17 / 101
1964.8.17 北千住 1
しおりを挟む
週初めの仕事をこなすと、英紀は今日ばかりは残業をせずに北千住の自宅へと帰った。
駅から十五分ほどの古ぼけたアパートだ。風呂はないから十分先の銭湯に行かなければならないし、電話もテレビだってない。こんな自宅なら、わざわざ時間をかけて帰るほどの場所でもない。だから自然と英紀は職場に寝泊まりすることが多かった。なにしろこの時期、職場には涼しいクーラーがある。
錆びた階段を上がりつつ、英紀は人知れずため息をつく。職場の上司の赤崎主任は華族出身で、いかに財閥が解体されようとも、千駄ヶ谷に広く敷地を持つ良家の次男坊だ。さらに同僚の天野だって、この春に人気の団地に引っ越すこととなったという。先日紹介されたが、おっとりして感じの良い奥さんと、かわいい子どもと一緒に。
その姿は英紀にはひどく眩しかった。
別に英紀だって、何も安い給料でこき使われているわけではない。むしろ同年代に比べれば、貰っている方でさえあるかもしれない。なにせ友人の矢野は今ラッシュの建設現場で日々肉体労働に身を投じているが、毎日クタクタになるまで働いて月に一万円とちょっとしか貰えないという。それを聞いて、英紀は何も言えなくなってしまった。
だから、買おうと思えばテレビだって、電話だって買えるのかもしれない。不便な自宅に帰るたび英紀は思うのだが、どうにも気が乗らなかった。別に吝嗇家というわけではないつもりだ。だがいかに自分が働いて得た金とは言え、おいそれと使っていいような気もしなかった。
なんとはなしにたまった金は、そうだな、白百合の家に寄付でもしようか。
結局、大月たちに見栄を切ってみたものの、未だ社長には金の件を言いだせていない。もっとも予想外のハプニングがあったからではあるのだけれど、今日はその成果を聞きに彼らが家にやって来る予定だった。だから渋々我が家に帰ってきたのだ。自然、足取りは重くなる。さて、なんと言えばいいのだろうか。
立て付けの悪い扉を開けて、英紀は空気のこもった室内に足を入れた。とりあえず窓を開けると、もう夕方だというのにしつこく輝いている夕日が断りもなく部屋に入ってくる。
その明かりに照らされた室内で目につくのはちゃぶ台に扇風機。あとは部屋の隅に年季の入った箪笥があるのと、申し訳程度に備え付けられた台所とそこにおかれた小さな冷蔵庫。
ひどく色あせた畳の上には仕事関係の書籍や雑誌が散らばっており、それが一層部屋を狭く見せている。我ながら寂しい部屋だな、と英紀は思う。きっと、あのお嬢様の家は、とても想像もつかないようなすごい家なのだろう。
「おい、菅野。いるか?」
さして家具のない部屋ですることもなく、科学雑誌を斜め読みをしているとノックがあった。インターフォンなどというものは当然ない。聞きなれた声に英紀が玄関を開くと、ぼろアパートにはふさわしくない、スーツに身を包んだ身ぎれいな男がいた。
「大月か。矢野はどうした?」
「忙しくて来れないんだと」
「そうか」
男友達の家に来るには洒落た格好の男を部屋に招き入れ、英紀は冷蔵庫から茶を出した。この冷蔵庫というのも、本当は正規品ではない。試作段階のものをいいから使えと赤崎主任がこっそりくれたものだった。
「しかし暑いなこの部屋は」
室内の生ぬるい風を、扇風機がかき混ぜている。
「遠野電機の研究員殿なら、もっといいところに住めるだろうに」
文句を言いつつも出された茶をうまそうに喉に流し込むと、胡坐をかいて大月が本題を切り出した。
駅から十五分ほどの古ぼけたアパートだ。風呂はないから十分先の銭湯に行かなければならないし、電話もテレビだってない。こんな自宅なら、わざわざ時間をかけて帰るほどの場所でもない。だから自然と英紀は職場に寝泊まりすることが多かった。なにしろこの時期、職場には涼しいクーラーがある。
