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王の政界進出と呪術師
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クリーム色のジャケットとスカートに、淡いピンクのヒール。それがその日の陽子のいでたちだった。神殿で神と崇められる時よりはかなり現代風でフォーマルなその姿は、勇樹の小学校の卒業式に参加したときの格好を彷彿とさせた。足元と同色のコサージュに、アップにまとめられた髪形。そのいかにもな格好で彼女はにこやかな笑みを欠かさない。もはや板についてきた優雅な振る舞いで、手を民衆に振っては人々に呼びかける。「わたしたちの手でこの国を正しい道へと導きましょう」と。
本来国民すべてが興味を持つべきものだが、それでも関心のない人間にとっては騒音でしかない選挙カー。その上で陽子はそれなりの正装をし、まるで立候補人かのように振る舞っていた。さして意味のないマニフェストを連呼しながら。いや、実際の候補者はちゃんといるのだが、車の前方で身をのりだし持ったマイクで騒いでいるものだから彼こそが応援人のように見えたのだった。
で、なぜ陽子が選挙カーの上にいるのかというと。
「僭越ながら、王にお願いしたいことがございまして」
そう慇懃に頭を垂れたのは二人の男だった。
富士山麓の神殿で、何をするともなく陽子がこれまた豪華なベッドでだらだらとしていると黒崎が滝沢を連れてやってきた。なにもしないのは楽だけど暇だったから、陽子は彼らを快く受け入れた。本当は、わたしだって碓井さんの仕事を手伝いたかったのだけど所詮素人だ。土まみれになるよりは優人会の覚醒者らの相手をしてやってくれ、その方が民も喜ぶだろうと碓井に言われてしまえば、それに従わざるを得なかった。
「何か用ですか?」
もはや相手が自分をここまで押し上げてくれた存在だという感覚も薄れ陽子がだらりと聞くと、太った男の方――タキトゥスだ、が一瞬怒気を孕んだがそれもわずか、落ち着いた、けれど微妙に聞き取りづらいだみ声で話はじめた。
「ええ、次回の衆議院選挙に、ぜひ王をお呼びしたいのです」
「わたしを?まさか立候補しろっていうこと?」
そんなこと言われても。困惑した表情を見てとったのか、黒崎が笑いながらこうも続けた。
「いえ、いきなりあなた様に政界進出を勧めているわけではございません。実際出馬されるのはこのお方で」
そう彼の脇でふんぞり返る滝沢を指し示す。
「タキトゥスが?」
「ええ。彼なら王を急にポンと投げ出すより断然可能性がありますから」
「可能性って、なんの?」
「この国を取り戻せる可能性、にございます」
けれど冗談かと思っていた。というか、すでに陽子は満足だったからだ。この神殿のなかでは私は神のように振舞える。そりゃあ勇樹はちっとも顔を見せないし、碓井さんも忙しいようで滅多に会えないけれど、それでも今までを思えば満足だった。これ以上欲を出すのも億劫になるほどには。
しかしどうやら話は碓井にもいっていたらしく、二人が姿を現した晩に碓井が陽子の、いやフュオンティヌスの寝室に現れたのだった。久しぶりに会う碓井に陽子が抱きつこうとするものの、「黒崎さんと滝沢さんから話は聞きました?」と素っ気なく碓井は椅子に腰かけてしまい、陽子は手持ち無沙汰ぎみに広い室内をうろうろとしてしまった。
「クローヴィスとタキトゥスから?」
内心がっかりしながらも染み付いた習性とは恐ろしいもので、陽子は彼らのシャンポリオンでの名を口にする。
「ああ、ここではかつての名前で呼びあうんでしたね。フュオンティヌス王、タキトゥスの衆議院選の話は聞かれましたか?」
「聞いたけれど。そんなことより、碓井さんくらいわたしの名前を呼んでちょうだい」
「フュオンティヌス王?」
「そうじゃなくて」
「でも、ここでのルールは」
「王である余の命令が聞けないか」陽子は持ちうる王のイメージを駆使して、できる限りの威厳を出して言ってみた。
「……あはは、わかりました」
その姿にひとしきり笑ったあと、碓井は陽子の耳元でささやいた。
「陽子さん」
そうして彼女の首もとに軽くキスを落とす。その先を陽子は待ちわびたが、しかし続きはない。碓井はまるでそんなことよりも、と言わんばかりに話を続ける。
「確かに悪い話ではないと思う。いかにあなたが王だとはいえ、現世でなにも力を持たないのは事実だし」
なによ、期待したわたしがバカみたい。火照るからだを沈めるように自身をかき抱きながら陽子は言った。
「こんな、多くの人が慕ってくれているのに?」
「多いっていってもせいぜい数万人程度じゃないですか、このくらい人気アーティストだって集められる」
「それで十分じゃない、だってシャンポリオンの規模なんてそんなものでしょう?」
「そうだけれど、まさか静岡だけ治外法権をもらえるわけない」
「そりゃあ、まあ。出島じゃあるまいし」
「一番手っ取り早いのはこの国を乗っ取ってしまうことだ」
「乗っとるだなんて」
この場に粕川と唐澤がいれば、あるいは彼をなだめてくれたのかも知れなかった。けれど陽子は碓井を失いたくないあまりに、強く否定することも出来なかった。
「そうだな、言い方が悪かったですね。正確には取り戻す、だ」
軽い否定のつもりで言ったそれは、碓井には違う風に捉えられてしまったようだった。つまりは、陽子もこの国は自分達のものだと思っていると。
「そのための足掛かりにしてくれと彼らは言ってくれている。せっかくの好意、受け取らなければ悪いでしょう」
「でも、本当に好意だけなのかしら」
政治に疎いながらも、陽子は疑問を禁じ得なかった。だって大変なんじゃないの?選挙って。お金もかかるし、ちょっと失言すれば鬼の首を取ったかのように袋叩きだ。
なにより選ばれてどうするんだろう。そこまでしてこの国をどうにかよい方向へ持っていきたい、という気概は滝沢から感じられなかったのだけど。
「好意じゃなかったらなかったで、どうとでもなる。なにせあなたは王なのだから。民を導く義務があるんだ」
余裕の表情で碓井が呟いた。どうにもならないから現世で偉い人に頼ってるんじゃないの?矛盾する発言に陽子の理解は追い付かなかったが、けれど事実、例え人気ロックバンドの集客動員数と変わらぬ程度の信者といえ、自分には慕ってくれる人間がこれほどいるのだ。だから、その彼らの期待に背いてはいけないと思う気持ちもあった。
そうよ、偉大な王国の王と王妃がここにいる。今は近くにいないけれど、王の盾のクーファも、王の目のカスティリオーネもいる。きっと何かあれば力を貸してくれるだろう。
安易な気持ちが彼女をうなずかせた。きっと、誰かがなんとかしてくれるだろう、という無責任さで。だって今のわたしは王様なんだから、誰よりも一番に守られて当然でしょ。
「碓井さんがそこまで言うのなら。ここにくる皆さんも、記憶にあるあの国の方が良かったって言ってる。それを取り戻せたら、きっとみんな喜ぶと思うわ」
そうして陽子はお飾りよろしく、滝沢の事務所で選挙活動に勤しんでいたのだが。
「次は政治家の応援とか、まじ勘弁してって感じなんだけど母さん」
「ほんと、陽子さんどうしたいんだろ」
今日はラーメン屋ではなかった。勇樹は見知らぬ家族に囲まれ夕餉をとっていた。畳の部屋に置かれた古いブラウン管のテレビ。これ地デジ見れんの?そう思ったけれど、なにも薄型じゃなければ写らないわけでもないようで、「チューナーだけ買ったんだ」と返された。その懐かしい厚いテレビの上には、招き猫やら子供の作った謎の置物やらが所狭しと置かれている。その画面に写るのは、卒業式にでも行くのだろうかという格好の母親と小太りの男。ひどくちぐはぐだった。
母親が家を出てしまった勇樹はなにもできない父と義母の面倒を見るのは勘弁と思いつつ、しかしあの宗教団体に身を寄せるのもためらわれて困っていたところ粕川に拾われたのだった。「うち来る?今さら一人増えてもあまりかわりないし」
