偽りの勇者

鷲野ユキ

文字の大きさ
2 / 28
第一章

2

しおりを挟む
「おはよう」
「おー、はよ。……なんかお前、生臭くね?」
「げ、マジ?そんな臭う?」
「おお、俺が猫だったらニャンニャンすり寄るぐらいには。ほれ、にゃーん」
「うえー、やめろよ気持ち悪いな」
洗い物を済ませ、ついでにそこで歯も磨いて。それでもまだ少し時間があったので、ぎりぎりまで寝るかシャワーを浴びるかで悩んだ慧は後者を選ぶことにした。
思いのほか魚の網が汚れていて必死に洗ったところ、爪の隙間が黒くなるという残念な結果になってしまったからだ。しかもそのおかげだろうか、なんだか身体が生臭い気がしてならない。
そう思って洗面所に向かった慧であったが、さらに残念なことに、そこで溢れんばかりに洗濯機に詰め込まれた衣類の山を見つけてしまったのだった。できることなら見なかったことにしたかったけれど、ニュースで流れた天気予報が頭をよぎる。
明日からは雨になるでしょう。穏やかな秋晴れは今日までです。
そうニッコリと微笑むお天気お姉さんの顔が脳裏に浮かぶ。その笑顔のまま、脳内の彼女はこうも続ける。
今日お洗濯しておかないと、大変なことになりますよ、と。
そこで慧は折れた。おそらくここで自分が洗濯をしておかなければ、あの雑把な姉のことだ、着る服がなくなればガンガン部屋干しするだろう。
いやそれだけなら構わないのだが、こともあろうか生乾きの洗濯物を、慧の部屋に掛けていくのだ。
だって生乾きのだと臭いんだもん。でもあんたの男臭い部屋なら、生乾きだろうがなんだろうが気にならないでしょ、と。
あんまりといえばあんまりだが、しかし姉には頭が上がらない。自分と五つしか変わらないのに、朝から晩まで働いて、こうして自分を学校にちゃんと行かせてくれている。
ならばこの先雨が止むまで臭いに悩まされるよりは、今これらの山を片していった方がいいだろう。そう思って洗濯機を回そうとすれば、なぜだかピーピー言って動かない。それどころか、どこからか水が漏れだしてきた。
えらいことになってきたぞ。朝から、なんでこんな目に遭わなければいけないんだ?
俺は良かれと思ってスイッチを押しただけなのに、なんだってこいつは急に壊れたりするんだ!
慌てて元栓を閉め、とりあえず水がこれ以上出ないようにはしたけれど、まったくもって故障の原因がわからない。漏れた水をありったけのタオルで拭きながら、慧は盛大に舌打ちした。ああ、こんなボロいアパートだ、下に漏れてたりしたら面倒だぞ。
お急ぎモードで30分洗濯機を回して、その間にシャワーを浴びて身支度を整えて、残り20分で干せば学校にも間に合うだろう。そう目論んでいた慧のタイムスケジュールはグダグダになってしまった。
こう、どうして時間のないときに限って、家電というやつは壊れるのだろう。普段こき使っている人間への報復だとでも言うのだろうか。
思わぬ逆襲にあってしまった慧は、とは言え洗濯機が壊れたので遅刻しましたというのもなんとなく恥ずかしい気がして、ビチョビチョに浸された衣類の渦を見ないふりして慌てて登校してきたのであった。色落ちとかしてないといいけれど。
「まあ、ちょっと朝から色々あって……」
「どう色々あると生臭いんだよ。さすがの色男もこれじゃあ女子にモテないぜぇ?まあ、猫にはモテモテかもだけど」
「なら猫で充分」
「なんだよ、猫好き男子とかあざとすぎんだろ」
朝からテンションが高いのはこの年頃の特権か。慧の姿を見つけるや否や、友人の河野が駆け寄ってくる。
いいやつなんだけど、ちょっとうざい。それが河野だ。
でもこれくらいグイグイくるようなやつじゃなければ、慧とは友達にはなっていなかったかもしれない。その点は多少感謝してもいる。もちろんそんなこと口になどしないけれど。
そのまま彼らは、いつも通り他愛のない話をしながら教室へと向かう。内容などなくてもいいのだ。とりあえずの言葉のキャッチボール。けれど返しがあまりにも下手くそだと呆れられてしまうので案外難しい。ゲームの話、好きなアイドルの話。昨日見た面白いテレビの話。
教室に着くと同時に始業のチャイムが鳴った。彼らを管理する音。吠える犬に追い立てられた羊のように、慌てて二人は各々の席につく。
ああそういえば、壊れた洗濯機に気をとられてしまって〈勇者〉とかいうやつについて聞くのを忘れてたな。
朝イチの気だるい英語の授業を聞きながら慧は思い出した。この先生の英語がまた、なんだかひどくアンニュイなのだ。眠気を誘っているとしか思えない。先生、ヒーリングセラピストとかの方が向いてるんじゃないですか?余計な世話だと思いつつ、思わず転職を勧めるほどに。
でもまあ、別にいいか。今急いで知らなきゃいけないことでもないだろうし。早くもウトウトし始めた慧はそう思った。
そもそも警察官だってふつう、日常生活で馴染みがないのだし。
クラスメイトのなかには、警察官に補導されて説教を喰らった者もいるかもしれないが、慧はこれでも品性方向な優等生で通っているつもりだった。面倒事はごめんだ。であるから、もちろん彼らの世話になるつもりはない。
まして、『正義の執行者』とまでアナウンサーに言わしめる勇者なるものなど、雲のまた上、遠い世界の存在だ。
そう思えばRPGに出てくるそれとたいして変わらないような気が、つまりはやっぱり、現実世界のものとは思えないような気がしてきたのである。
妙に早起きしてしまって、無駄な労働をしてしまった疲れもあるのだろう。そうだ、そもそも昨日だって遅くまでバイトしてたし、寝たの遅かったし。
そうだ、眠いんだよ俺は。朝のニュースだって、きっと夢だったんだろ。

