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貪食

敗走からはじまる

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 道がゆれだした。
 そのたびに、空気がはじける。

 貪食の夢魔は、じりじりと歩きはじめていた。
 すでに、壊れた一枚目の壁を越えて、二枚目の壁にせまっている。自らまき散らした赤紫色の液体を踏みにじり、進んできていた。

 ラトスとセウラザは、壁の下に降りていた。
 戦い方は、最初と変えない。下の二人が暴れまわって、壁の上のメリーが隙を突く。フィノアは高所で様子を見ながら、必要な場所に小さな枝葉の壁を作る。

「どっちの頭でもいい。とにかく潰すぞ」

 壁を下りる前にラトスが言うと、全員が静かにうなずいた。
 ペルゥは戦闘にこそ参加しないものの、伝令役だけ買ってでてくれた。今までの行動を見るかぎり、ペルゥは役に立つ魔法をいくつも使える。戦闘に加わらないのは惜しいことだと思ったが、ラトスはぐっと言葉を飲みこんだ。

 貪食の夢魔が、また一歩踏みだしてくる。
 強いゆれと、ふるえが走った。

 ラトスが、短剣をかまえる。
 柄をにぎる力は、弱まっていない。戦いつづけてはいたが、枝葉の壁に付いている花の力が効いているのだろう。まだしばらくは戦えると、ラトスは夢魔をにらみつけた。

 隣から、セウラザの剣がこまかく分かれていく音が聞こえる。
 呼応するように、黒い短剣がカチと鳴った。

 伸びる短剣の剣先を、夢魔の頭に向ける。
 ワニの頭が、じっとラトスを見ていた。口からこぼれていた赤紫色の液体は、もうない。意を決し、ラトスは剣身を一気に伸ばした。鋭い音がひびきわたる。同時に、隣からセウラザの無数の刃がはなたれる音がした。

 夢魔が、腕をかまえる。
 伸びた剣身が、夢魔の腕をつらぬいた。そのまま伸ばしつづけて、頭までつらぬいてやろうとしたが、無理だった。剣身が伸びる力よりも、腕を動かす力が強い。ラトスの身体は深く沈み、膝が崩れ落ちた。
 直後に、セウラザの無数の刃が、夢魔の腕にとどいた。さすがに何度も見せた攻撃だったため、夢魔は片腕ですべての刃を叩き落とした。

 先制攻撃がすべてはじかれ、ラトスは貪食の夢魔の知能の高さを理解した。この夢魔は、悲嘆の夢魔よりも強い。獣のような動きだが、本能だけで動いてはいないのだ。確実にラトスたちを殺すよう、考えて戦っている。

 ラトスは、伸ばした剣身を元にもどした。
 このままでは、隙を作れない。メリーが動きやすくするために、もっと二人で動き回るべきだろう。セウラザに顔を向けると、彼もまたラトスのほうに顔を向けていた。ラトスは何も言わず、短剣を自身の顔に近付ける。同時に、人差し指を立てた。

 夢魔の鳴き声が、ひびく。
 ラトスの人差し指が、前方に倒れた。

 二人が駆けだす。
 伸びる短剣を高くかかげ、上に伸ばした。夢魔の頭より高く伸びた剣身が、一気にふり下ろされる。合わせるようにして、セウラザの無数の刃が、夢魔の六つの足に向かってはなたれた。
 先に当たったのは、セウラザの刃だった。
 六つの足のうち、前方の二つが無数の刃にえぐられて、消えた。夢魔の巨体が、大きく前に倒れる。そこへ、伸びた剣身がふり下ろされた。剣はワニの頭をとらえていたが、夢魔は大きく身体をねじって避けた。それでも、長く伸びた刃は、夢魔の巨大な胴を大きく斬り裂いた。

 叫び声がひびく。
 これでメリーが攻撃するかと思ったが、彼女は動かなかった。
 なぜだと思って、ラトスは夢魔の様子を見る。眼前に巨大な尻尾が映った。巨大な体をねじりながら、長い尻尾をふり回しはじめていたのだ。せまりくる攻撃を避ける時間は、ラトスに残されていなかった。とっさに黒い短剣を前方に向ける。

 瞬間、目の前が真っ暗になった。
 何かが激しく軋み、折れる音がする。見ると、枝葉の壁が、ラトスの眼前に広がっていた。夢魔の巨大な尻尾を壁が押しとどめている。だが、枝は大きくゆがんでいて、今にも折れてしまいそうだった。
 あわててラトスは、横に飛んだ。直後、枝葉の壁は悲鳴のような音を立てて崩れた。

