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満たされぬ空白
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まさかの宗教勧誘に面喰う碓井と、なるべく目立たぬようにしていた唐澤を残して黒崎は去って行ってしまった。詳しくはその冊子を読んでください、悪い話じゃありませんから。そう言い残して。
去り際意味深な目つきで見られたような気がしたが、恐らく気のせいだろう、唐澤は必死にそう思い込もうとしていた。けれど碓井がこの話を断るとどうなるのだろう。自分はどう立ち回るのが正解なのだろう。なにせ、探られて痛むのだ、この腹は。慎重に動かなければ。
しかし唐澤の内心などつゆ知らず、「まあ、悪いようにはならんだろ」と碓井は気楽なものだった。
「別に、法に触れるわけでもなし。ちょうどいい、王の偉大さを知らしめるチャンスじゃないか」
「でも、お前はその……陽子さんと、その」そこで唐澤は言いよどむ。あまり口に出して言いたくなどなかった。二人は現世でも結ばれたのだろう、とは。
「そりゃまあ、晴れてそういう関係にはなったさ。幸いなのは同性同士に生まれなかったことだな。単に性別が入れ替わっただけだ、なんら問題はない」
いや相手は既婚者で子どもまでいるんだろう、そう言ってやりたかったがなにしろその相手が同意して成り立つ関係だ。無理に成立したものではないそれを糾弾できるほど、唐澤は碓井に対しての権限など持ち合わせていなかった。
「ならなおさら、だって大切な人なんだろう、相手の家庭を壊しても手に入れたかったんだろう?その人を、そんな怪しい宗教の神様なんてのに差し出していいのかよ」
「別にいけにえに差し出すわけじゃないんだ、大げさな。それにこれは同意の上だし、少なくともまだ楠木家を壊した覚えはない」
「まだって」
「まだだ。けれど陽子さんが確固たる地位を手に入れられたら、俺は正当な権利を要求するさ。彼女はどこの馬の骨とも知らない人間と結ばれるべき人ではない。その時さえ来たら、家庭を壊してだって奪い返すさ、私の王をな」
けれどそれは、あくまでも王である彼女を求めているだけなのではないのか。楠木陽子その人を愛したからではなくて。
そう口を開こうとしたが、けれど唐澤は開きかけた唇をきつく噛みしめるしかできなかった。いや、だって俺だってそうではないか。過去の記憶に引きずられて。そう、引きずられていることになっているのだから。
「そのためにその宗教法人を活用するのだっていとわないさ。要は誰しもが王を認めればいいんだ。信仰ほど人心を掌握するのに便利なものはない、せっかくそれを与えてくれるというんだ、乗らない手はないだろう」
「そうか」
もはや唐澤は諦めの気持で碓井の口上を聞いていた。おそらく、この話に乗るのが正解なのだろう、黒崎的には。万一俺が止めようでもしたら、やつはあのことを碓井にバラすに違いがなかった。いや、止めたところで抑止力にすらならないことも見透かされていたのかもしれない。現に碓井はご機嫌だ。本気で、あの王国を取り戻そうとしているではないか。
王のため、と言いつつ、その王である陽子の気持を何一つくみ取っていない碓井に腹が立った。そして、彼女のことを唐澤は哀れに思った。いや、彼女はそれも承知の上なのかもしれないけれど。けれど一方、心の隅で彼女をざまあみろ、とあざ笑う気持ちもあった。
自分自身を愛してもらえない苦痛がお前にもわかるか、と。俺なら、いや違う、カラシャールなら、この実は計算高い王妃を孕む碓井のことを、その姿そのままに愛せるのにと。愛されなくともいい、愛せる自信があったのに。とも。
その日の家族で囲む夕食も最悪だった。いつからだろう、食事を美味しいと思わなくなったのは。
だから陽子は勇樹の食べっぷりが少し羨ましくもあった。いや、この歳でさすがにあんなに食べたら不健康だけれど、それでも気持ち良いくらい食べてくれている。家族から文句を言われてばかりの、彼女の手料理を。
「薄味過ぎる」「なんだ、手抜き料理か」「母親の作る料理が一番うまくなきゃ子供の教育に良くない」