              *

「俺、田中といつもんとこ寄ってくけど村上はどうする?今日もバイトか?」
ひととおり授業を受け終わればもう夕方だ。
もちろん休憩時間もあれば昼休みもある。授業の合間には、友達とバカを言い合ったり、楽しい時間だってそれなりにある。
けれどなんだろう、あっという間にそれらが過ぎ去ってしまうと、その時間が本当にあったのかが不安になってくる。
それは、どんどん日が短くなってきているからかもしれない。ついこないだまで、夜の七時だって明るかったというのに。
そうだ、まだ4時じゃあないか。今日だってまだ終わっていない。これからすることもある。それが終わればまた明日がくる。それだけのことじゃないか。いったい何が不安だって言うんだ?
「あー、悪い。今日欠員出てるらしくってさ、早めに来てくれってメール来たんだよ、さっき」
黄色みを帯びた鈍い光を背に、慧は駐輪場からチャリンコを出しながら彼らにそう答えた。ファストフードの誘惑は強大だったけれど、残念ながら俺にはまだやらなければいけないことがある。
「そうかぁ。村上君は大変だなぁ……」
「あははっまさかぁ、女だよ女!バイト先に彼女でもいんだろ?」
河野のお誘いを丁重にお断りした慧に、同情を寄せる優しい男が田中だ。
こいつもいいやつなんだけど、ちょっとバカだ。
いや、バカなんて言うとやれイジメだなんだと言われるのかもしれないので、天然とでも言い換えておこうか。その天然少年田中をバシバシ叩きながら、ゲラゲラ笑っているのが河野だ。
うん、こういうとこがうざいんだよな。けれど、深く突っ込んでこないでくれるのは彼なりの配慮なのかもしれない。
いや、それともこいつもただのアホなのかもしれないが。
「俺たち親友だろぉ?その子とヤれたら俺たちに報告しろよな!」
いや、やっぱりただのアホだ。
だけれどそれをバサリと切り捨てるほど、慧も冷たい男ではない。適当に合わせておかなければ。空気を読んで、合わせること。それがこの国の処世術だ。
「そうそう、バイト先にかわいい子がいてさぁ。星蘭女子なんだって」
「うおマジかよ星蘭とか」
「その子がさぁ、あんまり遅い時間にバイト入ると門限に間に合わないからって、早い時間にしか現れないんだよ」
嘘をつくときは真実を混ぜること。
「なんかレアキャラみたいだね」
「でも星蘭ってお嬢様高だよな?なんでバイトなんかしてるんだろ」
「なんでも父親の教育方針らしくて。とりあえずは社会経験を身に付けさせたいらしいよ」
「金持ちの考えることはよくわかんねぇなぁ」
はあ、と田中と河野の二人がうんうんと頷いている。どうやらこれで、彼らは納得してくれたらしい。
バイト先に星蘭女子の子がいるのは本当だ。慧は彼女には興味がない。けれどかわいいと思ったのは確かだ。だから、まるきり嘘というわけではない。
何かの本で読んだことがある。嘘をつくときは真実を混ぜること。その方が、自信をもって話せるからボロが出にくいらしい。

じゃあうまくやれよ、と見送る二人と別れ、慧はチャリで駅前のバイト先へと急ぐ。
冷えはじめた風を頬で切りながら慧は思う。家に残してきた、あの壊れた洗濯機のことを。
まいったなぁ、どうしよう。いや別に俺が何かして壊した訳じゃもちろんないんだけど、果たして姉はそう思ってくれるだろうか。
急な買い換えは、懐に結構なダメージを与えるだろう。洗濯機。買ったことないけど、それなりにはするはずだ。俺の時給何時間分だろう。
冬のコート新調したいんだよなぁ。そう呟いていたのを慧は知っている。どうせお金を使うなら、洗濯機より姉にはそちらに金を使って欲しかった。俺のせいで苦労をさせたくはない。いや、俺が壊したんじゃないけど。
ならば仕方ない、やっぱり俺が稼いで買うしか。欲しかったウォークマンをあきらめればいいだけだ。別になくても生きてはいける。そんなものこの世にたくさんあるじゃないか。
だから彼は友人らの誘いも断って、こうしてバイト先へと急いでいる。
欠員が出たのは本当だ。けれどその穴埋めは慧でなければならないわけでもない。
もちろん星蘭女子に会いたい訳でもない。別に彼らと遊んだ後でバイトに行ったって構わないのだ。
けれど姉に苦労かけたくない、などと迂闊に彼らに言うわけにはいかない。シスコンと思われるだけだし、かといって本当は生活が厳しいんだなんて言えば同情されるか、はたまたからかわれるだけだ。
だから俺はかわいい星蘭女子の子に会いたくて、バイトに勤しんでいることになっている。
真実なんて、案外簡単に隠せるものなんだな。

「すみません!間に合いました?」
夜になると寒くなる、とお天気お姉さんは言っていたけれど、全力疾走してきた慧はむしろ暑くて堪らない。思わず詰襟のボタンを外す。
「ああ、村上くん。悪いね。そんな急いでこなくても大丈夫だったのに」
ハアハアと息を切らしながら入ってきた慧に、やあと手を上げながら声をかけるのは山郷店長だ。
すこしはげかかった頭に、丸っこい身体。人の良さそうな感じを集約すると、つまりこんな感じになるのだろう。
個人経営の小さな飲食店だが、立地の良さと昔からの常連のおかげで成り立っているような店だ。もちろん味だっていいのだけれど、うまいからと言ってそれで万事がうまくいくほど外食産業は甘くない。
店主とその奥さんが経営しているが、近ごろ奥さんの方は体調がすぐれないらしく、すっかり姿を見ることがなくなってしまった。
しかしその分、慧のようなバイトの出る幕が増えたので、彼女の健康を心配しつつ、働き口が増えたことに感謝するという微妙な心境を慧は味わっている。 
厨房のメインはこの店の主人である山郷なのだが、経営をまわしていた奥さんの不在は彼に大きな負担を与えている。
「料理がうまければ儲かるはずだ」それが彼の信条であったのだが、奥さん不在からのジェットコースターばりの見事な急降下に恐怖を覚えたらしい。
慌てて、やれ仕入れをどこどこからして原価を抑えるだの、季節ごとの目玉商品として何々を作るだの。そちらに没頭するべく、慧が厨房に入ることが多くなった。
もちろん彼の一人息子がメインの料理人としているにはいるのだが、どうにも気乗りしないらしく数日に一度ほどしか現れない。バイトの慧の方がよほどここに来ている。最後に見たのは……あれ、いつだったっけ?
この店の将来が危ぶまれるが、慧とてこの店に就職するつもりはさらさらない。そんなことは知ったこっちゃない。バイトついでに料理も覚えられればラッキー程度の感覚だ。
もともと山郷の奥さんは某大手レストランチェーンの企画運営に携わっていたそうで、そのつながりで例の星蘭女子の子がここでバイトすることとなったらしい。
言わずもがな、彼女こそがその大手レストランチェーン王の愛娘なのだが、彼女はなぜ自分がこんなところでバイトしているのかが良くわかっていない。
お金なんてわざわざ面倒なことをしなくったって、パパがくれるじゃない。
おそらく父親としては、まずは小さな規模の店の経営について学んでほしかったのだろうが、そもそもその鑑となるべき奥さんが不在なのだ。彼女が目的を見失ってしまったとしても仕方がないのかもしれない。
とはいえ、いかにも『いままで甘やかされて育ってきました感』を前面に出してくる彼女と働くのは苦痛でもあった。
なぜなら、慧の常識は彼女にとっては非常識、彼女の常識は慧にとって非常識、なのだから。
だからやっぱり、奥さんには一刻も早く良くなって頂きたい。
そういうふうにも思うのであった。