 真横にふり下ろされた巨大な尻尾は、ばたばたと小刻みにふるえていた。
 ラトスは、黒い短剣をいきおいよく突き立てる。黒い塵が噴き出し、尻尾は大きくふるえた。そこへ、セウラザの無数の刃が次々と刺さっていった。ふり返ると、セウラザがラトスに向かって何か叫んでいた。

「どうした!?」
「すぐ下がれ!」

 めずらしく口調を荒げるセウラザの声を受け、ラトスは周囲を確認することなく逃げだした。
 頭上が暗くなった。直後に、激しい衝撃が頭上から落ちてくる。ラトスは見あげることなく、走った。上から、黒い塵が降ってきていた。セウラザの刃の壁が、夢魔の攻撃を防いだのだ。

「すまない。助かった」

 ラトスは駆けながら、セウラザに短く礼を言う。彼はかすかに頭を縦にふると、二枚目の壁を指差した。

「一度、下がろう」
「どうしたんだ」
「夢魔が、暴れている。本気を出したのかもしれない」

 そう言って駆けている間、何度も後方から衝撃が走った。
 二枚目の壁の上で、フィノアが大樹の杖をふっている。光が何度もまたたいて、またたいた数だけ、後方から衝撃が走った。
 ふり返らなくても、分かる。様子見を終えた貪食の夢魔が、本来の攻撃力を発揮しだしたのだ。

 こうなる前に、倒しきれれば良かった。
 駆けながら、ラトスは強く唇を結んだ。

 二枚目の壁の入り口が見える。
 数度、石畳が大きくゆれた。足が取られそうになったが、耐えた。セウラザが駆けながら、後方に向けて無差別に無数の刃を飛ばしている。ラトスも、腕に取り付けてある小型の弩を、後方に向けた。弩の威力は、ラトスが思うより弱いものだった。小さな夢魔にしか効かないのだ。だが、無いよりは有るほうがいいだろうと、ラトスも後方へ無差別に矢をはなった。

 怯んだのかは、目視で確認できなかった。
 二人はふり返らずに、壁の入り口へ飛び込んだ。入口は小さく、少しつっかえた。ラトスはセウラザにうながされて、先に入り口をくぐった。直後、二枚目の壁全体が大きくゆれた。

「セウラザ、大丈夫か!」

 ふり返って、大声を出す。
 遅れて、セウラザの声が返ってきた。甲冑の金属音が、不規則に鳴る。

「問題ない」
「そういうのは、問題あるんだよ」

 姿を見せたセウラザの片足は、折れていた。ひざ下が、あり得ない方向に曲がっている。
 痛々しい姿だったが、セウラザは剣を杖代わりにして器用に歩いてきた。

「二人とも、三つ目の壁まで下がるよ! って、うわあ!」

 突然、頭の上にペルゥが飛んできて、叫び声をあげた。セウラザの痛々しい姿に、さすがのペルゥも顔をゆがめている。

「壁、持ちそうにないのか」
「たぶん、もう無理。メリーが壁の上からチクチクやってるけど、フィノアはもう逃がしたよ」
「そうか」

 ラトスはうなだれると、セウラザの身体を背負った。
 以前にメリーを背負ったときもそうだったが、重みは感じても、苦しさは無い。

「俺も、三枚目の壁に行く。メリーさんを下がらせてくれ」

 ペルゥを見あげて、ラトスは言う。ペルゥは黙ってうなずき、壁の上に飛んでいった。
 石畳が、強くゆれた。ラトスはよろめきながら走りだした。背中で、甲冑の金属音が鳴る。夢の世界でなければ、こんなに軽々と背負って走れないだろう。事態が悪化していくというのに、ラトスは妙に愉快な気分になった。
 大きく、衝撃が走る。
 二枚目の壁が崩れるのだろう。ラトスの頭上を、メリーが通過していった。小さな影も後につづいている。その光景もまた、愉快なものだとラトスは思った。

「笑っているのか。ラトス」

 後ろから、セウラザが静かに言った。
 ラトスの顔は、奇妙にゆがんでいた。笑顔なのか、苦しんでいるのか分からない表情になっていた。ゆがんだ口元から、笑い声が漏れでている。壊れているわけではない。笑いながらも、ラトスの頭の中は静かだった。

「ここからだ。セウラザ」
「そうだな」

 三枚目の壁にせまる。
 後方から再度、強い衝撃が走ってきた。轟音が、ひびきわたる。二枚目の枝葉の壁が、砕けたのだ。ついに後が無くなった。ここで倒さねば、勝ち目は薄い。

 三枚目の壁の入り口をくぐって、ラトスは壁を駆けあがった。
 上から様子を見ていたフィノアが、ラトスの背中にいるセウラザに駆け寄る。彼は無表情だったが、息が荒くなっていた。このまま戦えるかは怪しいところだ。
 ラトスはセウラザを背中から下ろして、夢魔のほうを見た。貪食の夢魔は、二枚目の壁を越えて、ゆっくりと歩いていた。余裕がある動きだと、ラトスは思った。二つの頭がじっとこちらを見ている。次で終わりだと、分かっているかのようだった。

「セウラザは、治るか?」
「やってみます」

 フィノアは短く答えると、大樹の杖をセウラザの足に向けた。
 杖の宝石がきらめく。じわりと温かい空気が流れた。温かい空気は、様々な色の光を混ぜこんで、セウラザの足をつつんだ。すると、足の周りに蔓が生えだした。蔓は、ぐるぐると足に巻き付きながら伸びていく。やがて折れた足全体をつつむと、葉をしげらせ、花を咲かせた。

「補強か」
「ごめんなさい。こんなことしか思いつかず……」
「いや、十分だろう」

 ラトスはフィノアの肩を叩くと、セウラザに声をかけた。
 セウラザは息が荒いままだったが、問題ないと短く返事した。ゆっくりと立ちあがり、蔓で補強された足の状態を確認する。

「走れはしないが、歩くことはできそうだ」
「十分だ」

 ラトスはうなずく。
 どのみち、ここが最後の壁なのだ。逃げることはない。勝つ以外の活路はないのだ。立ちあがったセウラザを見て、ラトスは彼の肩を軽く叩いた。セウラザは、ラトスに視線だけ向ける。小さくうなずき、夢魔のほうに視線をもどした。

 壁がゆれる。
 空気のふるえも、肌に伝わってくる。ゆれもふるえも、強くはなかった。威嚇する必要もないと感じたのかもしれない。メリーとフィノアの顔を見ると、緊張で青ざめていた。ゆるやかになった振動は、かえって恐れを生みださせていた。

「大丈夫だ。反撃開始と行こう」

 ラトスが明るい声をだすと、メリーだけ顔をあげた。
 フィノアは、うつむいている。セウラザとペルゥは、せまってくる夢魔をじっと見ていた。強い力に晒されて、全員向いている方向が変わっている。

「一つ、考えがある」

 ラトスは静かに言う。フィノアの肩が、かすかにゆれた。

「俺以外、全員壁に残ってもらう」
「ラトスさんは?」
「下で戦う」
「壁の上から、フィノアがラトスさんの補助をするのですか?」
「しない」

 短く応えると、ラトスはゆっくりと歩いてくる夢魔を指差した。
 貪食の夢魔に致命的な一撃を与えやすいのは、メリーだ。今までは、隙を作って攻撃させていた。だが、大暴れされたり、毒を吐かれるなどの反撃が強すぎた。反撃を意識したうえで、小さな隙に飛びこめるほど、メリーは戦い慣れていない。

 反撃に対処できれば、メリーは深く斬り込める。
 そのためには、強力な防御が必要だ。

「セウラザと王女さんは、メリーさんの補助に徹する。メリーさんが奴の頭を砕くまで、守り抜くんだ」
「ラトスさんは?」
「さっきも言った通り、俺は下でやる」
「一人でですか?」

 困惑した表情で、メリーが問い詰めてくる。ラトスは黙ってうなずいた。
 一人で戦える自信が、あるわけではない。これまでよりも鋭く集中しなければ、生きぬけないだろう。だが、メリーが早く頭を潰してくれれば、なんとかなる気もした。

「他の方法を思いつくなら、聞くが」

 ラトスが言うと、メリーは口をもごもごと動かしたが、なにも言い返さなかった。
 うつむいていたフィノアが、顔をあげている。じっとラトスの顔を見て、何かを考えているようだった。そのままフィノアは何も言わなかった。黙って腰をあげ、大樹の杖を強くにぎる。ラトスはフィノアに作戦の同意を求めると、少女は小さくうなずいた。

「セウラザ」
「なんだ」
「問題ないよな」
「ああ。問題ない」

 セウラザがうなずく。隣で、メリーが困った顔をして笑った。
 ラトスはペルゥの小さな頭を指でつつき、フィノアの肩を軽く叩く。壁を下り、腰の短剣をぬいた。小さな入り口をくぐり、枝葉の壁の前に立つ。

 貪食の夢魔が、ひたひたとせまっていた。
 石畳が不気味にゆれる。空気のふるえは、ほとんどなくなっていた。
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