キスが出来る距離に居て

ハートリオ

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全てが

不思議なほど

ゆっくり

エリスロニウムの

怒りに歪んだ顔

狂った琥珀色の瞳

声‥‥足音‥‥

エリスロニウムが後ろへガクと揺れる

体が――浮いた!?

消え‥‥!?


ファッ


‥‥!


目の前に突如現れた大きい背中

燃える様な赤い髪!

‥‥ああ!

セロシア様!!

来てくれた!!



ダーーーンッ!!


「グエェッ!!」





エリスロニウムがクレオメに対してまさに剣を振り下ろそうとした時――

事態に気付いたセロシアがエリスロニウムに追いつき、剣を持つ手を掴み、クレオメと逆方向にぶん投げた――

地面に叩きつけられたエリスロニウムは背中を強く打ち動く事が出来ない――

怒り過ぎて無表情のセロシアがエリスロニウムの手から長剣をもぎ取り、高く振り上げる――

セロシアの落ち着いたダークレッドの瞳は怒りに燃え明るい赤になっている。

その美しいほどの赤い瞳は無風の湖面の様に静かだ。

何故なら、やる事は決まっているから。

エリスロニウムの心臓に長剣を突き刺すだけだから。

愛する女性を殺そうとした男への対処はそれしかない。


死ね!!


地面に仰向け状態で動けないエリスロニウムはセロシアの静か過ぎる怒りと明確な殺意と無駄のない動きを目に映し、恐怖のあまり失禁し気を失う。



ビリッッ!



剣先がエリスロニウムに達する直前、何か衝撃が走りセロシアの動きが止まる。

今まで経験した事の無い痺れる様な衝撃―――これは!?



≪勘弁してやってくれないか?≫



ハッ‥‥!


セロシアがユラリと視線を向けた先には、カトレア伯爵が。

二階のバルコニーの手すりに手を置き、セロシアを見ている。


(今の衝撃は‥‥頭の中で響いた声は‥‥シラン様が!?
いや、まさか‥‥そう感じただけ‥‥だよな?)


そうは思ったものの、セロシアは心の中で答える。


(一つ貸し、ですよ?)


そしてエリスロニウムの近くの地面に剣を突き刺すと、クレオメの方へ振り返る。

クレオメは目を見開き、顔面蒼白で立ち尽くしている。



「ッ、もう大丈夫だ。
恐かっただろう‥‥
遅くなってすまない」



セロシアは優しくそう言ってクレオメの髪を撫でキスを落とすとフワリと抱き上げ、馬車へ向かう。

一刻も早くクレオメをこの場から遠ざけてあげたい。



「‥あッ‥‥クラネッ、ゴメンッ!
エリスには『クラネは面白いんだ』って話したつもりだったのに‥‥」

「二度と俺達の前に現れるな!
つぎにソイツを見掛けたら確実に殺してやる!
首に縄でもつけておけ!」



追いかけて来るポーチュラカの声に、忌々しそうにセロシアが言い放つ。

言葉を失くしたポーチュラカをそのままに、セロシアとクレオメは馬車に乗り込む。

セロシアは馬車の窓から屋敷のバルコニーを見上げたが、そこにカトレア伯爵の姿はもうなかった。



「行ってくれ」



御者に声を掛け、馬車は走り出す。



若い恋人達は、色々あったカトレア伯爵邸を後にする。



「‥‥フフ」

「あら、楽しそうなのね?
私はあの二人が行ってしまうのは寂しいわ」

「また会えるさ。
『一つ貸し』だそうだ。
借りは返さないとね」



そう言って軽く微笑んで肩をすくめる夫に、アウレアは『あらあら』と心の中で驚嘆する。

長く一緒に居ても何を考えているのかよく分からない夫。

その夫の珍しく楽しそうな様子に、もしかして夫も自分と同じ位あの若い二人を気に入っていたのかしらと顔をほころばせる。



「そうね、次に会うのが楽しみよね‥‥」








「もう、カトレア伯爵夫妻と会えることは無いんだな‥‥」



屋敷から森の中の長い一本道を駆け抜けやっと門を出たところでセロシアが呟く。



「そうですね‥‥
私はお二方が好きですから、寂しいです」



ようやく落ち着いたクレオメがそれに答える。



「‥‥!
クレオメ、もう大丈夫かい?」



どうやら独り言のつもりだったセロシアがクレオメの髪を撫でる。

馬車の中で二人は横並びに座り、セロシアはクレオメの肩を抱き、クレオメはぐったりとセロシアに寄りかかっている状態。

クレオメはセロシアの熱い胸板にピッタリと預けていた頭を少し離して紅潮した顔を上に向けて嬉しそうに微笑む。



「セロシア様、ありがとうございました。
セロシア様の背中が見えた時、ホッとして、嬉しくて‥‥
あの瞬間から、心は大丈夫でした。
体の方は、少し時間がかかりましたけど、今はもう全然大丈夫です!」

「良かった‥‥
‥‥俺は、まだダメだ」

「‥‥え?」

「まだ怖くて、心はずっと震えている。
もしも君を失う様な事があったらと思うと‥‥
怖くて怖くてどうしようもないんだ」

「セロシア様‥‥」

「これから先、出来るだけ側で君を守りたい。
だから‥‥俺と結婚して欲しい。
クレオメ‥‥愛しているんだ‥‥」



熱い声でそう言われたけど、クレオメは言葉を返さない。

今、二人は見つめっている。

(だから、言葉なんて要らないはず)

とクレオメは思っている。

ウットリと蕩ける様にセロシアを見つめ、微笑む。

それが返事‥‥あッ

堪らずセロシアが唇を重ねる。

クレオメはすぐに侵入して来たセロシアの舌に自分のも絡める。


(好きです、
愛しています)


だがすぐに唇は離され、クレオメを戸惑わせる。

セロシアの熱を帯びた瞳は美しく、愛しく、そして‥‥怖い?



「‥ちゃんと答えて。
クレオメ‥‥」



勿論気持ちは伝わっている。

それでも男は返事を強請る。



「‥ンッ‥セロシア様‥あ‥‥ンンッ」



クレオメは答えようにも唇を塞がれ続けて‥‥


『ちゃんと言葉にしなければいけない時は、ちゃんと言葉にするべき』


人生‥‥ましてや恋に経験の浅いクレオメが涙目できっちり学習した頃、



「‥好きだ‥‥
強い君も、弱い君も‥‥愛してる」



低いけど熱を持った声に耳元で切なげに囁かれ、ついにクレオメは意識を失ってしまう。



二人は行為に及んでいるわけではない。

だが、二人の熱気は馬車のガラス窓を曇らせ、外の世界と遮断し、二人だけの世界を作り上げている。




壮年の御者が気を利かせ、目的地を通り越して適当に馬を走らせる。

予定外に長距離を走らされている馬たちも若い二人の為にご機嫌で馬車を引く。



春と夏の中間の穏やかで爽やかな季節。

若い二人を乗せた馬車は、夏へと駆けて行く。





そうしてセロシアとクレオメがカトレア伯爵邸を後にして僅か三日後、

カトレア伯爵夫人、アウレアが息を引きとった。


そしてその三日後にカトレア伯爵、シランも夫人を追いかける様に亡くなる。




カトレア伯爵家は、新しい世代に代替わりした―――
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