1964年の魔法使い

鷲野ユキ

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1964.10.8 遠野邸 6

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「ええっ、ダメですよ、お屋敷にいないと順次郎様に怒られますよ!」
「怒られるくらいなら別にかまわないわ」
「そんな、危険です!それにどうやってお屋敷から出るんですか。玄関には、順次郎様がいらっしゃるんですよ」
「大丈夫。こんな時の為に、秘密の抜け道を見つけてあるの」
 真理亜は不敵な笑みを浮かべた。
「秘密の抜け道?」
「ええ。お勝手から出られるように、ちゃんと靴を用意してあるの。玄関で待ち構えているお父様なんて怖くないわ」
 そう言って真理亜は、クローゼットの中から白いペタンコ靴を取り出した。菅野と初めてのデートの時に新調したものだ。
「でもお屋敷の周りには、草加次郎対策で警備の人間がわんさかいるんです。すぐに見つかって、連れ戻されて終わりですよ」
 メグがそう心配するも、真理亜は取り合わない。
「裏手のお庭にマンホールがあるのはご存じ?」
「いえ、知りませんけれど」
 メグの主な仕事は家事全般だが、さすがに庭師の真似事まではしたことがない。
「下水用のマンホールなのだけれど、点検できるようにちゃんと梯子が付いているの。そこを下りていくと下水通路に出るのよ。しばらく歩くとまた梯子があって、そこを出ると二丁目の鍋島公園の近くに出られるの」
「近くに出るって、まさかお嬢様、下水道なんて行かれたことがあるんですか?」
 メグが目を丸くしながら声を上げた。「下水だなんて、汚いじゃないですか。それに変な虫とか、ネズミとかいるんでしょう?」
「そりゃあ汚いし臭いし、小さい羽虫みたいのがわんさか飛んでるの」
顔をしかめながら真理亜は続けた。「小さいころにうっかり下りて、もう二度と行かないって思ったわ。けれどそうでもしなきゃ菅野さんを助けに行けないんですもの」
「お嬢様……」
 まさか生まれた時からお嬢様だった真理亜が、そんなところに足を踏み入れてまで助けたい人がいるだなんて。メグは人知れず感心した
「わかりました。お嬢様がそこまで言うのなら、順次郎様には、真理亜様がお屋敷を抜け出すことは言いません」
「ありがとう!」
「本当は、真理亜様を見張っているように順次郎様に言われたんです」
 メグがぽつりと言った。「私だって、お嬢様を危険な目には晒したくありませんから。やっぱり、お屋敷で大人しくしていただくのが一番だと思うんです」
「メグさん……」
「けれど、真理亜お嬢様の情熱には負けました。でもその小百合さんという方に会って、大月さんに会えたとして、それでどうするんですか?」
「それは」
 正直何も考えていなかった。話せばわかるんじゃないかと真理亜は思っていたのだけれど。
「申し訳ないのですが、大月さんと菅野さんがご友人だというのなら、菅野さんもその片棒を担がされている可能性は高いんじゃないかと思うんです」
 低い声でメグが言った。
「まあ、メグさんまでそんな風に言うの?」
「すみません。でも、まったくの他人ならともかく、親しい友人を誘拐なんてするものでしょうか」
「親しいからこそ、なにも疑わずに菅野さんは付いて行ったのかもしれないわ」
「そうかもしれません。けれど、彼氏に裏切られた身としては、なにか裏があるんじゃないかって思っちゃうんです」
 若干茶化しつつメグが言った。「私だってジュン君のことは信じてたのに、裏切られてすごいショックでした。真理亜お嬢様が同じような目に遭ったらって思うと」
「大丈夫、菅野さんが犯人なわけないわ。けれど、もし本当にお父様やメグさんが心配しているようなことになっていたら私、彼の頬を思い切りぶん殴ってやるんだから」
 そう言って、真理亜はこぶしを握って振るそぶりをした。
「最初からやましいことがないのなら、ちゃんと理由を言って下されば良かったのよ。そこで変に誤魔化したから、こんなことになってるんだもの。ちゃんと本当のことを言って下さらないと」
「そうですね。真実を明らかにしてください。きっとお嬢様ならできますよ」
「まかせて。私、今度は菅野さんの力になるって誓ったんですもの」
 力強く頷くと、真理亜は荷物と靴を持って部屋を出た。お小遣いと地図、電車の路線図。いつか菅野を助けに行くときに必要だろうと用意しておいたものだった。それに、小百合の家の住所と電話番号をメモしたものに、握りしめていた開会式のチケットをワンピースのポケットにねじり込む。最悪間に合わなかったら、単身開会式に乗り込むしかない。
 金も持たずにノコノコ行って、どうなってしまうのかは想像もしたくなかったが。
「お嬢様、台所を通るならちょうどいいものがあります」
 真理亜の後ろをついてきたメグが、順次郎に見つかるのを恐れてか小声で言った。
「前にお渡ししたチョコレート、菅野さんはなんておっしゃってました?」
 例の大量に砂糖の入ったチョコだ。あれを一口食べた時の菅野の顔を思い出して、真理亜はクスリと笑って答えた。「鳩が豆鉄砲喰らったみたいな顔して、ごちそうさまって言ってたわ」
「まあ美味しくはないだろうとは思っていましたが。そのチョコ、実はまだ残ってるんです」
「え?」
 台所につくと、メグは冷蔵庫からかわいらしい包みを数個取り出した。
「また出番があるようなことがないといいんですけれど」
 神妙な顔をして、メグがそれを真理亜に手渡す。
「くれぐれも、気をつけてくださいね」
「わかったわ」
 そう言い残し、真理亜は靴を履くとお勝手の扉を開いた。
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