その子供が一番食べてくれているのに、なにを偉そうに。あなたたちに勇樹のなにがわかるのよ。なにを出しても文句しか言わない彼らに陽子は辟易していた。新婚時代こそ張り切って料理していた彼女だったが、次第にやる気も失せてきた。
じゃあせめて自分の好きなものを作ろう。どうせ文句言われるんだし。そう割りきってきたものの、そもそも食事自体が億劫になってきた。そうよ、無理に団らんなんかするから食欲が失せるのよ。そもそも向こうだってわたしと仲良くなんてするつもりないでしょうに。なにせ暑い屋外で、碓井さんたちと食べた弁当のほうが断然美味しかったじゃないの。陽子はその味を反芻する。どこにでもある、コンビニ弁当とさほど変わらない内容のそれでさえ、疲れた体が喜ぶ美味しさを持っていたというのに。
「すみません、ちょっと体調が優れなくって」
箸を置いた陽子は、かすれた声でそう言った。現に気分が悪いのは確かだった。体調、というよりは心の状態が悪かったのだろうけれど。
「母さん大丈夫?俺皿洗っとくから横になってなよ」
「ごめんね勇樹、ありがとう」
気遣い勇樹がそう言えば、
「息子に皿を洗わす母親がいるか」
「そうだ、勇樹には勉強していい大学入ってもらわなきゃなんだから手を煩わすんじゃないよ」ときたものだ。
「父さんもばーちゃんもなにいってんだよ!」
思わず怒りを露にした息子が、続けてなにかを言おうとしてやめたのを陽子は見逃さなかった。
恐らく、あの子はこう続けようとしたのではないか。
「母さんは偉大な王なんだぞ!」と。
そう、わたしは偉大な王。古代に四千年もの長きに渡って栄えた、シャンポリオンの王。現世にも劣らぬ政治を執り、民の繁栄を図る素晴らしい王。時には富士山すらをも操り、尊敬と畏怖のまなざしを一心に浴びてきた神に等しい存在。
どんどんと、自分の満たされぬ空白がフュオンティヌスによって埋められてきている感じが陽子にはあった。それは時として、今の自分を忘れてしまうほどに。
その日の晩、寝室に来た夫と入れ換えに陽子はリビングへと戻った。お皿、洗いますから。特に掛けられる言葉はなかった。無理するなとか、俺がやっておくよとか、およそ陽子が期待するような言葉はひとつも。やがて皿のカチャカチャと鳴りあう音を聞き付けたのか、勇樹がやって来てくれた。黙々と二人で後片付けを済ますと、
「ねえ、母さんがあの国の王さまってほんと?」
と勇樹がさりげない風にそう聞いてきた。
「粕川先生もカスティリオーネって名前の予言者で、俺もクーファとかいう勇者なんだって」
「粕川先生から聞いたの?」
「うん。あと、碓井先生が母さんの奥さんだって話も」
「奥さんって」
「だってそうでしょ、先生はルクレティウスなんだから」
そこまで話して、珍しく勇樹は言い淀んだ。
「だから……その、母さんは碓井先生と付き合ってるの?」
「……粕川さんから聞いたの?」
「違うよ、でも粕川先生がやたらと俺をラーメン食べるのに誘ってくるから。その日に限って母さん帰りが遅いし」
「うん……そうね」
一瞬の間をおいて、陽子は胸につかえていた秘密を吐くように息をついた。
「ラーメン代、粕川さんじゃなくて碓井先生から出てるのよ」
「やっぱり。なら遠慮なんかしないでもっと食べれば良かった」
「あんまり食べすぎて父さんみたいに太るとモテないわよ」
「げ、それは勘弁」
勇樹の声に非難が含まれていなかったと言えば嘘になる。その声は確かに咎める色を帯びていた。だが、面と向って放てるほどの強さはなかった。
勇樹だってあの場に居合わせたのだ。母親を邪険に扱う父や祖母の姿を見ていた。絶対将来あんな風になるもんか。かたく胸に誓う彼は、けれども母がまだ見ぬ碓井先生、もとい過去に縁のあるパートナーに引き寄せられる可能性もあるのかもしれないとは思っていた。だって現に俺、粕川先生のこと、たぶん好きだし。
でも、それが過去の繋がりがあるからだと理由をつけたくはなかった。俺、ラーメンガツガツ食べる先生が好きなんだけど。そんな、偉大な予言者なんかじゃなくて。
そこんとこ母さんはどうなんだろう。本当に碓井先生のことが好きなの?王さまだって、うやうやしく接してくれるからなんじゃないの?それだけのために、父親や祖母や自分ら家族を捨ててしまう気なの?そんなの、本当にそれでいいの?
けれどそう面と向かって聞くのもためらわれた。だってそもそもフリンじゃん、いくら大昔に王様だとかいろいろな理由があったとしても、決してほめられるようなことではない。そんなことされて、息子の俺はどう振る舞ったらいいんだよ!
「けど、そんなんでこれからどうするんだよ。別に母さんの好きにすればいいけどさ。父さんだってあれだし、もうこれってすでに家庭崩壊ってやつじゃん、だから今更。けど俺もいるんだし、これからどうするんだよ。碓井先生と再婚でもするの?このままこそこそ付き合うつもりなら、あんまり目立つことしないでよ。家に居づらくなるじゃんか、さっきみたいに」
だから彼はこう言うに留めておいたのだ。あまりおっぴらにするのは勘弁してくれ、と。
なにせ親が離婚だので揉めて一番被害を被るのは子供である勇樹だ。こればっかりは自分にはどうしようもない。せめてもと三人の間を取り持つのに苦労してきたけれど、もはや手遅れの様だった。でも、だからといって口ばかりで生活能力のない父と義母の方に残されるのも嫌だったし、経済力のない母と暮らすのも難しいと思わざるを得なかった。碓井先生がどれほど本気かわからないけど、もし先生と再婚してくれるならお金は何とかなりそうだけど。けれどそううまくいくのだろうか。
生きている以上、それが親とはいえ計算してしまうのはヒトの本能に等しい。感情論だけでは生きていけないのだ。わずか14歳にして悟りを啓いた勇樹は母を諌めてみる。しかし返ってきた言葉は予想だにしないものだった。
「大丈夫よ勇樹。わたしは、わたしを必要としてくれる人のところに行くんだから」と。
ええと、それは俺を置いて碓井先生のところに行っちゃうってこと?そんな、無責任な!そう早とちりした彼に負追い打ちをかけたのは、
「わたしを、フュオンティヌスを必要としてくれている人々のところへ」
という、もはやどこを見ているのかもわからない、自分の母親の恍惚とした表情だった。
いままでの母さんとはちがう。勇樹はそう感じた。まさに、夢に出てくる王のようなまなざし。異なるのは、片眼があるかないかぐらいだった。どうしよう、このままでは取り返しのつかないことになってしまう、とも。けれど誰なら母さんを止められる?碓井先生?けれど俺はその大先生の連絡先なんて知らないぞ。
ああそうだ。粕川先生。先生なら、碓井先生にも掛け合って、母を現実に引き戻してもらうことができるんじゃないだろうか。
そうだ明日。のんきに歴史の授業など教えてもらっている場合じゃない。明日、先生にこのことを伝えなければ。
「遅いからもう寝なさい」
そう声をかけ、夢の世界へと向かう母の背を見送りながら勇樹はそう考えていた。まさか、母さんがそこまで追い込まれていたとは。勇樹はこの家庭を恨んだ。せめてこの家が、普通に幸せな家族のそれだったならば、そこまで過去に囚われることはなかったかもしれなかったのに。
けれど幼い彼は知らなかった。世に、普通に幸せな家族などどこにも存在しないことを。どんな家庭にだって問題はあるのだ。けれどそれは仕方がなかったのかもしれない。まだまだ輝かしい未来が待ち受けている子供の彼には、そんなことわかりようがなかったのだから。
去り際意味深な目つきで見られたような気がしたが、恐らく気のせいだろう、唐澤は必死にそう思い込もうとしていた。けれど碓井がこの話を断るとどうなるのだろう。自分はどう立ち回るのが正解なのだろう。なにせ、探られて痛むのだ、この腹は。慎重に動かなければ。
しかし唐澤の内心などつゆ知らず、「まあ、悪いようにはならんだろ」と碓井は気楽なものだった。
「別に、法に触れるわけでもなし。ちょうどいい、王の偉大さを知らしめるチャンスじゃないか」
「でも、お前はその……陽子さんと、その」そこで唐澤は言いよどむ。あまり口に出して言いたくなどなかった。二人は現世でも結ばれたのだろう、とは。
「そりゃまあ、晴れてそういう関係にはなったさ。幸いなのは同性同士に生まれなかったことだな。単に性別が入れ替わっただけだ、なんら問題はない」
いや相手は既婚者で子どもまでいるんだろう、そう言ってやりたかったがなにしろその相手が同意して成り立つ関係だ。無理に成立したものではないそれを糾弾できるほど、唐澤は碓井に対しての権限など持ち合わせていなかった。
「ならなおさら、だって大切な人なんだろう、相手の家庭を壊しても手に入れたかったんだろう?その人を、そんな怪しい宗教の神様なんてのに差し出していいのかよ」
「別にいけにえに差し出すわけじゃないんだ、大げさな。それにこれは同意の上だし、少なくともまだ楠木家を壊した覚えはない」
「まだって」
「まだだ。けれど陽子さんが確固たる地位を手に入れられたら、俺は正当な権利を要求するさ。彼女はどこの馬の骨とも知らない人間と結ばれるべき人ではない。その時さえ来たら、家庭を壊してだって奪い返すさ、私の王をな」
けれどそれは、あくまでも王である彼女を求めているだけなのではないのか。楠木陽子その人を愛したからではなくて。
そう口を開こうとしたが、けれど唐澤は開きかけた唇をきつく噛みしめるしかできなかった。いや、だって俺だってそうではないか。過去の記憶に引きずられて。そう、引きずられていることになっているのだから。
「そのためにその宗教法人を活用するのだっていとわないさ。要は誰しもが王を認めればいいんだ。信仰ほど人心を掌握するのに便利なものはない、せっかくそれを与えてくれるというんだ、乗らない手はないだろう」
「そうか」
もはや唐澤は諦めの気持で碓井の口上を聞いていた。おそらく、この話に乗るのが正解なのだろう、黒崎的には。万一俺が止めようでもしたら、やつはあのことを碓井にバラすに違いがなかった。いや、止めたところで抑止力にすらならないことも見透かされていたのかもしれない。現に碓井はご機嫌だ。本気で、あの王国を取り戻そうとしているではないか。
王のため、と言いつつ、その王である陽子の気持を何一つくみ取っていない碓井に腹が立った。そして、彼女のことを唐澤は哀れに思った。いや、彼女はそれも承知の上なのかもしれないけれど。けれど一方、心の隅で彼女をざまあみろ、とあざ笑う気持ちもあった。
自分自身を愛してもらえない苦痛がお前にもわかるか、と。俺なら、いや違う、カラシャールなら、この実は計算高い王妃を孕む碓井のことを、その姿そのままに愛せるのにと。愛されなくともいい、愛せる自信があったのに。とも。
その日の家族で囲む夕食も最悪だった。いつからだろう、食事を美味しいと思わなくなったのは。
だから陽子は勇樹の食べっぷりが少し羨ましくもあった。いや、この歳でさすがにあんなに食べたら不健康だけれど、それでも気持ち良いくらい食べてくれている。家族から文句を言われてばかりの、彼女の手料理を。
「薄味過ぎる」「なんだ、手抜き料理か」「母親の作る料理が一番うまくなきゃ子供の教育に良くない」
その子供が一番食べてくれているのに、なにを偉そうに。あなたたちに勇樹のなにがわかるのよ。なにを出しても文句しか言わない彼らに陽子は辟易していた。新婚時代こそ張り切って料理していた彼女だったが、次第にやる気も失せてきた。
じゃあせめて自分の好きなものを作ろう。どうせ文句言われるんだし。そう割りきってきたものの、そもそも食事自体が億劫になってきた。そうよ、無理に団らんなんかするから食欲が失せるのよ。そもそも向こうだってわたしと仲良くなんてするつもりないでしょうに。なにせ暑い屋外で、碓井さんたちと食べた弁当のほうが断然美味しかったじゃないの。陽子はその味を反芻する。どこにでもある、コンビニ弁当とさほど変わらない内容のそれでさえ、疲れた体が喜ぶ美味しさを持っていたというのに。
「すみません、ちょっと体調が優れなくって」
箸を置いた陽子は、かすれた声でそう言った。現に気分が悪いのは確かだった。体調、というよりは心の状態が悪かったのだろうけれど。
「母さん大丈夫?俺皿洗っとくから横になってなよ」
「ごめんね勇樹、ありがとう」
気遣い勇樹がそう言えば、
「息子に皿を洗わす母親がいるか」
「そうだ、勇樹には勉強していい大学入ってもらわなきゃなんだから手を煩わすんじゃないよ」ときたものだ。
「父さんもばーちゃんもなにいってんだよ!」
思わず怒りを露にした息子が、続けてなにかを言おうとしてやめたのを陽子は見逃さなかった。
恐らく、あの子はこう続けようとしたのではないか。
「母さんは偉大な王なんだぞ!」と。
そう、わたしは偉大な王。古代に四千年もの長きに渡って栄えた、シャンポリオンの王。現世にも劣らぬ政治を執り、民の繁栄を図る素晴らしい王。時には富士山すらをも操り、尊敬と畏怖のまなざしを一心に浴びてきた神に等しい存在。
どんどんと、自分の満たされぬ空白がフュオンティヌスによって埋められてきている感じが陽子にはあった。それは時として、今の自分を忘れてしまうほどに。
その日の晩、寝室に来た夫と入れ換えに陽子はリビングへと戻った。お皿、洗いますから。特に掛けられる言葉はなかった。無理するなとか、俺がやっておくよとか、およそ陽子が期待するような言葉はひとつも。やがて皿のカチャカチャと鳴りあう音を聞き付けたのか、勇樹がやって来てくれた。黙々と二人で後片付けを済ますと、
「ねえ、母さんがあの国の王さまってほんと?」
と勇樹がさりげない風にそう聞いてきた。
「粕川先生もカスティリオーネって名前の予言者で、俺もクーファとかいう勇者なんだって」
「粕川先生から聞いたの?」
「うん。あと、碓井先生が母さんの奥さんだって話も」
「奥さんって」
「だってそうでしょ、先生はルクレティウスなんだから」
そこまで話して、珍しく勇樹は言い淀んだ。
「だから……その、母さんは碓井先生と付き合ってるの?」
「……粕川さんから聞いたの?」
「違うよ、でも粕川先生がやたらと俺をラーメン食べるのに誘ってくるから。その日に限って母さん帰りが遅いし」
「うん……そうね」
一瞬の間をおいて、陽子は胸につかえていた秘密を吐くように息をついた。
「ラーメン代、粕川さんじゃなくて碓井先生から出てるのよ」
「やっぱり。なら遠慮なんかしないでもっと食べれば良かった」
「あんまり食べすぎて父さんみたいに太るとモテないわよ」
「げ、それは勘弁」
勇樹の声に非難が含まれていなかったと言えば嘘になる。その声は確かに咎める色を帯びていた。だが、面と向って放てるほどの強さはなかった。
勇樹だってあの場に居合わせたのだ。母親を邪険に扱う父や祖母の姿を見ていた。絶対将来あんな風になるもんか。かたく胸に誓う彼は、けれども母がまだ見ぬ碓井先生、もとい過去に縁のあるパートナーに引き寄せられる可能性もあるのかもしれないとは思っていた。だって現に俺、粕川先生のこと、たぶん好きだし。
でも、それが過去の繋がりがあるからだと理由をつけたくはなかった。俺、ラーメンガツガツ食べる先生が好きなんだけど。そんな、偉大な予言者なんかじゃなくて。
そこんとこ母さんはどうなんだろう。本当に碓井先生のことが好きなの?王さまだって、うやうやしく接してくれるからなんじゃないの?それだけのために、父親や祖母や自分ら家族を捨ててしまう気なの?そんなの、本当にそれでいいの?
けれどそう面と向かって聞くのもためらわれた。だってそもそもフリンじゃん、いくら大昔に王様だとかいろいろな理由があったとしても、決してほめられるようなことではない。そんなことされて、息子の俺はどう振る舞ったらいいんだよ!
「けど、そんなんでこれからどうするんだよ。別に母さんの好きにすればいいけどさ。父さんだってあれだし、もうこれってすでに家庭崩壊ってやつじゃん、だから今更。けど俺もいるんだし、これからどうするんだよ。碓井先生と再婚でもするの?このままこそこそ付き合うつもりなら、あんまり目立つことしないでよ。家に居づらくなるじゃんか、さっきみたいに」
だから彼はこう言うに留めておいたのだ。あまりおっぴらにするのは勘弁してくれ、と。
なにせ親が離婚だので揉めて一番被害を被るのは子供である勇樹だ。こればっかりは自分にはどうしようもない。せめてもと三人の間を取り持つのに苦労してきたけれど、もはや手遅れの様だった。でも、だからといって口ばかりで生活能力のない父と義母の方に残されるのも嫌だったし、経済力のない母と暮らすのも難しいと思わざるを得なかった。碓井先生がどれほど本気かわからないけど、もし先生と再婚してくれるならお金は何とかなりそうだけど。けれどそううまくいくのだろうか。
生きている以上、それが親とはいえ計算してしまうのはヒトの本能に等しい。感情論だけでは生きていけないのだ。わずか14歳にして悟りを啓いた勇樹は母を諌めてみる。しかし返ってきた言葉は予想だにしないものだった。
「大丈夫よ勇樹。わたしは、わたしを必要としてくれる人のところに行くんだから」と。
ええと、それは俺を置いて碓井先生のところに行っちゃうってこと?そんな、無責任な!そう早とちりした彼に負追い打ちをかけたのは、
「わたしを、フュオンティヌスを必要としてくれている人々のところへ」
という、もはやどこを見ているのかもわからない、自分の母親の恍惚とした表情だった。
いままでの母さんとはちがう。勇樹はそう感じた。まさに、夢に出てくる王のようなまなざし。異なるのは、片眼があるかないかぐらいだった。どうしよう、このままでは取り返しのつかないことになってしまう、とも。けれど誰なら母さんを止められる?碓井先生?けれど俺はその大先生の連絡先なんて知らないぞ。
ああそうだ。粕川先生。先生なら、碓井先生にも掛け合って、母を現実に引き戻してもらうことができるんじゃないだろうか。
そうだ明日。のんきに歴史の授業など教えてもらっている場合じゃない。明日、先生にこのことを伝えなければ。
「遅いからもう寝なさい」
そう声をかけ、夢の世界へと向かう母の背を見送りながら勇樹はそう考えていた。まさか、母さんがそこまで追い込まれていたとは。勇樹はこの家庭を恨んだ。せめてこの家が、普通に幸せな家族のそれだったならば、そこまで過去に囚われることはなかったかもしれなかったのに。
けれど幼い彼は知らなかった。世に、普通に幸せな家族などどこにも存在しないことを。どんな家庭にだって問題はあるのだ。けれどそれは仕方がなかったのかもしれない。まだまだ輝かしい未来が待ち受けている子供の彼には、そんなことわかりようがなかったのだから。
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