49 / 101
1964.9.20 浜松町 2
しおりを挟む
吊り革を後生大事につかむ菅野のことは置いておくことにして、真理亜は広く面積の取られた、二段式のガラス窓から流れていく外の景色を眺める。ここはどこだろうか、さっきまで海が見えたけれど、今は建物の間を縫うようにして走っている。これじゃあ電車と変わらない。
「ほら、これじゃあ高架を走る電車とあまり変わりないじゃない。それに川の次は海だなんて、また海面が爆発でもするって言うの?」
真理亜は窓の外の景色を指さして笑った。「大丈夫よ、こんな高いところにいるんですもの。海面で何かあったとしても、上を走っている私たちに害はないわよ」
「まあ、さすがに二度目はないとは思いますけど……」
太い眉を下げ、菅野はそう言いながら恐る恐る窓の景色に目をやった。十五分で羽田空港までというのは伊達ではなく、いつの間にか再び海面が姿を現している。あの遠くに見えるのは、飛行機だろうか。
「ほら見て、菅野さん!飛行機よ、飛行機」
小さく見えるそれを見て、真理亜ははしゃいだ声を出した。
「ああ、本当にこのまま羽田空港から、どこか遠い外国に行ければいいのに」
「まさか。僕はパスポートだって持ってないですよ」
苦笑する菅野だったが、彼もまた悠々と飛んでいく飛行機に目が釘付けだ。
「私だって持ってないわよ。でも絶対、いつか行ってみたいわ」
出来るならばそう、新婚旅行で。真理亜はちらりと菅野の方を見た。もしかしたら、その時隣に座っているのはこの人なのかしら。
けれどそんな真理亜の内心など露にも知らない菅野は、視界に広がる羽田沖をぼんやりと眺めている。さすがに慣れてきたらしい。頑なにつかんでいた吊り革から手を離し、外をよく見ようと窓ガラスに手をついた。
「でも僕は、あんな乗り物に乗れる気がしません。仕組みは理解できるんですが、どうしてもあんな大きいものが空を飛ぶだなんて信じられない」
「あら、菅野さんはいざとなったら空も飛べるんじゃなくて?」
真理亜は東京駅で感じた不思議な浮遊感を思い出す。あの時、重力に逆らって、確かに身体がふわりと浮いたのだ。
「飛ぶって言うよりは、瞬間的に浮くぐらいしかできません。飛行機ってのは翼に発生する揚力を使って飛んでいるんです。飛行機の翼はただまっ平らではなくて、こう上の方が少し膨らんでいるんですがね、その翼の上を速い速度で空気が流れると、負圧という空気の圧力の差が生まれるんです。その空気の圧力の差で、機体が空に持ち上がるんですが……」
「じゃあ、空気圧で上に引っ張られるってこと?」
菅野が一生懸命飛行機の仕組みを説明してくれたが、真理亜にはいまいちわからなかった。確かにあんな大きなものが浮くだなんて、真理亜にも信じられない。
「ええ、そんな感じです。けれど僕にはあんな大きな翼はありませんし、いくら気体の原子を動かして空気圧を生み出せたとしても、やっぱり瞬間的に浮くしかできない」
「じゃああの時は、そうやって私の身体を浮かせてくれたの?」
「いえ、あの時は空気中の窒素を集めて、それを真理亜さんの周りに纏わせたんです。空気の中で窒素が一番軽いですから。それと落下時の衝撃を和らげるために、コンクリートを分解して、セメントと砂と水に戻しました。新しく組み立てるよりは、原子をばらす方が僕には簡単なので」
「ふうん、菅野さんもすごいけれど、やっぱり飛行機ってすごいのね」
「ええ、科学技術と生物学の集合体ですよ。せっかくの技術は、こうやって平和的に使われる方がいい」
そう呟いた菅野の表情があまりに悲しそうだった。そう言えば、と真理亜は高校の歴史の授業で教わったことを思い出す。確か戦争の時に、飛行機は敵陣に体当たりする武器でもあったという。神風特攻隊というやつだ。
まるで暴走族みたいな名前なんか付けちゃって。ちっともかっこよくないし、やっていることは犬死だ。
けれどそう考えるのは、自分がそれを経験していないからだ、とも真理亜は思った。
それをうかつに自分は批判することはできまい。それが出来るのは、経験した人間だけ。
子供の頃に戦争を経験したという菅野と自分の間には、わかり得ぬ深い溝があるのだろう。
「そうね、せっかくの技術だもの。みんなの役に立てるように使わなきゃ」
だから真理亜には、これぐらいしか返す言葉は見つからなかった。うつむいて小さく返した言葉に、菅野がそっと微笑んだ。
