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第二章
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「設楽さん、ありませんよそんなゲーム。てかタイトルあんまりじゃありません?『真の勇者』だなんて名前のゲーム、仮にあっても売れないでしょ。クソつまらなさそー」
ズルズルとラーメンをすすりながら、佐々木がそう言い切る。
学校から一度戻り例の質問をしてみれば、即そっけない答えが返ってきた。
その彼は昼休み中なのか、ゲーム機をいじりながら食事をしている有様だ。
「佐々木君、お行儀悪いわよ」思わず聡子がたしなめると、「だって食事する時間もゲームする時間もないんですよこっちは」と聞く耳を持たない。
「でも、ゲームの中に出てくる人物ってこともあるでしょ」
けれど聡子は食い下がる。なにかしら原因はあるはずなのだ。いきなり突飛なことを言うほど、彼はおかしいように見えなかった。むしろ彼自身が不思議がっていたくらいじゃない。いきなり勇者が普通にいる世界になっていたんです、と。
けれど勇者はどこから来たの?それがわからなければこの事件の解決につながらないのではないか。聡子はそう感じているというのに。
「あなたこそが〈真の勇者〉なのです、って?どんなゲームなんですかそれ。偽物がたくさん出てくるんですか?それにしたってネーミングセンスヤバいっしょ。高校生がそんなのに食いつきます?てか設楽さん、これ以外の案件、大丈夫ですか?もうこれ以上僕に回されても無理なんですけど」
あーやったレアキャラゲット!もうすでに彼の関心は小さなゲーム機に戻ってしまったらしい。言い返そうとする聡子を無視するような形で、彼は違う世界に没頭してしまう。
もう、佐々木のやつめ。いくら休憩時間だからって、先輩をないがしろにするとは何事かしら。私だってまだお昼食べていないのに!
聡子は内心憤ったが、けれど強くは出られない。そうだ彼だって違う案件をいくつも抱えているのだし、何も仕事は村上姉弟の事件だけではない。私だって他の仕事もしなきゃいけないのに、なんでこの件にばかり固執してしまうのか――。
「だから現場に行くべし、なんだよなぁ、設楽君」
そこにご機嫌な様子で現れたのは品川だった。なぜかその腕に小型犬を抱きかかえている。なぜ?
聡子は動物が苦手で明るくはなかったが、それでもそれが何かはすぐに分かった。
あんなに目を見開いていて乾かないのかしら。私だったら数分おきに目薬を注さなければ耐えられそうにない。そう思わせるほどに、潤んだ瞳が特徴的なかわいいチワワだった。
プルプル震えてるのは、慣れない場所にいるせいだろうか。それともゴツいおじさんに抱かれているからかもしれないが。
けれどなぜここにチワワが?
訝しげな聡子の視線に気が付いたらしい。品川が嬉しそうに事の顛末を報告する。
「やあ、かわいいだろぉ。カイちゃんです。ほらみんなに手を振ってあげて」(そこで彼は無理やり犬の手を左右に振った)
「今回の容疑者が飼っていたワンちゃんなんだがな、どうやら事件に一枚噛んでいるらしく俺のとこにまわってきたんだ」
おーよしよし。そう猫なでならぬ犬なで声を出しながら、彼はこの小さい獣の頭をやたらとこねくり回す。それでその子は嬉しいのだろうか。だがさすがに動物は聡子の範疇外だ。彼(彼女?)のことまでは気が回らない。なにやら低い声でうなっているが、まあ大丈夫なのだろう。
それよりも心配なのは品川の方だ。普段の渋いキャラをかなぐり捨てて、ひたすらに「一枚噛んでいる」らしい犬コロにしきりに愛情を注いでいる。この彼の行為が、事件解決に結びつくとでもいうのだろうか。
「何しろ一番容疑者に近いのがこのワンちゃんだからな。友達よりも恋人よりも家族よりも、だ。このカイちゃんとは常に蜜月状態だったらしい。正直コミュ障っちゃあコミュ障なんだが、だがねぇ。物言わぬ動物ほどかわいいものはないさ。なあ、カイちゃん。人間相手じゃあこうはいかないからな。俺がこの子と親しくなれば、飼い主である容疑者は当然嫉妬するだろ?俺ぁそれを狙ってんだ。嫉妬に狂った人間ほど、うまく自分を演じるのが下手糞になるからな。そこで俺の出番だ。素のアイツをいぶり出して、真実をお天道様の日の元に晒し出してやろうって魂胆よ」
ということらしい。
けれど品川部長、そんなに動物好きだったかしら。所詮職場の上司だ。彼自身のプライベートをそんなに知っているわけでもないが、彼が冗談交じりに奥さんと娘さんに逃げられたと話していたのは聞いている。
「しかもこの子は唯一の目撃者だ。いや、目撃犬か。飼い主である容疑者の犯行現場に居合わせているんだが、はたして犯行の時のご主人様はおかしい精神状態だったんだろうか。それとも計画的犯行か。それを判断するために、俺ぁわざわざ現場に呼び出されたんだよ。このお犬様を預かってくれってな」
「はあ。しかしなぜ部長がわざわざ呼ばれたんですか?犬の世話くらい、うちの若いのにやらせれば」そう言って聡子はチラリと佐々木を見た。「え、嫌ですよ俺。動物苦手なんですよ」どうやら彼はリアルなペットよりも、ゲームの中のモンスターの方が興味があるらしい。
「ほらな、どうせうちの人間なんて、動物を愛する心も持たない冷たいやつらばっかりなんだ。その点俺は違うからな。俺の家にはかわいいユカリちゃんが待ってるからな」
ユカリちゃん。聞き覚えのある名前だ。つい数年前まで彼がやたらと連呼していたその名前。俺のユカリちゃん、かわいよなぁ。そう言って写真を見せられた覚えがある。
「部長、娘さんはペットじゃありませんよ、そんな言い方するなんて」
「うわ部長、マジサイコパスじゃないっすか。自分の娘を動物扱いですか?」
「違う!本物のユカリは去年妻に連れられて実家に帰ってる。……今家にいるのは猫のユカリちゃんだ」
「はあ、娘さんの代わりに、猫を?」
「悪いか。これでも俺は子どもの頃、猫に犬に鳥に魚とけっこういろいろ飼ってたんだ」
なるほど、それで彼がこの犬の面倒を見ると手を挙げたのか。いや案外、品川が動物好きなのを知っている人間が警察にいたのかもしれないが。
「それで部長がわざわざ現場まで赴いて、この子を引き取りに行ったんですか?」
「まあな。といっても一通り検証は終わった後だったが、やはりあまり居心地のいいもんじゃあないな、人死にの出た場所は。だがまあ、事件解決のためだ。現場を見たのと見てないのとでは心象が変わるからな。かわいそうにこの子もすっかり怯えていたよ」
おー、怖かったでちゅねぇ、よしよし。そうやって小型犬の頭をひとしきり撫でまわした後、「まあこの子の為にも、なるべく今までの生活環境に近づけたほうがいいだろうから、トイレやエサなんかも回収したかったってのが本音なんだがな」とぼそりと呟いた。
「どんだけ動物好きなんですか」思わずつっこんだのは佐々木だった。こわもての上司が動物好きだとは、さしもの彼も関心を惹かれたらしい。ゲーム機から手を離し、まるで化け物を見るかのような目つきで品川のことを眺めている。気持ちは分からなくもないけど。
「とまあ、理由はどうであれ、俺が言いたいのは現場を見たか見てないかでは、それだけ仕事への傾注度が異なるということだよ、佐々木君」
「はあ」
「所詮俺らの仕事は、他の人間が調べた事実関係をベースに、容疑者がホントにそれをしでかしたのか、しでかしたとしたらなぜなのかを調べる仕事だ。けれどそもそも彼らは本当は罪を犯してないのかもしれない。周りがそう言ってるだけで」
「いや、そこを疑ったらキリがないかと……」
「キリなんかないさ。いろんな人の人生がかかってるんだ。被害者、被害者の家族、容疑者、容疑者の家族。俺らは多くの人の人生を肩に背負ってるんだ。警察本部がそう判断したからってなんだ。アイツらだって絶対に間違えないなんて言いきれんだろ」
「でも」
「でももヘチマもねぇ。人ひとり殺されてんだ。徹底的に考えろ。なぜこいつが容疑者なのか。なぜこいつは殺しをしたのか」
「考えても分からないから僕らんとこに回されてくるんじゃ……」
「まあそうだな」そこで彼はあっけなく持論をかなぐり捨ててしまった。
「けれど考えるしかないんだ。下手したら本人だって分からないんだ。それを他人の俺らが解読しなけりゃならん。そのための手がかりならなんだって欲しいさ。だから現場だって見るし飼い犬だって世話をする」
「正直、従来の我々の権限からは大きくかけ離れているような気もするんですけど。犯罪の立証や容疑者捜査は僕らの仕事じゃないじゃないですか」異を唱えたのは佐々木だ。
確かに今回、いきすぎなのではないかと聡子も思ってはいる。思ってはいるが慧が容疑者の一人に挙げられているのも納得がいかなかったし、早く彼を日常に返してあげたかった。これは聡子のただのエゴなのかも知れなかったが。
「でも設楽は弟君はあくまでも被害者だと思ってるんだろ?なにせ姉の遺体を見たときの彼の驚きようも見てるんだ。あれは演技に見えたか?」
「いえ、とてもそうには……」
「万一だ。彼が天才的役者だったとしても、彼にそんなことをするメリットはない」
「そうですね、現に……拠り所を失ってしまって、あのような状態です」
「俺が直接見てる訳じゃないからなんとも言えないが、彼に弟君が犯人でないなら他にいるんだろう。それを指し示してやるのも俺らの義務なんじゃないのか」
「うーん、それは越権行為なんじゃ……本部が黙ってませんよ。僕らみたいのにでしゃばられたら」
「そんなの知るか。人一人の人生がかかってるんだ。安直な理由で弟君を容疑者に入れて、安易に精神鑑定しておけだなんて。それもあの子の過去が明らかになってからごり押ししてきやがって。さては本部のやつら、もう一人の容疑者とやらのヤマを崩せなくて焦ってんだろ」
「ああ、被害者の不倫相手――ですか」
そこで聡子は口を挟んだ。彼女が不倫をしていたとは驚きだったが、人は誰しもその見た目と裏腹に、まったく別の面を持っているものだ。
「ああ。被害者の村上茜は、自身の勤める会社の役員と不倫していたらしい」
「はあ、役員っすか。そんな大きな会社でしたっけ?その、なんとか商事」
「久賀商事」そこで聡子はデスクの引き出しに突っ込んだままの資料を紐ほどく。
「IT関連に特化した、比較的新しい会社みたいね。本社は東京丸の内」
今朝、手のひらを翻したかのように本部がこちらに投げてきた村上姉弟に関する資料。さも彼らの過去が今回の件に関係しているとでもいうかのように、警察もマスコミに踊らされているようであった。
「丸の内なぁ。まあ一等地だあな。大したもんだ」
チワワを飽きることなく撫でながら、品川が羨ましげに呟く。
「もう一人の容疑者として挙がっているのは、中川英明53歳。妻は48歳の専業主婦で、20歳になる娘と、高校生の息子がいる」
「え、殺されたお姉さんっていくつでしたっけ?」
「ええと……被害当時22歳ね」
「そんな、自分の娘とほとんど変わらないじゃないですか」
「娘がいようがいまいが、男は若い女が好きなんでしょうよ」吐き捨てるように言いながら、聡子は続きを読み上げる。
「村上茜は地元で高校卒業までバイトで生計を立てていた。親戚の家に身を寄せてはいたけれど、あまり良い待遇ではなかったみたい。卒業後、弟である慧と一緒に、事件のあった福島から上京。その際に、本籍を遠い親戚の大分のほうに移している。苗字まで変えて」
「でもなんでわざわざ東京に?」不思議に思ったのかそこで佐々木が口をはさんだ。
彼女らは哀れな被害者じゃあないですか。そんな、まるで逃げるようなことなどしなくても。
「おそらく、居づらかったんじゃないかしら。その、過去のことで」そう聡子は口を開いた。これは憶測でしかないけれど。
「自分らを世話してくれた親戚は事件のことを覚えている。直接なにか言われたとは限らないけれど、自分達が彼らに忌み嫌われていると感じたんじゃないかしら」
「なんでそんなことを。だって高校まで行かせてくれたんでしょう?」
そこで聡子は、先ほど慧の学校で言われたことを彼らに伝えた。
親も姉も殺されるようなやつは、なにかバチが当たるようなことをしたに違いない――。
「ええっ、そんな」
いつの間にかカップ麺を食べ尽くした佐々木が、怒りを露に立ち上がる。その急な動作に驚いたのだろうか。チワワがキャンキャンと吠え出した。
「おいこら佐々木、落ち着けよ。ほらカイちゃんが怯えちまったじゃあないか」
「あ、すんません。……でもまあ、すべてをやり直したくて彼女らはこっちに来たのかもしれませんね。東京なら、いろんな所から人がくるから。その、違う自分としてやり直そうとしたのかもしれない」
「そうかもしれないわね。で、最初は一般事務として久賀商事に入社」
「一般事務とはいえ、丸の内OLってすごくないですか?しかも高卒で」
「頭は良いみたいね。福島の親戚の世話になりながら通ってた高校では、担任に大学進学の話を持ちかけられていたらしいわ。けれど経済的理由により断念」
「でまあ、優秀だった村上茜は見事商社に就職、OLとして働いていた。だがなんで役員なんぞと関係を持つようになったんだ?」
「ええと……けっこう村上茜は気が強かったみたいですね。優秀なのが逆に他の女性事務員らの反感を買ったらしく、入社後すぐにイジメにあっている。けっこう酷かったらしいわ。当時を知る事務員の一人によれば、髪を切るようなこともしていたらしい」
「ええ、大人がそんな陰湿なイジメを?その人たちなんか心に闇でも抱えてたんですかね」
「バカ言え。こんなの病気でもなんでもねぇ。ただ嫉妬に狂っただけの醜いやつらだよ」
「けれど彼女はそんなことじゃ挫けなかった。いや、挫けている場合ではなかった。生活のため、弟のために稼がなければならない」
「頼もしい姉ちゃんだな」
「そこで彼女は、あろうことか上層部にいきなり直談判しにいった」
「うわあ、一般事務が役員にですか?僕怖くてそんなことできませんよぉ」
「お前部長である俺に対してどう振る舞ってるか自覚あるか?」
「やだなぁ部長。部下から親しまれてる証拠じゃないっすか」
「そうか?いや、そうなるのか……?」
「で、その時直談判されて相談に乗ったのが中川英明。さすがにこれはあんまりとのことで、イジメたOLらはボーナスカットの制裁が加えられている」
「ええ、そんなもんで許されるんですか?でも、そんなことしたらかえって反感を買ってしまうのでは」
「その通りで、逆にイジメはエスカレートした。盗難に傷害。表立って目立つものではなかったけれど、そこそこ大きい会社だもの。下手に彼女に今度は警察やマスコミにでも密告されたら会社の評価に関わる可能性がある」
「てかそんな陰険なババアらなんか辞めさせちまえばいいのにな」
これにはさしものフェミニストも閉口したらしい。女性に対してあるまじき暴言を吐いている品川を、聡子は初めて見た。それほどにこの話は不快だったのだろう。
「そうもいかなかったみたいですね。それなりにこの会社に貢献していたお局様が首謀者だったから。それで仕方なく、中川は村上茜を自分の目の届く範囲に置くことにした。つまり、秘書としての仕事を割り振ることにしたらしい」
「まさか。イジメられたお陰で大出世じゃないですか」
「幸か不幸か、行き掛かりで秘書なんてポジションについた村上茜だったけれど、仕事ぶりは有能で中川も重宝していたらしい。で、有能で美人な彼女に、中川は次第に心を奪われるようになってしまったと」
「まあ、確かに彼女、美人ですもんね」茜の写真を見ながら佐々木が呟いた。
履歴書に貼られた小さな写真。髪を切られてしまう前の、艶やかなロングに端正な顔立ち。
「そうだなぁ。弟くんも男前だもんな」でも一番かわいいのはカイちゃんですもんねぇ。
猫なで声で品川が続ける。いったいあんな声、どこから出しているのかしら。
「村上茜はそれに応えた、ってことですよね?」
「うーん。彼女の方に中川に対して好意があったかはわからない。けれど断ることは出来なかったんじゃないかしら。断ったが最後、彼女はこの会社にいられなくなってしまう」
「けどマスコミにたれ込めば……」
「マスコミを頼ったところで、彼女がまた今のポジションに就くのはさすがに難しいんじゃない?給料だってただのOLだった頃より良くなったはず。それに中川は村上茜に小遣いを渡していたみたい。多分奥さんへの口止め料のつもりだったのかもしれないけど」
「じゃあまあ、うまくいってたってことですよね。その不倫関係は。ならなんで中川が容疑者に挙がってるんですか?これだけじゃあまだ、家族である弟が疑われても仕方ないですよ」
「それなんだがな、どうやら村上茜が殺害される三日ほど前、中川は茜から別れ話を切り出されたらしい」
「村上茜から?なんで?」
「さあな。けれど部屋の鍵は開いてただろ。茜が開けたって考えると、犯人は彼女と面識のある人間だ。なにせ会社であんな目に遭ってるからな。特に仲の良い同僚もいなかったようだし、彼女の近しい人間となると、自然中川か弟くらいになる」
「でも、通りがかりの犯行かもしれない。たとえば、彼女の帰りを尾けて、彼女が部屋に入るところをむりやり押し入った」
聡子は大家の話を思い出す。ジョギング帰りを変な男に付けられたのかもしれんねぇ。その変な男こそ、
「例えばそう、〈自称勇者〉とか」
けれどまたしても、彼女の推理は一蹴されてしまった。
「いきなり知らない男に襲われたら、流石に大声で喚くんじゃないか?それに抵抗したときに現れる防御創は見られなかったらしい。それどころか、その時彼女が着ていたであろう衣類は無傷だった」
「無傷?でも、それって」
「そうだ、殺害された時村上茜はほぼ裸だったと考えていいだろう。後から脱がされた形跡もなかったそうだ」
「じゃあ、その中川が一番怪しいじゃないですか。だってそういう関係だったんでしょう?」
「まあ、そうなるんだが。秘書になってから、勤務時間がけっこう不規則だったらしい。中川の出勤に合わせての仕事だから、そうなるんだろ。だから朝方彼女が時々近所を走ってる姿を周りの住人が見かけている。それを中川が知っていて、その後を付けて入ったってのも考えられるが、それと同じくらい村上慧が怪しいのも確かだ」
「なぜです?」
「まず村上茜の足取りだが、立川駅の改札を終電間際で通っているのは確認されている。そしてそれ以降改札は通っていない。少なくとも彼女のICカードはな。一緒に住む村上慧は姉の姿は見てないと言っている。この証言が確かなら、彼女は深夜1時頃に家に着いて、翌朝慧が起きる前、まあ7時前後くらいかね、に元気に走りに行っていることになる。わざわざ霧雨の中を」
それは元気なことだわ。聡子は思った。私には真似できそうにもない。
「まあ若いからそれくらい出来るだろう、と思うかもしれんが、そのあたりの時間帯に、この近辺の監視カメラに彼女の姿は映っていない。とはいえ都心部ではないし、せいぜい大通りにしか設置されていないから、たまたま映らない道を走っていただけかもしれんが」
「けれど、それでなぜ慧くんが怪しいと?だって彼は彼女の姿を見ていないと言っていて、しかも遅刻することなく学校に出席していたことが確認されていますが」
「だがなぁ、死亡推定時刻は午前7時から9時の間。8時前後だ。その時間、彼はどこにいるのが自然だ?普通家にいる時間だろ?」
「えっ?午前8時?」思わず聡子は大きな声で反芻してしまった。
呼ばれたのが夜だったから、犯行はもっと遅い時間だと思っていた。朝の8時。慧くんはどこにいた?彼が家を出るのは何時頃?もしかしたら彼が――彼は何食わぬ顔で姉を殺しておきながら、学校とバイトに向かったってことなの?まさか。
「だからまあ、本部は弟くんを容疑者の一人に加えてるわけだ。まして福島での過去の事件に今の錯乱状態。頭のオカシイやつなら何したって不思議じゃない。そう思ってるのかもしれんがな」
「そんな、でも仮に七時に殺したとしても、一時間程度でバラバラにすることなんてできるんですか?」
「どうだろうな、試したことなんてないからわからんが。けれどその時間、誰も彼のアリバイを証言してるわけじゃない。けれどアリバイがあやふやなのは中川も一緒だ。一般社員みたいにタイムカードがあるわけでもなし、彼のスケジュールを管理する秘書はこの通り殺されちまってる。自宅を七時頃出たのは家族が証言しているが、会社で姿を確実に確認されたのは午前11時の会議の時だ。茜がいないんで焦っているようだったと証言もあるが、まあ演技かもしれんしな」
「その空白の数時間、何をしていたと中川は言ってるんですか?」
「自分の事務室で、会議用の資料をまとめてたんだと。秘書の茜が普段やってくれてるものだから苦労したらしい」
「そんなの、他に人を呼べばいいのに。役員様でしょう?」
「そこまで気が回らなかったらしい」
「うーん、怪しいですね」腕を組みながら佐々木が唸った。
「しかもなぁ、この中川。骨董品マニアらしくてな。家には刀がザクザクあるんだと」
刀。勇者が持ってたんだ。それで勇者が茜姉を切り殺したんだ。そう叫ぶ慧の声が脳裏に浮かんだ。
「刀?」
「ああ、弟君が勇者が持ってたって言う刀だよ。もしかしたら彼は目撃者なのかもしれない。このカイちゃんみたいに」
「じゃあ凶器は刀なんですか?」
「断定はできないそうだが、とにかく刃渡りが長い刃物なことは間違いないらしい。こう袈裟斬りしたあとに、刃を胸のあたりに突き刺している。貫通だ。それが致命傷だそうだ」
「刃渡りの長い……」
「家庭の文化包丁じゃあ、ああはいかないと。まさか料理人じゃあるまいし、特殊包丁なんぞ家庭にあるわけでもあるまい。車で行けば目立たないし、あのアパートの辺りは朝でも人気は少ない。フリーターやら生保やら、あまりまっとうな社会人はここには住んでないらしいからな」
「中川の所持する刀から、なにか犯行を特定出来るものは見つかったんですかね。ほらあれ、ルミノール反応とか」
「それがなあ、見つからないんだ。なんでも最近手入れをしたらしくって、研いじまったもんだから何も手がかり無し」
「それってすっごく怪しくないですか」
「俺もそう思うが、確実な証拠が上がらない限り検挙まではいけないらしい。それであいつらジリ貧よ。今度は矛先がこっちに向かってきやがった」
「それはつまり、中川より慧くんの方が怪しいと?」
「まあそういうこった。だからこんなに急に資料投げてきたんだよ。今まで放置だったくせにな。なにせ『犯人は真の勇者だ』、ときたもんだ。あわよくば不起訴処分で片そうって魂胆かもな」そう言って彼は聡子の開いた資料の束をデスクに投げ出した。バサリ。紙が舞う。
これだけの枚数にまとめられてしまった、村上茜の人生。けれど、言い方は悪いけれど、それが終わってしまった人生ならばあきらめは付く。いずれにせよこの先はない。これ以上増えようのない彼女の人生。
けれど残された人間は?
今までマスコミは比較的彼に対して寛容であった。悲劇のヒーロー。そう持て囃してきた彼が、今や警察の本丸として定められていると知ったらどのように手を翻すだろうか。
仮に彼が真犯人でなかったとしても、事件と言うものは起こったときこそセンセーショナルに取りざたされる。それはある意味お祭りに近い。その時だけ賑やかならそれでいい。ハロウィンやクリスマスでとにかく賑わう国民だ。そこには本来の信仰など関係ない。とにかくその時楽しければいいじゃない。
刹那的快楽主義の彼らは、過去の事件の結末など知ったことはない。だってそんなもの、自分には直接関係ないことだもの。
果たして彼の無実が証明されたところで、彼は日常に戻れるのだろうか。これからも人生のページを新しく増やすことはできるのだろうか。
ああ、あの事件の犯人のヒト?なんで捕まってないの?
お前が犯人だったんじゃないのか?
そう心ないことを言って、彼の人生を破り取る人間がいないと言いきれる?
