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第一章
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火の気のない暖炉、木目調のダイニングテーブル。その上では四色のランチョンマットに囲まれて、一輪挿しの花が所在無げにうなだれていた。棘のない赤い花。
これは、バラじゃなくてカーネーション。
彼は、別段花には詳しくなかった。けれどこの花が何かはさすがにわかった。しおれた赤。来た頃の影もない死にかけの花を、棄てようかどうか迷いそれに手を伸ばす。
触れようとすると、まるで彼の手から逃げるかのように花瓶が倒れた。飛び散る花びらとガラスの破片。腐臭を放つ水。それらを片そうとすると、開け放たれた窓の方から、子どもが泣いているような声が聞こえた。
死に損ないの処理に手を下すのをやめて、思わず誘われそちらへと向かう。女の子の声だった。外に聞こえるほどの大きな泣き声。けれど誰も助けには来てくれない。
外?
そうか、いつの間にか自分は外に出たのだっけ。そこで彼は初めて気づいた。駄目じゃないか、散らかしたまま出てきてしまって。
けれどここはどこだろう。見覚えのあるようでないような、どこにでもある住宅街。ふと、いつもの道を一本違って入った時のような違和感。
今は朝なのだろうか?それともお昼?近くの家からは魚を焼く香ばしい匂いがしてきた。
のだけれど、それはだんだんと焦げ臭いものへと変わっていく。
焼きすぎなんじゃないかなぁ、などと思っていたら、いつしか子どもの泣き声は消えてカンカンと鳴り響く、焦燥感を煽る音が聞こえてきた。
ああ、これは消防車のサイレンだ。少し先の民家からモクモクと黒い煙と、煙に交じってオレンジ色の炎がニョキニョキ生えてきた。よく見えないけれど、あれだけよく燃えているのなら木造なのかもしれない。
そうだ!火事ならば、水を掛けないと。水を。水だ!ただ突っ立っている場合じゃない。早く助けないと。
そう思い立って歩いてきたようなのだけれど、気づけば川辺に佇んでいた。土手から降りて、黒く光る水面の側に。どうやって降りてきたのだっけ、あんな高いところから。
もう薄闇もしっかり黒く塗りつぶされて、細々と光る点が何個かそこにぞんざいに放り投げられていた。夜が彼にのしかかる。
こんなに時間が経ってしまったのなら、もう間に合わないかもしれない。そう思いはしたけれど、それでも水を掬おうとする。
手には、青いポリバケツ。ずぶずぶと水の中に入り、バケツを水中に突っ込む。
ごぽごぽ、ずぷん。ああ、これでいい。バケツいっぱいの水。早く助けないと。
掬った水の中に、なにかが混じっているのに彼は気が付いた。
なんだろう?なんだかぶよぶよしていてぬるぬるする、でも芯みたいなのがあって固い。
不思議と寒さも感じない水のなかにあって、それだけは氷のように冷たいなにか。
さして明るくもないその場所で、なぜそれに気付いたのだろう。それほどまでに、それは存在感を放っていたからだ。
普段よく見ているけれど、けれどそれだけが単品であるなんて、ありえない。
人間の、ひじから指先までの部分だけ。それがバケツのなかに入っていた。
*
『……、……河川敷……身体の一部……』『未明、火事……、女性……』『……虐待……子ども……』
ぼんやりと、遠くの方ではきはきと喋る女性の声が聞こえる。言葉として認識されなかったそれらの音が、意味のあるものへと変わっていく。
爽やかなBGMに負けじと張る声。それが彼女の仕事なのだから仕方ない。とにかく重要と思われる情報を伝えること。そのために、彼女はさぞかし努力してきたのだろう。
しかし彼女が頑張れば頑張るほど、それは急速に言葉からただの大きな音として知覚されはじめ、最終的に彼の眠りを妨げる騒音へと成り下がる。
「ったく朝からうるさいし……」
この騒音、とはいえ別段やかましいほどの音量ではないのだけれど、なによりその聞こえてくる内容が不愉快だった。どこかの誰かの不幸なニュース。それが俺と何の関係がある?おかげで変な夢を見てしまった気がする。
彼は布団からをもぞもぞと這い出した。憚ることなく大きな口であくびし、テレビのある部屋へとどかどか歩いていく。