「これからはそういう時代です。本当に、この国がここまで来られてよかった」
掛けられた言葉に、真理亜は顔を上げた。なんだか溝の間に橋を掛けてもらえた気がして、真理亜は嬉しくなって続けた。
「ええ。あとひと月でオリンピックまでやっちゃうんだから。ねえ、楽しみだわ。お父様に体操のチケットを取ってもらっているの。一緒に見に行きませんか?」
最初はメグさんと行こうと思っていたけれど、今となっては話が別だ。彼女には、彼女と彼氏さんとの二枚でチケットをあげればいい。そのほうが、きっとメグさんも喜ぶわ。
これから先、真理亜には楽しいことしか待っていない。爆弾魔なんて早くも忘れてしまっていたほどだった。そう思った矢先だった。
「ほら、これじゃあ高架を走る電車とあまり変わりないじゃない。それに川の次は海だなんて、また海面が爆発でもするって言うの?」
真理亜は窓の外の景色を指さして笑った。「大丈夫よ、こんな高いところにいるんですもの。海面で何かあったとしても、上を走っている私たちに害はないわよ」
「まあ、さすがに二度目はないとは思いますけど……」
太い眉を下げ、菅野はそう言いながら恐る恐る窓の景色に目をやった。十五分で羽田空港までというのは伊達ではなく、いつの間にか再び海面が姿を現している。あの遠くに見えるのは、飛行機だろうか。
「ほら見て、菅野さん!飛行機よ、飛行機」
小さく見えるそれを見て、真理亜ははしゃいだ声を出した。
「ああ、本当にこのまま羽田空港から、どこか遠い外国に行ければいいのに」
「まさか。僕はパスポートだって持ってないですよ」
苦笑する菅野だったが、彼もまた悠々と飛んでいく飛行機に目が釘付けだ。
「私だって持ってないわよ。でも絶対、いつか行ってみたいわ」
出来るならばそう、新婚旅行で。真理亜はちらりと菅野の方を見た。もしかしたら、その時隣に座っているのはこの人なのかしら。
けれどそんな真理亜の内心など露にも知らない菅野は、視界に広がる羽田沖をぼんやりと眺めている。さすがに慣れてきたらしい。頑なにつかんでいた吊り革から手を離し、外をよく見ようと窓ガラスに手をついた。
「でも僕は、あんな乗り物に乗れる気がしません。仕組みは理解できるんですが、どうしてもあんな大きいものが空を飛ぶだなんて信じられない」
「あら、菅野さんはいざとなったら空も飛べるんじゃなくて?」
真理亜は東京駅で感じた不思議な浮遊感を思い出す。あの時、重力に逆らって、確かに身体がふわりと浮いたのだ。
「飛ぶって言うよりは、瞬間的に浮くぐらいしかできません。飛行機ってのは翼に発生する揚力を使って飛んでいるんです。飛行機の翼はただまっ平らではなくて、こう上の方が少し膨らんでいるんですがね、その翼の上を速い速度で空気が流れると、負圧という空気の圧力の差が生まれるんです。その空気の圧力の差で、機体が空に持ち上がるんですが……」
「じゃあ、空気圧で上に引っ張られるってこと?」
菅野が一生懸命飛行機の仕組みを説明してくれたが、真理亜にはいまいちわからなかった。確かにあんな大きなものが浮くだなんて、真理亜にも信じられない。
「ええ、そんな感じです。けれど僕にはあんな大きな翼はありませんし、いくら気体の原子を動かして空気圧を生み出せたとしても、やっぱり瞬間的に浮くしかできない」
「じゃああの時は、そうやって私の身体を浮かせてくれたの?」
「いえ、あの時は空気中の窒素を集めて、それを真理亜さんの周りに纏わせたんです。空気の中で窒素が一番軽いですから。それと落下時の衝撃を和らげるために、コンクリートを分解して、セメントと砂と水に戻しました。新しく組み立てるよりは、原子をばらす方が僕には簡単なので」
「ふうん、菅野さんもすごいけれど、やっぱり飛行機ってすごいのね」
「ええ、科学技術と生物学の集合体ですよ。せっかくの技術は、こうやって平和的に使われる方がいい」
そう呟いた菅野の表情があまりに悲しそうだった。そう言えば、と真理亜は高校の歴史の授業で教わったことを思い出す。確か戦争の時に、飛行機は敵陣に体当たりする武器でもあったという。神風特攻隊というやつだ。
まるで暴走族みたいな名前なんか付けちゃって。ちっともかっこよくないし、やっていることは犬死だ。
けれどそう考えるのは、自分がそれを経験していないからだ、とも真理亜は思った。
それをうかつに自分は批判することはできまい。それが出来るのは、経験した人間だけ。
子供の頃に戦争を経験したという菅野と自分の間には、わかり得ぬ深い溝があるのだろう。
「そうね、せっかくの技術だもの。みんなの役に立てるように使わなきゃ」
だから真理亜には、これぐらいしか返す言葉は見つからなかった。うつむいて小さく返した言葉に、菅野がそっと微笑んだ。
「これからはそういう時代です。本当に、この国がここまで来られてよかった」
掛けられた言葉に、真理亜は顔を上げた。なんだか溝の間に橋を掛けてもらえた気がして、真理亜は嬉しくなって続けた。
「ええ。あとひと月でオリンピックまでやっちゃうんだから。ねえ、楽しみだわ。お父様に体操のチケットを取ってもらっているの。一緒に見に行きませんか?」
最初はメグさんと行こうと思っていたけれど、今となっては話が別だ。彼女には、彼女と彼氏さんとの二枚でチケットをあげればいい。そのほうが、きっとメグさんも喜ぶわ。
これから先、真理亜には楽しいことしか待っていない。爆弾魔なんて早くも忘れてしまっていたほどだった。そう思った矢先だった。
0
あなたにおすすめの小説
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
後宮の手かざし皇后〜盲目のお飾り皇后が持つ波動の力〜
二位関りをん
キャラ文芸
龍の国の若き皇帝・浩明に5大名家の娘である美華が皇后として嫁いできた。しかし美華は病により目が見えなくなっていた。
そんな美華を冷たくあしらう浩明。婚儀の夜、美華の目の前で彼女付きの女官が心臓発作に倒れてしまう。
その時。美華は慌てること無く駆け寄り、女官に手をかざすと女官は元気になる。
どうも美華には不思議な力があるようで…?
転生『悪役』公爵令嬢はやり直し人生で楽隠居を目指す
RINFAM
ファンタジー
なんの罰ゲームだ、これ!!!!
あああああ!!!
本当ならあと数年で年金ライフが送れたはずなのに!!
そのために国民年金の他に利率のいい個人年金も掛け、さらに少ない給料の中からちまちまと老後の生活費を貯めてきたと言うのに!!!!
一銭も貰えないまま人生終わるだなんて、あんまりです神様仏様あああ!!
かくなる上はこのやり直し転生人生で、前世以上に楽して暮らせる隠居生活を手に入れなければ。
年金受給前に死んでしまった『心は常に18歳』な享年62歳の初老女『成瀬裕子』はある日突然死しファンタジー世界で公爵令嬢に転生!!しかし、数年後に待っていた年金生活を夢見ていた彼女は、やり直し人生で再び若いままでの楽隠居生活を目指すことに。
4コマ漫画版もあります。
香死妃(かしひ)は香りに埋もれて謎を解く
液体猫(299)
キャラ文芸
第8回キャラ文芸大賞にて奨励賞受賞しました(^_^)/
香を操り、死者の想いを知る一族がいる。そう囁かれたのは、ずっと昔の話だった。今ではその一族の生き残りすら見ず、誰もが彼ら、彼女たちの存在を忘れてしまっていた。
ある日のこと、一人の侍女が急死した。原因は不明で、解決されないまま月日が流れていき……
その事件を解決するために一人の青年が動き出す。その過程で出会った少女──香 麗然《コウ レイラン》──は、忘れ去られた一族の者だったと知った。
香 麗然《コウ レイラン》が後宮に現れた瞬間、事態は動いていく。
彼女は香りに秘められた事件を解決。ついでに、ぶっきらぼうな青年兵、幼い妃など。数多の人々を無自覚に誑かしていった。
テンパると田舎娘丸出しになる香 麗然《コウ レイラン》と謎だらけの青年兵がダッグを組み、数々の事件に挑んでいく。
後宮の闇、そして人々の想いを描く、後宮恋愛ミステリーです。
シリアス成分が少し多めとなっています。
15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~
深冬 芽以
恋愛
交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。
2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。
愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。
「その時計、気に入ってるのね」
「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」
『お揃いで』ね?
