上 下
1 / 8

探偵王は密室がお好き1

しおりを挟む
「聞いたかね、密室だよ、密室!」

 早速〈犯人〉が事件を起こしたとの報告を受け、執務中にも関わらずダーニット三世は大臣の手を取って踊り始めた。けれどされるがままの大臣は呆れたように、「しかし密室なんて、わざわざ作る犯人の気が知れませんけどねぇ」と乗り気でない。

「そりゃあ、はっきり言って意味などないさ」
 大臣を木の葉のようにくるくると回しながら、王は満面の笑みを浮かべて言う。

「通常ならね。密室にするメリットなんて、せいぜい自殺に見せかけるくらいだ。細かい細工をするのに時間をかけるくらいならさっさと逃げた方が賢明。けれど今回の犯人は実によくわかっている」

 急にダンスを止めると、ダーニット三世は大臣に事件の説明を求めた。フラフラしながらも彼は職務に忠実で、懐から出した紙を広げるとその中身を読み上げる。

「ごほん。申し上げます。現場は北部のとある研究所。そこの職員からの報告です。
『遺体を見つけたのは小さな研究室。その部屋は研究所の中に位置し、出入り口は一か所、窓もない』ずいぶん息苦しい部屋ですな、建築家の気を疑います。

『その部屋は鍵が内側から掛けられており、さらにその周りには常に何人か人がいて、被害者以外の出入りを誰も見ていない。部屋の中には被害者がひとり、そして壁に向かってゆく犯人と思しきものの足跡が残されている。凶器と考えられる赤の絵具のチューブが、その壁の先、すなわち外に落ちているのが発見されている。犯人は壁をすり抜けたのか?』……とのことで」

「ほうほう、これはこれは面白そうな」
 ダーニット三世は思わず揉み手をした。彼にとって何よりも一番歓迎すべきは、難解な事件に他ならない。
「すでに何名かの探偵卿が向かっていますが、皆一様に頭をひねるばかりのようで」
    大臣の報告にますます頬を弛めると、
「探偵卿でもすぐには解けない事件か。犯人はそうとう知恵のある者と見受けられるな」と気味の悪い笑みを浮かべた。

「しかし王様、事件を解決できなければ我が国は金貨千枚を支払わなければなりません」
 じとり、と大臣はダーニット三世を一瞥。そしてお気に入りの片眼鏡をはめ直すとピシャリと一言。
「そんな大金、どこから出すというのです!」

「なに、その当てはある。安心してくれ、国庫を脅かす心配はないさ」
   無責任にダーニット三世が安請け合いすると、
「ふむ、王のポケットマネーから出してくださると」と大臣が身を乗り出した。
「いや、そういうわけでは」
   たじろぐ王であったが、「言質は取りましたぞ!費用はすべて国王個人が出されると」と詰められて、蚊の鳴くような声で頷くしかできなかった。

「それならばまあ、良いでしょう。急にあんな法を制定して、財務大臣は顔を真っ青にしてましたからな」
「そうは言っても法務大臣キミだって承認してくれたじゃないかね」
「まあ、これで本当の殺人への抑止力になればいいのですが」
   などと鷹揚にうなずいて見せる法務大臣であったが、さすが探偵卿らを束ねる法務局の人間なだけあって、彼もまたただの推理バカ。残念ながらこの国は、このような人間ばかりなのである。

「あくまで殺しはルール違反。ルールを守って〈殺す〉ことが出来れば、たとえ憎い相手でも国外追放、二度とその顔を見ることはないだろう。さらにうまくいけば褒美ももらえる。ならば、本当に手を血に染めるものも減るだろう、と」
   うむ、我ながら良い法案だ。一人ほくそ笑んで、ダーニット三世は言った。「して、被害者は?」

「それがなんと」
 大臣はもったいぶるように片眼鏡をかけ直し、重々しく乾いた唇を開く。
「かの名探偵、シャンロック殿です」

 *

「よりによってこやつが被害者とは」
 横たわる〈遺体〉を見下ろして、感慨深げにダーニット三世は口ひげをひねった。
「この国きっての切れ者で、かつ体術にも優れていると聞く。そんな者の油断をついて、一体どうやって額を狙ったというのだろう」

「それがですね、こう背後から、何かを口に当てられて」
「ふむ、口に。それはかの有名な〈クロロホルム〉ではあるまいか?」
「ええ、それですそれ。あの特有の甘い感じの匂いがこう」
「なるほど、よくある常套手段だな」
「ええ、意識を失わせるのにはもっぱらクロロホルムというのが流行の最先端ですからね」
「確かに、猫も杓子もクロロホルムで……って、ちょっと君」

「へ?」
 きょとん、とした表情を浮かべるのは足元に転がる〈死体〉。
「ダメでしょ、喋っちゃ。君、殺されてるんだから」
「ああ、そうでした」

 残念そうに〈遺体〉は呟くと、再び瞼を閉じた。その額には、生々しい痕跡。絞り出された赤い絵具が、見事な赤いバツ印を描いていた。
「死因は……まあ、私が設定した通り。赤のバツ印。で、遺体のすぐそばに湿ったハンカチ。あれだな、流行りのクロロホルムをしみこませたのは」
 ふむふむとうなずきながら、ダーニット三世は遺体の検分を始めた。

「そうやって気絶させ、犯人は彼を床に仰向けに横たえた。なるほど無抵抗の人間に手を下すなど容易かっただろう。そして、無慈悲にも額にバツを記した。……あの筆が凶器の一部だろうか?けれど、筆先が黒いな。これではないのか?」

 ダーニット三世が見つけたのは、遺体の傍に転がる細い筆だった。よく絵描きが使うようないわゆる絵筆。絵具と言えば筆。
    部屋の外に落ちていた、赤い絵具のチューブとつなげて考えるのも無理ははなかった。絵具は普通、筆を使って塗るものなのだし。

 けれど、その筆の穂先は赤に染まっていなかった。ダーニット三世が視線をずらせば、その先には我が物顔で鎮座する大きなインク瓶が見えた。
   つまりこの筆は、あのインクを付けられたのか。では犯人は、チューブのまま額にバツ印を描いたのか?

「うーむ、まだ何とも言えないな」
 よくわからなかったことを誤魔化すように、ダーニット三世は辺りを見回すことにした。

 なんてことのない質素な部屋。広さはボクシングのリングくらいしかないわりに、あきれるほどに物が多い。何より一番に多いのは書籍で、机と思しきものはそれによって従来の役割を奪われてしまっている散々な有り様。

 レンガ造りの壁、灰色の床はコンクリートだろうか。その床に、本来机の上にあるべきものが置かれていた。羽ペン、紙束、ビーカーに試験管にフラスコ。懐中時計や鳥打帽。虫メガネに黒とベージュのまだらの紐(これは正真正銘にただの紐だった)、エキゾチックな扇子に怪しい粉。
    どうやらシャンロックの私物も散乱しているようだが、そのくせどこにも、赤い色のものが見当たらない。例えばペンや、インクを拭いたちり紙さえ!

「やはり、凶器はあの外に捨てられていた絵具のようだ。犯人はこのなかで凶器を使用し、外に捨てた。しかし」
 言いかけて、ついに我慢がならなくなってダーニット三世は顔をしかめた。
「クロロホルムの匂いにしては臭いなあ」
 部屋に入った瞬間から、鼻をつく悪臭!まるで肥溜めのような臭いで、気分が悪いったらありゃしない。

「遺体が腐るはずもなし。何の臭いだろう」
 鼻をつまみながらダーニット三世はその足元を凝視した。いつもの彼ならこんな場所から早々に退散していただろう。だがここには、悪臭を上回る、極めて興味深いものがあったのだ。この汚ない部屋のなかで一段と異質なもの。
    遺体の下に、不思議な模様が描かれていた。
「まるで、魔法円のようだな」

 それは被害者シャンロックの身体がすっぽり入るほどの大きさの円だった。直径は6フィート(約180センチ)にもなるだろうか。その内部に、みっちりと模様のようなものが描かれている。

 邪悪な何者かがその魔法円から召喚されたとでも?そんなまさか。
    頭を振って、ダーニット三世はさらに検める。怪しい円は一部が掠れていて、それはどうやら誰かが、いや犯人が踏んだものの様だった。現に、足跡はその掠れた場所から壁の方へと続いている。

 その跡をダーニット三世が追おうとしたところで、
「国王、あまり現場をうろつかれては」
 我が物顔で徘徊する彼に掛かる停止の声。振り向いた先にいたのは、誰よりも一番に現場に駆け付けた探偵卿のメープルだった。
「やあ、これはメープル君。しかし問題ないだろう?恐らく死後数時間は経っている」
「……なぜ、そう言い切れるのです?」
「簡単なことだ」
 事実ダーニット三世にとっては、この国の収支を計算することの何万分の一も容易いことだった。逆を言えば、彼は国務には向いていないとも言えるのだが。

「この、一番目を惹く床の模様。どうやらこれは黒のインクと、あの筆によって書かれているようだ。しかも、乾きは早くない。あそこのメーカーのインクはいやに安いだけあって、あまり質が良くないのだ」
 私も以前使って手を汚してしまったことがある、と忌々し気に瓶を睨んでダーニット三世は続けた。

「それで、犯人はまさかインクが乾いていないとも知らずにその上を歩いてしまった。そうして、足跡が残ってしまったんだろう。とはいえ、壁から先、どこに向かったのかはわからないが」
 まるでそうすれば犯人の足取りがわかると言わんばかりに、穴のあくほどレンガの壁を見つめてから、ダーニット三世はしゃがみこんだ。

「さてその魔法円だが、触ってみるともう乾いてしまっている。以前紙にこのインクで文字を書いたところ、なんと乾くのに二時間もかかったのだ。あれは本当にインクなのかと疑ったよ。床の場合どのくらい乾くまでかかるかは正確にはまだ言えないが、それでもそれなりに時間が掛ったことだろう。つまり、犯行が行われてから数時間が経っている、と考えられる。」
「それくらい、探偵王には簡単すぎでしたわね」

 そう、かの探偵王とはダーニット三世に他ならない。といってもそう呼んでくれるのは一部の探偵卿のみで、世間の知名度はまだまだ低く、ポッと出のゆるキャラなどよりも低かった。いかに探偵だらけの国とは言え、それを統べる王には推理するよりまともな政治をしてほしいと願うのが一般的。とはいえ、マーダーミステリー法を容認するくらいには、この国の人間も政治に疎いのだが。

「まあね。けれど、こんな粗悪なインクなんて早くこの世から失くした方がいいと思うね、私は」
 そこで、ふとダーニット三世はある可能性に気が付いた。
しおりを挟む

処理中です...