何か夢を見ていた。ひどく重苦しいもの。なんだったっけ。けれど恐らく思い出したところで楽しくなるわけでもないだろう。たぶん、そんな夢。
そんな元々存在しない架空の記憶を思い起こす意味もないだろう。彼は考えるのをあきらめた。それよりテレビだ。アイツの息の根を止めてやらないと。
こうやってろくでもないニュースほど夢に出てくるから、目覚まし代わりにテレビつけんのやめてほしいんだけど。
「おはよう、慧。なに今日は早いじゃん」
「コイツのせいで目が醒めたんだよ」
テレビのある部屋は、リビング兼キッチン。
という言い方をすると何となくおしゃれな気もするが、実際は昭和時代の名残のボロアパートの台所兼居間だ。いまどき上京してきた一人暮らしの大学生だって、もっといい部屋に住んでいる気がする。
けれど慧には部屋を飾り立てることに生きがいを感じる趣味はなかったし、それは一緒に暮らす姉もそのようだから取り立てて不満はない。住めればいいんだ、家なんて。
いや、そもそも住まわせてもらっている時点で、拒否権など彼にはなかったのだが。
その部屋の主である姉が、まだ化粧っ気もなく上下ジャージのまま、珍しく魚など焼いていた。
モクモクと上がる煙の映像が脳内に再生される。どうやら、夢に出てきた匂いはこれだったようだ。幸いなことに、夢のように焦げてはいない。
「どうしたんだよ朝から珍しい。慣れないことして焦がすなよ」
「うっさい、魚ぐらいアタシでも焼けるっての。あ、ちょうどいいや慧、上にあるお皿取ってくんない?アンタ無駄にデカいんだから」
「はいはい。茜姉が小さいだけでしょ」
やれやれと皿を取りつつ、慧はなんだか急に腹が減ってきた。せっかく早起きしたんだ。たまには優雅なモーニングもいいかもしれない。
我ながら欲望に忠実だと思いつつも今更二度寝する気も起きず、テレビのリモコンを弄りザッピングする。大体朝の時間なんてどこも似たようなニュースしかやっていないのだけれど、少しでも面白いものはないかと闇雲にチャンネルを変えてみる。
1、3、4、5、6、7、8。結局どこも、夢うつつで聞いたニュースと同じものばかりだった。特に川から人の身体の一部が見つかったとかいうアレ。優雅な朝食時にはふさわしくない内容だけれど仕方がない。つまらないからと言ってテレビを消すと、姉が怒るのだ。今何時かわからなくなるじゃん、と。
テレビの真上に掛けられた、壁掛け時計がかわいそうで仕方がない。
「やだ、またバラバラ?これってこないだ山の中で見つかったのと一緒?なんか最近多くない?怖いねぇ」
アジの干物と、スーパで買ってきた出来合いの漬物。
それらをテーブル、いやここはちゃぶ台といったほうがしっくりくるのだろう、に置きながら姉が他人事のように言う。
「なんだって朝からこんな嫌なニュースばっかり流すんだよ。おかげでこんな時間に目ぇ覚めちゃったし」
「こんな時間って、もう七時前じゃん」
呆れたように姉の茜が返す。半ば羨ましいような表情で。
社会人の彼女にとって、七時が早朝という概念はない。そりゃあ、起きずにずっと寝ていられるなら嬉しいけれど。けれど会社は悠長に彼女のことを待っていてなどくれない。
「俺にとっては早朝だよ」
「高校生らしく運動部にでも入って、朝から青春してくれば?そのへん走るとかさ」
「わざわざ朝から汗まみれになるやつらの気が知れない。そんなことするより寝てる方が絶対楽しい」
そもそも部活なんか入ってる場合でもないし。たくあんをかじりつつ、慧は内心呟く。
「青春は一度っきりなんだから楽しみなさいよ」
「なんだよ茜姉、ババアみたいなこと言っちゃって」
「なによ、あたしがババアならあんたもジジイでしょ。趣味が寝ることとか、あんた人生の何時間無駄に使えば気がすむのよ」
ああ、これは面倒なパターンだ。説教モード。慧はいち早く察知した。なんだろう、ババアって言ったのがまずかったかな。とりあえず朝からお小言は勘弁だ。ご機嫌とりに向かわなければ。
「じゃあ人生を無駄使いしないためにも、この皿たちをわたくしめにぜひ洗わせてください、茜お姉さま」
「ふむ、よかろう。あ、網も洗っておいてよね。魚焼いたやつ」
「げ。めんどくさ」
「なんか言った?」
「いえ、なんでも」
