14 / 28
第二章
7
しおりを挟む
「佐々木くん、ちょっと一緒に来てくれる?」
翌朝、聡子は部署に顔を出すなりそう言い放った。「へ?いや僕朝の業務処理すらしてないんですけど」
ポカンと口を開ける佐々木だったが、そんなこと構っていられなかった。私一人より二人の方がいい、そう聡子は判断した。その方が説得力があるからだ。本当は品川の方が頼もしかったが、子犬を抱えてこられてはたまったものではない。
「そんなの後でいいから!」
「えっぜんぜんよくない公判明日だしすること沢山なんすけど」
事件に大きいも小さいもない!もしこれがドラマならそう怒られてしまいそうだけれど、けれどこの世の中、すべてをきれいに片付けるのは不可能だ。優先順位、取捨択一。
そうやって私たちは生きてるんじゃない。だって佐々木くんの相手なんて、ただの露出狂じゃない。そんな狂人の相手などしてる場合じゃない。
「いいから来て!」
そう言い放って聡子は慧の部屋を目指した。視界の隅で、困惑した佐々木がそれでもしっかりついてきているのを確認しながら。
そうそう、先達には従うべき。いい心がけじゃない。
彼女はまるで時が止まってしまったかのような、あの白い部屋へと足を急がせた。
聡子と佐々木が村上慧の部屋を訪れると、彼はぼんやりと天井を見つめながらベッドに腰かけていた。今の彼には何が見えているのだろう。依然として白い寝巻き姿のまま、手にはハンカチを握り締めていた。
「慧くん、おはよう」
ノックするなりそう言いながら部屋に入ってきた聡子らに対し、彼は驚きと困惑の表情を浮かべながらこちらを振り向いた。
「おはよう?こんばんはじゃなくってですか?だって9時ですよ、21時。することもないし、今日はもう寝ようと思ってたんですが……」
そう言う声には非難の色が含まれていた。
彼の目線を追えば、壁に掛けられた時計が確かに9を指していた。なるほど夜の21時では、そう非常識な人間を見る目付きで見られても仕方がないのかもしれない。けれど。
「え、まだ朝ですよね?朝の9時」
もっと困惑していたのは佐々木だった。いやだって俺、出勤してからいきなり無理矢理連れてこられたんだよな?思わず自身の腕時計を凝視している佐々木の姿が目に入った。
「そうよ、慧くん。まだ朝の9時よ。こんな時間に寝てたら夜中に目が覚めて困るんじゃない?」
「いや、刑事さんこそ何言ってるんですか。大体朝の9時にのんきに寝てなんかいられるわけ……学校だってあるのに」
そう言って彼はなかなか聡子の言い分を聞こうともしない。
ああ、この部屋に窓がないばっかりに、こんなことになってしまったのかもしれないわ。
人間の意識にとって、時間の経過というものが、どれだけ大切なことか。
けれどいきなり真実を伝えたところで、今の彼には伝わらないと言うことが良くわかった。あなたにとっての現実は?真実は?
「そう……信じてもらえないなら仕方がないわ。でも仮に今が夜だとしても、それでもあなたに是非会わせたい人を捕まえてきたから連れてきたの」早々に時間の話を切り上げて、聡子は本題に移った。そうね、こんな時間に長居をしたら悪いもの。
後ろでこのやり取りをもて余していた佐々木の腕を引っ張り、聡子は彼を慧の前に連れ出した。
「こ、こんにち……ええと、こんばんは」急な展開に動揺したのか、いつものふてぶてしい態度はどこ吹く風である。
自分よりはるかに年下の少年に、こんなにオドオドしちゃって、もう、頼りないんだから。
「……こんばんは。あの、失礼ですがどちら様ですか?捕まえた、だなんて。まさかこの人が勇者だとか言いませんよね?」
慌てる佐々木に対して、慧はいたって冷静だった。
「仮にそうだとしても、あんまり強そうじゃない。この人にはヒトなんて殺せそうにもない」
「はあ、確かに僕はよく虫も殺せそうにないわね、って言われますけど」
「殺せなくて大正解よ。だって彼も刑事だもの」
「えっ?いや、僕」
「この人も?あなたと同じ刑事さん?じゃあ、もしかして」
「そう、あの事件現場にいた刑事の一人よ。あのときどんなやり取りがあったのかを教えてもらうため、連れてきたの」
「ああ、あなたが……姉を犯罪者扱いした刑事さんですか。そんなに勇者のすることは絶対なんですか?」
「えっ??ええっ!?」
あからさまに怒りを露にした慧に対し、佐々木は終始驚きっぱなしだった。
しまった、もうちょっと打合せしてから来るんだったわ。それにしても佐々木のやつ、大根役者にもほどがある!
「慧くん、落ち着いて。ごめんなさいね、彼は下っ端だから詳しくは知らされていないの。その、勇者について」「えっ設楽さん下っ端って」
「けれど電話で報告してましたよね?被疑者死亡って。茜姉は犯罪者なんかじゃないのに」
「ええ、もちろん彼女は犯罪者なんかじゃない。被害者よ」
「なら、なんでそんなことを」
「そんなこと誰も言ってませんよ!」
ようやく聡子の思惑を理解してくれたようである佐々木が、それでもとんだ役割を押し付けられてなるものかとばかりに叫んだ。
「あの場に居合わせた人間全員に聞いて回りましたけど、そんなこと誰も言ってません。僕たちだって茜さんのことは被害者だと思って調べてるんです」
「でも」
「デモもストもありません。このくそ忙しいのに確認しろって設楽さんが言うから。全員捕まえて聞くの大変だったんですから」
「……それは本当ですか?いや、嘘に決まってる。だって俺は確かに聞いたんだ」
「慧くん。彼は下っ端だけどこれでも真面目でね。嘘はついてないわ。むしろ嘘つきは私」
「刑事さんが?」
「結果的にはあなたを混乱させてしまっただけかもしれない。けれどあなたと話すには、とりあえずその存在を認めなければならなさそうだったから」
「何を言ってるんですか?何のことを」
「あのね、慧くん。〈勇者〉なんていないの」
聡子は両手で慧の方をつかみ、目をそらさずにこう言った。
「警視庁に、勇者課という部署もないのよ」
「そんなバカな。だって、教科書にだって載ってるじゃないですか!」
半ば叫び声に近いような声で慧は叫んだ。
だって俺だって半信半疑だったんだ、けれど河野も田中も勇者を知ってたし、ああそれにクラスの人気者の水野だって、〈真の勇者〉に興味津々だったじゃあないか。
それに社会の教科書の、近現代の日本の法律一覧のページ。そこに俺は確かに見たはずなんだ。ええと、なんだっけ。長ったらしくて覚えにくい法律のあの名前は。
「その教科書はどれ?どんなふうに載っていたの?」
「ええとじゃあ、教科書出しますね。……あれ、俺どこやったっけ、通学バッグ」
聡子の催促に、慧はいつも通学で使っていた鞄を開けようとした。
今日やったばっかりだ、社会の授業、社会革命。18世紀。近代化。
けれどどうやっても鞄が見つからない。ああもう、いくらすぐ物を失くすからって、あんなものまで失くすか?フツー。
「すみません、ちょっと失くしたみたい……いや、学校かな、それともバイト先かな。置いてきちゃったみたいで」
「学校?バイト先?設楽さんこれって……」
「大丈夫。私に任せて」
不安げに顔色を窺ってくる佐々木にそう声をかけ、聡子は考える。
ショック療法に今の彼は耐えられるだろうか。けれどこのままでは埒が明かないのも確かだ。
どうせ彼に合わせたところで、いずれボロが出るのは目に見えている。
だって、〈勇者〉だなんて。結局何が原因なのかさっぱりわからない。
知っているのは彼だけだ。勇者を見たのも彼だけだ。
いや、レイプ犯を殺害したのは勇者なる誰かなのかもしれない。現に聡子はその誰かが逃げ去る姿を見たという人の話を聞いてきた。
けれどその誰かは、間違っても警視庁勇者課などという部署には所属していないはずだ。
だって、そんな部署などないのだから。
すいません、勇者課に用があるんですけど。
そんなこと言って警視庁を訪れようものなら、鼻で笑われるか、それこそ私たちのところに回されてくるかのどちらかだわ。
「慧くん。あなたは今日学校に行ったのよね?」
この突然の質問に、慧は困惑したようだった。なにを当たり前のことを聞いてくるのだろう、この人は。そんなオーラを出しながら、彼は「ええ」とうなずいた。
「それにバイトも行ってきた。疲れて帰ってきて、もう夜中の1時だ。なんでこんな時間にこの人たちは来たんだろう。そう思ってる?」
「いや、まあ……刑事さんが俺に会わせたい人がいるっていうから、仕方ないかなとは思いましたけど。けど、この人俺が嘘言ってるみたいなこと言ってくるし。正直迷惑以外のなんでもありません」
「ええっ……僕ホントのこと言ったのに……」
「いいから黙ってて」
「ええっなんで僕連れてこられたの」
「いいから」「はぁ」
「じゃあ私たちの言っていることがホントかどうか、見せてあげる。慧くん、外に出ましょう」
「嫌ですよ、こんな時間に。俺もう寝ようと思って着替えたのに」
「そうね、寝間着のままで外に出るのはあまりお勧めしないわね。なら、その扉を開けるだけでもいい。その、白い扉を」
「はあ、玄関の扉を開ければいいんですか?まあそれくらいなら」そう言って彼は聡子の妥協案に乗った。
何を訳の分からないことを言ってるんだろう、このおばさん。そんな態度を隠そうともせずに。
そうして彼は扉を開いた。開いた先に、暗く冷たい世界が広がっていると信じて疑わずに。
けれど見えたのは、白い壁だった。
あれおかしいな、工事でもしてるのだろうか。玄関の扉を開いたら狭い廊下があって、その手すりは赤茶けて錆びまくっていたはずだ。今にも壊れそうで手すりの意味がないんじゃないかと常々思っていた。
ならばその手すりの改修工事でもしているのだろうか。こんな、すべてがボロいアパートの、そんなところだけ修理したって今更入居者も増えないだろう。何を酔狂なことを大家は始めたのか。
「なんだ、いつの間に工事なんか始めたんですかね。妙に白い……工事にしてはしっかりした壁ですけど……なんで急にこんなこと」
「工事?」
「だって、部屋の外にこんな壁なんてありませんでしたし……そうです、さっき帰ってきたときは……あれ?でも変ですよね、こんな時間から工事始めるなんて」
ようやく彼は、この違和感に気が付いたようだった。
あと少し。いい加減、現実に向き合ってもらわなければ。それは彼の為でもあるのだから。
「慧くん、ちょっと」
そう言って、気を急いた聡子は慧の手を引っ張った。
「え、ダメですよ俺スリッパのまま……あれ、玄関は?靴はどこ?」
そういえば刑事さんたち、土足のままじゃないか。海外のホテルじゃあるまいし。なんて礼儀のなっていない、失礼な人たちなのだろう。
けれどおかしいな、玄関がない。
茜姉がヒールを脱ぎ散らかした、あの狭い玄関。
一応備え付けられていた靴箱からも溢れ出して、そこいらに散乱していた歩くのに適さない靴たちは。どこに行ったというのだろう。
キョロキョロと足もとを見回す慧をよそに、聡子は彼にこう尋ねた。
「これでも外に見える?」白く広がる壁を示して。
「あれ?なんでこんなに広いんですか?おかしいな……」
思考のついてゆけない彼を、聡子はさらにその手を引いて白い廊下を進んでいく。少し歩けば決して広いとはいえない、採光の為だけにつけられた窓のそばまでたどり着く。
闇しかその先に広がらないはずのその窓からは、眩しい朝の光が差していた。
「あれ、なんで……なんで今明るいんですか?それに、ここはどこですか。俺の家は?なんで俺、いつの間にこんなとこに?」
何が何だかわからなかった。俺は自分の家にいて、もう寝ようとしていたのではなかったか。
だというのにここはどこだ。なぜ光が差している?なんだか刑事さんが必死の形相で俺に話しかけてくる。ああ嫌だ、聞きたくない。なぜだか慧はそう思った。
聞かれたところで俺にだって分からないのに。嫌だ嫌だ、思い出したくない、わからない。俺が知っているわけがないのに。そんなの俺が教えてほしいくらいなのに。
「慧くん、お願いだから目を覚まして。勇者なんて、どこにもいないのよ」
翌朝、聡子は部署に顔を出すなりそう言い放った。「へ?いや僕朝の業務処理すらしてないんですけど」
ポカンと口を開ける佐々木だったが、そんなこと構っていられなかった。私一人より二人の方がいい、そう聡子は判断した。その方が説得力があるからだ。本当は品川の方が頼もしかったが、子犬を抱えてこられてはたまったものではない。
「そんなの後でいいから!」
「えっぜんぜんよくない公判明日だしすること沢山なんすけど」
事件に大きいも小さいもない!もしこれがドラマならそう怒られてしまいそうだけれど、けれどこの世の中、すべてをきれいに片付けるのは不可能だ。優先順位、取捨択一。
そうやって私たちは生きてるんじゃない。だって佐々木くんの相手なんて、ただの露出狂じゃない。そんな狂人の相手などしてる場合じゃない。
「いいから来て!」
そう言い放って聡子は慧の部屋を目指した。視界の隅で、困惑した佐々木がそれでもしっかりついてきているのを確認しながら。
そうそう、先達には従うべき。いい心がけじゃない。
彼女はまるで時が止まってしまったかのような、あの白い部屋へと足を急がせた。
聡子と佐々木が村上慧の部屋を訪れると、彼はぼんやりと天井を見つめながらベッドに腰かけていた。今の彼には何が見えているのだろう。依然として白い寝巻き姿のまま、手にはハンカチを握り締めていた。
「慧くん、おはよう」
ノックするなりそう言いながら部屋に入ってきた聡子らに対し、彼は驚きと困惑の表情を浮かべながらこちらを振り向いた。
「おはよう?こんばんはじゃなくってですか?だって9時ですよ、21時。することもないし、今日はもう寝ようと思ってたんですが……」
そう言う声には非難の色が含まれていた。
彼の目線を追えば、壁に掛けられた時計が確かに9を指していた。なるほど夜の21時では、そう非常識な人間を見る目付きで見られても仕方がないのかもしれない。けれど。
「え、まだ朝ですよね?朝の9時」
もっと困惑していたのは佐々木だった。いやだって俺、出勤してからいきなり無理矢理連れてこられたんだよな?思わず自身の腕時計を凝視している佐々木の姿が目に入った。
「そうよ、慧くん。まだ朝の9時よ。こんな時間に寝てたら夜中に目が覚めて困るんじゃない?」
「いや、刑事さんこそ何言ってるんですか。大体朝の9時にのんきに寝てなんかいられるわけ……学校だってあるのに」
そう言って彼はなかなか聡子の言い分を聞こうともしない。
ああ、この部屋に窓がないばっかりに、こんなことになってしまったのかもしれないわ。
人間の意識にとって、時間の経過というものが、どれだけ大切なことか。
けれどいきなり真実を伝えたところで、今の彼には伝わらないと言うことが良くわかった。あなたにとっての現実は?真実は?
「そう……信じてもらえないなら仕方がないわ。でも仮に今が夜だとしても、それでもあなたに是非会わせたい人を捕まえてきたから連れてきたの」早々に時間の話を切り上げて、聡子は本題に移った。そうね、こんな時間に長居をしたら悪いもの。
後ろでこのやり取りをもて余していた佐々木の腕を引っ張り、聡子は彼を慧の前に連れ出した。
「こ、こんにち……ええと、こんばんは」急な展開に動揺したのか、いつものふてぶてしい態度はどこ吹く風である。
自分よりはるかに年下の少年に、こんなにオドオドしちゃって、もう、頼りないんだから。
「……こんばんは。あの、失礼ですがどちら様ですか?捕まえた、だなんて。まさかこの人が勇者だとか言いませんよね?」
慌てる佐々木に対して、慧はいたって冷静だった。
「仮にそうだとしても、あんまり強そうじゃない。この人にはヒトなんて殺せそうにもない」
「はあ、確かに僕はよく虫も殺せそうにないわね、って言われますけど」
「殺せなくて大正解よ。だって彼も刑事だもの」
「えっ?いや、僕」
「この人も?あなたと同じ刑事さん?じゃあ、もしかして」
「そう、あの事件現場にいた刑事の一人よ。あのときどんなやり取りがあったのかを教えてもらうため、連れてきたの」
「ああ、あなたが……姉を犯罪者扱いした刑事さんですか。そんなに勇者のすることは絶対なんですか?」
「えっ??ええっ!?」
あからさまに怒りを露にした慧に対し、佐々木は終始驚きっぱなしだった。
しまった、もうちょっと打合せしてから来るんだったわ。それにしても佐々木のやつ、大根役者にもほどがある!
「慧くん、落ち着いて。ごめんなさいね、彼は下っ端だから詳しくは知らされていないの。その、勇者について」「えっ設楽さん下っ端って」
「けれど電話で報告してましたよね?被疑者死亡って。茜姉は犯罪者なんかじゃないのに」
「ええ、もちろん彼女は犯罪者なんかじゃない。被害者よ」
「なら、なんでそんなことを」
「そんなこと誰も言ってませんよ!」
ようやく聡子の思惑を理解してくれたようである佐々木が、それでもとんだ役割を押し付けられてなるものかとばかりに叫んだ。
「あの場に居合わせた人間全員に聞いて回りましたけど、そんなこと誰も言ってません。僕たちだって茜さんのことは被害者だと思って調べてるんです」
「でも」
「デモもストもありません。このくそ忙しいのに確認しろって設楽さんが言うから。全員捕まえて聞くの大変だったんですから」
「……それは本当ですか?いや、嘘に決まってる。だって俺は確かに聞いたんだ」
「慧くん。彼は下っ端だけどこれでも真面目でね。嘘はついてないわ。むしろ嘘つきは私」
「刑事さんが?」
「結果的にはあなたを混乱させてしまっただけかもしれない。けれどあなたと話すには、とりあえずその存在を認めなければならなさそうだったから」
「何を言ってるんですか?何のことを」
「あのね、慧くん。〈勇者〉なんていないの」
聡子は両手で慧の方をつかみ、目をそらさずにこう言った。
「警視庁に、勇者課という部署もないのよ」
「そんなバカな。だって、教科書にだって載ってるじゃないですか!」
半ば叫び声に近いような声で慧は叫んだ。
だって俺だって半信半疑だったんだ、けれど河野も田中も勇者を知ってたし、ああそれにクラスの人気者の水野だって、〈真の勇者〉に興味津々だったじゃあないか。
それに社会の教科書の、近現代の日本の法律一覧のページ。そこに俺は確かに見たはずなんだ。ええと、なんだっけ。長ったらしくて覚えにくい法律のあの名前は。
「その教科書はどれ?どんなふうに載っていたの?」
「ええとじゃあ、教科書出しますね。……あれ、俺どこやったっけ、通学バッグ」
聡子の催促に、慧はいつも通学で使っていた鞄を開けようとした。
今日やったばっかりだ、社会の授業、社会革命。18世紀。近代化。
けれどどうやっても鞄が見つからない。ああもう、いくらすぐ物を失くすからって、あんなものまで失くすか?フツー。
「すみません、ちょっと失くしたみたい……いや、学校かな、それともバイト先かな。置いてきちゃったみたいで」
「学校?バイト先?設楽さんこれって……」
「大丈夫。私に任せて」
不安げに顔色を窺ってくる佐々木にそう声をかけ、聡子は考える。
ショック療法に今の彼は耐えられるだろうか。けれどこのままでは埒が明かないのも確かだ。
どうせ彼に合わせたところで、いずれボロが出るのは目に見えている。
だって、〈勇者〉だなんて。結局何が原因なのかさっぱりわからない。
知っているのは彼だけだ。勇者を見たのも彼だけだ。
いや、レイプ犯を殺害したのは勇者なる誰かなのかもしれない。現に聡子はその誰かが逃げ去る姿を見たという人の話を聞いてきた。
けれどその誰かは、間違っても警視庁勇者課などという部署には所属していないはずだ。
だって、そんな部署などないのだから。
すいません、勇者課に用があるんですけど。
そんなこと言って警視庁を訪れようものなら、鼻で笑われるか、それこそ私たちのところに回されてくるかのどちらかだわ。
「慧くん。あなたは今日学校に行ったのよね?」
この突然の質問に、慧は困惑したようだった。なにを当たり前のことを聞いてくるのだろう、この人は。そんなオーラを出しながら、彼は「ええ」とうなずいた。
「それにバイトも行ってきた。疲れて帰ってきて、もう夜中の1時だ。なんでこんな時間にこの人たちは来たんだろう。そう思ってる?」
「いや、まあ……刑事さんが俺に会わせたい人がいるっていうから、仕方ないかなとは思いましたけど。けど、この人俺が嘘言ってるみたいなこと言ってくるし。正直迷惑以外のなんでもありません」
「ええっ……僕ホントのこと言ったのに……」
「いいから黙ってて」
「ええっなんで僕連れてこられたの」
「いいから」「はぁ」
「じゃあ私たちの言っていることがホントかどうか、見せてあげる。慧くん、外に出ましょう」
「嫌ですよ、こんな時間に。俺もう寝ようと思って着替えたのに」
「そうね、寝間着のままで外に出るのはあまりお勧めしないわね。なら、その扉を開けるだけでもいい。その、白い扉を」
「はあ、玄関の扉を開ければいいんですか?まあそれくらいなら」そう言って彼は聡子の妥協案に乗った。
何を訳の分からないことを言ってるんだろう、このおばさん。そんな態度を隠そうともせずに。
そうして彼は扉を開いた。開いた先に、暗く冷たい世界が広がっていると信じて疑わずに。
けれど見えたのは、白い壁だった。
あれおかしいな、工事でもしてるのだろうか。玄関の扉を開いたら狭い廊下があって、その手すりは赤茶けて錆びまくっていたはずだ。今にも壊れそうで手すりの意味がないんじゃないかと常々思っていた。
ならばその手すりの改修工事でもしているのだろうか。こんな、すべてがボロいアパートの、そんなところだけ修理したって今更入居者も増えないだろう。何を酔狂なことを大家は始めたのか。
「なんだ、いつの間に工事なんか始めたんですかね。妙に白い……工事にしてはしっかりした壁ですけど……なんで急にこんなこと」
「工事?」
「だって、部屋の外にこんな壁なんてありませんでしたし……そうです、さっき帰ってきたときは……あれ?でも変ですよね、こんな時間から工事始めるなんて」
ようやく彼は、この違和感に気が付いたようだった。
あと少し。いい加減、現実に向き合ってもらわなければ。それは彼の為でもあるのだから。
「慧くん、ちょっと」
そう言って、気を急いた聡子は慧の手を引っ張った。
「え、ダメですよ俺スリッパのまま……あれ、玄関は?靴はどこ?」
そういえば刑事さんたち、土足のままじゃないか。海外のホテルじゃあるまいし。なんて礼儀のなっていない、失礼な人たちなのだろう。
けれどおかしいな、玄関がない。
茜姉がヒールを脱ぎ散らかした、あの狭い玄関。
一応備え付けられていた靴箱からも溢れ出して、そこいらに散乱していた歩くのに適さない靴たちは。どこに行ったというのだろう。
キョロキョロと足もとを見回す慧をよそに、聡子は彼にこう尋ねた。
「これでも外に見える?」白く広がる壁を示して。
「あれ?なんでこんなに広いんですか?おかしいな……」
思考のついてゆけない彼を、聡子はさらにその手を引いて白い廊下を進んでいく。少し歩けば決して広いとはいえない、採光の為だけにつけられた窓のそばまでたどり着く。
闇しかその先に広がらないはずのその窓からは、眩しい朝の光が差していた。
「あれ、なんで……なんで今明るいんですか?それに、ここはどこですか。俺の家は?なんで俺、いつの間にこんなとこに?」
何が何だかわからなかった。俺は自分の家にいて、もう寝ようとしていたのではなかったか。
だというのにここはどこだ。なぜ光が差している?なんだか刑事さんが必死の形相で俺に話しかけてくる。ああ嫌だ、聞きたくない。なぜだか慧はそう思った。
聞かれたところで俺にだって分からないのに。嫌だ嫌だ、思い出したくない、わからない。俺が知っているわけがないのに。そんなの俺が教えてほしいくらいなのに。
「慧くん、お願いだから目を覚まして。勇者なんて、どこにもいないのよ」
0
あなたにおすすめの小説
私の息子を“愛人の子の下”にすると言った夫へ──その瞬間、正妻の役目は終わりました
放浪人
恋愛
政略結婚で伯爵家に嫁いだ侯爵令嬢リディアは、愛のない夫婦関係を「正妻の務め」と割り切り、赤字だらけの領地を立て直してきた。帳簿を整え、税の徴収を正し、交易路を広げ、収穫が不安定な年には備蓄を回す――伯爵家の体裁を保ってきたのは、いつも彼女の実務だった。
だがある日、夫オスヴァルドが屋敷に連れ帰ったのは“幼馴染”の女とその息子。
「彼女は可哀想なんだ」
「この子を跡取りにする」
そして人前で、平然と言い放つ。
――「君の息子は、愛人の子の“下”で学べばいい」
その瞬間、リディアの中で何かが静かに終わった。怒鳴らない。泣かない。微笑みすら崩さない。
「承知しました。では――正妻の役目は終わりましたね」
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
初夜に暴言を吐いた夫は後悔し続ける──10年後の償い【完結】
星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
王命により、辺境伯ロキアのもとへ嫁いだのは、金髪翠眼の美しき公爵令嬢スフィア。
だが、初夜に彼が告げたのは、愛も権限も与えないという冷酷な宣言だった。噂に踊らされ、彼女を「穢れた花嫁」と罵ったロキア。
しかし、わずか一日でスフィアは姿を消し、教会から届いたのは婚姻無効と慰謝料請求の書状──。
王と公爵の怒りを買ったロキアは、爵位も領地も名誉も奪われ、ただの補佐官として生きることに。
そして十年後、運命のいたずらか、彼は被災地で再びスフィアと出会う。
地位も捨て、娘を抱えて生きる彼女の姿に、ロキアの胸に去来するのは、悔恨と赦しを乞う想い──。
⚠️本作はAIの生成した文章を一部に使用しています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる