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第二章
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「設楽さん、これ、例の」
「佐々木くん!ありがとう!」
次の朝、佐々木がさっそくレイプ事件の資料を持ってきてくれた。半ば奪うようにその束をひったくり、片手に持ったコーヒーを誰かの机に無造作に置き、聡子はその場でそれに目を通す。
事件についての新聞の切り抜き、ネットのソース、警察の調査資料。
「佐々木くん、これって……」
「ぜんぶ正規の資料ですよ。おかしいことなんてどれも書かれてません」
「ということは、弟くんの証言がおかしい、ってこと?」
「まあ、そうなりますね。そもそも事件を目撃したのが本当なのかも怪しいですね。もしかしたらこういうニュースとかを、なにか誤った形で思い込んでしまったのかも知りませんし」
「そうね……」
「まあ、そこを明らかにするのは設楽さんの仕事ですから。あとはお願いしますよ。あと、現場検証に立ち会った刑事に聞いて回ったんですけど、そんなこと言った覚えなんてないってみんな言ってました。こればかりは通話記録があるわけでもなし、証言くらいしか証拠になりませんが」
「あ、ありがとう佐々木くん。今度焼肉おごるから!」
自分のデスクへと戻る佐々木の後姿にそう声をかけると、聡子もぬるくなったコーヒーと資料の束を両手に自分のデスクへと戻った。
『立川市北町噴水公園 11月2日(月)23時ころ事件発生。被害女性は近くの清心女子大学に通う英文科3年、篠原愛子。彼女の証言によると、バイト帰りにこの公園の近くの道を歩いていたところ、とつぜん誰かに口を押えつけられ、そのまま近くの茂みに連れ込まれて乱暴された。あまりの恐怖から詳しくは覚えていないとのことだが、気が付けば犯人が自身の手で、自分の喉をかき切っていた、とのこと。
警察は被害者女性が自身の身を守ろうともがいているうちに、誤って切ったのではないかと考えていた。だが刃物には被害者女性の指紋は付いておらず、犯人のものしか見つけられなかった。組み敷かれた状態で、男の力で振りかざされるナイフを押し返し、それをその喉元に切りつけるのは非力な女性には不可能かと思われる。さらに被害者女性は、両手をひものようなもので縛られていた。したがって、被害者女性の証言通り、犯人がなんらかの理由で、自殺を図ったかと思われる……』
もう一度資料に目を通し、聡子は大きく息を吐いた。
どういうこと?自殺って。
「おお、どうだ。進んどるかね設楽くん」
さらに資料の束をめくろうとした彼女のもとに、品川がけだるそうにやってきた。どうやらあまり眠れていないらしい。大きな欠伸を隠そうともせずにやってきた。
「部長。おはようございます」
「ああ……おはよう。そうそう、こっちの〈自称勇者〉の方はな、残念ながら進展なしだそうだ。いや、片腕の見つかった同じ川で、反対側の腕が見つかったらしい。左腕だったかな。けどまだダルマさんの方が見つかってねぇからなあ」
「ダルマ?」
「頭と胴体だよ。手足だけじゃ身元の特定は難しいんだと」
「テレビ局に電話してきた〈自称勇者〉に動きはないんですね」
「今更腕がもう一本出てきたぐらいじゃなあ。それに、そんなことよりも今の話題はまさにこの事件だよ」
「え?」
「おいおい、いくら世の中のテレビ離れが進んでるとはいえ、ニュースぐらい見たまえよ、君。昨日佐々木が言ってたアレな。お前も自分で調べただろ?この弟くんらの両親が殺された事件。そっちに世間は今大注目だ」
「ええ、でもあれは犯人も捕まってますし、今回の事件には関係ありませんよね?」
そうだ、この人間にあるまじき行為を行った犯人は、目撃者――村上姉弟だ、の目撃情報をもとに逮捕されたのだと噂になっていなかったか。そしてその情報が確かならば、この犯人は死刑宣告がなされていたはず。事件が起こってから、ええと10年くらいかしら、経ったのは。
「直接は関係ないけどな。けれど両親を殺されたうえ、さらに姉まで殺された弟くんは今や国を挙げての悲劇のヒロイン……いや、ヒーローだよ。こんなに世に同情されているのに、なんだってあの子は姉さんが〈勇者〉に殺されただなんて思い込んでるのかねぇ」
「ということは、マスコミが先に拾ったこの情報を警察は認めたってことですね?」
「そうなるな。そこまで古い事件じゃないが、起こったのは福島だ。まあこないだの地震が原因ってだけじゃないんだが、資料の引継ぎなんかうまく行ってないみたいでな。それに今は村上姓を彼らは名乗ってるが、これは大分に住む母方のいとこの子どもの……なんだったけかな、とにかくかなり遠い親戚らしいんだ。え?ああ、葬式の手配してくれた人だ。だから本籍も大分になっているし、直接この事件に関わりがあるわけでもない彼らの両親の事件になんて、いかに天下の我らが警視庁とはいえ気が回らなかったんだとよ」
「その、警察本部がうっかり見逃した情報を、マスコミはここぞと取り上げてばら撒いているんですね」
「まあそのほうがよりドラマティックになるからな。かつて両親を殺された哀れな姉弟。つつましくも生きてきた彼らを更なる悲劇が襲う……!ってな。しかも彼、結構イケメンだろ?まるでドラマみたいって世の奥様方の好奇心を総なめらしい」
「え、まさか彼の顔が世の中にばら撒かれてるんですか?彼は被害者で、しかも未成年なのに?」
「そうらしいな。ったくどこから拾ってきたんだか……さすがに目隠しはされてるみたいだが、週刊誌にはバッチリ載ってるぜ、弟くんの顔写真。あとこれ、イニシャルもな」
「そんな……」
「今は悲劇のヒーローで済んでるけどな、けれど関係者全員を当たるのはセオリーだ、ケーサツが実は彼も容疑者のうちに入れてるってマスコミが知ったら今度はどうなるんだろうな」
なんだかひどく口が渇いたような気がして、聡子は一口コーヒーをすすった。その苦みが彼女を落ち着かせる。確かにこの出来事は喜ばしいことではないが、彼の過去の情報が手に入ったことは大きい。もちろん直接この事件には直結はしないだろうが。