錆びた階段を上がりつつ、英紀は人知れずため息をつく。職場の上司の赤崎主任は華族出身で、いかに財閥が解体されようとも、千駄ヶ谷に広く敷地を持つ良家の次男坊だ。さらに同僚の天野だって、この春に人気の団地に引っ越すこととなったという。先日紹介されたが、おっとりして感じの良い奥さんと、かわいい子どもと一緒に。
その姿は英紀にはひどく眩しかった。
別に英紀だって、何も安い給料でこき使われているわけではない。むしろ同年代に比べれば、貰っている方でさえあるかもしれない。なにせ友人の矢野は今ラッシュの建設現場で日々肉体労働に身を投じているが、毎日クタクタになるまで働いて月に一万円とちょっとしか貰えないという。それを聞いて、英紀は何も言えなくなってしまった。
だから、買おうと思えばテレビだって、電話だって買えるのかもしれない。不便な自宅に帰るたび英紀は思うのだが、どうにも気が乗らなかった。別に吝嗇家というわけではないつもりだ。だがいかに自分が働いて得た金とは言え、おいそれと使っていいような気もしなかった。
なんとはなしにたまった金は、そうだな、白百合の家に寄付でもしようか。
結局、大月たちに見栄を切ってみたものの、未だ社長には金の件を言いだせていない。もっとも予想外のハプニングがあったからではあるのだけれど、今日はその成果を聞きに彼らが家にやって来る予定だった。だから渋々我が家に帰ってきたのだ。自然、足取りは重くなる。さて、なんと言えばいいのだろうか。
立て付けの悪い扉を開けて、英紀は空気のこもった室内に足を入れた。とりあえず窓を開けると、もう夕方だというのにしつこく輝いている夕日が断りもなく部屋に入ってくる。
その明かりに照らされた室内で目につくのはちゃぶ台に扇風機。あとは部屋の隅に年季の入った箪笥があるのと、申し訳程度に備え付けられた台所とそこにおかれた小さな冷蔵庫。
ひどく色あせた畳の上には仕事関係の書籍や雑誌が散らばっており、それが一層部屋を狭く見せている。我ながら寂しい部屋だな、と英紀は思う。きっと、あのお嬢様の家は、とても想像もつかないようなすごい家なのだろう。
「おい、菅野。いるか?」
さして家具のない部屋ですることもなく、科学雑誌を斜め読みをしているとノックがあった。インターフォンなどというものは当然ない。聞きなれた声に英紀が玄関を開くと、ぼろアパートにはふさわしくない、スーツに身を包んだ身ぎれいな男がいた。
「大月か。矢野はどうした?」
「忙しくて来れないんだと」
「そうか」
男友達の家に来るには洒落た格好の男を部屋に招き入れ、英紀は冷蔵庫から茶を出した。この冷蔵庫というのも、本当は正規品ではない。試作段階のものをいいから使えと赤崎主任がこっそりくれたものだった。
「しかし暑いなこの部屋は」
室内の生ぬるい風を、扇風機がかき混ぜている。
「遠野電機の研究員殿なら、もっといいところに住めるだろうに」
文句を言いつつも出された茶をうまそうに喉に流し込むと、胡坐をかいて大月が本題を切り出した。
0
あなたにおすすめの小説
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
白苑後宮の薬膳女官
絹乃
キャラ文芸
白苑(はくえん)後宮には、先代の薬膳女官が侍女に毒を盛ったという疑惑が今も残っていた。先代は瑞雪(ルイシュエ)の叔母である。叔母の濡れ衣を晴らすため、瑞雪は偽名を使い新たな薬膳女官として働いていた。
ある日、幼帝は瑞雪に勅命を下した。「病弱な皇后候補の少女を薬膳で救え」と。瑞雪の相棒となるのは、幼帝の護衛である寡黙な武官、星宇(シンユィ)。だが、元気を取り戻しはじめた少女が毒に倒れる。再び薬膳女官への疑いが向けられる中、瑞雪は星宇の揺るぎない信頼を支えに、後宮に渦巻く陰謀へ踏み込んでいく。
薬膳と毒が導く真相、叔母にかけられた冤罪の影。
静かに心を近づける薬膳女官と武官が紡ぐ、後宮ミステリー。
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
竜皇女と呼ばれた娘
Aoi
ファンタジー
この世に生を授かり間もなくして捨てられしまった赤子は洞窟を棲み処にしていた竜イグニスに拾われヴァイオレットと名づけられ育てられた
ヴァイオレットはイグニスともう一頭の竜バシリッサの元でスクスクと育ち十六の歳になる
その歳まで人間と交流する機会がなかったヴァイオレットは友達を作る為に学校に通うことを望んだ
国で一番のグレディス魔法学校の入学試験を受け無事入学を果たし念願の友達も作れて順風満帆な生活を送っていたが、ある日衝撃の事実を告げられ……
『影の夫人とガラスの花嫁』
柴田はつみ
恋愛
公爵カルロスの後妻として嫁いだシャルロットは、
結婚初日から気づいていた。
夫は優しい。
礼儀正しく、決して冷たくはない。
けれど──どこか遠い。
夜会で向けられる微笑みの奥には、
亡き前妻エリザベラの影が静かに揺れていた。
社交界は囁く。
「公爵さまは、今も前妻を想っているのだわ」
「後妻は所詮、影の夫人よ」
その言葉に胸が痛む。
けれどシャルロットは自分に言い聞かせた。
──これは政略婚。
愛を求めてはいけない、と。
そんなある日、彼女はカルロスの書斎で
“あり得ない手紙”を見つけてしまう。
『愛しいカルロスへ。
私は必ずあなたのもとへ戻るわ。
エリザベラ』
……前妻は、本当に死んだのだろうか?
噂、沈黙、誤解、そして夫の隠す真実。
揺れ動く心のまま、シャルロットは
“ガラスの花嫁”のように繊細にひび割れていく。
しかし、前妻の影が完全に姿を現したとき、
カルロスの静かな愛がようやく溢れ出す。
「影なんて、最初からいない。
見ていたのは……ずっと君だけだった」
消えた指輪、隠された手紙、閉ざされた書庫──
すべての謎が解けたとき、
影に怯えていた花嫁は光を手に入れる。
切なく、美しく、そして必ず幸せになる後妻ロマンス。
愛に触れたとき、ガラスは光へと変わる
灰かぶりの姉
吉野 那生
恋愛
父の死後、母が連れてきたのは優しそうな男性と可愛い女の子だった。
「今日からあなたのお父さんと妹だよ」
そう言われたあの日から…。
* * *
『ソツのない彼氏とスキのない彼女』のスピンオフ。
国枝 那月×野口 航平の過去編です。
フローライト
藤谷 郁
恋愛
彩子(さいこ)は恋愛経験のない24歳。
ある日、友人の婚約話をきっかけに自分の未来を考えるようになる。
結婚するのか、それとも独身で過ごすのか?
「……そもそも私に、恋愛なんてできるのかな」
そんな時、伯母が見合い話を持ってきた。
写真を見れば、スーツを着た青年が、穏やかに微笑んでいる。
「趣味はこうぶつ?」
釣書を見ながら迷う彩子だが、不思議と、その青年には会いたいと思うのだった…
※他サイトにも掲載
【完結】前代未聞の婚約破棄~なぜあなたが言うの?~【長編】
暖夢 由
恋愛
「サリー・ナシェルカ伯爵令嬢、あなたの婚約は破棄いたします!」
高らかに宣言された婚約破棄の言葉。
ドルマン侯爵主催のガーデンパーティーの庭にその声は響き渡った。
でもその婚約破棄、どうしてあなたが言うのですか?
*********
以前投稿した小説を長編版にリメイクして投稿しております。
内容も少し変わっておりますので、お楽し頂ければ嬉しいです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる