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1964.9.5 八丁堀 4
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「真理亜さん!」
その疑問を言葉にする間もなく、真理亜は菅野に強く体を押された。よろめいて、燃え盛る木の枝から距離が離れる。だが菅野はそこに立ったままだ、一体どうするというのか。
「菅野さん!?」
真理亜が叫ぶと、菅野はキッと燃える木を見上げ、そこに向かって手をかざした。早くも炭と化しつつあるあの大きな枝が落ちてきたら大ごとだ、しかも燃えたまま落ちてきでもしたら、重さと炎で大けがをしてしまう。下手をしたら命も失いかねない。
ああ、「力」を使うんだわ。真理亜は直感した。早く消さなければ、周りの木々に燃え移ってしまう。幸い住宅地とは離れているが、万一工場にでも延焼したら大ごとだ。いろいろな化学物質を扱っている場所だ、爆発しかねない。
けれどどうやって消すのだろう。東京駅の時もわからなかった。まさか水でも出すのだろうか。真理亜は水芸を思い出した。けれどあれはタネも仕掛けもあったし、菅野さんは水の出る扇子なんて持っていない。
ハラハラしながら見守っていると、メラメラと勢いよく燃えていた炎が徐々に弱まっていくのが見えた。特に菅野が何かをしたようには見えなかった、ただ手のひらを向けているだけだ。だが、勢いを失った炎は黒く焦げた葉を残し、静かに消えて行ってしまった。
「すごい……」
真理亜はただ呟くしかできなかった。いったい何をどうしたのだろう。唖然としてそう考えていると、菅野はぜいぜいと肩で息をしながら、再度その手をすっかり黒ずんでしまった桜の木にかざした。すると、見る見るうちにもとの、緑の眩しい桜の木に戻っていくではないか。
そこでさすがに力を使い切ったらしい。菅野が膝から地面に崩れたので、真理亜は慌てて彼の元に駆け寄った。大変だわ、救急車を。いや違う、この状態の菅野さんには、エネルギー補給が必要なんだったわ。それならちょうどいいものがあるじゃない!
真理亜は菅野を引きずって、近くのベンチに寄りかからせる。そして、ベンチの上に置いていたピンク色の包みを開いた。
どうやらメグは本当にお弁当を詰めてくれていたようだった。きれいに形の整ったダシ巻たまごに、ベーコンのアスパラ巻。まるで小学校の運動会に持参でもできそうな、見ためにも楽しいお弁当がまずいわけがない。箸を動かす気力すらなさそうな菅野の口元におかずを運べば、ものすごい勢いで菅野が食いついた。
せっかく時間をかけて作ってくれただろう弁当を、良く味わいもせずに胃袋に流し込んでしまうのは申し訳ないと真理亜は思ったが、状況が状況だ。心の中でメグに謝りつつ、弁当の中身を菅野の口に流し込む。きっとまだ物足りないだろうが、近くには店もなく東京駅の時のようにはいかなさそうだった。それでも多少は回復した菅野が、「すみませんでした」とよろよろと起き上がった。
「お弁当、ありがとうございました。とても美味しかった」
菅野は立ち上がると、ベンチに腰掛け直し礼を述べた。とても味わっているようには見えなかったが、あれだけ食べるのだ、彼は意外にもグルメなのかもしれない。
「もしかして、僕の為に真理亜さんが作ってくださったんですか?」
ええ、そうなの。と言えれば良かったのだが、あいにく自炊などしなくても生きていける彼女は学校の調理実習ぐらいでしか料理をしたことがない。すぐにわかる嘘をつくのも虚しかったので、「うちで働いてくださっている方が作ってくれたの」と正直に答えながら、菅野の横に腰掛けた。
「家で働いている?使用人かなにかですか?」
「ええ、家の雑務を全部してくださるの。すごく有能な方よ」
「それは……すごいですね。やっぱり僕とあなたじゃあ、生きる世界が違いすぎる」
はあ、と菅野がため息を吐いた。
「そんなこと……」
真理亜はそう返したが、働いて月にもらえるのが二万円だと聞いて、こっそり自分のお小遣いと比較した。そして、確かに自分の感覚は世間とずれているんだわ、と納得した。
今まではそれが当たり前だったからわからなかった。友達もいなかったし、中学からは私立の女子校だ。周りは真理亜と似たような、いわゆる良家のお嬢様ばかりだったから、みんなこんなものだと思っていたのだ。
真理亜の世界は狭かった。それを思い知らされたような気がした。
その疑問を言葉にする間もなく、真理亜は菅野に強く体を押された。よろめいて、燃え盛る木の枝から距離が離れる。だが菅野はそこに立ったままだ、一体どうするというのか。
「菅野さん!?」
真理亜が叫ぶと、菅野はキッと燃える木を見上げ、そこに向かって手をかざした。早くも炭と化しつつあるあの大きな枝が落ちてきたら大ごとだ、しかも燃えたまま落ちてきでもしたら、重さと炎で大けがをしてしまう。下手をしたら命も失いかねない。
ああ、「力」を使うんだわ。真理亜は直感した。早く消さなければ、周りの木々に燃え移ってしまう。幸い住宅地とは離れているが、万一工場にでも延焼したら大ごとだ。いろいろな化学物質を扱っている場所だ、爆発しかねない。
けれどどうやって消すのだろう。東京駅の時もわからなかった。まさか水でも出すのだろうか。真理亜は水芸を思い出した。けれどあれはタネも仕掛けもあったし、菅野さんは水の出る扇子なんて持っていない。
ハラハラしながら見守っていると、メラメラと勢いよく燃えていた炎が徐々に弱まっていくのが見えた。特に菅野が何かをしたようには見えなかった、ただ手のひらを向けているだけだ。だが、勢いを失った炎は黒く焦げた葉を残し、静かに消えて行ってしまった。
「すごい……」
真理亜はただ呟くしかできなかった。いったい何をどうしたのだろう。唖然としてそう考えていると、菅野はぜいぜいと肩で息をしながら、再度その手をすっかり黒ずんでしまった桜の木にかざした。すると、見る見るうちにもとの、緑の眩しい桜の木に戻っていくではないか。
そこでさすがに力を使い切ったらしい。菅野が膝から地面に崩れたので、真理亜は慌てて彼の元に駆け寄った。大変だわ、救急車を。いや違う、この状態の菅野さんには、エネルギー補給が必要なんだったわ。それならちょうどいいものがあるじゃない!
真理亜は菅野を引きずって、近くのベンチに寄りかからせる。そして、ベンチの上に置いていたピンク色の包みを開いた。
どうやらメグは本当にお弁当を詰めてくれていたようだった。きれいに形の整ったダシ巻たまごに、ベーコンのアスパラ巻。まるで小学校の運動会に持参でもできそうな、見ためにも楽しいお弁当がまずいわけがない。箸を動かす気力すらなさそうな菅野の口元におかずを運べば、ものすごい勢いで菅野が食いついた。
せっかく時間をかけて作ってくれただろう弁当を、良く味わいもせずに胃袋に流し込んでしまうのは申し訳ないと真理亜は思ったが、状況が状況だ。心の中でメグに謝りつつ、弁当の中身を菅野の口に流し込む。きっとまだ物足りないだろうが、近くには店もなく東京駅の時のようにはいかなさそうだった。それでも多少は回復した菅野が、「すみませんでした」とよろよろと起き上がった。
「お弁当、ありがとうございました。とても美味しかった」
菅野は立ち上がると、ベンチに腰掛け直し礼を述べた。とても味わっているようには見えなかったが、あれだけ食べるのだ、彼は意外にもグルメなのかもしれない。
「もしかして、僕の為に真理亜さんが作ってくださったんですか?」
ええ、そうなの。と言えれば良かったのだが、あいにく自炊などしなくても生きていける彼女は学校の調理実習ぐらいでしか料理をしたことがない。すぐにわかる嘘をつくのも虚しかったので、「うちで働いてくださっている方が作ってくれたの」と正直に答えながら、菅野の横に腰掛けた。
「家で働いている?使用人かなにかですか?」
「ええ、家の雑務を全部してくださるの。すごく有能な方よ」
「それは……すごいですね。やっぱり僕とあなたじゃあ、生きる世界が違いすぎる」
はあ、と菅野がため息を吐いた。
「そんなこと……」
真理亜はそう返したが、働いて月にもらえるのが二万円だと聞いて、こっそり自分のお小遣いと比較した。そして、確かに自分の感覚は世間とずれているんだわ、と納得した。
今まではそれが当たり前だったからわからなかった。友達もいなかったし、中学からは私立の女子校だ。周りは真理亜と似たような、いわゆる良家のお嬢様ばかりだったから、みんなこんなものだと思っていたのだ。
真理亜の世界は狭かった。それを思い知らされたような気がした。
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