特に何をせずとも、とにかく腹は減る年頃である。慧は、こんもりと茶碗に米を盛ると座布団によいしょと腰掛けた。それを見た姉が「ヤダなにホントにジジイみたいじゃん」と笑う。
そこに流れる事件のニュース。虐待されて意識不明重体の女の子はどうやら亡くなってしまったようで、心肺停止状態で見つけられた火元の家の住人は、その身元と死亡が確認されたようだった。
それと、天気予報。
穏やかな秋晴れは今日までのようです。夕方から急激に温度が下がり、夜半から雨が降るでしょう。なにか羽織れるものを持っていた方が良さそうです。
へぇ、じゃあストール持ってこうかなぁ。
明日からは、残念ながら雨が続きそうです。
そうかぁ、嫌だなぁ。魚の骨に苦戦しながら、姉がさして興味なさそうに呟く。
そのあとに、ペットのネコやら犬やらの映像。視聴者の飼っているペットをただ自慢されるだけのコーナー。
かわいいけど飼う余裕もないしねぇ、といつもの姉の残念そうなセリフ。
そして、七時。
その途端に、七時になった、七時になったとそのニュース番組のキャラクターが盛んにわめきたてる。七時になったからって、そんなになにかが変わるものなのか、と思うほどに。
「ごちそうさま」
食べ終わった食器を流しに置くと、姉はその場でブラシを咥えシャカシャカと歯を磨き始めた。洗面所がないわけではないのだが、どうにも朝はテレビの時計が見えないと不安らしい。
眠気の余韻に浸りながら、特別目新しいことを言っているわけでもないニュースを見ながら歯を磨くのが日課だ。
だけどその日は、まるで七時になったのがきっかけであったかのように、先から繰り返される同じ内容の他に、新たな事件が舞い込んだらしい。
なにやら新しい原稿が渡されて、それをチラと一瞥したアナウンサーがスラスラとその内容を語り始める。
さすがプロだなぁ。さっきはうるさいなんて思ってすみませんでした。
慧は心のなかで謝っておく。
『つい先ほど入ったニュースです。先ほどお伝えいたしました、相模川の河川敷から発見された遺体の一部に関しての続報です。依然としてこの遺体の身元は判明しておりませんが、つい今しがたこちらのテレビ局に〈勇者〉を名乗る男から連絡があり、この事件に関与していることをほのめかした、とのことです。なお、この男は勇者を名乗っておりますが、警視庁勇者課によりますと『いたずらに勇者が罪人の身体を切断することなどありえない、勇者の名を騙った悪質な事件ではないか』とのことでした』
『これは非常に悪質ですね。単なるいたずら電話なのではないでしょうか?』
『真偽のほどは定かではありません。けれどよりによって正義の執行者である〈勇者〉の名を騙って殺人を犯したなどと言っているわけですから、これはこの国に対しての布告とみることも可能ですね』
『布告、ですか?』
『ええ。この〈勇者〉を名乗る男が本当に罪に手を染めたかはわかりませんが、そういう明確な思想があって、わざわざ〈勇者〉を名乗り、かつ残虐な犯行に至ったのかもしれません。もしくは、強い妄想を抱いているのかもしれませんね』
『自分は資格も持っていないのに、〈勇者〉だと思い込んでしまった、ということですか?』
『まだ憶測でしか言えませんが』
『そうですね、この男が何者なのか、また遺体の身元も分からない状態ですから、確かなことは依然として不明なままですね。一刻も早く事件が解決することを願っております。詳しくは、この後8時30分のニュースでお伝えいたします』
勇者、だって?突然何を真面目な顔して言っているのだろう、この人たちは。
起きたばかりだというのに、満腹で早くも睡魔を覚えた慧の目が醒めた。
なんだか今日は変なニュースが多いなぁ。たまに早起きすればこれだ。魚を焼く匂いになんか釣られるんじゃなかった。
すっかり食べ終わってしまった魚の残骸や皿たちを姉の退いた台所へと運びながら、慧は奥で着替える姉に声をかけてみる。
「茜姉今のニュース聞いた?〈自称勇者〉とか、この犯人アタマおかしくない?てかさ、なに警視庁勇者課って。今日四月一日だっけ?」
警視庁勇者課。聞きなれない言葉だ。
そもそもなんだよ勇者って。ゲームに出てくるあれか?なんだってそんなものが、警視庁なんかにあるというのか。
今まで俺はニュースを見ているつもりだったけど、実はこれバラエティなのだろうか。こんな朝から?
いや案外、ニュースに飽きた人たちに人気の番組なのかもしれないじゃないか。
バラバラ殺人も〈自称勇者〉も嘘でした。ビックリした?
今のご時世。他局と差別化を図るために、それくらいしたっておかしくない。
「は?あんた何言ってんの。だいぶ前に法案成立したでしょ?」
「へ?」
けれど慧のそんな疑問はあっけなく流されてしまった。エイプリルフールでも、この番組がバラエティなわけでもなく。
あたかも勇者のことなど、周知の事実であるかのように。
「あんた学校でなに習ってんのよ。でもコイツ相当ヤバいのは確かだよね。よりによって勇者だなんて」
「えっ、いつからそんなファンタジーみたいな国になったんだよ、この国は」
「ファンタジー?」姉が素っ頓狂な声を出した。どこから出たんだ今の声。
「ファンタジーなのはあんたの頭の方でしょ。こんなことも覚えてないなら自分で調べなさいよ。あーっもうこんな時間!アタシ忙しいんだから!」
そうテレビ画面の左端に映った時計を見て叫ぶと、姉は手早く化粧を済まし、足早に家を出てしまった。年頃の女性とは思えないほどの早着替えだ。もはやアニメの変身シーンに近い。
残念ながら、変身後に現れるのは可憐な美少女ではなくボーイッシュな姉の姿だった。せっかく身内から見てもまあまあ美人の部類なのに、髪もバッサリ切ってしまって化粧気も少ない。小柄な体をパンツスーツに包んだ姿はある意味「戦う女性」であったけれども。
というか、そんな慌てて出るくらいなら、呑気に魚なんて焼いてる場合じゃなかっただろうに。
「鍵よろしく!」「わかった」
バタバタと出かける姉を見送り、慧は思わず声に出して呟いてしまった。
「勇者、ねぇ」
物語やゲームに出てくるその名称。けれどあれはあくまでも架空の物ではなかったか。それがなぜ、ニュースなどに取り上げられているのだろうか。
もしかして、俺、まだ夢でも見てるのか?
慧はそう思いもしたが、部屋にはまだ魚を焼いた匂いがプンプンしているから換気をしなければならないし、洗うと約束した皿も網もしっかり残っている。
夢の中で食べたにしては市販のおしんこはちょっとしょっぱかったし、なによりまだ眠い。
夢の中でさえ眠いとか、あまり聞いたことないし。
8時半のニュースを待っていたら、さすがに学校に遅刻してしまう。とはいえ残念ながらこの家にはレコーダーなどという便利なものがないので、自分でネットでも見て調べるほかないだろう。
いや、面倒だし友達に聞けばいいだろうか。けれどあの姉の反応から見るに「そんなことも知らないのか」とバカにされてしまうのかもしれない。それもなんだかつまらない気もする。
ともあれ、片付けとかないと怒られるよな。
違和感は残ったものの、このままぼんやりしていても仕方がない。
慧は渋々、生臭い網の片付けに取り掛かかる。
『7時15分!7時15分!』見る者のいなくなったテレビのなかで、時を告げるキャラクターが喚いていた。
これは、バラじゃなくてカーネーション。
彼は、別段花には詳しくなかった。けれどこの花が何かはさすがにわかった。しおれた赤。来た頃の影もない死にかけの花を、棄てようかどうか迷いそれに手を伸ばす。
触れようとすると、まるで彼の手から逃げるかのように花瓶が倒れた。飛び散る花びらとガラスの破片。腐臭を放つ水。それらを片そうとすると、開け放たれた窓の方から、子どもが泣いているような声が聞こえた。
死に損ないの処理に手を下すのをやめて、思わず誘われそちらへと向かう。女の子の声だった。外に聞こえるほどの大きな泣き声。けれど誰も助けには来てくれない。
外?
