主婦、王になる?

鷲野ユキ

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王の目覚め

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いつもならば一時間早く起きていて、家族の朝食と弁当を作り終えている頃合いだった。
けれどこの日の陽子はいつもと違かった。寝坊したせいなのかもしれない。慌ただしい作業の中、彼女はふと思いだしたのだった。自分が何者であるか、その正体を。
ああ嫌だ、卵買ってくるの忘れちゃった。
そのくらいの些細なことを急に思いだしたかのように、それは陽子の脳にぽっと浮かんだ。
わたしは――人々を統べ、幸福へと導く「王」ではなかったか。
まぶたに浮かぶ、王を慕う民衆たち。彼らに向かって微笑みを浮かべる、宝飾品で着飾った美しく威厳のある王。
それなのに、なぜわたしは朝からネギなど切っているのだろう?
この突如湧いた記憶に、驚いた陽子の手が止まる。
わたしが「王」?なにこれ、前世の記憶?それとも、変な夢でも見たのかしら。だから寝坊なんかしちゃって。
けれど戸惑う隙もなく間髪入れずかけられるのは「おい早くしろよ」という罵声。その声の主を思わず睨もうとして陽子はやめた。
なんだ、その目付きは。家事すらまともに出来ないくせに、寝坊なんかしやがって。
朝から難癖つけられても面倒だった。だから陽子は心のなかで悪態をつくに留めておく。
なによ、いちいち人の挙動を見ている余裕があるなら、少しぐらい手伝ってくれたっていいじゃない。
憤りが戸惑いを打ち消してしまった。それと同時に、この不思議な記憶への関心も失ってしまう。
寝ぼけてるんだわ、きっと。それより早く準備をして、あの人を追い出してしまわないと。言い返す気力もない陽子は、無言のまま切った長ネギを鍋へとブチ込んだ。

楠木陽子、37歳、主婦。夫は商社マンで中学生の男の子が一人。
二十歳で結婚したので就職経験もなし。いわゆるデキ婚というやつだ。別に早く結婚したかったわけでもないけれど、働くのも面倒だった。
一応周りの勧めで看護師学校に通ってはいた。潰しが効くからとりあえず資格だけでも取っておきなさいと。そう言われて通っていただけだから、別段陽子は乗り気でもなかった。看護師なんてそりゃナース服はかわいいかもだけど、仕事は辛そうだしなんだかなぁ。
その無気力さが陽子を結婚に導いたのかもしれない。五つ上の良一と合コンで出会って勢いベッドにもぐりこんで。あっという間に妊娠して結婚。そこまで急ぐつもりは陽子とてなかったのだけれど。
なにせ自分で言うのも何だけど、美人でモテモテだったし、わたし。自分でそう自負するくらいには容姿には自信があった。今思えば、もっといい条件の男とくっつけたのかもしれなかった。
もしくは、あのまま看護師として働いていたら自分はどうなっていたのだろう、とも。白衣の天使なんて言われて重宝されていたのかしら。
とはいえそれでも結婚当時は浮かれていたものだった。良一もその両親も、まあよくもこんな美人さんを捕まえて、とチヤホヤしてくれたものだった。景気が良く羽振りも良かったそのころは、良一はなんでも陽子に買い与えてくれた。
だから、「結婚できないんじゃないの、しないだけ」などとうそぶき仕事に精を出す友人らを、実は陽子は心の中でひそかに見下していたのだ。
夫・良一の父が亡くなり、義母との想定外の同居が始まるまでは。

