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1964.9.3 九段下 4
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「悪いけど、俺は疲れたんだ、怪我のせいかひどく眠くってね。そろそろ横にならせちゃくれないか」
これ以上この男と何かを話す気にもなれなかった。ブロックを運ぶことさえ満足にできやしないのに、どの口で偉そうに夢なんか語っているんだ、そう思えてならなかった。それは自分自身に向けてなのかもしれなかった。
「ああ、悪がった。おめみたいに東京もんでもいいやつがいるんだって思ったら嬉しくなっちまった。けどもあんときは本当に悪かった、下手に騒ぐと、殴られるどころか罰金まで取られちまうから……」
「もういい、わかった。俺が勝手に口を挟んだんだ、気にするな」
そう言って正志は布団の中にもぐりこんだ。暑くて掛布団など掛ける気にもならなかったが、視界からこの男を消してしまいたかった。
その後も男はなにやらブツブツと言っていたようだが、正志の反応がないのと、そろそろ寝支度をはじめに他の作業員が来たのでどこかに行ってしまった。きっと、同郷の人間のところにでも行ったのだろう。ここは東京のはずなのに、ここで生まれ育った正志の方が地方から来たような気がした。それほどまでに、行き交う言葉は聞きなれぬ言葉だった。
その日の夜は、夢を見なかった。
翌日、いつも通りに目が醒めて、いつも通りに肉体労働へと身を費やした。せめて自分でもあの家に出来ることをと思い、この日は通しで働くことにした。午後六時を過ぎ、その次のシフトもブッ通しで働くのだ、午後六時から午前二時まで。
けれど日中、燦々と降り注ぐ太陽のもとで働くよりかは身体は楽だ。それに、万一過労で俺が死にでもしたら、あいつらや小百合さんは涙を流してくれるかもしれない。正志はオリンピックの為の人柱になったのだと、この人生を褒め称えてくれるだろうか。
人手が足りないからと監督どもに泣きつかれたのか、昨日の男もしきりにあくびをしながらダラダラとコンクリートを運んでいた。口では家族の為、オリンピックの為と言ってたくせに、あくびなんてしやがって。また監督にでも見つかったら、難癖を付けられるだけなのに。
そう思ったのはちょうど日付が変わる頃合いだったらしい。らしい、というのは後から知ったからだった。現場には時計など置いていない。翌日を迎えたその時に、ひたすらに工夫たちが手押し車に移して運んでいたブロックの、まるでエジプトのピラミッドみたいに積み重ねられた大きな山が、何をきっかけにか崩れてきた。その轟音は眠気を覚え始めた人々の目を覚まさせるほどの轟音だった。
「危ない、逃げろ!」誰かが叫んだような気がした。その声が向けられた先には、あの男がいた。
まさにブロックを車に積もうとしたところなのだろう、手にしたブロックなど捨てて逃げればいいのに、それを抱えて走ろうとしたものだから男は転んでしまった。昨日一つ割ってしまったからなのか、頑なにそれを手放さない。そこへ、なだれてきた石の塊が、男の身体目がけて飛び込んできた。
「危ない!」
正志は叫んだ。俺に力があれば。菅野が持つような、魔法の力があれば何とかできたのだろう。ブロックの落下を止めて、男を助けることが出来たのだろう。
けれど何も持ち得ぬ正志は、ただ叫ぶしかできなかった。渇いて張り付いてしまった喉から、ひゅうひゅうという音とともに声が出た。命を枯らす思いで出した声は、轟音にかき消されてしまい届くことはなかった。土煙が消えると、男の姿はもうなかった。そこには崩れた舗道用のブロックが積み重なっていただけだった。
正志は、ひどく無力だった。
「面倒だな、人死か」
騒ぎを聞きつけてやってきたのだろう。心底面倒そうに言ったのは、例の現場監督だった。
「あいつの田舎に金と誓約書を送れ、今後一切賠償請求をしないようにな。それと葬儀場の手配もだ」
慌ただしい様子で周りの人間に指示を送ると、「それより、困ったのはブロックの方です。はやく代わりを用意しないと――」となにやら神妙な顔つきで、親会社なのだろうか、こんな時間だというのにスーツに身を包んだ身ぎれいな男に話しかけていた。
それを見て、正志はいっぺんに何もかもがどうでも良くなってしまった。そして、つい昨晩夢を語っていたあの男のことが哀れでならなかった。
これが現実だ、いつだって俺たちみたいな末端の人間は、神の祝福など受けられないのだ。何がオリンピックだ、何が祭典だ。享受できるのは、限られたごく一部の人間だけだ。
そいつらの為に、なぜ俺たちが犠牲にならなければならないのか。そいつらの為に、なぜ白百合の家は潰されてしまうのか。あの家だって、オリンピックの為に国に取り上げられてしまうのだ。
子供たちの居場所を奪ってまで行うオリンピックなぞ、無くなってしまえばいいのに。
この国を殺した外人らをのうのうと受け入れて、はしゃぐ気持ちが正志にはわからなかった。なにがお客さんだ、なにが新しい日本だ。ちっともこの国は変わってなんていないじゃないか。
ブロックに潰され、ぐしゃぐしゃになった男の遺体が運ばれていくのを見ながら正志は考えた。お前の望んだオリンピックを台無しにしてやれば、少しは気が晴れるだろうか。
来月には白百合の家が解体されてしまう。正志は、どうにかしてそれだけは避けたかった。たとえ親友である二人を失うことになったとしても。
これ以上この男と何かを話す気にもなれなかった。ブロックを運ぶことさえ満足にできやしないのに、どの口で偉そうに夢なんか語っているんだ、そう思えてならなかった。それは自分自身に向けてなのかもしれなかった。
「ああ、悪がった。おめみたいに東京もんでもいいやつがいるんだって思ったら嬉しくなっちまった。けどもあんときは本当に悪かった、下手に騒ぐと、殴られるどころか罰金まで取られちまうから……」
「もういい、わかった。俺が勝手に口を挟んだんだ、気にするな」
そう言って正志は布団の中にもぐりこんだ。暑くて掛布団など掛ける気にもならなかったが、視界からこの男を消してしまいたかった。
その後も男はなにやらブツブツと言っていたようだが、正志の反応がないのと、そろそろ寝支度をはじめに他の作業員が来たのでどこかに行ってしまった。きっと、同郷の人間のところにでも行ったのだろう。ここは東京のはずなのに、ここで生まれ育った正志の方が地方から来たような気がした。それほどまでに、行き交う言葉は聞きなれぬ言葉だった。
その日の夜は、夢を見なかった。
翌日、いつも通りに目が醒めて、いつも通りに肉体労働へと身を費やした。せめて自分でもあの家に出来ることをと思い、この日は通しで働くことにした。午後六時を過ぎ、その次のシフトもブッ通しで働くのだ、午後六時から午前二時まで。
けれど日中、燦々と降り注ぐ太陽のもとで働くよりかは身体は楽だ。それに、万一過労で俺が死にでもしたら、あいつらや小百合さんは涙を流してくれるかもしれない。正志はオリンピックの為の人柱になったのだと、この人生を褒め称えてくれるだろうか。
人手が足りないからと監督どもに泣きつかれたのか、昨日の男もしきりにあくびをしながらダラダラとコンクリートを運んでいた。口では家族の為、オリンピックの為と言ってたくせに、あくびなんてしやがって。また監督にでも見つかったら、難癖を付けられるだけなのに。
そう思ったのはちょうど日付が変わる頃合いだったらしい。らしい、というのは後から知ったからだった。現場には時計など置いていない。翌日を迎えたその時に、ひたすらに工夫たちが手押し車に移して運んでいたブロックの、まるでエジプトのピラミッドみたいに積み重ねられた大きな山が、何をきっかけにか崩れてきた。その轟音は眠気を覚え始めた人々の目を覚まさせるほどの轟音だった。
「危ない、逃げろ!」誰かが叫んだような気がした。その声が向けられた先には、あの男がいた。
まさにブロックを車に積もうとしたところなのだろう、手にしたブロックなど捨てて逃げればいいのに、それを抱えて走ろうとしたものだから男は転んでしまった。昨日一つ割ってしまったからなのか、頑なにそれを手放さない。そこへ、なだれてきた石の塊が、男の身体目がけて飛び込んできた。
「危ない!」
正志は叫んだ。俺に力があれば。菅野が持つような、魔法の力があれば何とかできたのだろう。ブロックの落下を止めて、男を助けることが出来たのだろう。
けれど何も持ち得ぬ正志は、ただ叫ぶしかできなかった。渇いて張り付いてしまった喉から、ひゅうひゅうという音とともに声が出た。命を枯らす思いで出した声は、轟音にかき消されてしまい届くことはなかった。土煙が消えると、男の姿はもうなかった。そこには崩れた舗道用のブロックが積み重なっていただけだった。
正志は、ひどく無力だった。
「面倒だな、人死か」
騒ぎを聞きつけてやってきたのだろう。心底面倒そうに言ったのは、例の現場監督だった。
「あいつの田舎に金と誓約書を送れ、今後一切賠償請求をしないようにな。それと葬儀場の手配もだ」
慌ただしい様子で周りの人間に指示を送ると、「それより、困ったのはブロックの方です。はやく代わりを用意しないと――」となにやら神妙な顔つきで、親会社なのだろうか、こんな時間だというのにスーツに身を包んだ身ぎれいな男に話しかけていた。
それを見て、正志はいっぺんに何もかもがどうでも良くなってしまった。そして、つい昨晩夢を語っていたあの男のことが哀れでならなかった。
これが現実だ、いつだって俺たちみたいな末端の人間は、神の祝福など受けられないのだ。何がオリンピックだ、何が祭典だ。享受できるのは、限られたごく一部の人間だけだ。
そいつらの為に、なぜ俺たちが犠牲にならなければならないのか。そいつらの為に、なぜ白百合の家は潰されてしまうのか。あの家だって、オリンピックの為に国に取り上げられてしまうのだ。
子供たちの居場所を奪ってまで行うオリンピックなぞ、無くなってしまえばいいのに。
この国を殺した外人らをのうのうと受け入れて、はしゃぐ気持ちが正志にはわからなかった。なにがお客さんだ、なにが新しい日本だ。ちっともこの国は変わってなんていないじゃないか。
ブロックに潰され、ぐしゃぐしゃになった男の遺体が運ばれていくのを見ながら正志は考えた。お前の望んだオリンピックを台無しにしてやれば、少しは気が晴れるだろうか。
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