夫は知らない。
私が知っていることを。
結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?
私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?
今も私を好きですか?
後悔していませんか?
私は今もあなたが好きです。
だから、ずっと、後悔しているの……。
妻になり、強くなった。
母になり、逞しくなった。
だけど、傷つかないわけじゃない。
押しつけられた身代わり婚のはずが、最上級の溺愛生活が待っていました
cheeery
恋愛
名家・御堂家の次女・澪は、一卵性双生の双子の姉・零と常に比較され、冷遇されて育った。社交界で華やかに振る舞う姉とは対照的に、澪は人前に出されることもなく、ひっそりと生きてきた。
そんなある日、姉の零のもとに日本有数の財閥・凰条一真との縁談が舞い込む。しかし凰条一真の悪いウワサを聞きつけた零は、「ブサイクとの結婚なんて嫌」と当日に逃亡。
双子の妹、澪に縁談を押し付ける。
両親はこんな機会を逃すわけにはいかないと、顔が同じ澪に姉の代わりになるよう言って送り出す。
「はじめまして」
そうして出会った凰条一真は、冷徹で金に汚いという噂とは異なり、端正な顔立ちで品位のある落ち着いた物腰の男性だった。
なんてカッコイイ人なの……。
戸惑いながらも、澪は姉の零として振る舞うが……澪は一真を好きになってしまって──。
「澪、キミを探していたんだ」
「キミ以外はいらない」
【完結】婚約破棄はお受けいたしましょう~踏みにじられた恋を抱えて
ゆうぎり
恋愛
「この子がクラーラの婚約者になるんだよ」
お父様に連れられたお茶会で私は一つ年上のナディオ様に恋をした。
綺麗なお顔のナディオ様。優しく笑うナディオ様。
今はもう、私に微笑みかける事はありません。
貴方の笑顔は別の方のもの。
私には忌々しげな顔で、視線を向けても貰えません。
私は厭われ者の婚約者。社交界では評判ですよね。
ねぇナディオ様、恋は花と同じだと思いませんか?
―――水をやらなければ枯れてしまうのですよ。
※ゆるゆる設定です。
※名前変更しました。元「踏みにじられた恋ならば、婚約破棄はお受けいたしましょう」
※多分誰かの視点から見たらハッピーエンド
一級魔法使いになれなかったので特級厨師になりました
しおしお
恋愛
魔法学院次席卒業のシャーリー・ドットは、
「一級魔法使いになれなかった」という理由だけで婚約破棄された。
――だが本当の理由は、ただの“うっかり”。
試験会場を間違え、隣の建物で行われていた
特級厨師試験に合格してしまったのだ。
気づけばシャーリーは、王宮からスカウトされるほどの
“超一流料理人”となり、国王の胃袋をがっちり掴む存在に。
一方、学院首席で一級魔法使いとなった
ナターシャ・キンスキーは、大活躍しているはずなのに――
「なんで料理で一番になってるのよ!?
あの女、魔法より料理の方が強くない!?」
すれ違い、逃げ回り、勘違いし続けるナターシャと、
天然すぎて誤解が絶えないシャーリー。
そんな二人が、魔王軍の襲撃、国家危機、王宮騒動を通じて、
少しずつ距離を縮めていく。
魔法で国を守る最強魔術師。
料理で国を救う特級厨師。
――これは、“敵でもライバルでもない二人”が、
ようやく互いを認め、本当の友情を築いていく物語。
すれ違いコメディ×料理魔法×ダブルヒロイン友情譚!
笑って、癒されて、最後は心が温かくなる王宮ラノベ、開幕です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる