1964年の魔法使い

鷲野ユキ

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1964.8.15 東京駅 4

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「ああ、もう日が陰ってきた。今日はもう帰りましょう。僕たちは社長に言われたとおり、楽しくデートをしたんです。充分でしょう?」
 バミューダパンツの尻を叩き、土埃をはらう。ひとしきり食べ散らかした弁当や菓子の空箱を駅のゴミ箱に捨てると、何事もなかったかのように菅野は歩き始める。真理亜は慌ててその後を追った。
「そんな……無理ですわ、あんなこと、忘れられないもの!」
「お願いですから、忘れてもらえませんか?」
「ねえ、菅野さん!」
「それと今回のことは、誰にも言わないでくださいね、約束です」
 そう言って菅野が立ち止まり、振り返った。逆光でよく見えなかったが、翳る菅野の顔はひどくさみしそうに見えた。
「だって、気味が悪いでしょう。こんな、変な力が使えるだなんて」
「そんなことはありません、菅野さんのおかげで私は命拾いをしたんです。私は命の恩人に、気味が悪いだなんてこと思うような人間じゃありませんわ」
 あんまり菅野の声が落ち込んでいたものだから、真理亜は思わず右手を菅野に差し出していた。小指だけを立てて。
「指きりです。そんなに言いたくないのなら、私ももう聞きません。でも忘れることはできません。だからと言って、言いふらすようなこともしません」
「指きりって」
 菅野が軽く笑った。
「だって、約束とおっしゃるから」
 確かにあまりに子供じみていたかもしれない。真理亜が自信を無くして右手を引っ込めようとしたら、菅野が同じく右手を差し出してきた。
「……そうしてもらえると助かります。僕は真理亜さんに、針を千本飲ませるようなことはしたくありませんからね」
「菅野さん!」
「あなたの瞳を翳らせてしまってすみません。どうか、顔を上げてください」
 傍から見れば、いちゃつくカップルのようにも見えたのかもしれない。通りすがりの子供たちにはやし立てられて、真理亜は慌ててからめた小指を離した。
「それじゃあ、真理亜さん」
「ええ、今日はありがとうございました」
「お気をつけて。では、また」
 東京駅でそのまま菅野と別れた。彼はまた、と言ってくれた。ということは次があるのだろうか。
    真理亜はふわふわとした気持ちで考えた。初めはお父様に腹が立って仕方がなかったけれど。今は父親の人を見る目に感謝したい気持ちだった。
 なんて優しくて素敵な人だろう。おまけにきちんとすればアイドルみたいにカッコいいし、不思議な力まで使えるだなんて!
 まるでお話の中から飛び出てきたヒーローのように、菅野の姿は真理亜に映った。その彼と、また会えるかもしれない。いやそれどころか、父は彼を私の婚約者に、だなんて言ってたじゃない。もしかしたら、私と菅野さんは結ばれる運命にあるんじゃないかしら。お父様じゃないけれど、きっと私と彼は出会うべくして生まれてきたんだわ!
 けれど彼は私のことをどう思っているのだろう。生きていれば私と同じくらいだったという妹さん。私は、その代わりにしか見えていないのかもしれない。
    でも、あれだけ言いたくない力とやらをわざわざ使って、私を助けてくれんじゃない。
    今はそれだけで充分だと思った。今度は私が、彼の何か力になれればいいのだけど。
 一人で上手く電車を乗り継げる自信がなくて、真理亜はタクシーを拾った。車窓から見える夕暮れの東京の街並みが、黄金のように輝いて見えた。ひどく甘美なその景色に酔いながら、真理亜は帰路へと着いた。
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