1964年の魔法使い

鷲野ユキ

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1964.8.17 北千住 1

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 週初めの仕事をこなすと、英紀は今日ばかりは残業をせずに北千住の自宅へと帰った。
 駅から十五分ほどの古ぼけたアパートだ。風呂はないから十分先の銭湯に行かなければならないし、電話もテレビだってない。こんな自宅なら、わざわざ時間をかけて帰るほどの場所でもない。だから自然と英紀は職場に寝泊まりすることが多かった。なにしろこの時期、職場には涼しいクーラーがある。
 錆びた階段を上がりつつ、英紀は人知れずため息をつく。職場の上司の赤崎主任は華族出身で、いかに財閥が解体されようとも、千駄ヶ谷に広く敷地を持つ良家の次男坊だ。さらに同僚の天野だって、この春に人気の団地に引っ越すこととなったという。先日紹介されたが、おっとりして感じの良い奥さんと、かわいい子どもと一緒に。
    その姿は英紀にはひどく眩しかった。
 別に英紀だって、何も安い給料でこき使われているわけではない。むしろ同年代に比べれば、貰っている方でさえあるかもしれない。なにせ友人の矢野は今ラッシュの建設現場で日々肉体労働に身を投じているが、毎日クタクタになるまで働いて月に一万円とちょっとしか貰えないという。それを聞いて、英紀は何も言えなくなってしまった。
 だから、買おうと思えばテレビだって、電話だって買えるのかもしれない。不便な自宅に帰るたび英紀は思うのだが、どうにも気が乗らなかった。別に吝嗇家というわけではないつもりだ。だがいかに自分が働いて得た金とは言え、おいそれと使っていいような気もしなかった。
 なんとはなしにたまった金は、そうだな、白百合の家に寄付でもしようか。
 結局、大月たちに見栄を切ってみたものの、未だ社長には金の件を言いだせていない。もっとも予想外のハプニングがあったからではあるのだけれど、今日はその成果を聞きに彼らが家にやって来る予定だった。だから渋々我が家に帰ってきたのだ。自然、足取りは重くなる。さて、なんと言えばいいのだろうか。
 立て付けの悪い扉を開けて、英紀は空気のこもった室内に足を入れた。とりあえず窓を開けると、もう夕方だというのにしつこく輝いている夕日が断りもなく部屋に入ってくる。
 その明かりに照らされた室内で目につくのはちゃぶ台に扇風機。あとは部屋の隅に年季の入った箪笥があるのと、申し訳程度に備え付けられた台所とそこにおかれた小さな冷蔵庫。
 ひどく色あせた畳の上には仕事関係の書籍や雑誌が散らばっており、それが一層部屋を狭く見せている。我ながら寂しい部屋だな、と英紀は思う。きっと、あのお嬢様の家は、とても想像もつかないようなすごい家なのだろう。
「おい、菅野。いるか?」
 さして家具のない部屋ですることもなく、科学雑誌を斜め読みをしているとノックがあった。インターフォンなどというものは当然ない。聞きなれた声に英紀が玄関を開くと、ぼろアパートにはふさわしくない、スーツに身を包んだ身ぎれいな男がいた。
「大月か。矢野はどうした?」
「忙しくて来れないんだと」
「そうか」
 男友達の家に来るには洒落た格好の男を部屋に招き入れ、英紀は冷蔵庫から茶を出した。この冷蔵庫というのも、本当は正規品ではない。試作段階のものをいいから使えと赤崎主任がこっそりくれたものだった。
「しかし暑いなこの部屋は」
 室内の生ぬるい風を、扇風機がかき混ぜている。
「遠野電機の研究員殿なら、もっといいところに住めるだろうに」
 文句を言いつつも出された茶をうまそうに喉に流し込むと、胡坐をかいて大月が本題を切り出した。

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