粕川の実家は昔ながらの農家で、全体的には古いが広い日本家屋に彼女の家族共々迎え入れられたのだった。その言葉どおり、勇樹が一人増えたところで、という感じではあった。なにしろ大家族なのだ。もはや誰が姉なのだか弟なのだか母親なんだかわからない。一度紹介してもらったものの、この意外な衝撃に動揺していた勇樹は把握しきれなかった。
どんどん粕川先生のイメージが塗り替えられていく。けれどそこには失望などなく、己の想像力のなさを実感しただけであったが。ほんと、勝手に相手に対して予測したことなど、正解率はせいぜい数パーセント程度じゃないか。
「ほら、朝採った野菜だ、食べなさい」
そう勧めてくれるのは、粕川先生のお母さんだかお姉さんだか、どっちだったっけ。
「あ、ありがとうございます」
とりあえず礼を述べて皿に盛られた緑の塊を口に頬張れば、
「それにしてもお母さん大忙しじゃあないか」
とまるで自分の旧知の知り合いかのごとく、嬉しそうに母だか姉だかお嫁さんだかは言った。
「こういうのを女性の社会進出っていうんだ、なのに父親が協力してやらんとはなぁ」
「だなぁ。えらいなぁお母さん」
「はあ」
どうやらこの家で覚醒者は粕川先生だけのようだった。それと、先生はあの夢のことを家族には話していないようだ。言ったって誰も信じないでしょ、そう彼女は言っていた。
記憶は遺伝するんじゃないの?俺の母親がそうだったように。勇樹が問うてみても「うーん、わかんない」というあいまいな返事しかもらえなかった。しかしそれ故に単に「この子のお母さん忙しいみたいで」という理由だけで紹介してくれたのは勇樹にとってありがたくもあった。
それに、具体的にどう忙しいのかも詮索されることもなかった。されていたら困っていたところだ。母さん、王に目覚めて神になったんです、なんて誰が信じるか。神になるのと「社会進出」は違うような気もしたけれど、素直にこの家の人たちは喜んでくれているみたいだからそのままにしておこう。
しかし勇樹が通う学校ではそれが周知の事実になっていて、毎日からかわれてうんざりしていた。春になってクラス替えもあったから、勇樹のことを良く知らないクラスメイトほどからかってきた。「お前の母ちゃん王さまだってほんと?」「しかも怪しい宗教の神様なんだろ」
その一方、親がそうなのかは知らないが、「王のご子息になんて口をきいているんだ!「なにとぞ王によろしくお伝えください、ってパパが言ってた」だのと言ってくるのもいる。非難するもの、懐に入り込もうとするものが入り乱れ鬱陶しかった。
さすがにもともと仲のよい友達や部活の後輩らはそんなこと言わないだけの分別があったようだけど、それでもときおり顔色をうかがわれているような気がした。
おかげで全然集中できなくて、春の大会でも負けちゃったし。次の夏の大会で最後なのに、いつになったら優勝できるのだろう。勇樹は心のなかでふてくされる。いや、それも実力のうちなんだろうけど。
「勇樹くん今日はどうする?泊まってく?」
「え、でも、ご飯までごちそうになっちゃったのに」
食事を終え、せめてもと食器を洗っていたら意外に時間がかかってしまった。量が量だった。先生が手伝ってくれたものの、早くも小さな子供たちは寝ている頃合いだった。確かに今からあの家に帰るのも億劫だったし、帰る意味もないように思われた。
なにしろ今の陽子は時の人だ。さすがに未成年のその息子を捕まえてどうこうするほどモラルが低いわけではないようだったが、マスコミが四六時中家に押しかけていてうるさくてかなわない。ではそのお祭り騒ぎの好きなマスコミに義母たちが辟易しているのかと言えばそうでもなく、自信満々に「ホンテヌス王はうちの嫁だ」と豪語しては義母がテレビ画面に満面の笑みで映っているものだから勇樹は驚いたものだった。ほんと、あの図太さだけは見習ってもいいかもしれない。
「いいのいいの、お家に連絡だけ入れときな。あれじゃあ帰るのも大変でしょ」
慣れぬ環境と家事に疲れた勇樹がぼんやりしていると、粕川は笑いながら彼の横に腰かけた。「毎回ラーメンじゃ悪いから、こんな成長期の男の子にさ。それに皿洗いありがとうね」
「ううん、お世話になってるんだし。それより大変だね、家のこともやって畑も耕してるんでしょう?お母さんたち」
「まあ、でもうちは交代制だから。農業含めて家の仕事は男も女も関係なくやるっていう方針」
「すごいね、進んでるや。うちとは大違い」
「家にいる以上手伝えってね。ちょうど今日私の番だったから助かっちゃった。さすがに畑仕事は勘弁してもらってるんだけど」
「もしかしてそれもあって呼んでくれたの?」
「バレたか。それより大丈夫?少し寒くない?」
春とはいえ夜は冷える。花冷えの空には春の大三角形がまたたいていた。ほかにも星座はあったのかもしれないが、勇樹にはそれぐらいしかわからなかった。わずかな月明かりが照らす縁側。そこに二人は腰掛ける。そこから見える庭兼畑のような場所には、むらさき色の大根の花が所狭しと咲いていた。
「うん、大丈夫。それより俺、これからどうしたらいいんだろ。まさかずっとここに世話になるわけにもいかないし。そもそも俺の高校進学とかどうなるんだよ」
星が瞬き花咲く幻想的な夜のもと、勇樹が呟いたのは現実的な言葉だった。
「父親と離婚して、碓井先生と再婚するのかな」
「どうなんだろ、そればかりは当事者じゃないと」
「王の目で未来を見通せたりは……するわけないよね」
「そりゃあ。勇樹くんだって王の盾みたいに強くないでしょ」
「そうだけど。なんだよ、ちっとも役に立たないよな、過去なんて。けどそれに振り回されるなんて、迷惑しかないじゃん、覚醒者なんて」
「ね。ネアンデルタールの血を引いてるから優秀ってのもなんだかなって感じだし。そもそもほんとに遺伝なのかな」
「でもそうだって大先生は言ってたんでしょう?」
「そうだけど、でもうちの家族誰もそんなこと言ってないし、そもそも浜北人とか興味ないみたいだし」
「そんな、地元の一大ニュースなのに?」
「うちの一番の関心事は天気予報だからね」
「先生、史学科なのに?」
「たくさんいる子供の一人が何してようが気にならないんじゃないの」
「でもその方が気楽でいいよね。うちなんか特にババア……ううん、おばあちゃんがうるさくて。とにかくいい大学行けってさ。その点先生は優秀じゃんか、国立大だし」
「そんな、学費が払えないから国立に入っただけだよ、しかも奨学金で。早くも借金人生のはじまり」
「ふうん」
それでもやっぱり優秀なんじゃないかな、勇樹はそう思ったけれど、彼女の努力を遺伝の一言で片してしまったら申し訳ないような気がして言わないでおいた。きっと努力ゆえの賜物なのに、それをすべてネアンデルタールDNAに由来させるように感じてしまうだろうから。
「選挙、どうなるのかな」
しばらく間が空いて、勇樹がプラプラと足を揺らしながら聞いた。学校の授業で習いはしたけれど、いかんせん未成年には選挙権はない。だから実際がどんなものかはよくわからなかったけれど、きっとこの国の未来を占う大事な局面なのだろう。その場面に自分の母親が関わっている。なんとも言えない気持ちだった。
「どうだろ。仮に私が有権者だったとしてもこの人には投票しないかな、滝沢修」
「え、先生まだ未成年だったの?」
「まだまだピチピチの19歳なんです~」
「なんだ、俺と5歳しか違わないんじゃん」
「違わなくても大学生と中学生じゃ雲泥の差なんだから。ほら子供は早く寝なさい」
「ほらそういって子供扱いする」
キャッキャと粕川が年相応に笑いながら勇樹を追いたてる。大人びて見える先生が無邪気に笑っている姿が見られたのは覚醒者の特権かも、などと思っていたら庭を背にする彼女の先、その広がる闇に、二つの光るなにかを勇樹は見つけてしまった。
「先生、うしろ……蛍?」
「蛍?さすがに今の時期は出てこないよ」
その言葉に振り向いた粕川は、「ギャッ」とカエルの潰れたような声を出して尻餅をついてしまった。
「先生、大丈夫!?」
その震える手で闇を指す彼女の先には、まるでアニメさながらに闇に浮かび出る老婆の姿が。え?どういうこと!?
