をかまえた。
黒い剣先が、夢魔の首をとらえて鈍く光る。
これで終わりだ。ラトスは昔の自分を思い出しながら、いきおいよく黒い短剣を夢魔の首に突き立てた。
黒い塵が、これまでにないほど噴きだす。
悲嘆の夢魔が、大きな鳴き声をあげた。鳴き声は、ラトスたちの耳を強く刺激することはなかった。ただ、悪夢の回廊の暗闇に虚しくひびきわたって、消えていった。
夢魔の巨体が、ゆっくりと崩れ落ちる。
セウラザは、黒い石畳の上でラトスとメリーの様子を見あげていた。夢魔の巨体が、前かがみになって倒れてくるので、素早く後退する。同時に無数の刃をすべて回収して、元の剣身の形にもどしはじめた。
セウラザの甲冑は、ところどころ破損していた。自身の防御を棄てて、できるかぎりラトスを守ろうとしたのだろう。毅然として立ってはいたが、なかなかに痛々しい姿だった。ラトスは少し、申し訳ない気持ちになった。
「まさか、倒すとは」
崩れ落ちた夢魔の首から飛び降りてきたラトスを、セウラザは驚いた表情で出迎えた。
「運が良かった。こいつの注意が逸れなかったら、危ないところだった」
ラトスは二振りの短剣をにぎったまま両手を左右に軽く交差させると、長い溜息をついた。
ふり返って、悲嘆の夢魔を見あげる。巨大な身体は、黒い塵でおおわれはじめていた。こんな巨体に、本当に勝ったのか。ラトスは信じられない気持ちでいっぱいになった。
実際、三本の夢魔の前足がおそいかかってきていたとき、夢魔が力をぬかなければ、この場で立っている三人は、残らずたたき潰されていただろう。
「注意が逸れた?」
「ああ。こいつが、急に力を抜きやがったんだ」
「……そうなのか。そんな様子はなかったが」
セウラザは首をかしげながら、黒い塵になっていく夢魔とラトスを交互に見た。直後、セウラザは目を見開いて、ラトスの左手をにらみつけた。
「ラトス。その手はどうしたのだ」
大剣をにぎりしめながら、セウラザはラトスの左手を指差した。
何のことだと、ラトスは黒い短剣をにぎっている左腕を頭の高さまで上げる。見ると、左手の指先がわずかに黒く変色していた。まるで火に焦げたかのようだ。
「火傷のようだな。特に痛みはない」
ラトスは正直に応えた。
見た目は奇妙だが、本当に痛みはなかった。夢魔の攻撃を受け止めた時はバラバラになって壊れてしまうのではないかと思ったが、今はその痛みもない。むしろ軽くなったと言ってもいい。
戦っている最中に見えた、黒い靄も消えている。黒く変色した指先をふれてみたが、特に違和感はなかった。
「心配ない。大丈夫だ」
「……そうか」
セウラザは、ラトスの返事に納得できないらしい。怪訝な表情のまま、ラトスの左手をしばらく見ていた。
いつもの無表情はどこに行ったのだと思ったが、たまには違う表情を見るのも悪くない。ラトスは内心面白がって、セウラザの顔をのぞくのだった。
見た目どおりならば、これで自在に動き回ることはできなくなっただろう。反対側の足も切り刻んでしまえば、完全にその場から動けなくなるはずだ。
ラトスは言葉の代わりに、夢魔の無傷の後ろ足を指差しながらセウラザの顔を見た。
セウラザはすぐにうなずき、剣をかまえる。大剣の剣身が分裂をはじめ、無数の刃となってラトスの左右に展開した。それを確認して、ラトスはまた走りだした。
悲嘆の夢魔までは、まだ距離がある。
ラトスは走りながら、夢魔の様子をじっと観察した。
人の腕に似た四本の前足のうち、一本は手首から先が無くなっている。だが、ふり回すように戦えばまだ使えるだろう。夢魔の破壊力が低下したとは言えない。
