1964年の魔法使い

鷲野ユキ

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1964.8.15 ニューオータニ 3

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 不意に会場内のざわめきが弱まった。真理亜は人々の目線の先へと目をやった。
 身なりの整った紳士が、レストランの中央でマイクを持っている。それをきっかけかのように、給仕人らがテーブルの上の華奢なグラスにシャンパンを注いでまわる。あいにく未成年の真理亜のグラスに注がれたのは、アルコールではなくジンジャーエールだったが。
 一通り飲み物が行き渡り、「テステス、マイクテス」とやかましかったマイクテストも終わったらしい。紳士は再びマイクを握ると、ゆっくりと口を開いた。どうやら彼はこのホテルの支配人らしく、今から落成式のスピーチを行うようだった。
 式が始まるのだ。
「えー、この度は皆さまお忙しいところ、えー、当ホテルの落成式にお越しいただき、えー、誠にありがとうございました」
 聞きづらいスピーチの合間を縫って、良い匂いが運ばれてきた。給仕係が前菜のお皿をテーブルの上に並べ始める。それに気を取られてなどいないように上手に振る舞って、真理亜はお偉いさんのスピーチに耳を傾ける。けれどその実スピーチなどより料理の方が気になるのは菅野も同じだったようで、その視線が皿のほうに向けられているのに気づいてしまった。
「えー、本日、終戦から早二十年近くが経とうとしております。戦後に産まれた赤ん坊が成人するほどの年月ではありますが、しかしその二十年で東京はここまで生まれ変わりました。来るオリンピックに備え、ホテルニューオータニも順風満帆とは言えませんがようやくここまでこぎつけることが出来ました。新しい東京の象徴になれば良いと思っております。それもひとえに皆様方の甚大たるご協力のおかげにございます」
 そこまで支配人は語ると、ちらと左腕の時計に目をやった。同じように隣の父も腕時計を盗み見る。他の招待客らもだ。
 そうか、正午が近いんだわ。真理亜は気が付いた。今日は、八月一五日だった。
「まずは本日、終戦記念日の黙祷を捧げましょう。幸い、ここからは靖国神社もよく見えますから、黙祷を捧げる方向は一目瞭然でございます。もっとも、レストランが回転しておりますので、黙祷を捧げている間に少しばかり方角がずれてしまいますが」
 冗談めかした支配人の言葉に、会場内に笑いが起きた。けれどそれもつかの間だった。黙祷、という短い言葉の後、回転レストラン内に沈黙が訪れた。この時ばかりは給仕人も手を止め目を瞑っている。そして短いようで長い一分が過ぎたのちに、
「では、これからの日本の繁栄を祝して、また輝かしい皆様の未来を願って。乾杯」
 と支配人が満面の笑みを浮かべてガラスを掲げた。
 乾杯、とグラスを手に取った順次郎に、真理亜は静かにグラスを当てる。きれいなガラスの響く音が重なってベルの音のようだった。菅野も慌ててグラスを当てるが、勢いよくぶつけたものだから中身が少しこぼれた。身なりからも想像できたとおり、菅野はこういった場には慣れていないらしい。
「ああっ、すみません」
 菅野が動揺して、裏返った声で謝ったその時だった。
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