けれど、その影響が今の彼をここまで追い込んでいる可能性が高いのは事実だ。でなければ、なぜ哀れなヒーローである彼が、正義のヒーローに姉を殺されたのだなどと思うのか。
「そうだ部長、佐々木くんが調べてくれたんですけど、レイプ事件」
「お、ちゃんとやってくれたんだな。感心感心」
「慧くんは〈真の勇者〉が容疑者を殺害するところを見た、と言っているんですが、やはりそんな情報はどこにも載っていませんでした。それどころか、犯人は自殺をしたと」
「自殺?なんだってレイプ犯が自殺なんかするんだ?」
「それは……直接この容疑者と会話したことがないのでわかりませんが」
うーん、と彼女は片手で額を押さえ、少し考えてから口を開いた。
「考えられるパターンとしては、行為の途中で急に自己険悪に陥って自殺したか、もしくは極度の興奮状態のまま、つまり絶頂状態で死を迎えたい願望でもあったのか」
「いずれにせよ変態だな」
うげえ、という表情を浮かべながら、品川は胸元のポケットからたばことライターを取り出した。その動作に聡子が一瞥をくれると、品川は決まり悪そうにそれらをそっと元の場所へと戻した。その行為を見届けてから、聡子は唇を開く。
「ともかく、もう容疑者が死んでしまった以上、事実がどうだったかはわかりません。まさか被害者女性に、これ以上この事件のことを問いただすことも出来ませんし」
「まあ、そうだよなぁ。これ以上俺らが被害者の心の傷を広げることはできんよな、立場上も」
「けれど、慧くんはこの事件の際、その〈真の勇者〉と少し会話をしたらしいんです」
「会話ぁ?けどこの事件の犯人は自殺したんだろ。なら勇者なんて登場人物、必要ないじゃねぇか」
このごもっともな指摘に聡子は「そうなりますよね」と頷きながらこうも続ける。
「だけど、慧くんはこうも言っていました。ある朝起きたら、とつぜん勇者が当たり前の世界になっていたようなんだ、と」
「はぁ?」
慧からそう言われた際、思わず聡子が飲み込んだ言葉を、品川は臆することなく言い放つ。
「なんだそのパラレルワールドみたいな話は」
「けれどクラスメイト達は勇者の存在を受け入れているし、教科書にも載っている。ならば自分が知らなかっただけなんだと思っていた矢先に〈真の勇者〉に出会い、『俺を知っているだろう』『また会うことになるだろう』と言われたと」
「うーん……」
「正直、どこからどこまでが本当なのか、私にもわかりません。いや、彼の中ではすべてあったことなのでしょうが……」
途方に暮れたように、残り少ない髪の毛をかきむしりながら品川は必死に現状を頭の中で整理しているようであった。
「そうだなぁ……。いきなり弟くんが〈勇者〉だなんて言いだした裏側には、きっと何かがあるんだとは思うんだよな。俺も。もしかしたら彼は実は〈自称勇者〉の方に出会ったのかもしれないし、その〈自称勇者〉が実はレイプ犯を殺したのかもしれない、ただそれだと、あの目立ちたがりの野郎がマスコミに垂れこまないのが不自然だが……」
「私は慧くんのクラスメイトが気になります。彼らは勇者を受け入れているのか」
「勇者ねぇ。けれど今本部はあれだろ?この姉ちゃんの不倫相手の方を狙ってるんだろ?弟くんの方が手におえないからって」
え?不倫相手?あのお姉さん、そんなことしていたの?
「不倫相手?〈自称勇者〉のほうではなくて?」
「単に殺され方が同じってだけだろ。別に遺体をいろんなところにばら撒いてるわけでもなし。どちらかってーとその〈自称勇者〉のせいにするために、その容疑者が偽装したんじゃないかって本部は見てるらしい。それに、わずかだが現場には不倫相手の毛髪が落ちていた。まあ、被害者の衣服に付着したものが単に落ちただけかもしれんがな」
「そうなんですか」その不倫相手とやらに動機があるのなら、確かにそのほうが自然ではあるけれど。だと〈勇者〉は何者なの?
「弟くんは確かに気になる言動が多く見受けられるけども、そこまで躍起になることもねえんじゃないかなって思うんだが」
「それはそうですが、犯人が捕まればそこで終わりってわけでもないでしょう。あの子はこれから一人で生きてかなくっちゃならないんですから。少なくとも、今のままの精神状態じゃ生きていくのは無理です。その為には原因を解明しないと。確かに犯人検挙の為に私は本部に呼ばれましたが、被害者に寄り添うことだって十分私の大切な仕事だと思うんです」
「被害者って。まだ弟くんがやってないとも言い切れんだろ?」
「やったとも言い切れないじゃないですか、明確な証拠があるでもなし」
「はあー、ずいぶんと頼もしいこと言ってくれるなぁ」
「犯人は彼ではない。おそらく彼の見た〈勇者〉が犯人です。けれどそれはいったい何者なのか。明らかにして見せます」
まあ、そう言うのは簡単だ。実行できなければ意味がない。そのためにも、彼の輪郭を探しに行かなければ。
彼女は椅子に掛けられたコートをつかむと、深まる秋の街へと飛び出して行った。
*
高校生の生活テリトリー。そんなもの、たかが知れている。それは彼女自身の経験にもよる。
家と学校、せいぜいバイト先。友達の家に、時折出かける繁華街。そのくらいだ、行動範囲は。
逆に言ってしまえばそれだけで満ち足りていたのだ。まして彼女の田舎の茨城なんて、今いるこの都会に比べると何もないに等しいのだが、それでも彼女は満足していたのだ、それまでは。
車を走らせること小一時間。彼女は、慧の通う高校にたどり着いた。申し訳程度の広さの駐車場に車を停め降り立つと、校舎全体を見回すかのように彼女は首を巡らした。
立川市立北高校。どこにでもありそうな、ありふれた名前。
狭い市内、東西南北でどこが一番頭が良いのかなんて、そんなのに興味があるのはこのあたりに住む中学生とその保護者ぐらいだろうに。けれども少子化が叫ばれる現在、その地味などんぐりの背比べは学校ごとのアイデンティティを表すのにちょうどよいらしい。
「立川市内公立高校No1進学校!」そう書かれた垂れ幕が最上階から下されていた。
慧の言っていたこれでも進学校、と言う言葉は嘘ではなかったらしい。
彼はどのようなつもりでこの学校に進学したのかしら。単に近いから?けれどこの学校を卒業したらどうするつもりだったのだろう。進学するつもりだったの?
それとも、高卒で働き始めた姉のささやかな望みだったのか。せめて弟には大学ぐらい行かせてやりたいと。
昼前の授業中。外ではこの寒いのに元気に走り回る生徒らの姿が見えた。実際は走り回りでもしなければ寒くて仕方がなくって走ってます、そんな感じではあるのだろうが、それでもその姿がなんだか聡子にはほほえましかった。
事前に連絡し教えてもらった道順を辿り、彼女は職員室へとたどり着いた。
当然授業中だから教員の数もまばらだ。なかにはたまたま授業がないのか、デスクで必死に何かを書いている先生もちらほらとは居た。だがチラリと彼女の姿を見かけても、軽く会釈してすぐに自分の仕事へと戻ってしまう。
もしかしたら場違いな保護者とでも間違えられたのかもしれない。保護者面談でも授業参観でもないのに来る親なんて、面倒なやつに決まってる。
まあ、保護者と間違われても……とも思いつつ、憮然とした表情を浮かべる彼女のもとに中年の男が近づいてきた。
「ああ、設楽聡子さん、ですか?」
「え、ええ。お忙しいところ申し訳ありません」
「いえ、こちらとしてもどうしたものかと困っていたところでしたから……。ああ、申し遅れました、わたくし立川市立北高校の教頭をやっております竹内です」
そう言って、まさに竹のように細い身体のその男が仰々しく名刺を差し出す。聡子はそれを受け取りながら、自身の名刺を彼に差し出した。
「はあ、なるほど……。まあとにかく、ここではなんですから、こちらへ」
そう言う教頭に従い、聡子は応接室へと通された。
なんだか気分は不良息子をもつ親の気分だわ。じゃなければきっと、学校の応接室になんて通されることなど一生なさそうだ。
「お宅の息子さんが校舎の窓ガラスを割ってしまいましてね」そうまさに、今にも教頭が口を開くんじゃないかしら。
まさか聡子が内心こんなことを思っているだなんて露にも思わないであろう竹内が、申し訳なさそうに茶を出しながらこう言った。
「すみません、校長は今、都の教育委員会の懇親会に行っておりまして……」
「いえ、大丈夫です。私としてはとりあえず、普段の村上慧さんのことを知りたかっただけですから」
「はあ……。あの、念のために確認しておきますけど、村上君が犯人――というわけではないんですよね?」
オドオドとした表情で、教頭が真っ先に問いただしてきたのはそれだった。
どういうこと?確かに先に本部が学校にも調査に来てはいるはずだけど。
そんなあからさまに疑うようなことを、彼らに聞かれたとでもいうのだろうか。彼が犯人だなんて証拠、今のところ何一つないというのに?
「それはそう警察に聞かれたからですか?」
「え、ああ、まあ……。念のためとのことでしたが、そのあとあなた――」そこで彼は聡子の渡した名刺に目を落として、「こんなとこの方がいらっしゃったものだから、ちょっと不安になってしまって」と続けた。
「はあ」
「いえ、もちろん我が校としては、彼の無罪をもちろん信じておりますよ。とりたてて目立つような子でもありませんでしたし、成績も悪い方じゃありません。おとなしいけれど、気の利く子だったと我々は認識しております。けれどね、最近多いじゃないですか。もちろん彼がどうとか言うわけじゃないんですよ、けれど普段おとなしい子ほど、何を考えているのかわからないというか。まして彼は片親どころか、両親がいないんですから。ひとくくりにするわけじゃありませんが、傾向としてそういう子の方が、得てして非行に走りやすいものなんです」
「そんなことは」
「いえ、テレビじゃそんなのばかりじゃないですか。最近の未成年の犯罪なんて。学校は何を教育していたんだって世の皆様は叩きますけどね、それ以前に家庭に問題が多い場合の方が多いんですよ。それにね、我々にだって分からないものは分からないんです。教員が皆、設楽さんみたいにその道に明るいわけじゃあないんですから」
そう一気にまくしたてると、彼はまだ冷めない湯呑に少しだけ口をつけた。けれど熱くてのどを潤すことはできなかったらしい。あきらめてテーブルの上にそれを戻すと、さらにこう付け加えた。
「まして最近のこの騒ぎでしょう。我々も彼の両親が不在なのは認識しておりました。けれど、理由までは。いくら未成年とはいえ、プライベートで繊細な問題ですから。気になったからと言って、あまり突っ込んだことは聞けません。けれど今回の件で生徒や彼らの親からは非難轟々ですよ。なんでそんなかわいそうな子に何の援助もしてやらなかったんだ、なんで教えてくれなかったんだと」
「……そんなこと言われても、ですよね」
まさかこの事件の裏でそのようなことが起こっているとは。
正直、聡子の予想の範疇を越えていた。仮に学校が彼の過去を把握していたとして、そんなことを公表するとでも思っているのだろうか。公表されて、援助されてありがたいとでも思うのだろうか。
「ええ、でもまだ、こんなのはいい方です。ちょっと度が過ぎてはいますが、それでも村上君のことを心配してくれてはいるんですから」
これでも良いとは。正直、優しさの押し付けに聡子はげんなりしたが、さらにそれを上回る言葉を聞いて彼女は愕然とした。
「それよりも、親も姉もバラバラにされて殺されるような子は、きっとバチが当たるような悪いことをしてるに違いない。だから家族を殺されたんだ、なんていう方もいらっしゃいまして」
「は?」
「そんな生徒は即刻この学校から排除すべきだ、と」
「そんなバカなこと」
「ええ、そう思うのはごもっともです。わたくしどもも、もうどう対応したら良いのやら……。けれどそこであなたの登場でしょう?もしかしたら、もしかするのかと思いまして」
「もしかすると?」
「やはり、村上君が犯人なのではないかと、心配になってしまって……」
「そんなこと……あなたの学校の生徒でしょう、なぜ信じてあげられないんですか?それに村上くんには、お姉さんを殺す動機がないじゃないですか」
「いえ、もちろん!もちろん信じておりますとも。彼は単にかわいそうな被害者ですとも。ねえ」
まるで手のひらを返すかの如くにそう言い切ると、彼は再び湯呑を手に取ろうとした。
けれどそれがまだ熱いことを思い出したらしく、その両手をあわせ、話を切り替えるかのように手をたたいた。
パチン。かさついた音が響いた。
「とまあ、こんなわたくしの話など置いておいてですね。設楽さん、ええと、わたくしどもにご用でしたよね?どのような」
どのような。聡子は学校での慧を知りたくてやってきたのだが、この教頭の言葉を聞く限り、あまり有益な情報は出てこなさそうだった。
出来るなら慧の友人らにも会っておきたかったが、どうやら現状彼女が彼らの前に姿を現せば、余計な混乱を招くことは明らかだった。
事態は彼女が思っていたより悪化していた。マスコミによる彼の凄惨な過去の暴露。
単なる同情は暴走して、それに乗れるものは憐憫を一方的に押し付け、また乗れないものは一方的に拒否をする。仮に事件がすべて解決されて、彼の無実を声高々に叫べたとしても、彼は元の場所に戻れるのだろうか。
いや、戻れやしないだろう。
聡子はそうとしか思えなかった。さらに彼の哀れなところは、過去に一度、すでに似たような体験をしているということだ。
両親を殺された時、彼らはどうしたのだろう。居たたまれなくなってこちらに越してきたのではなかったのか。なのにまた同じような思いをしなければならないなんて。
「ええと……」
深く息を吐いて、聡子はそのままこの場を後にしたい衝動に駆られたが、けれど自分は仕事で来たのだ。差し出されたお茶で唇を湿らせ、それでも聞いておくべきことを確認すべく、重たい口を開いた。
「先ほど仰ってたように、村上慧くんは普段、あまり目立たない生徒さんだったんですね」
「そうですね、まああんな感じの見た目の生徒だと、大体調子に乗ってヘマをやらかすやつが多いんですけどね」
へへ、と笑って教頭は続ける。
「背も高くて、見た目も悪くないでしょう。この年頃の男子なんて、だいたい女の子にモテたいバカが多いんですけどね」
これはちょっと意外だった。進学校なら、もっとみんな真面目で勉強ばかりしているものかと思っていたのに。
「けれど村上は、極力自分から目立たないようにしている感じがしました。まあ、今思うと、あまり注目を浴びて過去のことまで誰かに引きずり出されるのを恐れていたのかも知れませんね」
「そうかもしれませんね。……村上くんの交友関係は把握されていましたか?その……、たとえばイジメにあっていたみたいなこと」
「イジメ?いやいや、それはないでしょう」
聡子の心配を、教頭はあっけなく一蹴した。
「あの子は目立たないようにしていただけで、別にジメジメしたやつでもないし、それなりに社交性もありましたし。いえ、こういっちゃあ悪いですけど、我々もそれなりに長くやってますからね、イジメられそうな奴は何となくわかるんですよ。なんかこう、加虐性をそそられる、というか。どちらかっていうと村上は逆なんじゃないかな。下手に手を出したら逆にやられそうというか。まあ、単なる勘ですけどね」
「はあ、そんなもんなんですか」
「設楽さんこそそうでしょう?お仕事柄、なんとなくわかるってありませんか?」
「いえ、私はあまり先入観を持たないように気をつけているので。――では、彼は友達も普通にいたんですね」
「そうですね、でも交友関係といっても……担任だって四六時中アイツのことばかり見ているわけにもいきませんからね、詳しくは分からないと思いますが、ああでも」
そこで言葉を切り、竹内が手元の薄いファイルをめくった。
「ええと、同じクラスの河野と田中あたりですかね。臨海学校で同じグループを組んでいるようですし」
「河野君と、田中君」
この二人の名前は聞き覚えがある。みんなが冷たくしても、彼らだけは変わらず接してくれた、そう慧の言っていた親友二人の名前だ。ではどこまでが本当なのだろう。そこで聡子は思い切って聞いてみることにした。
「最近、彼らやクラスの中で流行っていることなどご存じありませんか?例えば……そう、〈真の勇者〉だとか」
「〈真の勇者〉?ああ、ゲームか何かですかね?確かね、河野が好きなんですよね、ゲーム。いえね、私の孫もゲームが好きで。あんなのやるだけ時間の無駄だって言ってるんですが、まあ聞かなくって。それのことでしょうか」
「ええ……もしかしたら、そうなのかもしれません」
果たしてそうなのだろうか。けれどそれが一番現実的だ。
ゲームと現実の区別がつかなくなって。よくあるパターン。陳腐すぎて嫌になる理由。だが、一応そのようなゲームがあるのか調べておいた方がいいかもしれない。
慧くん、ゲーム好きだったかしら。そんな感じは受けなかったけれど。彼の趣味は何?どんな女の子が好きなの?けれど何かに熱中する彼の姿が聡子には、まったくもって浮かんでこなかった。
「他に何かありますか?」
「いえ……」
その時、チャイムの音が校舎に鳴り響いた。キーンコーンカーンコーン。その音をきっかけに、なんとなく校舎全体がざわめき立つ。
聡子は思わず時計に目をやった。応接室の、誰が選んで置いたのだろうか。クマの木彫りの人形に埋め込められた小さな時計。そのクマが昼の訪れを告げていた。
ああ、もう昼休みなのか。ならば私はもうこれ以上、この場にいないほうがいいのかもしれない。保護者とも違う知らない大人の存在は、きっとこの学校の生徒を不必要に刺激するだけだ。
誰だろうあの人。ああもしかして、村上君について調べに来た人じゃない?応接室から出てきたし。やっぱり村上が犯人なのか?そんなことあるわけないでしょ、だってお姉さんを殺されてるのよ、カワイソウ――。
そんな生徒たちのささやきが聞こえるようだった。
「いえ、もうこんな時間ですものね。そろそろお暇させていただきます。今日は貴重なお時間を割いていただき、誠にありがとうございました」
その無数の声に耐えかねて、彼女はこの場を後にすることにした。
「いえ、お役に立てず。村上君のこと、よろしくお願いします」
そうニコニコと返す竹内の声が、今の彼女にはこう聞こえた。学校は関係ない、全部アイツ個人の問題だろ?我々を巻き込まないでくれ、と。
まるで逃げるように、極力誰にも見つからないように、彼女はあわただしくこの学校を後にした。駐車場に停めた車に滑り込み、そこでようやくささやき声が消えた。
私は彼の為をと思って行っているのに。