そうか、いつの間にか自分は外に出たのだっけ。そこで彼は初めて気づいた。駄目じゃないか、散らかしたまま出てきてしまって。
けれどここはどこだろう。見覚えのあるようでないような、どこにでもある住宅街。ふと、いつもの道を一本違って入った時のような違和感。
今は朝なのだろうか?それともお昼?近くの家からは魚を焼く香ばしい匂いがしてきた。
のだけれど、それはだんだんと焦げ臭いものへと変わっていく。
焼きすぎなんじゃないかなぁ、などと思っていたら、いつしか子どもの泣き声は消えてカンカンと鳴り響く、焦燥感を煽る音が聞こえてきた。
ああ、これは消防車のサイレンだ。少し先の民家からモクモクと黒い煙と、煙に交じってオレンジ色の炎がニョキニョキ生えてきた。よく見えないけれど、あれだけよく燃えているのなら木造なのかもしれない。
そうだ!火事ならば、水を掛けないと。水を。水だ!ただ突っ立っている場合じゃない。早く助けないと。
そう思い立って歩いてきたようなのだけれど、気づけば川辺に佇んでいた。土手から降りて、黒く光る水面の側に。どうやって降りてきたのだっけ、あんな高いところから。
もう薄闇もしっかり黒く塗りつぶされて、細々と光る点が何個かそこにぞんざいに放り投げられていた。夜が彼にのしかかる。
こんなに時間が経ってしまったのなら、もう間に合わないかもしれない。そう思いはしたけれど、それでも水を掬おうとする。
手には、青いポリバケツ。ずぶずぶと水の中に入り、バケツを水中に突っ込む。
ごぽごぽ、ずぷん。ああ、これでいい。バケツいっぱいの水。早く助けないと。
掬った水の中に、なにかが混じっているのに彼は気が付いた。
なんだろう?なんだかぶよぶよしていてぬるぬるする、でも芯みたいなのがあって固い。
不思議と寒さも感じない水のなかにあって、それだけは氷のように冷たいなにか。
さして明るくもないその場所で、なぜそれに気付いたのだろう。それほどまでに、それは存在感を放っていたからだ。
普段よく見ているけれど、けれどそれだけが単品であるなんて、ありえない。
人間の、ひじから指先までの部分だけ。それがバケツのなかに入っていた。
*
『……、……河川敷……身体の一部……』『未明、火事……、女性……』『……虐待……子ども……』
ぼんやりと、遠くの方ではきはきと喋る女性の声が聞こえる。言葉として認識されなかったそれらの音が、意味のあるものへと変わっていく。
爽やかなBGMに負けじと張る声。それが彼女の仕事なのだから仕方ない。とにかく重要と思われる情報を伝えること。そのために、彼女はさぞかし努力してきたのだろう。
しかし彼女が頑張れば頑張るほど、それは急速に言葉からただの大きな音として知覚されはじめ、最終的に彼の眠りを妨げる騒音へと成り下がる。
「ったく朝からうるさいし……」
この騒音、とはいえ別段やかましいほどの音量ではないのだけれど、なによりその聞こえてくる内容が不愉快だった。どこかの誰かの不幸なニュース。それが俺と何の関係がある?おかげで変な夢を見てしまった気がする。
彼は布団からをもぞもぞと這い出した。憚ることなく大きな口であくびし、テレビのある部屋へとどかどか歩いていく。
何か夢を見ていた。ひどく重苦しいもの。なんだったっけ。けれど恐らく思い出したところで楽しくなるわけでもないだろう。たぶん、そんな夢。
そんな元々存在しない架空の記憶を思い起こす意味もないだろう。彼は考えるのをあきらめた。それよりテレビだ。アイツの息の根を止めてやらないと。
こうやってろくでもないニュースほど夢に出てくるから、目覚まし代わりにテレビつけんのやめてほしいんだけど。
「おはよう、慧。なに今日は早いじゃん」
「コイツのせいで目が醒めたんだよ」
テレビのある部屋は、リビング兼キッチン。
という言い方をすると何となくおしゃれな気もするが、実際は昭和時代の名残のボロアパートの台所兼居間だ。いまどき上京してきた一人暮らしの大学生だって、もっといい部屋に住んでいる気がする。
けれど慧には部屋を飾り立てることに生きがいを感じる趣味はなかったし、それは一緒に暮らす姉もそのようだから取り立てて不満はない。住めればいいんだ、家なんて。
いや、そもそも住まわせてもらっている時点で、拒否権など彼にはなかったのだが。
その部屋の主である姉が、まだ化粧っ気もなく上下ジャージのまま、珍しく魚など焼いていた。
モクモクと上がる煙の映像が脳内に再生される。どうやら、夢に出てきた匂いはこれだったようだ。幸いなことに、夢のように焦げてはいない。
「どうしたんだよ朝から珍しい。慣れないことして焦がすなよ」
「うっさい、魚ぐらいアタシでも焼けるっての。あ、ちょうどいいや慧、上にあるお皿取ってくんない?アンタ無駄にデカいんだから」
「はいはい。茜姉が小さいだけでしょ」
やれやれと皿を取りつつ、慧はなんだか急に腹が減ってきた。せっかく早起きしたんだ。たまには優雅なモーニングもいいかもしれない。
我ながら欲望に忠実だと思いつつも今更二度寝する気も起きず、テレビのリモコンを弄りザッピングする。大体朝の時間なんてどこも似たようなニュースしかやっていないのだけれど、少しでも面白いものはないかと闇雲にチャンネルを変えてみる。
1、3、4、5、6、7、8。結局どこも、夢うつつで聞いたニュースと同じものばかりだった。特に川から人の身体の一部が見つかったとかいうアレ。優雅な朝食時にはふさわしくない内容だけれど仕方がない。つまらないからと言ってテレビを消すと、姉が怒るのだ。今何時かわからなくなるじゃん、と。
テレビの真上に掛けられた、壁掛け時計がかわいそうで仕方がない。
「やだ、またバラバラ?これってこないだ山の中で見つかったのと一緒?なんか最近多くない?怖いねぇ」
アジの干物と、スーパで買ってきた出来合いの漬物。
それらをテーブル、いやここはちゃぶ台といったほうがしっくりくるのだろう、に置きながら姉が他人事のように言う。
「なんだって朝からこんな嫌なニュースばっかり流すんだよ。おかげでこんな時間に目ぇ覚めちゃったし」
「こんな時間って、もう七時前じゃん」
呆れたように姉の茜が返す。半ば羨ましいような表情で。
社会人の彼女にとって、七時が早朝という概念はない。そりゃあ、起きずにずっと寝ていられるなら嬉しいけれど。けれど会社は悠長に彼女のことを待っていてなどくれない。
「俺にとっては早朝だよ」
「高校生らしく運動部にでも入って、朝から青春してくれば?そのへん走るとかさ」
「わざわざ朝から汗まみれになるやつらの気が知れない。そんなことするより寝てる方が絶対楽しい」
そもそも部活なんか入ってる場合でもないし。たくあんをかじりつつ、慧は内心呟く。
「青春は一度っきりなんだから楽しみなさいよ」
「なんだよ茜姉、ババアみたいなこと言っちゃって」
「なによ、あたしがババアならあんたもジジイでしょ。趣味が寝ることとか、あんた人生の何時間無駄に使えば気がすむのよ」
ああ、これは面倒なパターンだ。説教モード。慧はいち早く察知した。なんだろう、ババアって言ったのがまずかったかな。とりあえず朝からお小言は勘弁だ。ご機嫌とりに向かわなければ。
「じゃあ人生を無駄使いしないためにも、この皿たちをわたくしめにぜひ洗わせてください、茜お姉さま」
「ふむ、よかろう。あ、網も洗っておいてよね。魚焼いたやつ」
「げ。めんどくさ」
「なんか言った?」
「いえ、なんでも」
特に何をせずとも、とにかく腹は減る年頃である。慧は、こんもりと茶碗に米を盛ると座布団によいしょと腰掛けた。それを見た姉が「ヤダなにホントにジジイみたいじゃん」と笑う。
そこに流れる事件のニュース。虐待されて意識不明重体の女の子はどうやら亡くなってしまったようで、心肺停止状態で見つけられた火元の家の住人は、その身元と死亡が確認されたようだった。
