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終章

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 オペラを観に行こうという。アンは快く快諾した。

「今夜観に行こう」
「え?今夜ですか?」

 そんなに早くとは思わなかった。アーネストが忙しく中々時間が取れないのは分かりきってはいるが、いくらなんでも急過ぎた。
 
「周りの者たちを困らせたくは無いわ。明日にしてはどうですか?」
「お忍びだからな。俺とアンとトビアスでいいだろう」
「ソニアは?」
「レイモンドの相手だ。ソニアと仲良いからなあいつ」

 視察で自分たちだけで出かけると、レイモンドはいつも駄々をこねる。三人で出かけたい気持ちはあるのだが、自分たちの階級クラス一処ひとところに寄って、万が一があってはならない。公式の行事ではなおさら、自分たちは分かれて参加することが多かった。

 ユルール侯国は狭い。港だけの国で、多くの者たちが雑多に集まる。アーネストはよく治めているが、どこにでも危険な場所はあるものだ。

 とはいえ、今日はオペラだ。しかも夜の公演。レイモンドは余計に連れていけない。ソニアは弟がいるから、レイモンドの扱いはお手の物だ。レイモンドもソニアを気に入っている。最近はアンの侍女ではなく、レイモンドの乳母のような位置づけとなっていた。

「ソニアなら私達が外出したのにも気づかせないように、レイモンドを寝かしつけるでしょう。分かりました。今夜ですね」
「いくつか演目があるが、どれがいい?」
「全部聴きたいわ」
「欲張りだな」
「全部観るまで、何度でも連れて行ってくださいね」

 アンの言葉にアーネストは微笑む。彼の差し伸べる手。大きな手。繋いで、離さなかった。

 


「動物園行かないか?」
「ええ、いいですね」
「今から行こう」
「今から?随分と急ですね」

 この前のオペラも今夜と言っていた。誘うのはいつも直前だ。

「せっかくだからレイモンドも一緒に連れて行こう」
「危険では?」
「貸切だ。護衛も付く」

 用意周到なことだ。いつの間に準備したのやら。

「まさか以前から決まっていたのですか?」
「たまたまだ。そもそも今日は休園日だった。展示の入れ替えの邪魔さえしなければ、好きに回っていいとさ」

 アーネストの目には隈が出来ていた。ようやく新薬の量産の目処がついて、はやり病スートラの終息に向けた希望が見えてきた所だ。内政をアンが補佐しているとはいえ、アーネスト一人の負担は大きい。休ませてあげたいが、彼がいなければ進まない仕事が山ほどある。周囲の為にも、アーネストが犠牲になる。

「やはり今度にしませんか?アーネスト様、お疲れのようですし」
「そうか?なんなら今が一番調子が良いくらいだ」
「仕事のし過ぎでハイになってるんですよ」
「ハイ?どこでそんな言葉覚えてきたんだ」
「誰でも使っていますよ」

 アーネストは、いや、と首を横に振った。

「下町の言葉だ。いいなそれ。他にも言ってくれよ」

 興味深げに、楽しそうに聞いてくるアーネストを見て、アンは重症だと気づく。本当に何でもない言葉を使っただけなのに、アーネストは今、正常な判断が出来ないでいた。

「アーネスト様、休みましょう?今日は天気が悪いですし、雨でも降って風邪を引いたら大変です」
「確かにそうだな」

 アーネストは窓を見て頷いた。外は雲一つ無い晴天だった。青空が見えていないのだ。やはりアーネストは疲れ切っている。かなり、まずい状態だ。

 アンはさり気なく背中を押して、寝室へと導いた。

「私も疲れました。一緒に休みましょう。ここずっと、貴方と寝ていないから寂しかったんです」

 ベッドまで行くと、抱きしめられる。大きな体に包まれて埋もれそうになりながら、アンも背中に手を回す。

「動物園…」

 名残惜しそうに言って、アンを困らせる。彼が動物園好きとは知らなかった。
  
 抱き合ったまま横になる。アーネストは目を閉じたまま、確かめるようにアンの背中を撫で上げる。

「動物園…」
  
 また言った。弱々しい呟きに、アンは目だけでアーネストを仰ぎ見る。ほとんどもう眠っていて、寝息が聞こえた。
 
「──植物園…美術館……博物館…」

 寝息に混じって、園と館の名のつくものを上げていく。奇妙な言葉遊びは尽きて、やっと本当に眠りにつく。変なものを見てしまった。本当にこの人は疲れているのだと、もっと休ませるように言わなくてはと反省しながら、アンも目を閉じた。
 



 丸一日眠り続けたアーネストは、起きるなりアンに言った。

「動物園に行こう」

 また言った。アンは半ば呆れていた。

「そんなに行きたかったんですか?昨日も眠りながら言ってましたよ」
「動物園だけじゃない。植物園、美術館、博物館も行きたい」

 昨日、寝言で列挙していたのはコレかと気づく。ベッドの中、甘えるようにアーネストは頬を寄せてくる。
 体調は?と聞こうとして止める。自己申告は当てにならない。

 カーテンの隙間から光が漏れていた。すっかり昼間らしい。

「アーネスト様、外晴れてますか?」
「あ?……晴れてるんじゃないか?」
「カーテン開けて見てきてください」

 アーネストは素直に見に行った。カーテンの向こう側を伺っている。

「雨ですか?」

 わざと聞いてみる。

「まさか。良い日和だ」

 カーテンが開けられる。宣言通り、快晴だった。

 アンは、ほっとした。一日で疲労が回復したとは思えないが、昨日よりはマシだ。あのまま動物園に行っていたら、途中で倒れていたかもしれない。

 ベッドに戻ってきたアーネストが、口づけを落とす。アンも舌を出して応える。どちらともなく離れると、アーネストに抱き締められる。彼は、アンの耳元でクツクツと笑い出した。

「どうしたの?」
「ずっと行きたいと思ってたんだ。去年は君の体が悪くて行けなかった。今年はどこでも行けると思うと、嬉しくてな」

 今年はとてつもなく忙しい日々なのだが、アーネストはそうは思っていないらしい。この人の基準はアンなのだ。つくづく愛されていると自覚する。
 
「貴方が私を愛しているように、私も貴方を愛しております」
「知ってる」
「聞いて。昨日の貴方は倒れそうなくらい疲弊していました。自覚が無いかもしれませんが、無理をしている貴方を見る私の気持ちも察してくださいね」

 アンの心配を和らげるように、アーネストは背中を優しく叩いてきた。赤ん坊をあやす仕草をして、アンの機嫌を取っているようだった。

「アン」
「はい」
「君がいると元気が出るんだ。無敵な気分になる」
「怖いこと言わないでください」
「どこが怖いんだ」
「私が無理させてるみたいじゃないですか」
いやされるって言いたかったんだが」

 うまく伝わらないものだな、とアーネストは呟く。

「とにかく、アンがいないと俺は死ぬ」
「重過ぎです。やめてください」
「難しいな。どう言えば伝わる?」
「伝わり過ぎです。十分分かってますから」
「じゃあ動物園」
「分かってます。準備して行きましょうね」

 休園日は昨日だったから、今日は一般の人たちも見に行っているだろう。ユルール侯国の主が、そんな所に家族連れで来たら大騒ぎになるだろうに。色んな懸念はあるが、今はアーネストの駄々を優先した。レイモンドよりも聞き分けのない夫は、誰よりも可愛らしいのだ。

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