キスが出来る距離に居て

ハートリオ

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カトレア伯爵邸は町の中心部から離れた自然豊かな場所に建っている。

いつから建っているのか分からないほどの古城だが、広い城内も広大な庭もキチンとメンテナンスされており、とても居心地がいい。




ずっと話して疲れたであろうアウレアをベッドに寝かせたシラン伯爵は、庭園を散歩しないかと若い二人を誘った。


もちろん、喜んで。


お茶会は一時間ほど前に終了しており、広大な庭園にはもう人影は無い。

すっかり後片付けも済んでおり、ほんの一時間前まで盛大なお茶会が開かれていたなんて信じられない。

暮れ始めたばかりの空はまだ明るく、淡いオレンジ色に染まった庭園は昼間とはまた違う、落ち着いた、それでいてどこかソワソワする様な美しさだ。



「この広大な庭園はアウレアの作品なんだ。
デザインして、植える植物を選別して、季節ごとに楽しめる様に、長い時間をかけて作り上げて来た‥‥
もちろん作業は庭師たちに任せているがアウレア本人も庭仕事を楽しんでいたよ。
‥‥つい数か月前まではね」



つい数か月前‥‥毒で体調を崩す前という事か。



「カトレア伯爵家を継ぐ事を前提に、是非今日からここで暮らしてほしい」


前を歩きながら庭園を案内していたシラン伯爵が、不意に若い二人に向き直りそう告げる。


それを目指してお茶会に乗り込んで来たはずのクレオメ・セロシアカップル。

だがカトレア伯爵にそう告げられると、揃って戸惑いの表情を浮かべて、



「今日すぐというのは‥‥」
「家族に相談してから‥‥」
「荷物をまとめるのにも時間が必要‥‥」



などと尻込みをする。



「急がせて申し訳ない。
先程の話にあったように、妻の体は毒に侵されており、かなり深刻なのだ。
体調のいい時は今日の様に起きて来て、長く話す事も出来るが、実はもうほぼ寝たきり‥‥いつ儚くなってもおかしくない状態なのだ。
妻は伯爵夫人を次の世代へちゃんと引き継ぎたいと望んでいる。
クレオメ嬢、出来るだけ妻の傍にいてやってほしいのだ。
もちろん、無理強いはしないが‥‥
今日のお茶会で妻が望んだのは君達だけなのだ。
出来たら、引き受けて欲しいと私も願っている」



静かな‥‥それでいてよく響く柔らかな低音の美声にそんな風に言われれば、『もちろん、喜んで』と受けてしまいたくなるが、それでも躊躇が勝る若い二人。



「もちろん、決めるのは君達だ。
だが我々も、待てる時間はそれ程長くは無い。
断るにしても、出来るだけ早く伝えて欲しい。
‥‥実は私も病を得ている。
妻同様にいつ迎えが来てもおかしくない」


「‥‥シラン様ッ!?
それは‥‥ッ
そんな‥‥ッ」



伯爵の言葉に俯いていた顔をガバと上げ、明らかに動揺したクレオメが苦し気な声を出す。



「申し訳ない。
若い君達には重い話だろう。
今日茶会に参加したのも軽い気持ちだったのかもしれないが‥‥
カトレア伯爵家を引き継いでほしい」



ウッッとセロシアは声を上げそうになる。

そうだ、軽い気持ちだった。

自分達が選ばれるとは思っていなかったし、もし選ばれても、後で『やっぱり無理です』と断ればいいと思っていた。

そう、俺はカトレア伯爵家を継ぐ気なんて一ミリも無い。

人に頼まれて、自分も興味ある『ある事』を調査する為に、カトレア伯爵邸に入り込みたかっただけなのだから。


これ以上嘘をつくのは申し訳ない。

伯爵夫妻はギリギリまで切羽詰まっている。

命の残り時間全てを掛けてカトレア伯爵家を次の世代に引き継ごうとしている。


自分は若いから‥‥
まだまだ人生は長く、時間はタップリある。


無意識に纏っていたそんな傲慢さに羞恥を感じ、俺は土下座したい気持ちになる。

そうだ、土下座して謝ろう。

正直に悪気は無かった、騙す事になってしまって申し訳なかったと謝って、他の誰かを探して下さいと言おう。

そう決意してシラン伯爵と目を合わせようと顔を上げた瞬間、スッと目の前にクレオメが立った。

隣りにいたのが前に移動しただけなのだが‥‥



「‥‥ッッ!?」



俺の時が止まった。

クレオメの表情は読めない。

無表情ではない。

だが読めない。

ただただ美しい。


鬼気迫るほどの美しさで俺を見上げるクレオメ。


吸い付きたくなる魅惑の唇が動く。



「お受けしましょうよ、セロシア様。
ね、お受けすると言って?
私と共に、カトレア伯爵家を継がせて頂くと」

「君と共に‥‥」

「ええ、私と共に」



そう言ってクレオメは俺の左手を取ると両手で包む様にして美しい顔を寄せ、手の甲に口付けを落とす。


その瞬間、物心ついたころから他人だけでなく家族にも『クールだ』と言われ続けて来た俺が、生まれて初めて傀儡となった。



俺はどうでも構わない。

大切なのは彼女の意見だ。

彼女がそうしたいのなら問題ない。



眼を上げれば、シラン様が真っ直ぐに俺を見つめている。

俺は、今まで感じた事の無いほどの幸福感に包まれながら口を開く。


もちろん、



「もちろん、喜んで。
シラン様、カトレア伯爵家を私たち二人に任せて下さい!」
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