けれど、これでは彼のことをカワイソウと勝手に憐れむ人々と自分も変わらないのではないか。
そんな不安が聡子を襲った。私はこれからどうすればいいのだろう、とも。
「佐々木くん!ありがとう!」
次の朝、佐々木がさっそくレイプ事件の資料を持ってきてくれた。半ば奪うようにその束をひったくり、片手に持ったコーヒーを誰かの机に無造作に置き、聡子はその場でそれに目を通す。
事件についての新聞の切り抜き、ネットのソース、警察の調査資料。
「佐々木くん、これって……」
「ぜんぶ正規の資料ですよ。おかしいことなんてどれも書かれてません」
「ということは、弟くんの証言がおかしい、ってこと?」
「まあ、そうなりますね。そもそも事件を目撃したのが本当なのかも怪しいですね。もしかしたらこういうニュースとかを、なにか誤った形で思い込んでしまったのかも知りませんし」
「そうね……」
「まあ、そこを明らかにするのは設楽さんの仕事ですから。あとはお願いしますよ。あと、現場検証に立ち会った刑事に聞いて回ったんですけど、そんなこと言った覚えなんてないってみんな言ってました。こればかりは通話記録があるわけでもなし、証言くらいしか証拠になりませんが」
「あ、ありがとう佐々木くん。今度焼肉おごるから!」
自分のデスクへと戻る佐々木の後姿にそう声をかけると、聡子もぬるくなったコーヒーと資料の束を両手に自分のデスクへと戻った。
『立川市北町噴水公園 11月2日(月)23時ころ事件発生。被害女性は近くの清心女子大学に通う英文科3年、篠原愛子。彼女の証言によると、バイト帰りにこの公園の近くの道を歩いていたところ、とつぜん誰かに口を押えつけられ、そのまま近くの茂みに連れ込まれて乱暴された。あまりの恐怖から詳しくは覚えていないとのことだが、気が付けば犯人が自身の手で、自分の喉をかき切っていた、とのこと。
警察は被害者女性が自身の身を守ろうともがいているうちに、誤って切ったのではないかと考えていた。だが刃物には被害者女性の指紋は付いておらず、犯人のものしか見つけられなかった。組み敷かれた状態で、男の力で振りかざされるナイフを押し返し、それをその喉元に切りつけるのは非力な女性には不可能かと思われる。さらに被害者女性は、両手をひものようなもので縛られていた。したがって、被害者女性の証言通り、犯人がなんらかの理由で、自殺を図ったかと思われる……』
もう一度資料に目を通し、聡子は大きく息を吐いた。
どういうこと?自殺って。
「おお、どうだ。進んどるかね設楽くん」
さらに資料の束をめくろうとした彼女のもとに、品川がけだるそうにやってきた。どうやらあまり眠れていないらしい。大きな欠伸を隠そうともせずにやってきた。
「部長。おはようございます」
「ああ……おはよう。そうそう、こっちの〈自称勇者〉の方はな、残念ながら進展なしだそうだ。いや、片腕の見つかった同じ川で、反対側の腕が見つかったらしい。左腕だったかな。けどまだダルマさんの方が見つかってねぇからなあ」
「ダルマ?」
「頭と胴体だよ。手足だけじゃ身元の特定は難しいんだと」
「テレビ局に電話してきた〈自称勇者〉に動きはないんですね」
「今更腕がもう一本出てきたぐらいじゃなあ。それに、そんなことよりも今の話題はまさにこの事件だよ」
「え?」
「おいおい、いくら世の中のテレビ離れが進んでるとはいえ、ニュースぐらい見たまえよ、君。昨日佐々木が言ってたアレな。お前も自分で調べただろ?この弟くんらの両親が殺された事件。そっちに世間は今大注目だ」
「ええ、でもあれは犯人も捕まってますし、今回の事件には関係ありませんよね?」
そうだ、この人間にあるまじき行為を行った犯人は、目撃者――村上姉弟だ、の目撃情報をもとに逮捕されたのだと噂になっていなかったか。そしてその情報が確かならば、この犯人は死刑宣告がなされていたはず。事件が起こってから、ええと10年くらいかしら、経ったのは。
「直接は関係ないけどな。けれど両親を殺されたうえ、さらに姉まで殺された弟くんは今や国を挙げての悲劇のヒロイン……いや、ヒーローだよ。こんなに世に同情されているのに、なんだってあの子は姉さんが〈勇者〉に殺されただなんて思い込んでるのかねぇ」
「ということは、マスコミが先に拾ったこの情報を警察は認めたってことですね?」
「そうなるな。そこまで古い事件じゃないが、起こったのは福島だ。まあこないだの地震が原因ってだけじゃないんだが、資料の引継ぎなんかうまく行ってないみたいでな。それに今は村上姓を彼らは名乗ってるが、これは大分に住む母方のいとこの子どもの……なんだったけかな、とにかくかなり遠い親戚らしいんだ。え?ああ、葬式の手配してくれた人だ。だから本籍も大分になっているし、直接この事件に関わりがあるわけでもない彼らの両親の事件になんて、いかに天下の我らが警視庁とはいえ気が回らなかったんだとよ」
「その、警察本部がうっかり見逃した情報を、マスコミはここぞと取り上げてばら撒いているんですね」
「まあそのほうがよりドラマティックになるからな。かつて両親を殺された哀れな姉弟。つつましくも生きてきた彼らを更なる悲劇が襲う……!ってな。しかも彼、結構イケメンだろ?まるでドラマみたいって世の奥様方の好奇心を総なめらしい」
「え、まさか彼の顔が世の中にばら撒かれてるんですか?彼は被害者で、しかも未成年なのに?」
「そうらしいな。ったくどこから拾ってきたんだか……さすがに目隠しはされてるみたいだが、週刊誌にはバッチリ載ってるぜ、弟くんの顔写真。あとこれ、イニシャルもな」
「そんな……」
「今は悲劇のヒーローで済んでるけどな、けれど関係者全員を当たるのはセオリーだ、ケーサツが実は彼も容疑者のうちに入れてるってマスコミが知ったら今度はどうなるんだろうな」
なんだかひどく口が渇いたような気がして、聡子は一口コーヒーをすすった。その苦みが彼女を落ち着かせる。確かにこの出来事は喜ばしいことではないが、彼の過去の情報が手に入ったことは大きい。もちろん直接この事件には直結はしないだろうが。