「すみません、私もう一度外出してきます」
目の前に置かれた紙の束を見つめ聡子は言った。
違う、私はただあの子を憐れむ人々とは違う。怯えてる場合じゃない、動かなければ。
「外出?どこにだ?」
「犯人の手掛かりを探しに」
「そんなの、僕たちの仕事じゃないでしょう?」
「でもそうでもしないと、慧くんの人生は守れない」
訝しがる品川と佐々木に言い残し、彼女は再び殺風景な部屋を後にした。
ズルズルとラーメンをすすりながら、佐々木がそう言い切る。
学校から一度戻り例の質問をしてみれば、即そっけない答えが返ってきた。
その彼は昼休み中なのか、ゲーム機をいじりながら食事をしている有様だ。
「佐々木君、お行儀悪いわよ」思わず聡子がたしなめると、「だって食事する時間もゲームする時間もないんですよこっちは」と聞く耳を持たない。
「でも、ゲームの中に出てくる人物ってこともあるでしょ」
けれど聡子は食い下がる。なにかしら原因はあるはずなのだ。いきなり突飛なことを言うほど、彼はおかしいように見えなかった。むしろ彼自身が不思議がっていたくらいじゃない。いきなり勇者が普通にいる世界になっていたんです、と。
けれど勇者はどこから来たの?それがわからなければこの事件の解決につながらないのではないか。聡子はそう感じているというのに。
「あなたこそが〈真の勇者〉なのです、って?どんなゲームなんですかそれ。偽物がたくさん出てくるんですか?それにしたってネーミングセンスヤバいっしょ。高校生がそんなのに食いつきます?てか設楽さん、これ以外の案件、大丈夫ですか?もうこれ以上僕に回されても無理なんですけど」
あーやったレアキャラゲット!もうすでに彼の関心は小さなゲーム機に戻ってしまったらしい。言い返そうとする聡子を無視するような形で、彼は違う世界に没頭してしまう。
もう、佐々木のやつめ。いくら休憩時間だからって、先輩をないがしろにするとは何事かしら。私だってまだお昼食べていないのに!
聡子は内心憤ったが、けれど強くは出られない。そうだ彼だって違う案件をいくつも抱えているのだし、何も仕事は村上姉弟の事件だけではない。私だって他の仕事もしなきゃいけないのに、なんでこの件にばかり固執してしまうのか――。
「だから現場に行くべし、なんだよなぁ、設楽君」
そこにご機嫌な様子で現れたのは品川だった。なぜかその腕に小型犬を抱きかかえている。なぜ?
聡子は動物が苦手で明るくはなかったが、それでもそれが何かはすぐに分かった。
あんなに目を見開いていて乾かないのかしら。私だったら数分おきに目薬を注さなければ耐えられそうにない。そう思わせるほどに、潤んだ瞳が特徴的なかわいいチワワだった。
プルプル震えてるのは、慣れない場所にいるせいだろうか。それともゴツいおじさんに抱かれているからかもしれないが。
けれどなぜここにチワワが?
訝しげな聡子の視線に気が付いたらしい。品川が嬉しそうに事の顛末を報告する。
「やあ、かわいいだろぉ。カイちゃんです。ほらみんなに手を振ってあげて」(そこで彼は無理やり犬の手を左右に振った)
「今回の容疑者が飼っていたワンちゃんなんだがな、どうやら事件に一枚噛んでいるらしく俺のとこにまわってきたんだ」
おーよしよし。そう猫なでならぬ犬なで声を出しながら、彼はこの小さい獣の頭をやたらとこねくり回す。それでその子は嬉しいのだろうか。だがさすがに動物は聡子の範疇外だ。彼(彼女?)のことまでは気が回らない。なにやら低い声でうなっているが、まあ大丈夫なのだろう。
それよりも心配なのは品川の方だ。普段の渋いキャラをかなぐり捨てて、ひたすらに「一枚噛んでいる」らしい犬コロにしきりに愛情を注いでいる。この彼の行為が、事件解決に結びつくとでもいうのだろうか。
「何しろ一番容疑者に近いのがこのワンちゃんだからな。友達よりも恋人よりも家族よりも、だ。このカイちゃんとは常に蜜月状態だったらしい。正直コミュ障っちゃあコミュ障なんだが、だがねぇ。物言わぬ動物ほどかわいいものはないさ。なあ、カイちゃん。人間相手じゃあこうはいかないからな。俺がこの子と親しくなれば、飼い主である容疑者は当然嫉妬するだろ?俺ぁそれを狙ってんだ。嫉妬に狂った人間ほど、うまく自分を演じるのが下手糞になるからな。そこで俺の出番だ。素のアイツをいぶり出して、真実をお天道様の日の元に晒し出してやろうって魂胆よ」
ということらしい。
けれど品川部長、そんなに動物好きだったかしら。所詮職場の上司だ。彼自身のプライベートをそんなに知っているわけでもないが、彼が冗談交じりに奥さんと娘さんに逃げられたと話していたのは聞いている。
「しかもこの子は唯一の目撃者だ。いや、目撃犬か。飼い主である容疑者の犯行現場に居合わせているんだが、はたして犯行の時のご主人様はおかしい精神状態だったんだろうか。それとも計画的犯行か。それを判断するために、俺ぁわざわざ現場に呼び出されたんだよ。このお犬様を預かってくれってな」
「はあ。しかしなぜ部長がわざわざ呼ばれたんですか?犬の世話くらい、うちの若いのにやらせれば」そう言って聡子はチラリと佐々木を見た。「え、嫌ですよ俺。動物苦手なんですよ」どうやら彼はリアルなペットよりも、ゲームの中のモンスターの方が興味があるらしい。
「ほらな、どうせうちの人間なんて、動物を愛する心も持たない冷たいやつらばっかりなんだ。その点俺は違うからな。俺の家にはかわいいユカリちゃんが待ってるからな」
ユカリちゃん。聞き覚えのある名前だ。つい数年前まで彼がやたらと連呼していたその名前。俺のユカリちゃん、かわいよなぁ。そう言って写真を見せられた覚えがある。
「部長、娘さんはペットじゃありませんよ、そんな言い方するなんて」
「うわ部長、マジサイコパスじゃないっすか。自分の娘を動物扱いですか?」
「違う!本物のユカリは去年妻に連れられて実家に帰ってる。……今家にいるのは猫のユカリちゃんだ」
「はあ、娘さんの代わりに、猫を?」
「悪いか。これでも俺は子どもの頃、猫に犬に鳥に魚とけっこういろいろ飼ってたんだ」
