1964年の魔法使い

鷲野ユキ

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1964.9.5 八丁堀 1

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「真理亜お嬢様、ここです、ここ。菅野さんは、ここで働いているはずです」
 この日、真理亜はこっそりと大学に行くふりをして家を出た。一度大学まで車で送ってもらい、そこで先に待っていてもらったメグと合流。そこからメグに案内されるままに電車を乗り継ぎやってきたのは、八丁堀からバスで十五分ほどのところにある、こぢんまりとした工場のようなところだった。
その近くにある小さな公園の木陰から、真理亜とメグは目的の場所を覗いていた。地べたの土をほじくりまわす鳩たちが、二人のことを怪訝そうに眺めているくらいの、何もない場所だった。
「ここに?でも、菅野さんは工場員ではないはずだけど」
「ここはただの工場じゃないんですよ。研究室や開発室が併設されているんです。いろいろな場所に遠野電機は研究室を持っているようなのですが、八丁堀にあるのはここだけ。お嬢様から、菅野さんが八丁堀に通っていると聞いたので、特定するのは簡単でした」
 なるほど、それだけなら自分でも調べられたかもしれない。けれど問題はその先だ。入口には厳めしい男が立っていて、そう簡単に入れてはくれそうにない。遠野家の娘です、と名乗ったところで警備の男が真理亜のことまで知っているはずがないだろうし、知っていたとしても父親に連絡が行ってしまうだろう。
「そう思って、はいこれ」
 そう言ってメグが、妙に大きなバッグの中から取り出したのは、ピンク色のナプキンに包まれた箱のようなものだった。なんだか、お腹をくすぐる匂いがする。
「……お弁当?」
「ええ、これを持って、『お父さんがお弁当を忘れたみたいなので』とでも言えば入れてくれます」
「でも今日は土曜日よ、みんな半日で上がっちゃうんじゃないかしら」
「今はオリンピック特需で、ほぼ休みなしで工場を回してるんです。だから、弁当を差し入れに来たって不審には思われません」
「そうかしら」
「ええ。私の彼がここで働いているのですが、忙しくて大変みたいですよ。夜もなかなか帰ってこれないみたいです」
「まあ、そうなの。……メグさんの彼がこちらにいらっしゃるの?」
 それは初耳だった。お付き合いしている人がいるとは聞いていたが、まさかお父様の会社で働いていただなんて。きっと、メグさんの彼は素敵な人に違いないわ。真理亜は目を輝かせた。だってこんな、女優さんみたいにきれいな人を射止めた人なんですもの。
「お名前は何という方なんですの?私、お会いしてみたいわ」
「ジュン君にですか?ダメです、ダメダメ!」
 メグにしては強い口調で返されて、真理亜は困惑してしまう。まさか、会わせるのも嫌なほど、メグさんはジュン君とやらにぞっこんなのかしら。
「ダメですよ、お嬢様にお会いできるような人じゃないんです。頭は良いみたいだけど、ぜんぜん一般常識がなっていないんです。あんな男に会わせたりなんてしたら、順次郎様に怒られちゃうわ」
 けれど返ってきた言葉は予想外で、真理亜は言葉を失ってしまった。
「その、メグさんはその方のことを好きなのよね?」
「好きというか、なんというか、放っておけないというか……」
 自分でもなぜだろう、と言った風にメグが言うものだから、真理亜はきっと恋とはそんなものなのだ、と思うことにした。たぶん、そう言ったものは、うまく言葉に出来ないものなんだわ。
「まあ、私の彼のことは置いといて」
 メグが苦笑して言った。「それより、今は菅野さんです。これ、ざっくりですが、中の案内図を用意しました。彼が書いてくれたので、あまりきれいではないのですが」
 そう言って渡された小さな紙には、のた打ち回った線が引かれていた。入口から入ってまっすぐ、大きな建物の脇を左、そこからさらに右……とまるで迷路のような道を辿った先に、菅野の研究室はあるらしい。
「ちゃんとたどり着けるかしら……」
 ひどく不安だったが、せっかくメグが用意してくれた機会だ。それに迷っている時間はない。午前の授業が終わるころには、迎えの車がきてしまう。それまでに、大学まで戻らなければ。
「私はここで待っていますから。うまくいくことを祈っています」
 そう言って送り出され、真理亜は決心した。そうよ、せっかくここまで来たんですもの。怖いけれど、菅野さんの本音が聞きたい。せめて私のことが嫌いになったわけではないことだけでも確認できれば、救われるような気がした。
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