けれど、その影響が今の彼をここまで追い込んでいる可能性が高いのは事実だ。でなければ、なぜ哀れなヒーローである彼が、正義のヒーローに姉を殺されたのだなどと思うのか。
「そうだ部長、佐々木くんが調べてくれたんですけど、レイプ事件」
「お、ちゃんとやってくれたんだな。感心感心」
「慧くんは〈真の勇者〉が容疑者を殺害するところを見た、と言っているんですが、やはりそんな情報はどこにも載っていませんでした。それどころか、犯人は自殺をしたと」
「自殺?なんだってレイプ犯が自殺なんかするんだ?」
「それは……直接この容疑者と会話したことがないのでわかりませんが」
うーん、と彼女は片手で額を押さえ、少し考えてから口を開いた。
「考えられるパターンとしては、行為の途中で急に自己険悪に陥って自殺したか、もしくは極度の興奮状態のまま、つまり絶頂状態で死を迎えたい願望でもあったのか」
「いずれにせよ変態だな」
うげえ、という表情を浮かべながら、品川は胸元のポケットからたばことライターを取り出した。その動作に聡子が一瞥をくれると、品川は決まり悪そうにそれらをそっと元の場所へと戻した。その行為を見届けてから、聡子は唇を開く。
「ともかく、もう容疑者が死んでしまった以上、事実がどうだったかはわかりません。まさか被害者女性に、これ以上この事件のことを問いただすことも出来ませんし」
「まあ、そうだよなぁ。これ以上俺らが被害者の心の傷を広げることはできんよな、立場上も」
「けれど、慧くんはこの事件の際、その〈真の勇者〉と少し会話をしたらしいんです」
「会話ぁ?けどこの事件の犯人は自殺したんだろ。なら勇者なんて登場人物、必要ないじゃねぇか」
このごもっともな指摘に聡子は「そうなりますよね」と頷きながらこうも続ける。
「だけど、慧くんはこうも言っていました。ある朝起きたら、とつぜん勇者が当たり前の世界になっていたようなんだ、と」
「はぁ?」
慧からそう言われた際、思わず聡子が飲み込んだ言葉を、品川は臆することなく言い放つ。
「なんだそのパラレルワールドみたいな話は」
「けれどクラスメイト達は勇者の存在を受け入れているし、教科書にも載っている。ならば自分が知らなかっただけなんだと思っていた矢先に〈真の勇者〉に出会い、『俺を知っているだろう』『また会うことになるだろう』と言われたと」
「うーん……」
「正直、どこからどこまでが本当なのか、私にもわかりません。いや、彼の中ではすべてあったことなのでしょうが……」
途方に暮れたように、残り少ない髪の毛をかきむしりながら品川は必死に現状を頭の中で整理しているようであった。
「そうだなぁ……。いきなり弟くんが〈勇者〉だなんて言いだした裏側には、きっと何かがあるんだとは思うんだよな。俺も。もしかしたら彼は実は〈自称勇者〉の方に出会ったのかもしれないし、その〈自称勇者〉が実はレイプ犯を殺したのかもしれない、ただそれだと、あの目立ちたがりの野郎がマスコミに垂れこまないのが不自然だが……」
「私は慧くんのクラスメイトが気になります。彼らは勇者を受け入れているのか」
「勇者ねぇ。けれど今本部はあれだろ?この姉ちゃんの不倫相手の方を狙ってるんだろ?弟くんの方が手におえないからって」
え?不倫相手?あのお姉さん、そんなことしていたの?
「不倫相手?〈自称勇者〉のほうではなくて?」
「単に殺され方が同じってだけだろ。別に遺体をいろんなところにばら撒いてるわけでもなし。どちらかってーとその〈自称勇者〉のせいにするために、その容疑者が偽装したんじゃないかって本部は見てるらしい。それに、わずかだが現場には不倫相手の毛髪が落ちていた。まあ、被害者の衣服に付着したものが単に落ちただけかもしれんがな」
「そうなんですか」その不倫相手とやらに動機があるのなら、確かにそのほうが自然ではあるけれど。だと〈勇者〉は何者なの?
「弟くんは確かに気になる言動が多く見受けられるけども、そこまで躍起になることもねえんじゃないかなって思うんだが」
「それはそうですが、犯人が捕まればそこで終わりってわけでもないでしょう。あの子はこれから一人で生きてかなくっちゃならないんですから。少なくとも、今のままの精神状態じゃ生きていくのは無理です。その為には原因を解明しないと。確かに犯人検挙の為に私は本部に呼ばれましたが、被害者に寄り添うことだって十分私の大切な仕事だと思うんです」
「被害者って。まだ弟くんがやってないとも言い切れんだろ?」
「やったとも言い切れないじゃないですか、明確な証拠があるでもなし」
「はあー、ずいぶんと頼もしいこと言ってくれるなぁ」
「犯人は彼ではない。おそらく彼の見た〈勇者〉が犯人です。けれどそれはいったい何者なのか。明らかにして見せます」
まあ、そう言うのは簡単だ。実行できなければ意味がない。そのためにも、彼の輪郭を探しに行かなければ。
彼女は椅子に掛けられたコートをつかむと、深まる秋の街へと飛び出して行った。
*
高校生の生活テリトリー。そんなもの、たかが知れている。それは彼女自身の経験にもよる。
家と学校、せいぜいバイト先。友達の家に、時折出かける繁華街。そのくらいだ、行動範囲は。
逆に言ってしまえばそれだけで満ち足りていたのだ。まして彼女の田舎の茨城なんて、今いるこの都会に比べると何もないに等しいのだが、それでも彼女は満足していたのだ、それまでは。
車を走らせること小一時間。彼女は、慧の通う高校にたどり着いた。申し訳程度の広さの駐車場に車を停め降り立つと、校舎全体を見回すかのように彼女は首を巡らした。
立川市立北高校。どこにでもありそうな、ありふれた名前。
狭い市内、東西南北でどこが一番頭が良いのかなんて、そんなのに興味があるのはこのあたりに住む中学生とその保護者ぐらいだろうに。けれども少子化が叫ばれる現在、その地味などんぐりの背比べは学校ごとのアイデンティティを表すのにちょうどよいらしい。
「立川市内公立高校No1進学校!」そう書かれた垂れ幕が最上階から下されていた。
慧の言っていたこれでも進学校、と言う言葉は嘘ではなかったらしい。
彼はどのようなつもりでこの学校に進学したのかしら。単に近いから?けれどこの学校を卒業したらどうするつもりだったのだろう。進学するつもりだったの?
それとも、高卒で働き始めた姉のささやかな望みだったのか。せめて弟には大学ぐらい行かせてやりたいと。
昼前の授業中。外ではこの寒いのに元気に走り回る生徒らの姿が見えた。実際は走り回りでもしなければ寒くて仕方がなくって走ってます、そんな感じではあるのだろうが、それでもその姿がなんだか聡子にはほほえましかった。
事前に連絡し教えてもらった道順を辿り、彼女は職員室へとたどり着いた。
当然授業中だから教員の数もまばらだ。なかにはたまたま授業がないのか、デスクで必死に何かを書いている先生もちらほらとは居た。だがチラリと彼女の姿を見かけても、軽く会釈してすぐに自分の仕事へと戻ってしまう。
もしかしたら場違いな保護者とでも間違えられたのかもしれない。保護者面談でも授業参観でもないのに来る親なんて、面倒なやつに決まってる。
まあ、保護者と間違われても……とも思いつつ、憮然とした表情を浮かべる彼女のもとに中年の男が近づいてきた。
「ああ、設楽聡子さん、ですか?」
「え、ええ。お忙しいところ申し訳ありません」
「いえ、こちらとしてもどうしたものかと困っていたところでしたから……。ああ、申し遅れました、わたくし立川市立北高校の教頭をやっております竹内です」
そう言って、まさに竹のように細い身体のその男が仰々しく名刺を差し出す。聡子はそれを受け取りながら、自身の名刺を彼に差し出した。
「はあ、なるほど……。まあとにかく、ここではなんですから、こちらへ」
そう言う教頭に従い、聡子は応接室へと通された。
なんだか気分は不良息子をもつ親の気分だわ。じゃなければきっと、学校の応接室になんて通されることなど一生なさそうだ。
「お宅の息子さんが校舎の窓ガラスを割ってしまいましてね」そうまさに、今にも教頭が口を開くんじゃないかしら。
まさか聡子が内心こんなことを思っているだなんて露にも思わないであろう竹内が、申し訳なさそうに茶を出しながらこう言った。
「すみません、校長は今、都の教育委員会の懇親会に行っておりまして……」
「いえ、大丈夫です。私としてはとりあえず、普段の村上慧さんのことを知りたかっただけですから」
「はあ……。あの、念のために確認しておきますけど、村上君が犯人――というわけではないんですよね?」
オドオドとした表情で、教頭が真っ先に問いただしてきたのはそれだった。
どういうこと?確かに先に本部が学校にも調査に来てはいるはずだけど。
そんなあからさまに疑うようなことを、彼らに聞かれたとでもいうのだろうか。彼が犯人だなんて証拠、今のところ何一つないというのに?
「それはそう警察に聞かれたからですか?」
「え、ああ、まあ……。念のためとのことでしたが、そのあとあなた――」そこで彼は聡子の渡した名刺に目を落として、「こんなとこの方がいらっしゃったものだから、ちょっと不安になってしまって」と続けた。
「はあ」
「いえ、もちろん我が校としては、彼の無罪をもちろん信じておりますよ。とりたてて目立つような子でもありませんでしたし、成績も悪い方じゃありません。おとなしいけれど、気の利く子だったと我々は認識しております。けれどね、最近多いじゃないですか。もちろん彼がどうとか言うわけじゃないんですよ、けれど普段おとなしい子ほど、何を考えているのかわからないというか。まして彼は片親どころか、両親がいないんですから。ひとくくりにするわけじゃありませんが、傾向としてそういう子の方が、得てして非行に走りやすいものなんです」
「そんなことは」
「いえ、テレビじゃそんなのばかりじゃないですか。最近の未成年の犯罪なんて。学校は何を教育していたんだって世の皆様は叩きますけどね、それ以前に家庭に問題が多い場合の方が多いんですよ。それにね、我々にだって分からないものは分からないんです。教員が皆、設楽さんみたいにその道に明るいわけじゃあないんですから」
そう一気にまくしたてると、彼はまだ冷めない湯呑に少しだけ口をつけた。けれど熱くてのどを潤すことはできなかったらしい。あきらめてテーブルの上にそれを戻すと、さらにこう付け加えた。
「まして最近のこの騒ぎでしょう。我々も彼の両親が不在なのは認識しておりました。けれど、理由までは。いくら未成年とはいえ、プライベートで繊細な問題ですから。気になったからと言って、あまり突っ込んだことは聞けません。けれど今回の件で生徒や彼らの親からは非難轟々ですよ。なんでそんなかわいそうな子に何の援助もしてやらなかったんだ、なんで教えてくれなかったんだと」
「……そんなこと言われても、ですよね」
まさかこの事件の裏でそのようなことが起こっているとは。
正直、聡子の予想の範疇を越えていた。仮に学校が彼の過去を把握していたとして、そんなことを公表するとでも思っているのだろうか。公表されて、援助されてありがたいとでも思うのだろうか。
「ええ、でもまだ、こんなのはいい方です。ちょっと度が過ぎてはいますが、それでも村上君のことを心配してくれてはいるんですから」
これでも良いとは。正直、優しさの押し付けに聡子はげんなりしたが、さらにそれを上回る言葉を聞いて彼女は愕然とした。
「それよりも、親も姉もバラバラにされて殺されるような子は、きっとバチが当たるような悪いことをしてるに違いない。だから家族を殺されたんだ、なんていう方もいらっしゃいまして」
「は?」
「そんな生徒は即刻この学校から排除すべきだ、と」
「そんなバカなこと」
「ええ、そう思うのはごもっともです。わたくしどもも、もうどう対応したら良いのやら……。けれどそこであなたの登場でしょう?もしかしたら、もしかするのかと思いまして」
「もしかすると?」
「やはり、村上君が犯人なのではないかと、心配になってしまって……」
「そんなこと……あなたの学校の生徒でしょう、なぜ信じてあげられないんですか?それに村上くんには、お姉さんを殺す動機がないじゃないですか」
「いえ、もちろん!もちろん信じておりますとも。彼は単にかわいそうな被害者ですとも。ねえ」
まるで手のひらを返すかの如くにそう言い切ると、彼は再び湯呑を手に取ろうとした。
けれどそれがまだ熱いことを思い出したらしく、その両手をあわせ、話を切り替えるかのように手をたたいた。
パチン。かさついた音が響いた。
「とまあ、こんなわたくしの話など置いておいてですね。設楽さん、ええと、わたくしどもにご用でしたよね?どのような」
どのような。聡子は学校での慧を知りたくてやってきたのだが、この教頭の言葉を聞く限り、あまり有益な情報は出てこなさそうだった。
出来るなら慧の友人らにも会っておきたかったが、どうやら現状彼女が彼らの前に姿を現せば、余計な混乱を招くことは明らかだった。
事態は彼女が思っていたより悪化していた。マスコミによる彼の凄惨な過去の暴露。
単なる同情は暴走して、それに乗れるものは憐憫を一方的に押し付け、また乗れないものは一方的に拒否をする。仮に事件がすべて解決されて、彼の無実を声高々に叫べたとしても、彼は元の場所に戻れるのだろうか。
いや、戻れやしないだろう。
聡子はそうとしか思えなかった。さらに彼の哀れなところは、過去に一度、すでに似たような体験をしているということだ。
両親を殺された時、彼らはどうしたのだろう。居たたまれなくなってこちらに越してきたのではなかったのか。なのにまた同じような思いをしなければならないなんて。
「ええと……」
深く息を吐いて、聡子はそのままこの場を後にしたい衝動に駆られたが、けれど自分は仕事で来たのだ。差し出されたお茶で唇を湿らせ、それでも聞いておくべきことを確認すべく、重たい口を開いた。
「先ほど仰ってたように、村上慧くんは普段、あまり目立たない生徒さんだったんですね」
「そうですね、まああんな感じの見た目の生徒だと、大体調子に乗ってヘマをやらかすやつが多いんですけどね」
へへ、と笑って教頭は続ける。
「背も高くて、見た目も悪くないでしょう。この年頃の男子なんて、だいたい女の子にモテたいバカが多いんですけどね」
これはちょっと意外だった。進学校なら、もっとみんな真面目で勉強ばかりしているものかと思っていたのに。
「けれど村上は、極力自分から目立たないようにしている感じがしました。まあ、今思うと、あまり注目を浴びて過去のことまで誰かに引きずり出されるのを恐れていたのかも知れませんね」
「そうかもしれませんね。……村上くんの交友関係は把握されていましたか?その……、たとえばイジメにあっていたみたいなこと」
「イジメ?いやいや、それはないでしょう」
聡子の心配を、教頭はあっけなく一蹴した。
「あの子は目立たないようにしていただけで、別にジメジメしたやつでもないし、それなりに社交性もありましたし。いえ、こういっちゃあ悪いですけど、我々もそれなりに長くやってますからね、イジメられそうな奴は何となくわかるんですよ。なんかこう、加虐性をそそられる、というか。どちらかっていうと村上は逆なんじゃないかな。下手に手を出したら逆にやられそうというか。まあ、単なる勘ですけどね」
「はあ、そんなもんなんですか」
「設楽さんこそそうでしょう?お仕事柄、なんとなくわかるってありませんか?」
「いえ、私はあまり先入観を持たないように気をつけているので。――では、彼は友達も普通にいたんですね」
「そうですね、でも交友関係といっても……担任だって四六時中アイツのことばかり見ているわけにもいきませんからね、詳しくは分からないと思いますが、ああでも」
そこで言葉を切り、竹内が手元の薄いファイルをめくった。
「ええと、同じクラスの河野と田中あたりですかね。臨海学校で同じグループを組んでいるようですし」
「河野君と、田中君」
この二人の名前は聞き覚えがある。みんなが冷たくしても、彼らだけは変わらず接してくれた、そう慧の言っていた親友二人の名前だ。ではどこまでが本当なのだろう。そこで聡子は思い切って聞いてみることにした。
「最近、彼らやクラスの中で流行っていることなどご存じありませんか?例えば……そう、〈真の勇者〉だとか」
「〈真の勇者〉?ああ、ゲームか何かですかね?確かね、河野が好きなんですよね、ゲーム。いえね、私の孫もゲームが好きで。あんなのやるだけ時間の無駄だって言ってるんですが、まあ聞かなくって。それのことでしょうか」
「ええ……もしかしたら、そうなのかもしれません」
果たしてそうなのだろうか。けれどそれが一番現実的だ。
ゲームと現実の区別がつかなくなって。よくあるパターン。陳腐すぎて嫌になる理由。だが、一応そのようなゲームがあるのか調べておいた方がいいかもしれない。
慧くん、ゲーム好きだったかしら。そんな感じは受けなかったけれど。彼の趣味は何?どんな女の子が好きなの?けれど何かに熱中する彼の姿が聡子には、まったくもって浮かんでこなかった。
「他に何かありますか?」
「いえ……」
その時、チャイムの音が校舎に鳴り響いた。キーンコーンカーンコーン。その音をきっかけに、なんとなく校舎全体がざわめき立つ。
聡子は思わず時計に目をやった。応接室の、誰が選んで置いたのだろうか。クマの木彫りの人形に埋め込められた小さな時計。そのクマが昼の訪れを告げていた。
ああ、もう昼休みなのか。ならば私はもうこれ以上、この場にいないほうがいいのかもしれない。保護者とも違う知らない大人の存在は、きっとこの学校の生徒を不必要に刺激するだけだ。
誰だろうあの人。ああもしかして、村上君について調べに来た人じゃない?応接室から出てきたし。やっぱり村上が犯人なのか?そんなことあるわけないでしょ、だってお姉さんを殺されてるのよ、カワイソウ――。
そんな生徒たちのささやきが聞こえるようだった。
「いえ、もうこんな時間ですものね。そろそろお暇させていただきます。今日は貴重なお時間を割いていただき、誠にありがとうございました」
その無数の声に耐えかねて、彼女はこの場を後にすることにした。
「いえ、お役に立てず。村上君のこと、よろしくお願いします」
そうニコニコと返す竹内の声が、今の彼女にはこう聞こえた。学校は関係ない、全部アイツ個人の問題だろ?我々を巻き込まないでくれ、と。
まるで逃げるように、極力誰にも見つからないように、彼女はあわただしくこの学校を後にした。駐車場に停めた車に滑り込み、そこでようやくささやき声が消えた。
私は彼の為をと思って行っているのに。
けれど、これでは彼のことをカワイソウと勝手に憐れむ人々と自分も変わらないのではないか。
そんな不安が聡子を襲った。私はこれからどうすればいいのだろう、とも。
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