それと、天気予報。
穏やかな秋晴れは今日までのようです。夕方から急激に温度が下がり、夜半から雨が降るでしょう。なにか羽織れるものを持っていた方が良さそうです。
へぇ、じゃあストール持ってこうかなぁ。
明日からは、残念ながら雨が続きそうです。
そうかぁ、嫌だなぁ。魚の骨に苦戦しながら、姉がさして興味なさそうに呟く。
そのあとに、ペットのネコやら犬やらの映像。視聴者の飼っているペットをただ自慢されるだけのコーナー。
かわいいけど飼う余裕もないしねぇ、といつもの姉の残念そうなセリフ。
そして、七時。
その途端に、七時になった、七時になったとそのニュース番組のキャラクターが盛んにわめきたてる。七時になったからって、そんなになにかが変わるものなのか、と思うほどに。
「ごちそうさま」
食べ終わった食器を流しに置くと、姉はその場でブラシを咥えシャカシャカと歯を磨き始めた。洗面所がないわけではないのだが、どうにも朝はテレビの時計が見えないと不安らしい。
眠気の余韻に浸りながら、特別目新しいことを言っているわけでもないニュースを見ながら歯を磨くのが日課だ。
だけどその日は、まるで七時になったのがきっかけであったかのように、先から繰り返される同じ内容の他に、新たな事件が舞い込んだらしい。
なにやら新しい原稿が渡されて、それをチラと一瞥したアナウンサーがスラスラとその内容を語り始める。
さすがプロだなぁ。さっきはうるさいなんて思ってすみませんでした。
慧は心のなかで謝っておく。
『つい先ほど入ったニュースです。先ほどお伝えいたしました、相模川の河川敷から発見された遺体の一部に関しての続報です。依然としてこの遺体の身元は判明しておりませんが、つい今しがたこちらのテレビ局に〈勇者〉を名乗る男から連絡があり、この事件に関与していることをほのめかした、とのことです。なお、この男は勇者を名乗っておりますが、警視庁勇者課によりますと『いたずらに勇者が罪人の身体を切断することなどありえない、勇者の名を騙った悪質な事件ではないか』とのことでした』
『これは非常に悪質ですね。単なるいたずら電話なのではないでしょうか?』
『真偽のほどは定かではありません。けれどよりによって正義の執行者である〈勇者〉の名を騙って殺人を犯したなどと言っているわけですから、これはこの国に対しての布告とみることも可能ですね』
『布告、ですか?』
『ええ。この〈勇者〉を名乗る男が本当に罪に手を染めたかはわかりませんが、そういう明確な思想があって、わざわざ〈勇者〉を名乗り、かつ残虐な犯行に至ったのかもしれません。もしくは、強い妄想を抱いているのかもしれませんね』
『自分は資格も持っていないのに、〈勇者〉だと思い込んでしまった、ということですか?』
『まだ憶測でしか言えませんが』
『そうですね、この男が何者なのか、また遺体の身元も分からない状態ですから、確かなことは依然として不明なままですね。一刻も早く事件が解決することを願っております。詳しくは、この後8時30分のニュースでお伝えいたします』
勇者、だって?突然何を真面目な顔して言っているのだろう、この人たちは。
起きたばかりだというのに、満腹で早くも睡魔を覚えた慧の目が醒めた。
なんだか今日は変なニュースが多いなぁ。たまに早起きすればこれだ。魚を焼く匂いになんか釣られるんじゃなかった。
すっかり食べ終わってしまった魚の残骸や皿たちを姉の退いた台所へと運びながら、慧は奥で着替える姉に声をかけてみる。
「茜姉今のニュース聞いた?〈自称勇者〉とか、この犯人アタマおかしくない?てかさ、なに警視庁勇者課って。今日四月一日だっけ?」
警視庁勇者課。聞きなれない言葉だ。
そもそもなんだよ勇者って。ゲームに出てくるあれか?なんだってそんなものが、警視庁なんかにあるというのか。
今まで俺はニュースを見ているつもりだったけど、実はこれバラエティなのだろうか。こんな朝から?
