偽りの勇者

鷲野ユキ

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第二章

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慧について知るには、もう一か所向かうべき場所があった。彼のバイト先、アスカビル2階の創作和食の店『ともしび』
営業までまだちょっと早かったが、目的地は駅のそばだ。地方や観光地ならともかく、都内の、しかもそこそこ大きい駅のそばにはパーキングなどあまりないというのがセオリーだ。
またコインパーキングを探すのに時間がかかるのは億劫だ。そう思って彼女はこのまま駅を目指すことにした。けれど心配は杞憂に終わり、すんなりと駐車できたが今度は時間が余ってしまった。
腕の時計は16時を指している。店の開店まであと1時間。そこで聡子は思い余って佐々木に電話を掛けた。レイプ犯の死について調べてくれたのは彼だ。検死結果を聞くなら、彼を通した方が早かろう。
何度目かのコールの後、気怠い声で佐々木が出た。『設楽さん、なんですか今僕忙しいんですけど』
「レイプ犯の件なんだけど」
『ええ、ちゃんと僕調べたじゃないですか』
「うん、ありがとう。そうなんだけど、直接司法解剖した人に話しがしたくて。どこに電話すればわかる?」
『あの内容信じてないんですか?犯人は自殺したって』
「だって、公園から逃げ去る影を見た人がいるっていうから」
『うーん……。自殺を前提に司法解剖したようですから、今更聞いたところでって気はしますけど。ああ、あった。この人です、東京医科大八王子の大木宗雄先生』
「大木先生ね、ありがとう佐々木くん。東医に電話してみるわ」
『焼肉、デザートもつけてくださいよ』
「わかった。じゃあ来週の金曜にでも」
そう言って聡子は一度電話を切ると、今度は病院へと掛け直す。
代表番号に大木医師に取り次ぐように依頼をする。だがおそらくすぐには捕まるまい、さて折り返し待ちに何をしてようかと思っていた矢先、当の大木先生が電話に出た。念のため自分の名前を出したのが効いたようだった。
『ああ、どうも設楽君。久しぶりじゃあないか』
「どうも御無沙汰しております」
聡子は、大木医師とは何度か会ったことがある。直接何か話をしたわけではなく名刺を交換した程度のことであったが、彼はそれを覚えていてくれたらしい。
『で、どうしたんだね急に。君から私に電話とは、ちと想像がつかないんだが』
受話器の向こうからは困惑した空気が伝わってきた。確かに彼と私では、専攻分野が異なる。そう思われても不思議はなかろう。だから聡子は今回の件をかいつまんで説明し、
「なのでそのレイプ犯の死亡の際の状況を再確認したいのです」と告げた。
『君がそこまでする必要があるのか……?いやまあいいだろう、司法解剖の結果だったな。ちょっと資料室に行って折り返すから待っててくれ』
そうして数分後、聡子の携帯電話が鳴った。
『ああすまん。まあ最初に出したとおり、ほぼ自殺で間違いないだろう。右手で持った刃物で、左から右にこう刃で首を切っている。この仏さんは右利きだった。それは間違いない。頸動脈を損傷し、出血多量で死亡だ。切り口も、右手に持っていた刃物と一致した。ナイフにしては刃渡りの長い、ちょっと変わったやつだったな』
「そうですか……」大木医師がそう言うなら間違いないだろう、そうは思うものの、釈然としないものが残る。そんな聡子の意図をくみ取りでもしたのだろうか、大木医師はこうも続けた。
『そうだ、一点気になる点があってな。この遺体、右腕に痣があるんだ。ちょうど肘のあたりかね、そこに。大方どこかで打ったんだと思うんだが、もし他殺を疑いたいのなら、誰かが後ろから刃を持つその右腕の肘をつかみ、無理やり首を切らせたのかもしれん。だが明瞭につかまれた指の跡が残ってるとかならともかく、一か所小さな痣がある程度だ。状況から考えても他殺は微妙なところじゃないかね』
それは可能なのだろうか。後ろから肘をつかみ、首をかき切らせる。
だが、相手は性行為に夢中の状態だ、体制も不安定だろう。たとえば、被害女性に馬なりになっている態勢。刀を持った手も地面につき身体を支え、執拗に腰を打ち付ける。
その状態で右腕を急に取られたら、左手だけで身体を支えられただろうか。あるいは驚きで崩れやしなかったか。その、バランスを崩し、女の身体に倒れ込んだその瞬間を狙えば、それは可能なのではないだろうか。
だが、彼は言っていた。勇者は腰に刀のようなものを差していたと。けれどレイプ犯の命を絶ったのは、自身の持っていたナイフだと言う。ならば慧くんは何を刀と見間違えたというの?
「そうですか、ありがとうございます」丁寧に礼を述べ、彼女が電話を切ろうとすると、最後に『設楽君、真実を知りたい気持ちもわかるが、あまり領分を越えないほうが身のためだぞ』と大木に釘を刺されてしまった。それはそうなんだけど、でも。
もやもやとした気持ちのまま彼女は通話終了ボタンを押した。16時20分。さて、あと40分、どうしたものか。

              *

仕方なしに、彼女は駅ビルで時間を潰すことにした。
こんなことならパソコンでも持ってくれば良かったわ。そしたら今日の報告書、今書けたのに。
喫茶店に入るにはお腹も空いてなければ喉も乾いていなかった。なにしろこの後慧くんおすすめの料理たちが待っているのだ。なので何とはなしにショッピングフロアをうろうろする。
気がつけばもう世の中はクリスマスムードらしく、やたらとツリーが飾られていた。
クリスマス。当然ながら予定はない。いや、仕事という予定は入っているけれど。
最初の方こそやれ彼氏はだの、子どもはだのと言ってきた聡子の両親であったが、いざ兄が結婚し、しかも嫁と一緒に同居してくれて、その上孫まで出来るとさすがに満足したらしい。その後はピタリとなにも言わなくなってきた。
聡子は一応律儀に正月くらいは帰省するようにしていたが、最早彼らの関心事はアイドルである孫だ。聡子が居ようが居まいが、それすら関心はなさそうであった。
確かに、今年3才だか4才になるあの女の子は可愛かろう。
けれどバタバタ走るわ、自分の思い通りにいかなければギャアギャア喚くわ、まるで分別のない獣のようだった。個人的にはあれといっしょに生活しろと言われたら声を大にして叫ぶだろう、勘弁してくれと。
それと一緒に生活できている自分の親もすごいけれど、それ以上に兄の奥方には頭が上がらない。あんな田舎に押し込められて、それでも幸せな彼女には。ねえあなたは本当にそれでよかったの?そんな風に思ってしまうのは、自分の親を押し付けた後ろめたさもあるのかもしれないが。
そうだ、彼らにプレゼントの一つでも買ってあげてもいいのかもしれない。会うのは正月だが、なに数日しか変わらないのだ。いつもありがとうね。そのくらいの感謝を伝えたっていいだろう。
本当は伝えても伝えきれないほどだ。でも逆に気を遣わせてもいけない。急にお義姉さんがプレゼントを下さったのだけど、何かお返ししなくては。そう思わせてしまったら台無しだ。
そんなことを考えながらうろついてみるものの、なかなか手ごろなものが見つからない。好意というものは難しい。行き過ぎれば押し付けになってしまう。彼をカワイソウと思うあの学校の人々のように。
ならばいっそ、彼女の身近な人間に聞くべきか。兄か母のどちらに電話を掛けるか迷い、母にした。こんな時間だ、兄は仕事だ。それに同性の方がこういったものは得意だろう。
駅ビルの隅のエレベーターホール。人けの少ないそこでコールを鳴らせば、数コールで母親が出た。『どうしたんだい聡子。仕事じゃないのか?』
最初に出た言葉はそれだった。なによ、せっかく娘が久しぶりに電話したってのに、第一声がそれ?なんだかガッカリしてしまって、聡子はつい不機嫌そうに言ってしまう。
「別に。ただ、来月末にはそっちに帰るから、何か買ってきてほしいものでもあるかなって」
『まあずいぶんと気が早いね。もしかしてあれかい?彼氏でも連れてきてくれるのかね?』
「そんなんじゃないけど、なんか……琴美さんにプレゼントでもあげようかって。お母さんたちの面倒、全部押し付けちゃってるから」
『あらずいぶんと殊勝なこと。そう思うならあんたもいい人見つけてこっち帰ってきなさい』
「お母さん、それは……」
『無理なんでしょう、知ってるわよ。まあ好きにしなさい。そうねぇ。琴美さん。琴美さんが、というより瑠奈ちゃんがなんだけど、犬を飼いたがってるのよね。ほら昔飼ってたでしょう?お兄ちゃん。その話をしたら、瑠奈もワンワン飼いたいって』
ずいぶん昔の話だ。あれは何歳ごろのことだったのだろう、聡子は明瞭には覚えてなかった。それに少なくとも今の聡子は犬は苦手だった。嫌いと言ってもいい。だからもしかしたら噛まれた思い出でもあったのかもしれない。そう尋ねれば母も兄も父も、そんなことはなかったと首を振っていたが。
「犬……ねぇ。でも飼いたいのは瑠奈ちゃんでしょう?私は琴美さんに何かあげたいんだけど」
『でも琴美さんもいいわねっていってたわよ。だからほら、ワンちゃんのゲージでもリードでも、なんなら飼育費用でもいいからあげてやれば喜ぶんじゃない?』
「お母さん……それ、ほんとはお母さんが飼いたいだけなんじゃないの?」飼育費用だなんて、ずいぶんと現実的なプレゼントだこと。いかにも母が好みそうな。
『まあ、そうなんだけど。けどみんな喜ぶと思うのよねぇ。だってねぇ、昔飼ってたワンちゃん。あんたも覚えてるでしょう?あんなにかわいかったのに近所のクソガキどもにいじめられて殺されちゃって。あたしはもう本当に悔しくて悔しくて』
受話器の向こうで、思わず瞳をうるわせた母親の姿が浮かんだ。
そうだ、あの時一番悲しがっていたのは母だった。リードを切られ、どこかに連れて行かれた形跡があった。必死に探した彼らが見つけたのは、見るも無残な愛犬の姿だった。『だからね、今度はちゃんとかわいがって、そりゃあもう大切にして大切にして、もうあんな目に遭わないようにしてやりたいの』
「でも―」
あのときだって、十分にかわいがってたじゃない、私なんかより。
そう言いかけて、言葉が胸でつかえて消えて行った。やだ、なんで犬なんかに嫉妬してるのよ、私。
「そうね、なら室内犬の方がいいのかもね、トイプードルとか、チワワとか」
『柴のあの子もかわいかったんだけどね、ミルコちゃん。ほんとうに、かわいそうに』
おいで、ミルコちゃん、いいこだからこっちにおいで。幼い声が頭に響いた。これは誰?兄ではなさそうだ、幼い女の子の声。
『まあそう言うことで、期待してるわよ。琴美さんも、瑠奈もお兄ちゃんも喜ぶと思うから』そこで電話が切れた。
気づけば時計は16時50分を指していた。
犬、ねぇ。そう言われても聡子は乗り気になれなかった。もっとこう、さりげなく示せる好意はないのだろうか。
仕方ない、自分で何か探せばいい。正月まで、まだ時間はあるのだから。
そう思い直して聡子は目指した。アスカビル2階『創作和食 ともしび』。
あんまり早く行くのも変に思われるかしら。仕事終わりにも早いこの時間。夕飯にしたって早すぎじゃない?あの人は何の仕事をしているのだろう。そんな風に思われやしないかしら。
目的の店の暖簾が出ていた。よかった営業しているようだ。ここまできてお休みだったら時間の無駄遣いにも程がある。インターネット上では営業日にはなっていたけれど、実際どうかなんてネットなんていう架空の情報世界、見てみなければ分かるまい。
基本的に忙しいゆえに外食の多い聡子だが(別に料理が出来ないわけではない、はず)、体質的に酒が飲めないので、こういった店に来るのは久しぶりだ。職場の飲み会でもあれば話は別だったろうが、あいにくそういう風習も時間もなかった。喜ぶべきか、悲しむべきか。
店内に入ると、かわいいけれどやる気のない女の子が迎えてくれた。「いらっしゃいませー」コンビニの店員だってもっと明るく出迎えてくれた気がするけれど。
高校生だろうか?制服の上にエプロンを着けただけの格好だ。最近の学校の規則については明るくないが、しかしここは飲食店。調理に携わらないにしても、それはちょっと、そう思うくらいにゴテゴテと色が塗りたくられ、飾り付けた爪先。髪の毛を纏めてくれてるだけでも及第点か。
まあ、おしゃれしたい年頃だってのは理解できるけど、ねえ。そのうち実家のわがままプリンセスもこうなってしまうのかしら。子育てって大変。
何名様ですか、こちらへどうぞ。
そんなお決まりの台詞を吐きながら、彼女は聡子をカウンター席に案内してくれた。
少し離れた席には、男性客が一人ビールグラスを片手にスマホを熱心にいじっていた。やっぱり女一人だと浮くかしら。うまく彼について聞くことができるといいのだけど。聡子は不安を隠しきれない。
カウンターから見える厨房には、瓜二つの男が二人働いていた。一人は人の良さそうな顔をして、でっぷりと出た腹をかかえている。もう一人は、顔はさほどもう一人とは似ていなかったが、その体つきは二人ともそっくりだった。
どういう関係かしら。慧くんは店長の話は良くしていたわね。料理を分けてくれて優しいのだと。ならばいかにも人の良さそうなのが店主だろう。ではもう一人は?彼から聞く話の登場人物にいたかしら。
「なにか飲まれますか?」
そんなことをすっかり考えていたものだから、この新たな登場人物にちっとも気がつかなかった。
無愛想な最初の女の子より、親しみを感じられる顔だちだった。制服ではない。ラフなパンツにざっくりとしたニットを着たその姿は、いかにも大学生な印象を受けた。
「え、ああ、そうね。ウーロン茶で」
「かしこまりました」
そうてきぱきと受け答えると、彼女は一度奥に引っ込み、すぐに飲み物を片手に戻ってきた。どうやらドリンクは厨房とは別の場所で用意しているらしい。聡子の前にウーロン茶を置くと、めざとく隣の男性のグラスが空になっているのに気がつき、次の飲み物を勧めている。
一方無愛想な女の子は、入り口の辺りでボーッと自分の爪をいじっていた。確かに彼女の愛想がもっとよかったならば、あの容姿は客寄せになったかもしれないけれど、けれどここはビルの二階。
そこに突っ立っていてもお客さんなんて前を通りやしないのに。せめて外に出て客引きをするくらいの気概を見せてくれないと。ああけれど、客引きって迷惑行為防止条例違反になるんだったっけ。そんなことをぼんやりと考えていたら、テキパキとした女の子の方が再び聡子に話しかけてきた。
「なにかご注文なさいますか?」
そこでようやく、聡子は自分がメニューすら開いていなかったことに気がついた。
やだ、なにこのおばさんボーッとして。そんな風に思われてなければいいけれど。
慌ててしまったのものだから、つい口を滑り出たのは「ビーフシチューを」という言葉だった。
「おいしかったですよ、ビーフシチュー」彼の声が頭の中でリフレインする。
けれど返ってきた言葉はこうだった。「ビーフシチュー、ですか。あいにくメニューにはございませんで……」申し訳なさそうに女の子が言う。
ないみたいよ、慧くん。あなたが食べたのは何だったの?
「ああ、1回だけ試しに作ったことがあるんだよ、鈴木さん」
けれどその声に答えたものがいた。厨房の、人の良さそうな男の方だった。もう一人は関心などなさそうに、隅の換気扇近くでたばこを吸っていた。
「でもあれ、お客さんには出してないはずなんだけどなぁ。いやだって、創作和食の店でいきなりビーフシチューだなんて言うもんだから、前に出したかと思って」
「単に店長が覚えてないだけなんじゃないですか?」
鈴木さんと呼ばれた女の子はそう笑いながら言うと、「ビーフシチューはないんですが、今晩は冷えますしね。温かいものだと、鍋焼きうどんもおすすめですよ」と聡子に勧めてくれた。
ここで、すんなりお勧めに従うのもアリだけど、今日ここに来た最大の目的を忘れてはいけない。そもそも、いきなり鍋焼きうどんなど頼んでしまったら長居がしづらい。ただでさえ酒の飲めない身で、こんな居酒屋風の店にいるのも肩身が狭いのに。そこで彼女は、カマをかけてみることにした。すなわち――、
「いえね、私の甥っ子がここでバイトしてるらしくって。高校生の男の子なんですけどね、ビーフシチューが美味しかったよ叔母さん、なんて言うものだから。てっきりメニューに載ってるのかと思って」と。
少し白々しかったかしら。これでうまく釣れてくれればいいのだけど。
けれどとっさに親戚と偽ってしまったけれど、彼は身内の話を彼らにどこまで話したのだろう。
両親がいないのは、彼らもニュースで見ただろう。しかし、親戚までまるでいないとは思わないのではないか。だからここに急に親族を名乗るものが現れても、そこまで不自然ではない、はず。
姪が殺されてしまって、甥も大変な目にあってるから、久しぶりにこっちに来てて。けれどいくら心配だからって、あんまりベッタリしてても疲れちゃうじゃない、あの子。もう高校生の男の子ですもの。もちろん私もあんなことがあってショックだったけれど、それ以上にあの子の方がショックでしょう。一人になる時間も必要だと思うのよ。だから前に教えてもらったお店に来てみたのよね。あんまり美味しい美味しいっていうものだから、ねえ。
そうとでも言えばなんとかなるだろう、大丈夫。
内心で自分をそう励ましてから聡子はこう続けた。「ごめんなさい、じゃあそうね、とりあえずだし巻き玉子と豆腐サラダを」あくまでも自然に。するとなにやら必死に思い出そうとしていた店主に思うところがあったらしい。
「ああ、そうでしたか。ええと、たしかあれは村上くんだったかなぁ、ビーフシチューを分けたのは。じゃあお客さん、もしかしてあの子のご親戚で?」
かかった!
「村上くん」。そう返した店主の言葉で、あっという間に空気が変わったのを聡子は見逃さなかった。上手に隠していたそれを、無遠慮に見つけられてしまったかのような不快感。だがそれに気づかないのだろうか、店主が続ける。
「大変な目に遭ったよなぁ、村上くん。お姉さんがあんなことになっただけでもつらいのに、ましてこんな……」
そこまで言いかけて、急に視線を店の入り口の方へと向ける。あの無愛想な女の子となにか関係が?そう聡子は穿ってみたものの、単に新しく客が来た為らしい。入り口の案内役の彼女は、気がつけばレジでなにやらゴソゴソしており、どうやら新たな客に気がつかないようだった。
「いらっしゃい!ほら、菊川さんご案内して」その声に急かされて、渋々といった感じで菊川と呼ばれた例の彼女が顔を出す。
「何名さまですか?こちらへどうぞ」
まるでそれしか言えないからくり人形のような彼女の声をきっかけに、この店を――細かく言えばここで働く人間をとりまく空気が、元に戻ったような気がした。再びそれを見ることは能わない。そういった無言の壁を作るかのごとくに。
せっかく話のきっかけを作れたのに。この状態でどうやって聞き出せばよいのだろう。成す術もなく、聡子は出された料理を黙々と食べる。
気がつけば時計は18時を指しており、パラパラと客も入るようになってきた。金曜の夜。無論混んでくれば、それこそ店の人間を捕まえて、根掘り葉掘り聞くのも悪いだろう。
なにせ今の聡子はただの客だ。彼女は必死に慧の親戚の叔母を演じてみたものの、けれど店から見ればやっぱり単なる客だ。困ったわ、どうしよう。せっかくうまくいくと思ったのに。
けれど天は見放さなかったようだ。うちひしがれる聡子に、思わぬ助け船が寄越された。先から店にいた一人の男性客。その彼が、聡子と店主の会話を聞いたのだろう。こんな風に話しかけてきた。
「ああ、あなた。そうそう、あんたです、あんた。なに、あの子らの親戚だって?大変だったねぇ。かわいそうに」
「はあ、どうも。ええと……あの子をご存じで?」
何杯目かは知らないが、どうにもほろ酔い気分らしい。少々ろれつの回らない様子で、恰幅のよい身体をピチピチのスーツで包んだ紳士が彼女に話しかけてきた。
「おう、知ってるさぁ。俺ぁこれでもここの常連でな、なぁマスター」
「ええ、はい。いつもごひいきにしてもらってます」
急な酔っぱらいの声掛けにも対応するあたり、ここの主人の態度の良さが窺えた。調理の手は止めずに、視線をこちらに投げかけながらそう答える。
せっかく店主があれでも、接客があれじゃあね。そう思い聡子は思わず菊川の姿を目線で探したが見つけられなかった。どこに行ってサボってるのかしら。そう思いつつ、これはチャンスだとも考えた。そうよ、お客さんだって普段の慧くんを知る手だてになるじゃない。
「あの子はなぁ、よく働いてたよなぁ。山になった皿を片して、マスターの手伝いもして。なあ、あんなことになっちまって、いなくなっちまったのは痛いよなぁ」
「また戻ってきてくれると思ってはいるんですが、けど事情が事情ですしねぇ」
マスターと呼ばれた店主が、やや声を潜めがちにそう返した。その姿を、似たような体つきの男がじろりと睨む……いや、気のせいだったのかもしれない。けれど聡子には睨んでいるように見えた。それは彼の学校での出来事がそうさせただけなのかもしれなかったが。  
両親を殺されて、姉まで殺されるようなやつなんて、バチが当たるような悪いことしてたんじゃないのか?そんなやつにまた来てなんか欲しくないんだけど。そんな風にその瞳は言っているような気がした。
けれどそんな視線になど気が付かない、酔っぱらいの常連の話は続く。
「あの兄ちゃんな、見た目も良かったしなぁ。けどあんまり接客むきじゃあないね、シャイというか。そんならあの無愛想だけど美人の子いるだろ?ああ、あの子。ならいっそあの二人でくっついちまったらお似合いなんじゃないかっていったらさぁ、まあその美人さんにめちゃくちゃキレられたんだわ。あんなネクラありえないって。そこまで言わなくてもって思ったけど、まあ過去にいろいろあったそうじゃないか。そりゃあ明るい性格にはならんよなぁ」
「はぁ」
勝手に盛り上げられて、そして一方的にけなされる。聡子は慧を不憫だと思ったが、逆にそれは菊川の照れ隠しだったのだろうか。はたしてそれが本当かどうかは、本人にしかわからぬことだろうが。
「そうなんだよなぁ。この店はもっと愛想よくしないと。俺の相手してくれるのなんて鈴木ちゃんくらいなんだから。なぁ、鈴木ちゃん。君のおかげでこの店は持ってると言っても過言ではない!君はこの店のアイドルだ!」
「あはは、ありがとうございます、工藤さん」
酔っぱらいの言葉に如才なく対応する。ニコニコと笑みを振りまいて、彼女は酔いどれの手元にチェイサーを置いて去って行ってしまった。確かにその彼女なしでは、この店の経営は厳しいだろう。聡子もそう思った。
「工藤さん、飲みすぎですよ。今日はこの辺で……」
これ以上余計なことを喋られぬよう、店主が常連客をたしなめた。そうして、再びレジに引き込もってしまった菊川の方を気遣わしげに見やる。聞こえてなければいいのだが。けれどこの酔っぱらいめ、大きな声で喋るもんだからすっかり筒抜けじゃあないか。
「なんだ、まだ三杯目じゃないか。俺はたくさん飲んでこの店に金を落としてやりたいのよ」
けれど彼の牽制など意にも掛けず、彼はもっともらしいことを言って話を続けようとする。
「大変らしいじゃないか、オタクも。奥さんは倒れたままだわ、バイト君はまるで呪われてるようだわ。じゃなきゃフツー、姉貴をバラバラにされます?ないでしょ。まあこの店の将来が心配でならないわけですよ、この私は」
そう言って常連客は先ほど鈴木が持ってきた水で唇を湿らせると、
「けれどねぇ、ほんとかわいそうにねぇ。あの子は元気かい?まあ元気なわけないよなぁ。かわいそうになぁ」と同じ言葉を繰り返す。
もはや誰と話しているのかも怪しいが、どうやら自分に同調を求めているようだったので「そうですね」と聡子は適当に相づちを打っておく。それで彼は満足したらしく、プイと聡子から視線をはずすと、再びスマホをいじり始めてしまった。
それくらいの関心ごとなのだろう。行きつけの店のバイト君が、悲惨な出来事に出くわしたことなんて。
けれど彼のここでの仕事ぶりは客から見ても高評価のようだ。人間関係はちょっとゴタゴタしていたようだけど、どうやら上手くやっていたようだった、今までは。
出された料理は美味しかった。けれど一人でサラダなど頼むものではない。べつに少食を気取っているわけではないが、もういい年だ、若い頃のようには食べられない。豆腐でお腹が一杯になっちゃったのが敗因だわ。そんなことを思いながら、聡子は店を出ることにした。
会計の際、例女の子に睨まれた気もしたが、それは仕方がないようにも思えた。
もし本当に気があるのだとしたら、そんな話人に聞かれて嬉しくないでしょうし。本当に嫌いなのだとしたら、その身内だって不快に思うのかもしれない。
そして今の私は、あの子の叔母さんだもの。そりゃあいい気持ちはしないでしょう。
彼自身はどう思っていたのだろう。ネクラなんて。けれど照れ隠しだとしてもあんまりじゃない?確かにシャイだとは思うけど。仮にそうだとしても、原因はあなたの過去のせいなのに。
あなたにだって、青春を謳歌する権利があったはずなのに。
焦りが聡子を襲った。本当は時間かけて対応すべき問題だ。そう認識はもちろんしていたが、けれど無事解決したところで彼の戻る場所がなければ意味がない。
少々荒治療かも知れないけれど。聡子は決心した。いつまでも逃げてちゃダメなの、慧くん。現実に向き会わなければ。その為には。
明日、もうこの堂々巡りを断ち切ってしまおう。彼が何を見たのか。犯人である〈勇者〉は何者なのか。思い出してもらうために。
彼女はそう決心し天を仰ぐと、コインパーキングへと歩いて行った。
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