「うわぁっ!」
下手をすれば粕川よりも大きな声で勇樹は叫んでしまったが、その声で誰かがやって来る気配もなかった。それだけ家が広いのか、家人の就寝が早いのか。
蛍以上に時期外れなその怪奇現象は、てっきり二人に襲いかかるのかと思いきや、存外に落ち着いた声で語り始めた。そこで彼らは認識する。とりあえず、オバケみたいなのの類じゃないみたい、良かった。
「夜分遅くに驚かしてしまってすまないね、クーファにカスティリオーネ」
『……へ?』
驚きでへたり込む二人を呼ぶのは、まさしく魔女のような風貌の老婆だった。しわくちゃの顔に高い鼻、もしゃもしゃの髪の毛。その毛に隠れる、青い瞳。
「わしはロロ。覚えているかね?呪術師のロロを」
「……あんまり」
「覚えてない、かも」
いきなり過去の名前を呼ばれて二人は驚く。けれど過去の関係者ならばまだ安心だ、とりあえず変質者や殺人犯なんてことはないだろうけれど。でも、ロロなんて名前でしかも呪術師なんて怪しい人、そんなの過去にいたかしら。
「まあそれも仕方ないだろう、まだ王も覚醒しておらなんだ」
「王も?そんなことないよ、自分が王だって言って家を出ちゃったくらいなんだから」
「いや、本来の力にはまだ目覚めていないんだよ。お前たちもね」
「私たちも?でも予言の力なんて別に要らないし」
「それより婆さん、人んち勝手に入っちゃだめだろ」
相手が同じ人間で、しかも覚醒者であることに安堵したのだろう。落ち着きを取り戻した二人は冷静にこの闖入者を見つめていた。
「……実に現実的な王の目と盾だこと。まあわしが不審者なのは認めるが」
「認めちゃうのかよ」
「そう思って、ほれ。名刺じゃ」
そういって老婆が差し出した紙切れには、「占い師 ロロ」と書かれていた。ご丁寧にホームページのアドレスとLINEID、メルアドに電話番号まで添えて。
「怪しいことには変わらないけど」
「ずいぶん現実的な呪術師なんですね」
「過去の記憶があろうがなかろうが、現代に生きている以上適合せざるを得ないだろう。そんなことより、わしは警告を与えに来たんだ」
よいしょ、と誰の許可も得ずにロロが縁側へと腰かける。その顔からはいかにも魔女然な黒いローブ姿を連想させたが、着ていたのはローブではなくフードつきのコートだった。どうやら寒がりらしい。
「警告って、何を」
警戒心も露に勇樹が問う。怪しい婆さんめ、先生になにかしたら許さないからな。そう胸に近い彼女をかばうその姿はまるで勇者のようでもあった。
「ふん、なかなか様になってるじゃないか。けれどこれから起こることは、残念ながら起こるべくして起こる。その心づもりだけしておけとな」
「何が起こるっていうんです?」
「王を思い出せ、その姿を」
「王の姿?」
言われて二人は思い浮かべる。逞しい体に、赤みがかった髪。隻眼の瞳は青みがかかっていて優しく民を見下ろしている――。
「彼女は、より王に近づくだろう」
「え、男になるってこと?性転換しちゃうの母さん?」
「それともカラーリングでもするのかな。たしかにあまり今の日本人は似てないもの、あの国の人々に」
「でもそんなことわざわざ意味深に伝えに来る?なにかもっと、大きなことが起こるんじゃ」
勇樹は納得がいかなかった。だってわざわざそんなこと伝えに不法侵入するだろうか。俺だったらこんな怪しい婆さんが家に来たら即ケーサツに電話するけど。
「とまあ、わしは伝えたからな。まあなにかあれば連絡してくれてかまわない。名刺に書いてある。相談料は取るけどな」
「え、なんだよ」
「ちょ、ちょっとぜんぜん意味がわからないんだけれど」
慌てる二人を捨て置いて、ロロはその見た目からは想像もつかないほど素早く立ち上がり、「何があっても王を守るんだぞ」と言い残して去っていってしまった。
なんだったんだよ、今の。
まるで変な夢を見たような気分の二人は、そこでようやく手足の冷たさに気がついた。
「とりあえず、寝ようか」
「そうだね、明日も学校だし」
けれど二人はなかなか寝付くことができなかった。意味深なことを言われたのもあるだろう、しかし騙されているんだ、と笑い飛ばせるほどの余裕もなかった。たしかに、胸の奥でなにかがざわついている気がしたのだ。しかしそれを自分ではどうにも出来ない無力さも噛み締めていた。
この先、何が起こるのだろう。そうだ、一週間後が投票だったっけか。
布団のなかでうつらうつら勇樹は思い当たる。まさか母さんが本当にこの国の、日本の王さまになっちゃうってことなんだろうか。でも、ならなんで守れだなんて言うんだろう。俺みたいな子供じゃなくて、偉い人ならSPみたいなのがつくんじゃないのか?
そうして漠然とした不安を抱えながら粕川家にお世話になりつつ、むかえた選挙前日。
耳を疑うようなニュースが世間を席巻した。
【優人会 脱税か】
【選民思想を煽りカネを儲ける自称「王」の女】
【優人会祭司が語る「王を操る政治家の影」】
「これはいったいどういうことだぁ!黒崎!!」
もはや滝沢の秘書とばかりに黒崎を例によって早朝から呼び出せば、早くも彼は怒号の雨を降らせていた。
怒れる滝沢は手元の週刊紙を黒崎めがけて力のままに投げつけたが、飛距離が足りずその紙束は彼のピカピカと光る靴の先にグシャりと落ちただけであった。
「なに、三流記者があらぬことをただ書き立てただけでしょう、こんなものに振り回されてどうするんですか」
けばけばしい色味で飾られたその雑誌の表紙には、疑惑の政治家、静岡県議員のT・Sでかでかと書かれていた。はっきり言ってそこにぼかそうとする意思など感じられず、却って人々の興味を引き立てる意図しか見えなかった。その文字の後ろには、これまた申し訳程度に目隠しされた、楠木陽子の顔写真。
「振り回されるに決まってるだろう!いよいよ明日が投票日なんだぞ、こんなところでイメージダウンさせられておとなしくなぞしていられるか!」
「まあまあ、先生を恐れるどこぞの政党の差し金かもしれないじゃないですか」
「じゃあなぜ伯父がいけしゃあしゃあとインタビューなんぞに答えているんだ、T・Hは叔父の博司じゃあないか、あのクソジジイワシがせっかく蜜を吸わせてやったというのに、それを仇で返しやがって!」
クソジジイがクソジジイと相手を罵るのも滑稽なものだな。冷静に思いながら黒崎は怒れる滝沢を宥めにかかった。
「別に、探られて困ることもないでしょう?」
「困ることなど……」
「あるんですか?」
「いや違う、すべて献金は王に向けられたものだ。決してワシや博司が受け取ったものではない」
「しかし博司伯父貴は『すべてT・Sと自分を王とか名乗る、あの頭のおかしい女に言われてやったことだ』とおっしゃっているようですが」
手元のスマートフォンでニュースを見ながら黒崎は言った。その小さな画面のなかでは、真偽のほども不確かな週刊紙なんぞの情報を、誰もかしもが面白おかしく騒ぎたてていた。
『やっぱりね、最初から怪しいと思ってたんだ』
『政治家が慈善事業なんかするもんか』
『てか王とかwやばくねこの女ww』
一度火がつけば黒く消し炭になるまで終わらない。みな大きく扇いでは風を送りもっと燃えろと叫びたてる。見知らぬ人間によくぞここまでする気力があるものだと黒崎が内心あきれている一方、
「あのタヌキめ!」
そうわめいて滝沢はドンと高額な机を拳で打ち付ける。
せっかくあれを作った職人も悲しがるだろうが、さすがは金がかかっているだけのことはある。びくともしないそれは、逆に滝沢の拳を痛めつけていた。
「おい、とりあえずこの記者と出版社を訴えろ!」
痛みに拳をさすりながら、脇に控える美人秘書に命令する。
「しかし、火に油を注ぐだけでは?」
彼女は尤もなことを言ったと黒崎は思ったが、とにかく感情に火をつけられた滝沢を落ちつかせることなど彼女にはできなかった。
「かまわん、名誉毀損だ!妨害だ!はやくこいつらを片付けて選挙に向かわなければ」
「しかし、」
今さら。そう彼女は言おうとしたのかもしれない。今さら一瞬にして広まった黒い噂を消せるとでも?