ラトスが切り刻んだ足は十分に痛めつけたので、だらりと黒い石畳の上に伸びていた。そのため、巨大な夢魔の身体は斜めにかたむいていた。一見、動きづらそうに見える。
しかし油断はできない。大きな四本の前足のうち、一本でもラトスの身体に届けば、ラトスとメリーの身体はつぶされてしまうことだろう。こちらがどれほど斬りつけても、向こうはたった一撃で勝負が決められるのだ。
それでも、自在に動き回ることができなくなれば、勝機はある。
ラトスは夢魔の無傷の後ろ足に向かって、飛ぶように走った。後ろには、先ほどと同じようにセウラザがぴたりと付いてきている。聴力は完全にもどっていないが、すぐ後ろからガチャガチャと甲冑の音が鳴っていた。
鈍く濁った金属音を聞きながら、ラトスは二振りの短剣をにぎりなおした。かすかに握力が弱まっているのが分かる。あまり時間はかけられない。この夢魔の先にも、まだ悪夢の回廊はつづいているのだ。ここで力を使い果たすわけにはいかない。
巨大な夢魔の身体が、目前にせまっていた。
ラトスは目を見開き、上体を低くして走りつづけた。
左右から赤黒い影がせまってきているのが、目の端に映っている。その影へ合わせるようにして、セウラザがはなつ無数の刃で作られた刃の壁が、ラトスの左右に展開していった。
伸びる短剣をかまえ、ラトスは剣先を夢魔の足に向けた。
同時に、夢魔の大きな鳴き声が、ひびきわたった。音の衝撃が全身をふるわせ、やっともどりかけた聴力をまたも奪っていく。三度目だからか、音の衝撃で頭の奥がふるえた。鋭い痛みが、全身を駆け巡っていく。
ラトスは歯を食いしばって、短剣の剣身をいきおいよく伸ばした。
剣先が、赤黒い毛におおわれた足に突き刺さる。その感触を手に感じ取った瞬間、ラトスの左右から強い衝撃が走った。夢魔の前足が、左右に展開していた刃の壁にぶつかったのだ。
左右から、刃の壁に削り取られた黒い塵がふきだしてくる。塵が視界をさえぎった。だが、迷うことはない。伸ばした短剣に向かって、一直線に走るだけなのだ。
このまま行く。
そう思った時、ラトスの肩を、メリーが弱々しく何度もたたいてきた。
何だろうと、思う瞬間はなかった。肩をたたく理由がすぐに分かったのだ。
視界を奪う黒い塵以外の、濃い影が見えた。影は、またたく間に濃くなっていく。
上だ。
上から、別の腕がふり下ろされているのだ。
セウラザの刃の壁が、ラトスの頭上に展開できそうにないと、メリーがラトスの肩をたたいているに違いなかった。
ラトスは伸びた短剣の柄を強くにぎり、歯を食いしばった。伸びた剣をふりあげて、ひねる。そして、一気に縮ませた。剣身が縮む力で、ラトスの身体は前に引っ張られた。そのいきおいを殺さないように、ラトスは黒い石畳を蹴りあげる。身体は宙に浮きあがり、剣身が縮む力によっていきおいよく前方に飛びだした。
直後、ラトスのすぐ後ろで大きな衝撃が走った。ふり返らなかったが、直前までラトスが走っていた場所に、夢魔の腕がふり下ろされたのだろう。間一髪で夢魔の攻撃を避けたラトスの身体は、夢魔の足に突き刺さった短剣が縮むいきおいそのままに飛び、一息で大きな足に近付いた。
大きな足にたどり着く直前、ラトスは黒い短剣をかまえなおす。赤黒い毛におおわれた場所目掛け、鋭く突き立てた。
黒い短剣が突き刺さった周りから、黒い塵がふきだした。それを見てラトスは、何度も黒い短剣を夢魔の大きな足に突き刺した。次第に大きな足はふるえだし、崩れるように倒れはじめた。
両方の後ろ足に力を入れられなくなった悲嘆の夢魔は、その場で座り込むような形になる。
ラトスは夢魔の巨体に潰されないよう、素早く後退した。
目の前に、崩れ落ちた悲嘆の夢魔の胴体が落ちてきた。
夢魔の胴体は、前から見るかぎり、全て黒い鱗のようなものでおおわれていた。間近で見る鱗は、思っていた以上に分厚い。つらぬくのは困難に思えた。
ラトスは顔をあげる。黒い涙を流しつづける、夢魔の頭が見えた。
涙が、全身を濡らしつづけている。黒い鱗が、さらに分厚くなっているようだった。先ほどまで黒い鱗がほとんどなかった四本の前足には、腕全体をおおうように黒い鱗ができあがっている。
鱗でおおわれた腕を見て、ラトスはにがい顔をした。この硬い鱗は、刃がたやすくとおらない。セウラザの刃の壁も、今までどおり防げないだろう。
ラトスは、夢魔の周囲を見回した。崩れ落ちた大きな後ろ足は、左右に伸びている。まるで理性を持って、黒い石畳の道を塞いでいるかのようだった。何とか乗り越えていけなくもないが、夢魔が見逃すとは思えない。もたついたところに四本の前足がふり下ろされたら、たやすく潰されてしまう。
悪徳の悲嘆そのものだと、ラトスはにがい顔をして思った。
悲嘆が悪徳とされるのは、涙を他人に見せつけ、涙を武器や防具として使うからだ。そして、自らはその場で動かず、相対する者を己の意に添うように行動させる。
今の状況が、まさにそれだった。
崩れ落ちて左右に広がった後ろ足を利用して、ラトスたちの動きを制限しようとしている。
ただ泣いているだけに見えるが、愚かではないのだ。
きっと最初から、隙をついて突破するという方法は取れなかった。だが、涙によって生まれた黒い鱗は、正面から崩せそうもない。
ラトスは短剣をにぎりなおしてみた。
明らかに握力が弱くなっている。これ以上小競り合いをする余裕は無さそうに思えた。悲嘆の夢魔と戦う前から、慣れない戦いをつづけてきたのも蓄積されているのだろう。
そろそろ終わらせてしまいたい。
だが、どうやって?
じっと夢魔を観察しているうちに、崩れ落ちて泣きつづけていた夢魔が動きはじめた。黒い涙が固まって、全身が真っ黒になっている。赤黒い毛はほとんど見えなくなっていた。それを見て、ラトスは舌打ちした。
もう悩んでいる暇はない。
ラトスはふり返って、後ろにひかえていたセウラザを見た。
セウラザは、無表情のままラトスを見ていた。ラトスがにがい顔をしながら短剣をにぎった腕を頭の高さまでかかげると、彼は静かに目をつぶり、うなずいた。
悲嘆の夢魔なら、勝ち目はある。
ラトスは前に向きなおり、泣きつづけている夢魔の顔をにらみつけた。
涙で真っ黒になった夢魔の顔が、妹を失ったばかりの自分のようだと、ラトスは思った。
ならば、これを越えなければ。
握力が弱まった手で、ラトスは二振りの短剣をなるべく強く、にぎりしめた。
目の前の巨大な夢魔が、ゆっくりと四本の前足をふりあげている。
それを見あげながら、ラトスとセウラザはゆっくりと後退した。
退いていく二人を見て、夢魔は泣きながら大きな鳴き声をはなつ。同時に、四本の前足をふり下ろした。
音の衝撃によってラトスとセウラザは一瞬硬直したが、落ちてくる四本の前足の軌道を見ながら、後ろに飛んで避けた。避けた直後、ラトスは切り返すようにして前方に走りだす。黒い石畳にたたきつけられた夢魔の前足に飛び乗った。伸びる短剣の剣先を、踏みつけた前足に向ける。鋭い音をたてながら剣身を伸ばし、夢魔の足をつらぬいた。
夢魔の足をつらぬいても、ラトスはそのまま剣身を伸ばしつづけた。
伸びるいきおいでラトスの身体が浮きあがる。そしていきおいよく飛びあがった。狙いは、巨大な夢魔の頭上だ。ふるえだした手を叱咤して、ラトスは伸びる短剣の柄を必死につかんだ。
やがて巨大な夢魔の頭の前まで、ラトスの身体が舞いあがる。
その身体を追うようにして、下から三本の夢魔の前足がふりあげられた。短剣を伸ばした力だけで夢魔の上空に舞いあがっただけのラトスには、ふりあげられた夢魔の前足は避けられない。
頼むと、ラトスは祈るように下を見た。
そこには、セウラザの刃の壁が展開していた。
ふりあげられた三本の夢魔の前足は、刃の壁に激突した。その衝撃を足の下で感じたラトスは、刃の壁を見据えながら黒い短剣をかまえた。黒い鱗におおわれた夢魔の前足は、刃の壁ではおそらく耐えられない。だが、いきおいは殺せているはずだ。そう信じて、刃の壁に向かって、黒い短剣をかまえた。
そしてついに、刃の壁は砕けた。夢魔の三本の前足が、姿をあらわす。
前足をおおっていた黒い鱗は、いくらか剥がれ落ちていた。ふりあげられたいきおいも多少弱まっている気がする。
おさえられるだろうか。
黒い短剣の剣身に、夢魔の三本の前足のうち、一本がふれた。その衝撃は、予想以上に重かった。短剣をにぎる腕が砕けるのではないかと思うほどだった。
短剣の剣身は、夢魔の前足に深く食い込む。黒い塵がふきだした。だが、ふりあがる前足のいきおいは止まらない。短剣をにぎるラトスの手が、腕が、肩が悲鳴をあげた。
駄目だったか。
ラトスがそう思った瞬間、目の前に黒い靄のようなものが渦巻きはじめた。
戦っている最中だったので、ラトスはその黒い靄が一瞬、夢魔の身体からふきだしている黒い塵なのかと思った。しかし、そうではなかった。
これは、今まで時々自身におそいかかってきていた、あの黒い靄だ。
なぜこんな時に?
ラトスは、傷のある頬を引きつらせた。黒い靄は、ラトスの意に反して、渦を巻きながら広がりつづけていく。
ついに黒い靄が目の前をおおい尽くしたとき、ラトスの周りの時間が止まったようになった。
黒い短剣の先に、夢魔の圧力を感じない。
何が起こったのだ。ラトスは驚いたが、自身の顔は引きつったまま動かなかった。
目の前で渦巻いている黒い靄が、ゆっくりと動いていく。次第に、黒い短剣をにぎっている腕の周りに集まりはじめた。そして、夢魔からふきだしている黒い塵をむさぼるようにして吸いこみはじめた。黒い靄は、黒い塵を取りこんだ分だけ大きく、濃くなっていった。
その様子は、実に気味が悪いものだった。
黒い靄が、生きているかのように動いていたからだ。
ラトスは恐ろしくなって、うごめいている黒い靄からはなれようとした。しかし、時間が止まっているからなのか、身体は動かなかった。
周囲の黒い塵を食い尽くした黒い靄は、黒い短剣をにぎっているラトスの左手の上を這いまわりはじめた。そして、手の表面に貼り付くと、黒い靄は左手に吸いこまれていった。
その直後、黒い短剣をにぎる左手に、夢魔の圧力を感じた。
いつの間にか、ラトスの周囲の時間は流れはじめていた。何が起きたのかと、混乱している暇はない状態にもどされた。
夢魔の三本の前足が、鞭のようにおそいかかってきている。
そのうちの一本は、ラトスがにぎる黒い短剣で、まだおさえこんでいた。その後ろから、二本の腕がせまっている。すぐにでも目の前の一本をはじき返して、次の腕に備えなければならない。
ラトスは、気味の悪い黒い靄のことを頭から追いだした。
黒い短剣をにぎる腕に力をこめ、押しだす。
なんだ?
腕を押しだした瞬間、ラトスの肩ががくりと前方にずれた。
軽い。
夢魔の前足から圧力は感じるが、腕が砕けるほどの圧力が消えていた。ラトスの左腕ひとつで、楽々と押し返せるほどになっている。
何か不測の事態が、夢魔に起こったのだろうか。
ラトスの身体をあと少しで吹き飛ばせる絶好の機会だったはずだ。好機を逃してでも対処しなくてはならないことが、今起こったのだろうか。
まさかと思って、ラトスは腕を伸ばしながらセウラザがいるほうに目を向けた。
セウラザは剣をかまえたままだった。散り散りになった無数の刃を回収するため、新しい行動に移ってはいない。夢魔の別の攻撃がはじまっているようにも見えなかった。
なぜ攻撃が軽くなったのか。
刹那の間に、周囲に目を向けて考えてみたが、ラトスには分からなかった。だが、この好機を逃すわけにはいかない。今は目の前に集中して、この三本の前足をはじき返すだけだ。
ラトスは軽くなった最初の前足に向けて、黒い短剣を押しだしながら横に薙ぎ払った。はじかれたその足は、今までにないほどの黒い塵をふきだして、崩れ落ちていった。
つづけて二本、足がせまってくる。
ほぼ同時に、ラトスの身体をはさみこむように、左右から飛んできていた。
同時にさばけるだろうか。
逡巡した瞬間、ラトスの右肩をメリーの手がたたいた。
肩をたたくメリーの手の力は、弱々しいものではなくなっていた。ラトスは、右側にふり返る。メリーの顔は見えなかったが、ラトスの後ろで、メリーの腕が垂れさがっていた。その腕の先には、銀色の細剣がにぎられていた。剣身に、わずかな光が集まりはじめている。
それを見て、ラトスは背中にいるメリーにうなずいてみせた。
左側から飛びこんでくる夢魔の前足に向けて、黒い短剣をかまえる。剣先が、巨大な足に深々と突き刺さった。
同時に、ラトスの右後ろから光があふれた。メリーの剣の光だ。右からおそいかかる夢魔の足を受け止めたのだろう。ラトスの右頬に、チリチリと衝撃の圧が伝わってくる。
弱っているメリーの腕では、夢魔の攻撃を長く受けつづけられないだろう。
ラトスは、突き立てた黒い短剣を思いきり右方向に薙ぎ払った。左側の夢魔の前足が吹き飛ぶ。その足も、最初の前足と同様に軽かった。黒い塵をふきだし、崩れ落ちていく。
崩れ落ちる左側の前足を目端に見ながら、ラトスは身体を右方向にねじった。
右からおそいかかってきていた最後の前足に、黒い短剣を横から突き立てる。その足はメリーの剣の光に当てられて、すでにだいぶ弱っていた。
ラトスは歯を食いしばる。いきおいそのままに、身体をねじった。夢魔の最後の前足に、短剣が深く食い込む。
黒い塵が、破裂するようにふきだした。同時に、右側からおそいかかってきていた前足は、半分吹き飛んだ。宙で崩壊し、落ちていく。
これで終わったと、ラトスは伸びつづける短剣の柄をにぎりしめた。真下には、悲嘆の夢魔の頭が見えた。
悲嘆の夢魔は涙を流しながら、ラトスとメリーの姿を見あげていた。
狼のような大きな口を開けている。
飛びあがって噛みつきたくとも、傷付いた両足には力が入らないだろう。四本の前足もない。この夢魔には、もう打つ手がない。
ラトスは、伸ばしていた短剣の剣身を元の長さにもどした。落下しながら、もう一度剣身を伸ばす。狙うは、悲嘆の夢魔の巨大な背中。
悲嘆が悪徳なのは、人にその涙を見せつけて、武器や防具とするからだ。
ならば背中には、涙が流れていかない。
見えないところで涙するのは、美徳だからだ。