「おはよう、菊川さん」
店長に挨拶をし厨房に入る前に、ホールでぼんやりとしている彼女にも挨拶をする。
いくら面倒な子だとしても、無視するわけにもいかないだろう。
特にあのことがあってからは極力同じシフトに入らないようにしていたのだけれど、なにせ今は悠長なことを言っていられない。
あと一週間もすれば中間テストが待っているのだ。さすがにそこはバイトどころではあるまい。それまでの間に、シフトはなるべく埋めておかなければ。
だがしかし、そんな慧の気づかいも虚しく、返ってきたのは冷たい一瞥のみであった。
いやまあ、そりゃあ気持ち良く俺に挨拶なんかしたくないだろうけど、仮にもここは職場なんだし。バイト先だよ、学校じゃないんだよ。
慧はそれでもぐっとこらえて、ヘラヘラと笑いながら彼女に背を向けた。
彼女だって最初の頃はまだ愛想よくしてくれていたのだ。それをああしちゃったのは一応俺の責任もあるのだろうし。
いや、ない気もするのだけど、少なくとも向こうはそう思っているのだろうし。

先に言い寄ってきたのは彼女のほうだった。
「村上くん、イケメンだよね。わたし、結構好みなんだけど」
こう言われて悪い気のする男はいないだろう。しかも相手はかなりの美人だ。それは慧も同じであったが、けれどそれより俺はからかわれているのかな、という思いの方が強かった。
そもそも俺、イケメンを名乗れるほど自分がかっこいいとは思ってないし。
それに相手はたかだが週に数回、数時間会うだけでろくに話したことのない女の子だ。そんな子に急にかっこいいと言われたところで、いったいどうしろと言うのだろう。どうしてほしいのだろう、彼女は。
年頃の男の子と比べて、さして慧は女の子に興味がなかった。なんとなくいいなぁと思う女優や歌手もいるけれど、ファンと言うほどでもない。この年ぐらいなら彼女が欲しくて仕方ないのかもしれないが、デートとかするとお金かかるんだろうなぁ。ぐらいにしか思えなかった。
そんな慧でさえ、菊川のことはかわいいと思った。色白の肌に黒い大きな瞳。つやつやの黒のストレートロング。見た目だけなら本当に正統派美少女だ。
しかも彼女はお嬢様だ。きっとおしとやかでおっとりした子なのだろう。おそらく男どもはそう思うはず。
けれどその実、実にしたたかで計算高い子だ。
数回会っただけでそう判断するのもいけないと思いつつ、すでに彼女の罠にかかった男がいるのでそう思わざるを得ない。
最初に餌食になったのは、このバイト先の店主の息子だ。
人の良さそうな店主にまったく似ることなく、いかにも女に弱そうな顔立ちになってしまったこの男は、彼女のおだて作戦、つまり慧にも使った手と同じだ、にあっさりと陥落した。
「和弘さん、かっこいいですよね。さすが大人なだけあって、頼りになるし」
人の良さは全く似なかったが、その体つきは遺伝のなせる技か父親にそっくりな山郷ジュニアこと山郷和弘が、この言葉で気を良くしたのかすでに彼氏気取りである。
「美姫ちゃん、今度ごはんおごってあげる」「これよかったら使って。君に似合うと思ったんだ」
彼氏と言うより、貢がされている哀れな男でしかなかったが。
なぜそんなことをするのだろう。そこが慧にはわからなかった。
お金持ちのお嬢様。金に困ることなどないはずだ、だからバイトだってやる気なんて出るわけがない。けれど来ないとパパからのお小遣いが減ってしまうから。そのくらいの気持ちでしか彼女はここに来ていないはずだ。
なのになぜそんなことをする?慧にはわからなかったのだ。甘えて相手に金を使わせる。自身の父親にも使っているその手でしか、彼女が愛を感じられないということに。
そういう相手を、邪険に扱うと面倒だということは、さしもの慧にもなんとなく察せられた。
ああ、面倒なのに目を付けられちゃったな。なんだって女の子はこういう良くわからないことをして、余計ややこしくしたいのだろう。
その点彼の姉はサバサバしてて気持ちがいい。自分では否定しているつもりでも、どうやら姉に執着しているのは否めないようだった。
いっそそう言ってやれば彼女は俺への興味を失ってくれるのだろうか。いやいやいや。そこまで変態なつもりはないし、俺。
それに変な噂を吹聴されても困る。女のネットワークほど怖いものはない、そう河野も言っていたではないか。
だからやんわりと、へえありがとう、程度でなんどかこのやり取りをスルーしてきたのだが、いい加減彼女の手元に落ちてこない慧にイラついたと見えて、まさかの直球勝負に出てこられてしまったのだ。
曰く、「私、慧君と付き合ってあげてもイイよ」
上から目線のこの言葉には、さすがの彼もイラついた。俺の意志は?なぜ譲歩してやったかのような言い方をするんだ?この女は。
そこで慧もスルーするのをあきらめた。こういう勘違い女には、一度きっぱりと言ってやった方がいい。
「ごめん菊川さん。俺菊川さんのこと、好きじゃないんだ」
そこからだ、菊川が慧のことを無視するようになったのは。
変に気を遣わなくて済むようになったのはありがたいが、それでも気まずいのは変わらない。
しかも相手は、俺がすべて悪いかのように、自分は被害者かのように振る舞っている。

どうやっても腑に落ちないが、とりあえずは17時のオープンの準備だ。
創作和食のこの店は、夜は居酒屋テイストの店となる。
酔っぱらった客の相手をするのも大変だ。戦力が欲しい夜の時間帯になると、なにせホールが一人いなくなってしまうのだ。門限が19時なの、と言って。
とはいえ、慧も22時までしか働けないのだが、そのあとまかないをごちそうになるので実質23時過ぎくらいまではこの店にいる。
給料こそ出ないけれど、閉店の24時までほぼ一人となる店主を不憫に思い皿洗いぐらい手伝ってやると、その日の残った食材や料理などを分けてもらえることがある。
今朝、珍しく姉が焼いていたアジの開きもそれだ。
基本的に姉は料理などしない。いや、する余裕がないと言ったほうが彼女の名誉の為か。だからこうして慧がもらってきたご飯や、分けてもらった食材で作った料理を食べることが多い。あとは気まぐれに姉が買ってくる惣菜だとか。
だから多少嫌な思いをしたとしてもここを続けているのは、その恩恵によるところも大きい。
お通しの準備が終わるころには、客がパラパラと入り始めてきた。
週初めの月曜日、18時。こんな日に来る客は何をしている人なのだろう。サラリーマン?それとも公務員?
憂鬱な一週間の始まりを、せめて華やかにさせたくて彼らは来ているのかもしれない。
今日出た欠員というのはなんてことのない、例の店主の一人息子だ。なにやら合コンに誘われたとかで来られないらしい。
大丈夫、数合わせで呼ばれただけだから。美姫ちゃん気にしなくていいからね。わざわざそう言伝して去ったそうな。
店主は厨房とホールを行ったり来たりで忙しい。やがて19時になると、ホールのバイトの女の子がやってきた。
「おはようございます、店長。村上くん」
菊川嬢ほど美人ではないけれど、人懐っこい笑みがどこか人を引き付ける女性だ。こういうのを癒し系とでも言うのだろうか。にこにことまず挨拶をしてくれるが、菊川のことはまるで視界に入っていないかのように通り過ぎる。
そんな大学生の鈴木さんは、最近入ったばかりなので覚束ない。けれど真面目に頑張ってくれるので、やる気のない菊川お嬢さまよりよほど戦力になっている。
その彼女と入れ替えに、お嬢様が帰宅。ホールは新人の彼女一人に任されることになる。
これにはさしもの鈴木も思うところがあるらしく、お先に失礼します、とつんと澄まして帰る彼女の後姿をすごい顔でにらんでいるのを慧は何度か見てしまった。
小さな店の、小さな人間関係。人が数人集まるだけで、なぜ面倒なことが起こるのだろう。
ため息をつきながら、慧は仕事に集中する。
もちろん高校生バイトの慧がメインの料理を作るわけにはいかないので、主に作るのは簡単なつまみだ。たこわさ、いくらおろし、塩辛などはあらかじめ店主が作っておいたものを器に盛るだけ。
とはいえ合間にはどんどん運び込まれてくる皿やコップたちを片さなければならないし、店主の作る料理の下準備もしなければならない。さすがに刺身を切るわけにもいかないが、盛り付けのツマやサラダなど、彼が包丁を振るう機会も多い。そして、それらのメンテナンスも彼の仕事だった。
それなりにあわただしく過ごしていると、あっという間にタイムリミットの22時。
「じゃああとは適当に食べてって」との店主の好意に甘えて豚の角煮とご飯を失敬すると、少し目を離した隙に山を作ってしまった洗い場の皿たちと一緒に、自分の使った食器も片づける。極力きれいに片してから帰りたいところだが、そうしたところで店主の山郷が、やれこの後試作したりで散らかしてしまうことが多く、徒労に終わることが多い。
先日などはさて下準備にかかろうかと思いきや、大切な包丁が見つからず慌てたことがある。なぜだかそれは空の大鍋の中から見つかったが、はたして山郷は何を思ってそこに入れたのだろう。
奥さんがいないとこうもダメなのか。他人事ながらこの店の将来が心配で仕方ない。せっかく料理はおいしいのに。
「雨が降るらしいから、ほらこれ」帰りがけに鈴木が客の忘れ物のビニール傘を差しだしてくれた。「傘、持ってきてる?」
そういえば夜から雨が降るんだっけ。天気予報で言っていた。なに、自転車で15分の距離だ、別に雨に濡れたところで。慧はそう思ったが、せっかくの好意だ、受け入れることにした。「ありがとうございます、お先に失礼します」
「いつもすまないね」とねぎらう店主がくれたサバの味噌煮をタッパーに入れ、鈴木と店主に挨拶をして外に出れば、少し湿り気を帯びた、冷え冷えとした空が広がっていた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

私の息子を“愛人の子の下”にすると言った夫へ──その瞬間、正妻の役目は終わりました

放浪人
恋愛
政略結婚で伯爵家に嫁いだ侯爵令嬢リディアは、愛のない夫婦関係を「正妻の務め」と割り切り、赤字だらけの領地を立て直してきた。帳簿を整え、税の徴収を正し、交易路を広げ、収穫が不安定な年には備蓄を回す――伯爵家の体裁を保ってきたのは、いつも彼女の実務だった。 だがある日、夫オスヴァルドが屋敷に連れ帰ったのは“幼馴染”の女とその息子。 「彼女は可哀想なんだ」 「この子を跡取りにする」 そして人前で、平然と言い放つ。 ――「君の息子は、愛人の子の“下”で学べばいい」 その瞬間、リディアの中で何かが静かに終わった。怒鳴らない。泣かない。微笑みすら崩さない。 「承知しました。では――正妻の役目は終わりましたね」

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

初夜に暴言を吐いた夫は後悔し続ける──10年後の償い【完結】

星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
王命により、辺境伯ロキアのもとへ嫁いだのは、金髪翠眼の美しき公爵令嬢スフィア。 だが、初夜に彼が告げたのは、愛も権限も与えないという冷酷な宣言だった。噂に踊らされ、彼女を「穢れた花嫁」と罵ったロキア。 しかし、わずか一日でスフィアは姿を消し、教会から届いたのは婚姻無効と慰謝料請求の書状──。 王と公爵の怒りを買ったロキアは、爵位も領地も名誉も奪われ、ただの補佐官として生きることに。 そして十年後、運命のいたずらか、彼は被災地で再びスフィアと出会う。 地位も捨て、娘を抱えて生きる彼女の姿に、ロキアの胸に去来するのは、悔恨と赦しを乞う想い──。 ⚠️本作はAIの生成した文章を一部に使用しています。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

さようなら婚約者

あんど もあ
ファンタジー
アンジュは、五年間虐げられた婚約者から婚約破棄を告げられる。翌日、カバン一つを持って五年住んだ婚約者の家を去るアンジュ。一方、婚約者は…。

三十年後に届いた白い手紙

RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。 彼は最後まで、何も語らなかった。 その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。 戴冠舞踏会の夜。 公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。 それは復讐でも、告発でもない。 三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、 「渡されなかった約束」のための手紙だった。 沈黙のまま命を捨てた男と、 三十年、ただ待ち続けた女。 そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。 これは、 遅れて届いた手紙が、 人生と運命を静かに書き換えていく物語。

つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。 舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。 さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。 リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。 ――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

処理中です...