なるほど、それで彼がこの犬の面倒を見ると手を挙げたのか。いや案外、品川が動物好きなのを知っている人間が警察にいたのかもしれないが。
「それで部長がわざわざ現場まで赴いて、この子を引き取りに行ったんですか?」
「まあな。といっても一通り検証は終わった後だったが、やはりあまり居心地のいいもんじゃあないな、人死にの出た場所は。だがまあ、事件解決のためだ。現場を見たのと見てないのとでは心象が変わるからな。かわいそうにこの子もすっかり怯えていたよ」
おー、怖かったでちゅねぇ、よしよし。そうやって小型犬の頭をひとしきり撫でまわした後、「まあこの子の為にも、なるべく今までの生活環境に近づけたほうがいいだろうから、トイレやエサなんかも回収したかったってのが本音なんだがな」とぼそりと呟いた。
「どんだけ動物好きなんですか」思わずつっこんだのは佐々木だった。こわもての上司が動物好きだとは、さしもの彼も関心を惹かれたらしい。ゲーム機から手を離し、まるで化け物を見るかのような目つきで品川のことを眺めている。気持ちは分からなくもないけど。
「とまあ、理由はどうであれ、俺が言いたいのは現場を見たか見てないかでは、それだけ仕事への傾注度が異なるということだよ、佐々木君」
「はあ」
「所詮俺らの仕事は、他の人間が調べた事実関係をベースに、容疑者がホントにそれをしでかしたのか、しでかしたとしたらなぜなのかを調べる仕事だ。けれどそもそも彼らは本当は罪を犯してないのかもしれない。周りがそう言ってるだけで」
「いや、そこを疑ったらキリがないかと……」
「キリなんかないさ。いろんな人の人生がかかってるんだ。被害者、被害者の家族、容疑者、容疑者の家族。俺らは多くの人の人生を肩に背負ってるんだ。警察本部がそう判断したからってなんだ。アイツらだって絶対に間違えないなんて言いきれんだろ」
「でも」
「でももヘチマもねぇ。人ひとり殺されてんだ。徹底的に考えろ。なぜこいつが容疑者なのか。なぜこいつは殺しをしたのか」
「考えても分からないから僕らんとこに回されてくるんじゃ……」
「まあそうだな」そこで彼はあっけなく持論をかなぐり捨ててしまった。
「けれど考えるしかないんだ。下手したら本人だって分からないんだ。それを他人の俺らが解読しなけりゃならん。そのための手がかりならなんだって欲しいさ。だから現場だって見るし飼い犬だって世話をする」
「正直、従来の我々の権限からは大きくかけ離れているような気もするんですけど。犯罪の立証や容疑者捜査は僕らの仕事じゃないじゃないですか」異を唱えたのは佐々木だ。
確かに今回、いきすぎなのではないかと聡子も思ってはいる。思ってはいるが慧が容疑者の一人に挙げられているのも納得がいかなかったし、早く彼を日常に返してあげたかった。これは聡子のただのエゴなのかも知れなかったが。
「でも設楽は弟君はあくまでも被害者だと思ってるんだろ?なにせ姉の遺体を見たときの彼の驚きようも見てるんだ。あれは演技に見えたか?」
「いえ、とてもそうには……」
「万一だ。彼が天才的役者だったとしても、彼にそんなことをするメリットはない」
「そうですね、現に……拠り所を失ってしまって、あのような状態です」
「俺が直接見てる訳じゃないからなんとも言えないが、彼に弟君が犯人でないなら他にいるんだろう。それを指し示してやるのも俺らの義務なんじゃないのか」
「うーん、それは越権行為なんじゃ……本部が黙ってませんよ。僕らみたいのにでしゃばられたら」
「そんなの知るか。人一人の人生がかかってるんだ。安直な理由で弟君を容疑者に入れて、安易に精神鑑定しておけだなんて。それもあの子の過去が明らかになってからごり押ししてきやがって。さては本部のやつら、もう一人の容疑者とやらのヤマを崩せなくて焦ってんだろ」
「ああ、被害者の不倫相手――ですか」
そこで聡子は口を挟んだ。彼女が不倫をしていたとは驚きだったが、人は誰しもその見た目と裏腹に、まったく別の面を持っているものだ。
「ああ。被害者の村上茜は、自身の勤める会社の役員と不倫していたらしい」
「はあ、役員っすか。そんな大きな会社でしたっけ?その、なんとか商事」
「久賀商事」そこで聡子はデスクの引き出しに突っ込んだままの資料を紐ほどく。
「IT関連に特化した、比較的新しい会社みたいね。本社は東京丸の内」
今朝、手のひらを翻したかのように本部がこちらに投げてきた村上姉弟に関する資料。さも彼らの過去が今回の件に関係しているとでもいうかのように、警察もマスコミに踊らされているようであった。
「丸の内なぁ。まあ一等地だあな。大したもんだ」
チワワを飽きることなく撫でながら、品川が羨ましげに呟く。
「もう一人の容疑者として挙がっているのは、中川英明53歳。妻は48歳の専業主婦で、20歳になる娘と、高校生の息子がいる」
「え、殺されたお姉さんっていくつでしたっけ?」
「ええと……被害当時22歳ね」
「そんな、自分の娘とほとんど変わらないじゃないですか」
「娘がいようがいまいが、男は若い女が好きなんでしょうよ」吐き捨てるように言いながら、聡子は続きを読み上げる。
「村上茜は地元で高校卒業までバイトで生計を立てていた。親戚の家に身を寄せてはいたけれど、あまり良い待遇ではなかったみたい。卒業後、弟である慧と一緒に、事件のあった福島から上京。その際に、本籍を遠い親戚の大分のほうに移している。苗字まで変えて」
「でもなんでわざわざ東京に?」不思議に思ったのかそこで佐々木が口をはさんだ。
彼女らは哀れな被害者じゃあないですか。そんな、まるで逃げるようなことなどしなくても。
「おそらく、居づらかったんじゃないかしら。その、過去のことで」そう聡子は口を開いた。これは憶測でしかないけれど。
「自分らを世話してくれた親戚は事件のことを覚えている。直接なにか言われたとは限らないけれど、自分達が彼らに忌み嫌われていると感じたんじゃないかしら」
「なんでそんなことを。だって高校まで行かせてくれたんでしょう?」
そこで聡子は、先ほど慧の学校で言われたことを彼らに伝えた。
親も姉も殺されるようなやつは、なにかバチが当たるようなことをしたに違いない――。
「ええっ、そんな」
いつの間にかカップ麺を食べ尽くした佐々木が、怒りを露に立ち上がる。その急な動作に驚いたのだろうか。チワワがキャンキャンと吠え出した。
「おいこら佐々木、落ち着けよ。ほらカイちゃんが怯えちまったじゃあないか」
「あ、すんません。……でもまあ、すべてをやり直したくて彼女らはこっちに来たのかもしれませんね。東京なら、いろんな所から人がくるから。その、違う自分としてやり直そうとしたのかもしれない」
「そうかもしれないわね。で、最初は一般事務として久賀商事に入社」
「一般事務とはいえ、丸の内OLってすごくないですか?しかも高卒で」
「頭は良いみたいね。福島の親戚の世話になりながら通ってた高校では、担任に大学進学の話を持ちかけられていたらしいわ。けれど経済的理由により断念」
「でまあ、優秀だった村上茜は見事商社に就職、OLとして働いていた。だがなんで役員なんぞと関係を持つようになったんだ?」
「ええと……けっこう村上茜は気が強かったみたいですね。優秀なのが逆に他の女性事務員らの反感を買ったらしく、入社後すぐにイジメにあっている。けっこう酷かったらしいわ。当時を知る事務員の一人によれば、髪を切るようなこともしていたらしい」
「ええ、大人がそんな陰湿なイジメを?その人たちなんか心に闇でも抱えてたんですかね」
「バカ言え。こんなの病気でもなんでもねぇ。ただ嫉妬に狂っただけの醜いやつらだよ」
「けれど彼女はそんなことじゃ挫けなかった。いや、挫けている場合ではなかった。生活のため、弟のために稼がなければならない」
「頼もしい姉ちゃんだな」
「そこで彼女は、あろうことか上層部にいきなり直談判しにいった」
「うわあ、一般事務が役員にですか?僕怖くてそんなことできませんよぉ」
「お前部長である俺に対してどう振る舞ってるか自覚あるか?」
「やだなぁ部長。部下から親しまれてる証拠じゃないっすか」
「そうか?いや、そうなるのか……?」
「で、その時直談判されて相談に乗ったのが中川英明。さすがにこれはあんまりとのことで、イジメたOLらはボーナスカットの制裁が加えられている」
「ええ、そんなもんで許されるんですか?でも、そんなことしたらかえって反感を買ってしまうのでは」
「その通りで、逆にイジメはエスカレートした。盗難に傷害。表立って目立つものではなかったけれど、そこそこ大きい会社だもの。下手に彼女に今度は警察やマスコミにでも密告されたら会社の評価に関わる可能性がある」
「てかそんな陰険なババアらなんか辞めさせちまえばいいのにな」
これにはさしものフェミニストも閉口したらしい。女性に対してあるまじき暴言を吐いている品川を、聡子は初めて見た。それほどにこの話は不快だったのだろう。
「そうもいかなかったみたいですね。それなりにこの会社に貢献していたお局様が首謀者だったから。それで仕方なく、中川は村上茜を自分の目の届く範囲に置くことにした。つまり、秘書としての仕事を割り振ることにしたらしい」
「まさか。イジメられたお陰で大出世じゃないですか」
「幸か不幸か、行き掛かりで秘書なんてポジションについた村上茜だったけれど、仕事ぶりは有能で中川も重宝していたらしい。で、有能で美人な彼女に、中川は次第に心を奪われるようになってしまったと」
「まあ、確かに彼女、美人ですもんね」茜の写真を見ながら佐々木が呟いた。
履歴書に貼られた小さな写真。髪を切られてしまう前の、艶やかなロングに端正な顔立ち。
「そうだなぁ。弟くんも男前だもんな」でも一番かわいいのはカイちゃんですもんねぇ。
猫なで声で品川が続ける。いったいあんな声、どこから出しているのかしら。
「村上茜はそれに応えた、ってことですよね?」
「うーん。彼女の方に中川に対して好意があったかはわからない。けれど断ることは出来なかったんじゃないかしら。断ったが最後、彼女はこの会社にいられなくなってしまう」
「けどマスコミにたれ込めば……」
「マスコミを頼ったところで、彼女がまた今のポジションに就くのはさすがに難しいんじゃない?給料だってただのOLだった頃より良くなったはず。それに中川は村上茜に小遣いを渡していたみたい。多分奥さんへの口止め料のつもりだったのかもしれないけど」
「じゃあまあ、うまくいってたってことですよね。その不倫関係は。ならなんで中川が容疑者に挙がってるんですか?これだけじゃあまだ、家族である弟が疑われても仕方ないですよ」
「それなんだがな、どうやら村上茜が殺害される三日ほど前、中川は茜から別れ話を切り出されたらしい」
「村上茜から?なんで?」
「さあな。けれど部屋の鍵は開いてただろ。茜が開けたって考えると、犯人は彼女と面識のある人間だ。なにせ会社であんな目に遭ってるからな。特に仲の良い同僚もいなかったようだし、彼女の近しい人間となると、自然中川か弟くらいになる」
「でも、通りがかりの犯行かもしれない。たとえば、彼女の帰りを尾けて、彼女が部屋に入るところをむりやり押し入った」
聡子は大家の話を思い出す。ジョギング帰りを変な男に付けられたのかもしれんねぇ。その変な男こそ、
「例えばそう、〈自称勇者〉とか」
けれどまたしても、彼女の推理は一蹴されてしまった。
「いきなり知らない男に襲われたら、流石に大声で喚くんじゃないか?それに抵抗したときに現れる防御創は見られなかったらしい。それどころか、その時彼女が着ていたであろう衣類は無傷だった」
「無傷?でも、それって」
「そうだ、殺害された時村上茜はほぼ裸だったと考えていいだろう。後から脱がされた形跡もなかったそうだ」
「じゃあ、その中川が一番怪しいじゃないですか。だってそういう関係だったんでしょう?」
「まあ、そうなるんだが。秘書になってから、勤務時間がけっこう不規則だったらしい。中川の出勤に合わせての仕事だから、そうなるんだろ。だから朝方彼女が時々近所を走ってる姿を周りの住人が見かけている。それを中川が知っていて、その後を付けて入ったってのも考えられるが、それと同じくらい村上慧が怪しいのも確かだ」
「なぜです?」
「まず村上茜の足取りだが、立川駅の改札を終電間際で通っているのは確認されている。そしてそれ以降改札は通っていない。少なくとも彼女のICカードはな。一緒に住む村上慧は姉の姿は見てないと言っている。この証言が確かなら、彼女は深夜1時頃に家に着いて、翌朝慧が起きる前、まあ7時前後くらいかね、に元気に走りに行っていることになる。わざわざ霧雨の中を」
それは元気なことだわ。聡子は思った。私には真似できそうにもない。
「まあ若いからそれくらい出来るだろう、と思うかもしれんが、そのあたりの時間帯に、この近辺の監視カメラに彼女の姿は映っていない。とはいえ都心部ではないし、せいぜい大通りにしか設置されていないから、たまたま映らない道を走っていただけかもしれんが」
「けれど、それでなぜ慧くんが怪しいと?だって彼は彼女の姿を見ていないと言っていて、しかも遅刻することなく学校に出席していたことが確認されていますが」
「だがなぁ、死亡推定時刻は午前7時から9時の間。8時前後だ。その時間、彼はどこにいるのが自然だ?普通家にいる時間だろ?」
「えっ?午前8時?」思わず聡子は大きな声で反芻してしまった。
呼ばれたのが夜だったから、犯行はもっと遅い時間だと思っていた。朝の8時。慧くんはどこにいた?彼が家を出るのは何時頃?もしかしたら彼が――彼は何食わぬ顔で姉を殺しておきながら、学校とバイトに向かったってことなの?まさか。
「だからまあ、本部は弟くんを容疑者の一人に加えてるわけだ。まして福島での過去の事件に今の錯乱状態。頭のオカシイやつなら何したって不思議じゃない。そう思ってるのかもしれんがな」
「そんな、でも仮に七時に殺したとしても、一時間程度でバラバラにすることなんてできるんですか?」
「どうだろうな、試したことなんてないからわからんが。けれどその時間、誰も彼のアリバイを証言してるわけじゃない。けれどアリバイがあやふやなのは中川も一緒だ。一般社員みたいにタイムカードがあるわけでもなし、彼のスケジュールを管理する秘書はこの通り殺されちまってる。自宅を七時頃出たのは家族が証言しているが、会社で姿を確実に確認されたのは午前11時の会議の時だ。茜がいないんで焦っているようだったと証言もあるが、まあ演技かもしれんしな」
「その空白の数時間、何をしていたと中川は言ってるんですか?」
「自分の事務室で、会議用の資料をまとめてたんだと。秘書の茜が普段やってくれてるものだから苦労したらしい」
「そんなの、他に人を呼べばいいのに。役員様でしょう?」
「そこまで気が回らなかったらしい」
「うーん、怪しいですね」腕を組みながら佐々木が唸った。
「しかもなぁ、この中川。骨董品マニアらしくてな。家には刀がザクザクあるんだと」
刀。勇者が持ってたんだ。それで勇者が茜姉を切り殺したんだ。そう叫ぶ慧の声が脳裏に浮かんだ。
「刀?」
「ああ、弟君が勇者が持ってたって言う刀だよ。もしかしたら彼は目撃者なのかもしれない。このカイちゃんみたいに」
「じゃあ凶器は刀なんですか?」
「断定はできないそうだが、とにかく刃渡りが長い刃物なことは間違いないらしい。こう袈裟斬りしたあとに、刃を胸のあたりに突き刺している。貫通だ。それが致命傷だそうだ」
「刃渡りの長い……」
「家庭の文化包丁じゃあ、ああはいかないと。まさか料理人じゃあるまいし、特殊包丁なんぞ家庭にあるわけでもあるまい。車で行けば目立たないし、あのアパートの辺りは朝でも人気は少ない。フリーターやら生保やら、あまりまっとうな社会人はここには住んでないらしいからな」
「中川の所持する刀から、なにか犯行を特定出来るものは見つかったんですかね。ほらあれ、ルミノール反応とか」
「それがなあ、見つからないんだ。なんでも最近手入れをしたらしくって、研いじまったもんだから何も手がかり無し」
「それってすっごく怪しくないですか」
「俺もそう思うが、確実な証拠が上がらない限り検挙まではいけないらしい。それであいつらジリ貧よ。今度は矛先がこっちに向かってきやがった」
「それはつまり、中川より慧くんの方が怪しいと?」
「まあそういうこった。だからこんなに急に資料投げてきたんだよ。今まで放置だったくせにな。なにせ『犯人は真の勇者だ』、ときたもんだ。あわよくば不起訴処分で片そうって魂胆かもな」そう言って彼は聡子の開いた資料の束をデスクに投げ出した。バサリ。紙が舞う。
これだけの枚数にまとめられてしまった、村上茜の人生。けれど、言い方は悪いけれど、それが終わってしまった人生ならばあきらめは付く。いずれにせよこの先はない。これ以上増えようのない彼女の人生。
けれど残された人間は?
今までマスコミは比較的彼に対して寛容であった。悲劇のヒーロー。そう持て囃してきた彼が、今や警察の本丸として定められていると知ったらどのように手を翻すだろうか。
仮に彼が真犯人でなかったとしても、事件と言うものは起こったときこそセンセーショナルに取りざたされる。それはある意味お祭りに近い。その時だけ賑やかならそれでいい。ハロウィンやクリスマスでとにかく賑わう国民だ。そこには本来の信仰など関係ない。とにかくその時楽しければいいじゃない。
刹那的快楽主義の彼らは、過去の事件の結末など知ったことはない。だってそんなもの、自分には直接関係ないことだもの。
果たして彼の無実が証明されたところで、彼は日常に戻れるのだろうか。これからも人生のページを新しく増やすことはできるのだろうか。
ああ、あの事件の犯人のヒト?なんで捕まってないの?
お前が犯人だったんじゃないのか?
そう心ないことを言って、彼の人生を破り取る人間がいないと言いきれる?
「すみません、私もう一度外出してきます」
目の前に置かれた紙の束を見つめ聡子は言った。
違う、私はただあの子を憐れむ人々とは違う。怯えてる場合じゃない、動かなければ。
「外出?どこにだ?」
「犯人の手掛かりを探しに」
「そんなの、僕たちの仕事じゃないでしょう?」
「でもそうでもしないと、慧くんの人生は守れない」
訝しがる品川と佐々木に言い残し、彼女は再び殺風景な部屋を後にした。
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