けれどその先の言葉を紡ぐことなく、彼女は柳眉をわずかに細めただけだった。これを鑑と呼ぶべきか、愚かと呼ぶべきか。黒崎には判断がつかなかった。
そもそもが王の威光なんぞという眉唾ものに頼って始めたことだった。はじめの方こそ人々は尊敬――いや思えばただの暇潰しのネタのつもりだったのだろう、によって彼らを支持してくれてはいたけれども。
ようやく人々の目が覚める頃合いだった。そうして、迎えた選挙当日。
「まあ、最下位でしたね」
「そりゃあそうだろうな、前日にあれだけ火を撒かれたら」
力なく滝沢が言った。いつもの彼の事務所ではなく、よく選挙速報で映されるプレハブの簡易事務局。普通は応援者たちが回りを取り巻いていたりするものだが、今や彼の元には数人、関係者がいる程度だった。もちろん噂の延焼を恐れ、着飾った陽子を呼ぶこともなく、華々しさに欠けたそこは末場の詰め所のようだった。置かれたダルマの赤が空々しかった。
「けれど惜しかったですねぇ、比例代表ではトップの政党でしたのに。名簿の当選順位がまあ下なこと。載せてくれただけでもありがたいだろって感じでしたしね」
「くそ、せっかくこのワシがあんなあんな女に媚びてやったというのに。これならあんなやつを担ぎ出したりするんじゃなかった!」
「あんな年増でも着飾れば見映えがよくなるじゃないか、とご満悦だったのはタキトゥス様でしたでしょう」
「腐っても中身は王だからな。だがその中身も使えんようじゃもうあんな女に用はない!」
「しかし優人会はどうされます?あそこにはこんな噂を書き立てられてもまだ彼女を信じる人々がたくさんいるんですよ、それに碓井先生も」
「碓井がなんだ、知ったことか。あんな考古学オタクのカマ野郎なんぞ」
そう喚いてから滝沢はふと思い出した。火山を操るフュオンティヌス王。そう石板に書かれていたと、その碓井がなにかの番組で勿体ぶって言っていやしなかったか。
「そうか、……」
うっかり現行の国に合わせてやろうとしたのがそもそもの間違いだったのだ。滝沢は目の覚める思いをした。高度な文明があったとはいえ、時代のなかでは原始国家だ、しかも王制の。
王の権威を示すために恐怖が使われた。つまり、富士の噴火への恐怖が。原始的かつ、もっとも効果的な方法。それこそ一番手っ取り早い方法ではないか。滝沢は考える。
そうだ、ワシの偉大さを理解できない愚かなサピエンスどもめが!下らぬ噂に振り回される猿どもめ。滝沢は怒りも露わにこぶしを握りしめる。肉厚の額、こめかみに血管が浮かぶ。このワシに恥をかかせたあいつらに、どう落とし前をつけてやろうか。そう、恐怖をもって教えてやるのが早かろう。ネアンデルタールの血を引くオレサマの偉大さを。
しかしどうすればそんなことができる?
まるでその滝沢の思考を読んだかのごとく、黒崎が静かに口を開いた。
「ああ、確実に王の強大さを証明出来ればいいのですが。そうすれば皆王に、ひいてはネアンデルタール属にひれ伏すに違いありません。例えば……そうですね、富士を噴火でも出来たなら。しかしあの主婦にそんな力はありますまい、ただ、そういう実験が行われてはいるようですが」
「実験、だと?」
このまさにうってつけな情報に滝沢が乗った。かかった、けれどそんなことなど見せるそぶりもなく黒崎は続ける。
「なんでも地質学の唐澤先生がお詳しいようですよ。なんでも人工的に地震を起こせるものがあるのだとか
「噴火を誘発させることができると?」
「さあ。恐らく地震研究の一環に過ぎないものでしょうし、本当かどうかは知りませんが」
「……その唐澤とかいう学者を紹介してもらうことは可能か?」
「ええ、もちろん。彼も平民とはいえ覚醒者のようですから、喜んでタキトゥス様に協力してくれますでしょう」
「そうか」
そこで滝沢はほくそ笑んだ。
今度こそ、今度こそだ。あの使えない主婦に活路を見いだしてやろう。どちらにせよあの女に未来はないのだ、あれだけ世に叩かれて、どの顔で俗世に戻れるか。ならばせめて無駄なく使ってやった方があの女も浮かばれるだろう、彼はそう思った。なに失敗しても構うものか。失敗したらしたで、あの女により一層恥をかかせてやるだけだ。
それに、噴火によって愚かな人間が静粛されるのも気味が良かった。この優れた存在であるワシをないがしろにするヤツラども。そんなやつらが多少死のうとも、彼には痛くもかゆくもなかった。
もはや滝沢にとって、王は過去の畏れ多い偉大なものではなくなっていた。それは今の王の外見がそうさせたのかもしれない。所詮女だ、なにもできない。だから何をしたって構わない、と。
このまかり通るはずのない理屈を堂々と押し出せる自身に敗因があるだなんてこれっぽっちも思っていなかった。自身こそが正しいのだと信じて疑うこともなく。優人会のよからぬ噂だって、すべて伯父のせいだと思っていた。ちゃっかり自分も甘い蜜をすすっていたというのに。自分に非があるなどこれっぽっちも思っていなかったのだ。
黒崎はニヤニヤと笑い始めた滝沢を置いて部屋を静かに出た。だれも彼を止めるものはなかった。人形のような美人秘書はもとより、落ちぶれた政治家にさえおべっかをつかう関係者らさえも。
さて、ひととおり舞台は用意してやった。扉を閉めながら黒崎は息を吐く。さすがに使った額は身を切り崩すほどではあったが、金がどれだけ人の心を動かせるか知っている黒崎にとっては必要経費でしかなかった。金によって動くものほど、より良い条件であっさりと釣れることも熟知していた。そこに血の繋がりだとか恩義だとかは関係ない。いままで贅の限りを滝沢によって与えられていた伯父の博司が簡単に裏切ったのも、正義のジャーナリストを語る藤村が黒崎の言うなりになったのも。その三文記事をあっさりと載せた出版社もそのニュースを澄まし顔で流すテレビ局も。すべてはカネで動いている。まさに滝沢が常々行っていることだというのに、なぜ自分は引っ掛からないと思い込めるのか。
そこで彼の胸元のスマホが静かに震えた。
「ああ、私だ。……見事惨敗だ、よくやった」
そう簡潔に礼を述べ、彼は通話を切る。やたらと恩着せがましい藤村からの連絡だった。みごとあのおっさんを失脚させてやりましたよ、そんな自慢に似た報告。なに、金なら十分に与えた。今更こちらから礼を言ってやる必要もないのだが。
だが、こうしてまいた種は見事芽吹くことが出来るのだろうか。芽吹けば彼には素晴らしい世界が約束されているはずだった。あの忌まわしい滝沢にも、黒崎工業の跡継ぎとして圧を掛けてくる父親からも、自分自身からも。
こんな自分になるつもりはなかったのに。その念が、彼をここまで走らせたのかもしれなかった。
あのとき、選択肢を誤らなければなにか違かったのだろうか。おもわず首元のネクタイを握りしめ、黒崎は思いを馳せる。記憶に強く残る赤色に。だがそれも一瞬だった。強く頭を降って妄想を振り払う。
そうさ、今は今、過去は過去じゃないか。あの生白い地質学者が言ったように。
けれど本当に過去に囚われず、そのすべてから解放される日は来るのだろうか。
黒崎は重い足取りで、ぼんやりと浮かぶ月の元を歩いて行った。
本来国民すべてが興味を持つべきものだが、それでも関心のない人間にとっては騒音でしかない選挙カー。その上で陽子はそれなりの正装をし、まるで立候補人かのように振る舞っていた。さして意味のないマニフェストを連呼しながら。いや、実際の候補者はちゃんといるのだが、車の前方で身をのりだし持ったマイクで騒いでいるものだから彼こそが応援人のように見えたのだった。
で、なぜ陽子が選挙カーの上にいるのかというと。
「僭越ながら、王にお願いしたいことがございまして」
そう慇懃に頭を垂れたのは二人の男だった。
富士山麓の神殿で、何をするともなく陽子がこれまた豪華なベッドでだらだらとしていると黒崎が滝沢を連れてやってきた。なにもしないのは楽だけど暇だったから、陽子は彼らを快く受け入れた。本当は、わたしだって碓井さんの仕事を手伝いたかったのだけど所詮素人だ。土まみれになるよりは優人会の覚醒者らの相手をしてやってくれ、その方が民も喜ぶだろうと碓井に言われてしまえば、それに従わざるを得なかった。
「何か用ですか?」
もはや相手が自分をここまで押し上げてくれた存在だという感覚も薄れ陽子がだらりと聞くと、太った男の方――タキトゥスだ、が一瞬怒気を孕んだがそれもわずか、落ち着いた、けれど微妙に聞き取りづらいだみ声で話はじめた。
「ええ、次回の衆議院選挙に、ぜひ王をお呼びしたいのです」
「わたしを?まさか立候補しろっていうこと?」
そんなこと言われても。困惑した表情を見てとったのか、黒崎が笑いながらこうも続けた。
「いえ、いきなりあなた様に政界進出を勧めているわけではございません。実際出馬されるのはこのお方で」
そう彼の脇でふんぞり返る滝沢を指し示す。
「タキトゥスが?」
「ええ。彼なら王を急にポンと投げ出すより断然可能性がありますから」
「可能性って、なんの?」
「この国を取り戻せる可能性、にございます」
けれど冗談かと思っていた。というか、すでに陽子は満足だったからだ。この神殿のなかでは私は神のように振舞える。そりゃあ勇樹はちっとも顔を見せないし、碓井さんも忙しいようで滅多に会えないけれど、それでも今までを思えば満足だった。これ以上欲を出すのも億劫になるほどには。
しかしどうやら話は碓井にもいっていたらしく、二人が姿を現した晩に碓井が陽子の、いやフュオンティヌスの寝室に現れたのだった。久しぶりに会う碓井に陽子が抱きつこうとするものの、「黒崎さんと滝沢さんから話は聞きました?」と素っ気なく碓井は椅子に腰かけてしまい、陽子は手持ち無沙汰ぎみに広い室内をうろうろとしてしまった。
「クローヴィスとタキトゥスから?」
内心がっかりしながらも染み付いた習性とは恐ろしいもので、陽子は彼らのシャンポリオンでの名を口にする。
「ああ、ここではかつての名前で呼びあうんでしたね。フュオンティヌス王、タキトゥスの衆議院選の話は聞かれましたか?」
「聞いたけれど。そんなことより、碓井さんくらいわたしの名前を呼んでちょうだい」
「フュオンティヌス王?」
「そうじゃなくて」
「でも、ここでのルールは」
「王である余の命令が聞けないか」陽子は持ちうる王のイメージを駆使して、できる限りの威厳を出して言ってみた。
「……あはは、わかりました」
その姿にひとしきり笑ったあと、碓井は陽子の耳元でささやいた。
「陽子さん」
そうして彼女の首もとに軽くキスを落とす。その先を陽子は待ちわびたが、しかし続きはない。碓井はまるでそんなことよりも、と言わんばかりに話を続ける。
「確かに悪い話ではないと思う。いかにあなたが王だとはいえ、現世でなにも力を持たないのは事実だし」
なによ、期待したわたしがバカみたい。火照るからだを沈めるように自身をかき抱きながら陽子は言った。
「こんな、多くの人が慕ってくれているのに?」
「多いっていってもせいぜい数万人程度じゃないですか、このくらい人気アーティストだって集められる」
「それで十分じゃない、だってシャンポリオンの規模なんてそんなものでしょう?」
「そうだけれど、まさか静岡だけ治外法権をもらえるわけない」
「そりゃあ、まあ。出島じゃあるまいし」
「一番手っ取り早いのはこの国を乗っ取ってしまうことだ」
「乗っとるだなんて」
この場に粕川と唐澤がいれば、あるいは彼をなだめてくれたのかも知れなかった。けれど陽子は碓井を失いたくないあまりに、強く否定することも出来なかった。
「そうだな、言い方が悪かったですね。正確には取り戻す、だ」
軽い否定のつもりで言ったそれは、碓井には違う風に捉えられてしまったようだった。つまりは、陽子もこの国は自分達のものだと思っていると。
「そのための足掛かりにしてくれと彼らは言ってくれている。せっかくの好意、受け取らなければ悪いでしょう」
「でも、本当に好意だけなのかしら」
政治に疎いながらも、陽子は疑問を禁じ得なかった。だって大変なんじゃないの?選挙って。お金もかかるし、ちょっと失言すれば鬼の首を取ったかのように袋叩きだ。
なにより選ばれてどうするんだろう。そこまでしてこの国をどうにかよい方向へ持っていきたい、という気概は滝沢から感じられなかったのだけど。
「好意じゃなかったらなかったで、どうとでもなる。なにせあなたは王なのだから。民を導く義務があるんだ」
余裕の表情で碓井が呟いた。どうにもならないから現世で偉い人に頼ってるんじゃないの?矛盾する発言に陽子の理解は追い付かなかったが、けれど事実、例え人気ロックバンドの集客動員数と変わらぬ程度の信者といえ、自分には慕ってくれる人間がこれほどいるのだ。だから、その彼らの期待に背いてはいけないと思う気持ちもあった。
そうよ、偉大な王国の王と王妃がここにいる。今は近くにいないけれど、王の盾のクーファも、王の目のカスティリオーネもいる。きっと何かあれば力を貸してくれるだろう。
安易な気持ちが彼女をうなずかせた。きっと、誰かがなんとかしてくれるだろう、という無責任さで。だって今のわたしは王様なんだから、誰よりも一番に守られて当然でしょ。
「碓井さんがそこまで言うのなら。ここにくる皆さんも、記憶にあるあの国の方が良かったって言ってる。それを取り戻せたら、きっとみんな喜ぶと思うわ」
そうして陽子はお飾りよろしく、滝沢の事務所で選挙活動に勤しんでいたのだが。
「次は政治家の応援とか、まじ勘弁してって感じなんだけど母さん」
「ほんと、陽子さんどうしたいんだろ」
今日はラーメン屋ではなかった。勇樹は見知らぬ家族に囲まれ夕餉をとっていた。畳の部屋に置かれた古いブラウン管のテレビ。これ地デジ見れんの?そう思ったけれど、なにも薄型じゃなければ写らないわけでもないようで、「チューナーだけ買ったんだ」と返された。その懐かしい厚いテレビの上には、招き猫やら子供の作った謎の置物やらが所狭しと置かれている。その画面に写るのは、卒業式にでも行くのだろうかという格好の母親と小太りの男。ひどくちぐはぐだった。
母親が家を出てしまった勇樹はなにもできない父と義母の面倒を見るのは勘弁と思いつつ、しかしあの宗教団体に身を寄せるのもためらわれて困っていたところ粕川に拾われたのだった。「うち来る?今さら一人増えてもあまりかわりないし」
粕川の実家は昔ながらの農家で、全体的には古いが広い日本家屋に彼女の家族共々迎え入れられたのだった。その言葉どおり、勇樹が一人増えたところで、という感じではあった。なにしろ大家族なのだ。もはや誰が姉なのだか弟なのだか母親なんだかわからない。一度紹介してもらったものの、この意外な衝撃に動揺していた勇樹は把握しきれなかった。
どんどん粕川先生のイメージが塗り替えられていく。けれどそこには失望などなく、己の想像力のなさを実感しただけであったが。ほんと、勝手に相手に対して予測したことなど、正解率はせいぜい数パーセント程度じゃないか。
「ほら、朝採った野菜だ、食べなさい」
そう勧めてくれるのは、粕川先生のお母さんだかお姉さんだか、どっちだったっけ。
「あ、ありがとうございます」
とりあえず礼を述べて皿に盛られた緑の塊を口に頬張れば、
「それにしてもお母さん大忙しじゃあないか」
とまるで自分の旧知の知り合いかのごとく、嬉しそうに母だか姉だかお嫁さんだかは言った。
「こういうのを女性の社会進出っていうんだ、なのに父親が協力してやらんとはなぁ」
「だなぁ。えらいなぁお母さん」
「はあ」
どうやらこの家で覚醒者は粕川先生だけのようだった。それと、先生はあの夢のことを家族には話していないようだ。言ったって誰も信じないでしょ、そう彼女は言っていた。
記憶は遺伝するんじゃないの?俺の母親がそうだったように。勇樹が問うてみても「うーん、わかんない」というあいまいな返事しかもらえなかった。しかしそれ故に単に「この子のお母さん忙しいみたいで」という理由だけで紹介してくれたのは勇樹にとってありがたくもあった。
それに、具体的にどう忙しいのかも詮索されることもなかった。されていたら困っていたところだ。母さん、王に目覚めて神になったんです、なんて誰が信じるか。神になるのと「社会進出」は違うような気もしたけれど、素直にこの家の人たちは喜んでくれているみたいだからそのままにしておこう。
しかし勇樹が通う学校ではそれが周知の事実になっていて、毎日からかわれてうんざりしていた。春になってクラス替えもあったから、勇樹のことを良く知らないクラスメイトほどからかってきた。「お前の母ちゃん王さまだってほんと?」「しかも怪しい宗教の神様なんだろ」
その一方、親がそうなのかは知らないが、「王のご子息になんて口をきいているんだ!「なにとぞ王によろしくお伝えください、ってパパが言ってた」だのと言ってくるのもいる。非難するもの、懐に入り込もうとするものが入り乱れ鬱陶しかった。
さすがにもともと仲のよい友達や部活の後輩らはそんなこと言わないだけの分別があったようだけど、それでもときおり顔色をうかがわれているような気がした。
おかげで全然集中できなくて、春の大会でも負けちゃったし。次の夏の大会で最後なのに、いつになったら優勝できるのだろう。勇樹は心のなかでふてくされる。いや、それも実力のうちなんだろうけど。
「勇樹くん今日はどうする?泊まってく?」
「え、でも、ご飯までごちそうになっちゃったのに」
食事を終え、せめてもと食器を洗っていたら意外に時間がかかってしまった。量が量だった。先生が手伝ってくれたものの、早くも小さな子供たちは寝ている頃合いだった。確かに今からあの家に帰るのも億劫だったし、帰る意味もないように思われた。
なにしろ今の陽子は時の人だ。さすがに未成年のその息子を捕まえてどうこうするほどモラルが低いわけではないようだったが、マスコミが四六時中家に押しかけていてうるさくてかなわない。ではそのお祭り騒ぎの好きなマスコミに義母たちが辟易しているのかと言えばそうでもなく、自信満々に「ホンテヌス王はうちの嫁だ」と豪語しては義母がテレビ画面に満面の笑みで映っているものだから勇樹は驚いたものだった。ほんと、あの図太さだけは見習ってもいいかもしれない。
「いいのいいの、お家に連絡だけ入れときな。あれじゃあ帰るのも大変でしょ」
慣れぬ環境と家事に疲れた勇樹がぼんやりしていると、粕川は笑いながら彼の横に腰かけた。「毎回ラーメンじゃ悪いから、こんな成長期の男の子にさ。それに皿洗いありがとうね」
「ううん、お世話になってるんだし。それより大変だね、家のこともやって畑も耕してるんでしょう?お母さんたち」
「まあ、でもうちは交代制だから。農業含めて家の仕事は男も女も関係なくやるっていう方針」
「すごいね、進んでるや。うちとは大違い」
「家にいる以上手伝えってね。ちょうど今日私の番だったから助かっちゃった。さすがに畑仕事は勘弁してもらってるんだけど」
「もしかしてそれもあって呼んでくれたの?」
「バレたか。それより大丈夫?少し寒くない?」
春とはいえ夜は冷える。花冷えの空には春の大三角形がまたたいていた。ほかにも星座はあったのかもしれないが、勇樹にはそれぐらいしかわからなかった。わずかな月明かりが照らす縁側。そこに二人は腰掛ける。そこから見える庭兼畑のような場所には、むらさき色の大根の花が所狭しと咲いていた。
「うん、大丈夫。それより俺、これからどうしたらいいんだろ。まさかずっとここに世話になるわけにもいかないし。そもそも俺の高校進学とかどうなるんだよ」
星が瞬き花咲く幻想的な夜のもと、勇樹が呟いたのは現実的な言葉だった。
「父親と離婚して、碓井先生と再婚するのかな」
「どうなんだろ、そればかりは当事者じゃないと」
「王の目で未来を見通せたりは……するわけないよね」
「そりゃあ。勇樹くんだって王の盾みたいに強くないでしょ」
「そうだけど。なんだよ、ちっとも役に立たないよな、過去なんて。けどそれに振り回されるなんて、迷惑しかないじゃん、覚醒者なんて」
「ね。ネアンデルタールの血を引いてるから優秀ってのもなんだかなって感じだし。そもそもほんとに遺伝なのかな」
「でもそうだって大先生は言ってたんでしょう?」
「そうだけど、でもうちの家族誰もそんなこと言ってないし、そもそも浜北人とか興味ないみたいだし」
「そんな、地元の一大ニュースなのに?」
「うちの一番の関心事は天気予報だからね」
「先生、史学科なのに?」
「たくさんいる子供の一人が何してようが気にならないんじゃないの」
「でもその方が気楽でいいよね。うちなんか特にババア……ううん、おばあちゃんがうるさくて。とにかくいい大学行けってさ。その点先生は優秀じゃんか、国立大だし」
「そんな、学費が払えないから国立に入っただけだよ、しかも奨学金で。早くも借金人生のはじまり」
「ふうん」
それでもやっぱり優秀なんじゃないかな、勇樹はそう思ったけれど、彼女の努力を遺伝の一言で片してしまったら申し訳ないような気がして言わないでおいた。きっと努力ゆえの賜物なのに、それをすべてネアンデルタールDNAに由来させるように感じてしまうだろうから。
「選挙、どうなるのかな」
しばらく間が空いて、勇樹がプラプラと足を揺らしながら聞いた。学校の授業で習いはしたけれど、いかんせん未成年には選挙権はない。だから実際がどんなものかはよくわからなかったけれど、きっとこの国の未来を占う大事な局面なのだろう。その場面に自分の母親が関わっている。なんとも言えない気持ちだった。
「どうだろ。仮に私が有権者だったとしてもこの人には投票しないかな、滝沢修」
「え、先生まだ未成年だったの?」
「まだまだピチピチの19歳なんです~」
「なんだ、俺と5歳しか違わないんじゃん」
「違わなくても大学生と中学生じゃ雲泥の差なんだから。ほら子供は早く寝なさい」
「ほらそういって子供扱いする」
キャッキャと粕川が年相応に笑いながら勇樹を追いたてる。大人びて見える先生が無邪気に笑っている姿が見られたのは覚醒者の特権かも、などと思っていたら庭を背にする彼女の先、その広がる闇に、二つの光るなにかを勇樹は見つけてしまった。
「先生、うしろ……蛍?」
「蛍?さすがに今の時期は出てこないよ」
その言葉に振り向いた粕川は、「ギャッ」とカエルの潰れたような声を出して尻餅をついてしまった。
「先生、大丈夫!?」
その震える手で闇を指す彼女の先には、まるでアニメさながらに闇に浮かび出る老婆の姿が。え?どういうこと!?
「うわぁっ!」
下手をすれば粕川よりも大きな声で勇樹は叫んでしまったが、その声で誰かがやって来る気配もなかった。それだけ家が広いのか、家人の就寝が早いのか。
蛍以上に時期外れなその怪奇現象は、てっきり二人に襲いかかるのかと思いきや、存外に落ち着いた声で語り始めた。そこで彼らは認識する。とりあえず、オバケみたいなのの類じゃないみたい、良かった。
「夜分遅くに驚かしてしまってすまないね、クーファにカスティリオーネ」
『……へ?』
驚きでへたり込む二人を呼ぶのは、まさしく魔女のような風貌の老婆だった。しわくちゃの顔に高い鼻、もしゃもしゃの髪の毛。その毛に隠れる、青い瞳。
「わしはロロ。覚えているかね?呪術師のロロを」
「……あんまり」
「覚えてない、かも」
いきなり過去の名前を呼ばれて二人は驚く。けれど過去の関係者ならばまだ安心だ、とりあえず変質者や殺人犯なんてことはないだろうけれど。でも、ロロなんて名前でしかも呪術師なんて怪しい人、そんなの過去にいたかしら。
「まあそれも仕方ないだろう、まだ王も覚醒しておらなんだ」
「王も?そんなことないよ、自分が王だって言って家を出ちゃったくらいなんだから」
「いや、本来の力にはまだ目覚めていないんだよ。お前たちもね」
「私たちも?でも予言の力なんて別に要らないし」
「それより婆さん、人んち勝手に入っちゃだめだろ」
相手が同じ人間で、しかも覚醒者であることに安堵したのだろう。落ち着きを取り戻した二人は冷静にこの闖入者を見つめていた。
「……実に現実的な王の目と盾だこと。まあわしが不審者なのは認めるが」
「認めちゃうのかよ」
「そう思って、ほれ。名刺じゃ」
そういって老婆が差し出した紙切れには、「占い師 ロロ」と書かれていた。ご丁寧にホームページのアドレスとLINEID、メルアドに電話番号まで添えて。
「怪しいことには変わらないけど」
「ずいぶん現実的な呪術師なんですね」
「過去の記憶があろうがなかろうが、現代に生きている以上適合せざるを得ないだろう。そんなことより、わしは警告を与えに来たんだ」
よいしょ、と誰の許可も得ずにロロが縁側へと腰かける。その顔からはいかにも魔女然な黒いローブ姿を連想させたが、着ていたのはローブではなくフードつきのコートだった。どうやら寒がりらしい。
「警告って、何を」
警戒心も露に勇樹が問う。怪しい婆さんめ、先生になにかしたら許さないからな。そう胸に近い彼女をかばうその姿はまるで勇者のようでもあった。
「ふん、なかなか様になってるじゃないか。けれどこれから起こることは、残念ながら起こるべくして起こる。その心づもりだけしておけとな」
「何が起こるっていうんです?」
「王を思い出せ、その姿を」
「王の姿?」
言われて二人は思い浮かべる。逞しい体に、赤みがかった髪。隻眼の瞳は青みがかかっていて優しく民を見下ろしている――。
「彼女は、より王に近づくだろう」
「え、男になるってこと?性転換しちゃうの母さん?」
「それともカラーリングでもするのかな。たしかにあまり今の日本人は似てないもの、あの国の人々に」
「でもそんなことわざわざ意味深に伝えに来る?なにかもっと、大きなことが起こるんじゃ」
勇樹は納得がいかなかった。だってわざわざそんなこと伝えに不法侵入するだろうか。俺だったらこんな怪しい婆さんが家に来たら即ケーサツに電話するけど。
「とまあ、わしは伝えたからな。まあなにかあれば連絡してくれてかまわない。名刺に書いてある。相談料は取るけどな」
「え、なんだよ」
「ちょ、ちょっとぜんぜん意味がわからないんだけれど」
慌てる二人を捨て置いて、ロロはその見た目からは想像もつかないほど素早く立ち上がり、「何があっても王を守るんだぞ」と言い残して去っていってしまった。
なんだったんだよ、今の。
まるで変な夢を見たような気分の二人は、そこでようやく手足の冷たさに気がついた。
「とりあえず、寝ようか」
「そうだね、明日も学校だし」
けれど二人はなかなか寝付くことができなかった。意味深なことを言われたのもあるだろう、しかし騙されているんだ、と笑い飛ばせるほどの余裕もなかった。たしかに、胸の奥でなにかがざわついている気がしたのだ。しかしそれを自分ではどうにも出来ない無力さも噛み締めていた。
この先、何が起こるのだろう。そうだ、一週間後が投票だったっけか。
布団のなかでうつらうつら勇樹は思い当たる。まさか母さんが本当にこの国の、日本の王さまになっちゃうってことなんだろうか。でも、ならなんで守れだなんて言うんだろう。俺みたいな子供じゃなくて、偉い人ならSPみたいなのがつくんじゃないのか?
そうして漠然とした不安を抱えながら粕川家にお世話になりつつ、むかえた選挙前日。
耳を疑うようなニュースが世間を席巻した。
【優人会 脱税か】
【選民思想を煽りカネを儲ける自称「王」の女】
【優人会祭司が語る「王を操る政治家の影」】
「これはいったいどういうことだぁ!黒崎!!」
もはや滝沢の秘書とばかりに黒崎を例によって早朝から呼び出せば、早くも彼は怒号の雨を降らせていた。
怒れる滝沢は手元の週刊紙を黒崎めがけて力のままに投げつけたが、飛距離が足りずその紙束は彼のピカピカと光る靴の先にグシャりと落ちただけであった。
「なに、三流記者があらぬことをただ書き立てただけでしょう、こんなものに振り回されてどうするんですか」
けばけばしい色味で飾られたその雑誌の表紙には、疑惑の政治家、静岡県議員のT・Sでかでかと書かれていた。はっきり言ってそこにぼかそうとする意思など感じられず、却って人々の興味を引き立てる意図しか見えなかった。その文字の後ろには、これまた申し訳程度に目隠しされた、楠木陽子の顔写真。
「振り回されるに決まってるだろう!いよいよ明日が投票日なんだぞ、こんなところでイメージダウンさせられておとなしくなぞしていられるか!」
「まあまあ、先生を恐れるどこぞの政党の差し金かもしれないじゃないですか」
「じゃあなぜ伯父がいけしゃあしゃあとインタビューなんぞに答えているんだ、T・Hは叔父の博司じゃあないか、あのクソジジイワシがせっかく蜜を吸わせてやったというのに、それを仇で返しやがって!」
クソジジイがクソジジイと相手を罵るのも滑稽なものだな。冷静に思いながら黒崎は怒れる滝沢を宥めにかかった。
「別に、探られて困ることもないでしょう?」
「困ることなど……」
「あるんですか?」
「いや違う、すべて献金は王に向けられたものだ。決してワシや博司が受け取ったものではない」
「しかし博司伯父貴は『すべてT・Sと自分を王とか名乗る、あの頭のおかしい女に言われてやったことだ』とおっしゃっているようですが」
手元のスマートフォンでニュースを見ながら黒崎は言った。その小さな画面のなかでは、真偽のほども不確かな週刊紙なんぞの情報を、誰もかしもが面白おかしく騒ぎたてていた。
『やっぱりね、最初から怪しいと思ってたんだ』
『政治家が慈善事業なんかするもんか』
『てか王とかwやばくねこの女ww』
一度火がつけば黒く消し炭になるまで終わらない。みな大きく扇いでは風を送りもっと燃えろと叫びたてる。見知らぬ人間によくぞここまでする気力があるものだと黒崎が内心あきれている一方、
「あのタヌキめ!」
そうわめいて滝沢はドンと高額な机を拳で打ち付ける。
せっかくあれを作った職人も悲しがるだろうが、さすがは金がかかっているだけのことはある。びくともしないそれは、逆に滝沢の拳を痛めつけていた。
「おい、とりあえずこの記者と出版社を訴えろ!」
痛みに拳をさすりながら、脇に控える美人秘書に命令する。
「しかし、火に油を注ぐだけでは?」
彼女は尤もなことを言ったと黒崎は思ったが、とにかく感情に火をつけられた滝沢を落ちつかせることなど彼女にはできなかった。
「かまわん、名誉毀損だ!妨害だ!はやくこいつらを片付けて選挙に向かわなければ」
「しかし、」
今さら。そう彼女は言おうとしたのかもしれない。今さら一瞬にして広まった黒い噂を消せるとでも?
けれどその先の言葉を紡ぐことなく、彼女は柳眉をわずかに細めただけだった。これを鑑と呼ぶべきか、愚かと呼ぶべきか。黒崎には判断がつかなかった。
そもそもが王の威光なんぞという眉唾ものに頼って始めたことだった。はじめの方こそ人々は尊敬――いや思えばただの暇潰しのネタのつもりだったのだろう、によって彼らを支持してくれてはいたけれども。
ようやく人々の目が覚める頃合いだった。そうして、迎えた選挙当日。
「まあ、最下位でしたね」
「そりゃあそうだろうな、前日にあれだけ火を撒かれたら」
力なく滝沢が言った。いつもの彼の事務所ではなく、よく選挙速報で映されるプレハブの簡易事務局。普通は応援者たちが回りを取り巻いていたりするものだが、今や彼の元には数人、関係者がいる程度だった。もちろん噂の延焼を恐れ、着飾った陽子を呼ぶこともなく、華々しさに欠けたそこは末場の詰め所のようだった。置かれたダルマの赤が空々しかった。
「けれど惜しかったですねぇ、比例代表ではトップの政党でしたのに。名簿の当選順位がまあ下なこと。載せてくれただけでもありがたいだろって感じでしたしね」
「くそ、せっかくこのワシがあんなあんな女に媚びてやったというのに。これならあんなやつを担ぎ出したりするんじゃなかった!」
「あんな年増でも着飾れば見映えがよくなるじゃないか、とご満悦だったのはタキトゥス様でしたでしょう」
「腐っても中身は王だからな。だがその中身も使えんようじゃもうあんな女に用はない!」
「しかし優人会はどうされます?あそこにはこんな噂を書き立てられてもまだ彼女を信じる人々がたくさんいるんですよ、それに碓井先生も」
「碓井がなんだ、知ったことか。あんな考古学オタクのカマ野郎なんぞ」
そう喚いてから滝沢はふと思い出した。火山を操るフュオンティヌス王。そう石板に書かれていたと、その碓井がなにかの番組で勿体ぶって言っていやしなかったか。
「そうか、……」
うっかり現行の国に合わせてやろうとしたのがそもそもの間違いだったのだ。滝沢は目の覚める思いをした。高度な文明があったとはいえ、時代のなかでは原始国家だ、しかも王制の。
王の権威を示すために恐怖が使われた。つまり、富士の噴火への恐怖が。原始的かつ、もっとも効果的な方法。それこそ一番手っ取り早い方法ではないか。滝沢は考える。
そうだ、ワシの偉大さを理解できない愚かなサピエンスどもめが!下らぬ噂に振り回される猿どもめ。滝沢は怒りも露わにこぶしを握りしめる。肉厚の額、こめかみに血管が浮かぶ。このワシに恥をかかせたあいつらに、どう落とし前をつけてやろうか。そう、恐怖をもって教えてやるのが早かろう。ネアンデルタールの血を引くオレサマの偉大さを。
しかしどうすればそんなことができる?
まるでその滝沢の思考を読んだかのごとく、黒崎が静かに口を開いた。
「ああ、確実に王の強大さを証明出来ればいいのですが。そうすれば皆王に、ひいてはネアンデルタール属にひれ伏すに違いありません。例えば……そうですね、富士を噴火でも出来たなら。しかしあの主婦にそんな力はありますまい、ただ、そういう実験が行われてはいるようですが」
「実験、だと?」
このまさにうってつけな情報に滝沢が乗った。かかった、けれどそんなことなど見せるそぶりもなく黒崎は続ける。
「なんでも地質学の唐澤先生がお詳しいようですよ。なんでも人工的に地震を起こせるものがあるのだとか
「噴火を誘発させることができると?」
「さあ。恐らく地震研究の一環に過ぎないものでしょうし、本当かどうかは知りませんが」
「……その唐澤とかいう学者を紹介してもらうことは可能か?」
「ええ、もちろん。彼も平民とはいえ覚醒者のようですから、喜んでタキトゥス様に協力してくれますでしょう」
「そうか」
そこで滝沢はほくそ笑んだ。
今度こそ、今度こそだ。あの使えない主婦に活路を見いだしてやろう。どちらにせよあの女に未来はないのだ、あれだけ世に叩かれて、どの顔で俗世に戻れるか。ならばせめて無駄なく使ってやった方があの女も浮かばれるだろう、彼はそう思った。なに失敗しても構うものか。失敗したらしたで、あの女により一層恥をかかせてやるだけだ。
それに、噴火によって愚かな人間が静粛されるのも気味が良かった。この優れた存在であるワシをないがしろにするヤツラども。そんなやつらが多少死のうとも、彼には痛くもかゆくもなかった。
もはや滝沢にとって、王は過去の畏れ多い偉大なものではなくなっていた。それは今の王の外見がそうさせたのかもしれない。所詮女だ、なにもできない。だから何をしたって構わない、と。
このまかり通るはずのない理屈を堂々と押し出せる自身に敗因があるだなんてこれっぽっちも思っていなかった。自身こそが正しいのだと信じて疑うこともなく。優人会のよからぬ噂だって、すべて伯父のせいだと思っていた。ちゃっかり自分も甘い蜜をすすっていたというのに。自分に非があるなどこれっぽっちも思っていなかったのだ。
黒崎はニヤニヤと笑い始めた滝沢を置いて部屋を静かに出た。だれも彼を止めるものはなかった。人形のような美人秘書はもとより、落ちぶれた政治家にさえおべっかをつかう関係者らさえも。
さて、ひととおり舞台は用意してやった。扉を閉めながら黒崎は息を吐く。さすがに使った額は身を切り崩すほどではあったが、金がどれだけ人の心を動かせるか知っている黒崎にとっては必要経費でしかなかった。金によって動くものほど、より良い条件であっさりと釣れることも熟知していた。そこに血の繋がりだとか恩義だとかは関係ない。いままで贅の限りを滝沢によって与えられていた伯父の博司が簡単に裏切ったのも、正義のジャーナリストを語る藤村が黒崎の言うなりになったのも。その三文記事をあっさりと載せた出版社もそのニュースを澄まし顔で流すテレビ局も。すべてはカネで動いている。まさに滝沢が常々行っていることだというのに、なぜ自分は引っ掛からないと思い込めるのか。
そこで彼の胸元のスマホが静かに震えた。
「ああ、私だ。……見事惨敗だ、よくやった」
そう簡潔に礼を述べ、彼は通話を切る。やたらと恩着せがましい藤村からの連絡だった。みごとあのおっさんを失脚させてやりましたよ、そんな自慢に似た報告。なに、金なら十分に与えた。今更こちらから礼を言ってやる必要もないのだが。
だが、こうしてまいた種は見事芽吹くことが出来るのだろうか。芽吹けば彼には素晴らしい世界が約束されているはずだった。あの忌まわしい滝沢にも、黒崎工業の跡継ぎとして圧を掛けてくる父親からも、自分自身からも。
こんな自分になるつもりはなかったのに。その念が、彼をここまで走らせたのかもしれなかった。
あのとき、選択肢を誤らなければなにか違かったのだろうか。おもわず首元のネクタイを握りしめ、黒崎は思いを馳せる。記憶に強く残る赤色に。だがそれも一瞬だった。強く頭を降って妄想を振り払う。
そうさ、今は今、過去は過去じゃないか。あの生白い地質学者が言ったように。
けれど本当に過去に囚われず、そのすべてから解放される日は来るのだろうか。
黒崎は重い足取りで、ぼんやりと浮かぶ月の元を歩いて行った。
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