いや案外、ニュースに飽きた人たちに人気の番組なのかもしれないじゃないか。
バラバラ殺人も〈自称勇者〉も嘘でした。ビックリした?
今のご時世。他局と差別化を図るために、それくらいしたっておかしくない。
「は?あんた何言ってんの。だいぶ前に法案成立したでしょ?」
「へ?」
けれど慧のそんな疑問はあっけなく流されてしまった。エイプリルフールでも、この番組がバラエティなわけでもなく。
あたかも勇者のことなど、周知の事実であるかのように。
「あんた学校でなに習ってんのよ。でもコイツ相当ヤバいのは確かだよね。よりによって勇者だなんて」
「えっ、いつからそんなファンタジーみたいな国になったんだよ、この国は」
「ファンタジー?」姉が素っ頓狂な声を出した。どこから出たんだ今の声。
「ファンタジーなのはあんたの頭の方でしょ。こんなことも覚えてないなら自分で調べなさいよ。あーっもうこんな時間!アタシ忙しいんだから!」
そうテレビ画面の左端に映った時計を見て叫ぶと、姉は手早く化粧を済まし、足早に家を出てしまった。年頃の女性とは思えないほどの早着替えだ。もはやアニメの変身シーンに近い。
残念ながら、変身後に現れるのは可憐な美少女ではなくボーイッシュな姉の姿だった。せっかく身内から見てもまあまあ美人の部類なのに、髪もバッサリ切ってしまって化粧気も少ない。小柄な体をパンツスーツに包んだ姿はある意味「戦う女性」であったけれども。
というか、そんな慌てて出るくらいなら、呑気に魚なんて焼いてる場合じゃなかっただろうに。
「鍵よろしく!」「わかった」
バタバタと出かける姉を見送り、慧は思わず声に出して呟いてしまった。
「勇者、ねぇ」
物語やゲームに出てくるその名称。けれどあれはあくまでも架空の物ではなかったか。それがなぜ、ニュースなどに取り上げられているのだろうか。
もしかして、俺、まだ夢でも見てるのか?
慧はそう思いもしたが、部屋にはまだ魚を焼いた匂いがプンプンしているから換気をしなければならないし、洗うと約束した皿も網もしっかり残っている。
夢の中で食べたにしては市販のおしんこはちょっとしょっぱかったし、なによりまだ眠い。
夢の中でさえ眠いとか、あまり聞いたことないし。
8時半のニュースを待っていたら、さすがに学校に遅刻してしまう。とはいえ残念ながらこの家にはレコーダーなどという便利なものがないので、自分でネットでも見て調べるほかないだろう。
いや、面倒だし友達に聞けばいいだろうか。けれどあの姉の反応から見るに「そんなことも知らないのか」とバカにされてしまうのかもしれない。それもなんだかつまらない気もする。
ともあれ、片付けとかないと怒られるよな。
違和感は残ったものの、このままぼんやりしていても仕方がない。
慧は渋々、生臭い網の片付けに取り掛かかる。
『7時15分!7時15分!』見る者のいなくなったテレビのなかで、時を告げるキャラクターが喚いていた。
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