まさか、あの人があんなにマザコンだったとは。
陽子は思わず舌打ちしそうになる。確かに義父が亡くなって、義母も心細かろう。けれどやることなすことすべて良一は義母の味方だった。この義母がまた、前世からの恨みかのごとくにやたらと陽子を目の敵にしてくるのだ。かつて二人の結婚を祝福してくれたあの姿は演技だったのか。
やがてその義母に感化でもされたのだろうか。結婚当初は異様に優しかったあの人さえも、陽子を召使いかのように扱い始めた。それは陽子が歳をとるごとに年々ひどくなっている。確かに子育てに家事にと忙しくて身なりに気をつけられなくなってきたけれど、にしたってあまりにも露骨だった。女として見られていない自分。そして、良一に薄々感じる若い女の影。
あれでバレていないとでも思っているのかしら。それとも、わたしのことなど構いやしないのかもしれなかった。確かにあなたの給料で生活させてもらってはいるけれど。それにしたってあんまりよ。
わたしから若さと美しさをとると、何も残らないだなんて。
子供の成長は嬉しかったが、それと同時に年老いていく自分に恐怖を感じていた。
虚無感が陽子を襲う。37歳。まだオバサンだなんて自分を認めたくなかったけれど、キラキラと輝く友人らに比べてなんと自分のみじめなことだろう。ある者は海外で、ある者は大勢の部下をもって働く、かつて陽子が見下していた友人ら。
このままわたしはただ死んでいくのだろうか。何もできずに、ただ夫と義母の世話を見るだけの奴隷として。
そのわたしが「王」だなんて。バカバカしすぎる!
もはやいるだけで鬱陶しい夫が出社し、息子の勇樹も学校へと行ってしまった。煩わしい義母は今日は社交ダンスだか何だかで夕方まで帰ってこない。その下手くそな踊りに回す金があるのなら、少しくらいわたしに分けてくれたっていいじゃない。そう思うものの、義母がその間家を出てくれているだけでもありがたかったので特に文句も言えなかった。言ったところで意味などないだろうけど。
義母がいないこの時間は唯一、誰にも気兼ねせずに過ごせる時間だ。それでも家事をこなしておかなければ、帰宅した義母にネチネチ言われるのでのんびりしている場合でもない。
わたしだってこうして働いているのに、なんで認めてもらえないのだろう。なぜ、遊んでばかりの人に文句を言われなければならないの?陽子は毎日そう思わずにはいられなかった。ため息をつきながら、洗濯機の中でこんがらがった衣類を取り出す。ああ、誰よポケットにレシートを入れたまま洗濯機に入れたのは!
苛立ちから陽子はさらに盛大に息を吐いた。このぶつける先のないモヤモヤが、朝に浮かんだ不思議な記憶を呼び覚ました。
なんでわたしはこんなことをしているのだろう。わたしはかつてあの王国で、人々を導き、豊かな生活を営めるよう指揮を執っていた「王」だというのに。手を止め、陽子の思考は封じ込めてしまった不思議な記憶へと舞い戻る。
ああ、わたしを称える声が聞こえる。わたしを敬い、尊敬のまなざしを送る民の姿が目に浮かぶ。栄華を誇るわたしの国。あの国の名前はなんだったかしら。今ではない時代の、どこか。その国は確かにあったはずなのに。
今のわたしとは異なる、威厳に満ちたその表情、歴戦の戦士のような隻眼のまなざしに、逞しい身体。
そこまで思い浮かべて、陽子はまぶたを開いた。手には、紙くずまみれの衣類たち。
 ――そうよ、なんで男の王様が、わたしみたいなしがない主婦に生まれ変わったりなんてするのよ。ありえないじゃない。やめなさい、陽子。ありもしない記憶をたどって、まるでそれを自分の栄光かのように受け止めるのは。
 ベランダのサッシを開けて、眼前に広がる住宅街を見て陽子は現実に戻った。遠くに見える、ぼんやりとした富士山。見慣れすぎて今更何とも思わない景色。
そう、くだらない妄想なんかしてる場合じゃない。洗濯物を干したら、掃除をして夕飯の買い出しにとやることはたくさんあるというのに。
思い直して陽子は手にした紙屑まみれの夫のシャツを力いっぱいピンと引っ張る。けれど絡みついたそれらはなかなかそこから離れようとしてくれない。
イライラをなだめるかのように陽子が何度目かわからないため息をつくと、ピンポーン、とこちらの状況などどこ吹く風の呑気な音が部屋に響いた。インターフォン。なにかしら、こんなときに。こっちはそれどころじゃないってのに。
けれど宅急便か何かだとこれまた面倒だ。またあの義母が、やたらと要らないものを通販で買ってしまうのだ。受け取り損ねたら何を言われるかわかったものじゃない。なぜ主婦が日中家にいないんだ、遊び歩いてるんじゃないか。とか。
まるで軟禁だわ。陽子がそう思い玄関のドアを開けると、
「ようやく見つけました、王よ!一刻も早くかの国を再建いたしましょうぞ」
と片足をつき深々とお辞儀をした、学者風の男がいきなり声を掛けてきた。丸眼鏡に、無精髭。でも意外に若そうだわ、髭を剃ればちょっとイイ男かも。
けれどこの人はなんと言った?王、ですって?
わたしはまだ夢でも見ているのかしら。
この、まさしく夢のような展開に、陽子は呆然とするしか出来なかった。
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