1964年の魔法使い

鷲野ユキ

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1964.9.9 遠野電機研究所 1

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 この日、遠野電機研究所に珍しい訪問者があった。いつもは静かな研究所内にバタバタとやってきたのは、遠野電機社長、遠野順次郎その人だった。いつものでっぷりとした身体を高そうなスーツで包んでいるが、心なしかくたびれている。自慢の髭も、まるで元気のない犬の耳のように下を向いてしまっていた。
「おい、大将自らこの狭っちい研究所に来るだなんて、一体どんな風の吹き回しだ?」
 赤崎主任はそう旧友に声を掛けると、机の上の実験器具を無造作に片し、やはり荷物置き場とされていた椅子を空けて用意する。そこへ遠野社長を座らせると、冷所保管用の冷蔵庫の中をかき分けて、中から冷えたコーヒーの缶を取り出した。
「ほれ、とりあえずこれでも飲め」
 一方天野と英紀は部屋の隅で恐縮するばかりだ。赤崎主任が社長と仲が良いのは知っているが、けれど社長自ら研究所に来るだなんて初めてだ。さすがに自分の勤め先のトップが来たとあって、いつもはふてぶてしい天野も身を縮こませている。英紀だって社長とは会ったことがあるけれど、こちらのテリトリーに入って来られるのは初めてだ。それに先日金の無心をしてしまったこともあってひどく居心地が悪い。
 あの後、真理亜が社長になにか吹き込んだのだろうか。
 思わず英紀は嫌な方へ考えてしまう。確かに社長に寄付の件はすみませんと謝っておいてほしいとは伝えたが、そこで真理亜が変にごねてやしないだろうか。例えばやっぱりお金をあげるべきだとか、あるいは力のことや、自分の身が危険な目に遭ったことなどを。
 けれどそんなことがあったなど露にも知らない赤崎は、てっきり社長がやってきたのは未来の入り婿に用事があったものだと思ったらしい。
「菅野に用なんだろ?別に慌てなくても花婿は逃げないだろうに」
 などと呑気に笑い、「おい、いつまでも隅っこにいないでこっちに来いよ」などと余計な世話をしてくれる。
「いやまあ、菅野君に用があると言えばそうなんだが……」
 だが社長の歯切れはどうにも悪く、英紀は今度は胃が痛くなってきた。やっぱり、彼女とデートだなんて、自分には荷が重すぎやしなかっただろうか。あるいはそれを聞きつけて、父親が止めに来ただとか……。
 ぐるぐると嫌な方へ嫌な方へと考えていると、渡されたコーヒーを一口飲んで落ち着いたらしい社長がこう切り出した。
「それがだな、昨晩家が燃えてね」
「は?」
 このトンデモ発言に驚いたのは英紀だけではなかった。普段動じることのない赤崎主任でさえ、危うく手にした缶コーヒーを落とすところだった。英紀も手持ち無沙汰になんとなく持っていた真空管を落としてしまい、思わず力を使ってしまったほどだった。
 落下地点の空気を水素に変換して、それで真空管を包み込むようイメージする。水素は空気の中で最も軽い気体だ。すると風船のように管が浮くのでそれを手に取った。幸い、誰も気が付いていない。
「といってもまあ、燃えたのは普段あまり使っていない離れだったものだから、怪我人も出ずに済んで良かったんだが」
 とりあえず彼女は無事だったらしい。英紀が安堵していると、赤崎がしかめ面で言った。
「そりゃあ不幸中の幸いってやつかもしれんが、けど離れったってアレだろ?なんか、祈りの間みたいなところだろ?」
「ああ、礼拝堂だ」
 さらりと吐かれた言葉に、思わず英紀は天野と目を見合わせてしまった。自宅に礼拝堂。およそ想像のつかない世界だ。
「しかしなんだってそんなとこから火が出たんだ。ロウソクでも倒したのか?」
「いや、人がいる時しかロウソクはつけん。警察と消防の見解だと、誰かが故意にやったんだと」
「放火犯か?しかし罰当たりなやつだな、おまえんとこ、金に物を言わせてキリスト像まで飾ってるらしいじゃないか」
「その言い方はなんだ。カトリックなんだからキリスト像を置くのは当たり前だろう。信仰深いと言ってくれ」
「の割には礼拝堂なんぞ普段使ってないんだろ、これじゃあカミサマが泣くぜ」
「神はいつも私の心の中にいるが、毎日ニコニコしていらっしゃるよ。私が神から奪った妻を手元に戻せて、彼はご機嫌さ。そんなことより大変なのは、これがただの放火じゃないことなんだ」
「放火にただも変もないだろ」
「それがだな、爆弾が投げ込まれたんじゃないかと」
「爆弾だと?」
 そこまで冗談めかしていた赤崎が、いっそう険しい顔をした。
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