ラトスが伸ばした短剣の剣身は、悲嘆の夢魔の背中に突き刺さった。落下しながら突き刺さったので、剣は夢魔を深くつらぬきながら引き裂いていく。同時にラトスは、剣身を徐々に縮めていった。夢魔の頭の上から、首の裏側に降り立つ。
夢魔の首裏から見下ろすと、夢魔の背中にはほとんど黒い鱗が見当たらなかった。尻尾にだけ、黒い鱗が付いている。ラトスが予想したとおり、背中側は無防備同然だった。
「じゃあ、な」
ラトスは夢魔の首の後ろから、小さく声をこぼす。
涙を流しつづけている夢魔に向けて、黒い短剣をかまえた。
黒い剣先が、夢魔の首をとらえて鈍く光る。
これで終わりだ。ラトスは昔の自分を思い出しながら、いきおいよく黒い短剣を夢魔の首に突き立てた。
黒い塵が、これまでにないほど噴きだす。
悲嘆の夢魔が、大きな鳴き声をあげた。鳴き声は、ラトスたちの耳を強く刺激することはなかった。ただ、悪夢の回廊の暗闇に虚しくひびきわたって、消えていった。
夢魔の巨体が、ゆっくりと崩れ落ちる。
セウラザは、黒い石畳の上でラトスとメリーの様子を見あげていた。夢魔の巨体が、前かがみになって倒れてくるので、素早く後退する。同時に無数の刃をすべて回収して、元の剣身の形にもどしはじめた。
セウラザの甲冑は、ところどころ破損していた。自身の防御を棄てて、できるかぎりラトスを守ろうとしたのだろう。毅然として立ってはいたが、なかなかに痛々しい姿だった。ラトスは少し、申し訳ない気持ちになった。
「まさか、倒すとは」
崩れ落ちた夢魔の首から飛び降りてきたラトスを、セウラザは驚いた表情で出迎えた。
「運が良かった。こいつの注意が逸れなかったら、危ないところだった」
ラトスは二振りの短剣をにぎったまま両手を左右に軽く交差させると、長い溜息をついた。
ふり返って、悲嘆の夢魔を見あげる。巨大な身体は、黒い塵でおおわれはじめていた。こんな巨体に、本当に勝ったのか。ラトスは信じられない気持ちでいっぱいになった。
実際、三本の夢魔の前足がおそいかかってきていたとき、夢魔が力をぬかなければ、この場で立っている三人は、残らずたたき潰されていただろう。
「注意が逸れた?」
「ああ。こいつが、急に力を抜きやがったんだ」
「……そうなのか。そんな様子はなかったが」
セウラザは首をかしげながら、黒い塵になっていく夢魔とラトスを交互に見た。直後、セウラザは目を見開いて、ラトスの左手をにらみつけた。
「ラトス。その手はどうしたのだ」
大剣をにぎりしめながら、セウラザはラトスの左手を指差した。
何のことだと、ラトスは黒い短剣をにぎっている左腕を頭の高さまで上げる。見ると、左手の指先がわずかに黒く変色していた。まるで火に焦げたかのようだ。
「火傷のようだな。特に痛みはない」
ラトスは正直に応えた。
見た目は奇妙だが、本当に痛みはなかった。夢魔の攻撃を受け止めた時はバラバラになって壊れてしまうのではないかと思ったが、今はその痛みもない。むしろ軽くなったと言ってもいい。
戦っている最中に見えた、黒い靄も消えている。黒く変色した指先をふれてみたが、特に違和感はなかった。
「心配ない。大丈夫だ」
「……そうか」
セウラザは、ラトスの返事に納得できないらしい。怪訝な表情のまま、ラトスの左手をしばらく見ていた。
いつもの無表情はどこに行ったのだと思ったが、たまには違う表情を見るのも悪くない。ラトスは内心面白がって、セウラザの顔をのぞくのだった。
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