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 馬で一日中、移動したせいだと言われた。まだ安定期でなく、無理に体を酷使したせいだとも。ぜんぶ自分のせいだった。

 医師が去ると、父と二人だけになる。マリアはベットから無理やり起き上がった。父が体を支えた。
「何をしてる。まだ寝ていろ」
「…帰ります」
「医者の話を聞いていただろう。安静にしていないと」
 マリアは首を横に振った。
「守る子もいないもの」
 口にしても、何も感じなかった。空虚感で満たされていた。
 父は肩を押してマリアを寝かせた。腹が傷んでマリアはうめいた。父が背中をさする。痛みに耐えながら、何も感じないはずなのに、何故か涙が流れた。

 父は部屋に鍵をかけた。軟禁状態になって、することもしたいこともなく、無為に時を過ごした。  
 体が回復した頃、父は母の墓に連れて行ってくれた。花を手向ける。隣には、新しい墓。何も記銘されていない墓石を撫でた。
 屋敷に戻ると、執務室に通された。椅子に座ると、父は机から一枚の書類を手にとってマリアに見せた。
「トマス・ガットンとの離婚証明書だ」
 父は低い声で言った。マリアの肩に手が置かれる。
「向こうの借金をこちらが請け負うと言ったら承諾した」
 マリア、と名を呼ばれる。ここに帰ってきて、初めて呼ばれたと気づく。
「ここにいなさい。一人というのは寂しいものだ」
「…お金は、必ず返します」
「そんなこと考えなくていい。まだ回復していないだろう。ゆっくり体を休めなさい」
「…ごめんなさい」
 父が抱きしめる。ぎこちなくて、やっとマリアは安心して身を委ねられた。

 季節が巡って、夏になった。マリアの身体の回復の為に、保養地で静養することになった。
 マリア自身、もう体調は回復したものだと思っていた。心配症の父が、有無を言わせずあれこれ勝手に手配していた。
「父さまも来るんでしょ」
「医師も同行させる」
「大げさです。もう全然平気なのに」
 父は無言になる。これと決めたら絶対に曲げない。頑固者なのだ。

 
 移動は船で行くことに。小さな島の保養地は、海で泳ぐ人もいるという。遠浅の、陽射しがたっぷりの、保養地にふさわしい場所だった。

 甲板に立って海を眺めていると、他の婦人たちの噂話が聞こえてきた。
 なんでもブラスト新王は、この度、王妃を迎えるらしい。既に遠い昔の記憶となっていたマリアは、気にはなったものの、もう自分とは関係ないものと思っていた。

 知り合いの別荘を借りたという。海沿いに建てられていて、どの部屋に入っても窓から海を見渡せた。海風が心地よく、窓を閉めていても海の匂いが漂ってきた。穏やかな気候で、朝でも夜でも過ごしやすかった。
 父と島の色々な場所を探索した。小さなお店を回ったり、路地を歩いたり、どこに行っても猫がいた。可愛らしくてマリアはすっかり猫に魅了されてしまった。
「父さま、うちにも猫を飼いたいわ」
「猫?馬小屋にいるだろう」
「ああいう馬のおもちゃじゃなくて、わたし用の猫が欲しい」
「駄目だ。屋敷を汚されてかなわん」
 可愛いのにという理由だけでは許してくれないらしい。けち、と悪態をつく。こんなやり取りをするくらいには、私たち親子の関係は回復していた。

 大げさな医者の検診のせいで、時々外に出ることを禁止された。もういらないのに薬も飲まされて、逆に毒になりそうだ。

 父は招待状を見せた。中身を確認する。
「仮面舞踏会?」
 思わず口にすると、あの夜を思い出した。
 そんな心情を知らない父は、既に話は通してあると言う。
「衣装もある。名乗らなくていいから気楽だろう。偶には楽しんできなさい」
「父さまは来ないの?」
「毎日年寄りに付き合う必要はない」
 マリアはあまり乗り気でなかった。でも、父の気遣いを無下にするのも憚られて、マリアは行ってみることにした。

 きらびやかで眩しい会場。でも中の音楽はしっとりしていて、踊っている人たちもゆったりとしていて、落ち着いた雰囲気だった。
 長く止めていたシャンパンを飲んでいると、殿方から手を差し伸べられる。誘いを受けてステップを踏む。他愛のない会話を楽しんで、曲が終わると別の方へ。
 あまり踊りすぎると疲れてしまうかも。マリアは二人目で一旦、止めることにした。
 庭にでも行こうと出口を探す、その瞬間だった。

 突然、手を握られる。あまりにも突然で、マリアはびくりと体を震わせた。
 男の人だった。黒の仮面を付けていた。そこから覗く青い瞳。見覚えのある顔の輪郭、細い顎、見間違えるはずが無かった。
「──ご婦人、私も一曲願えないだろうか」
 少し、緊張しているような声の震えだった。
 マリアは断ろうと思った。断ろうとして、ためらった。
 その一拍の遅れで、相手はマリアをいざなって踊りだしてしまった。遅れまいとマリアも足を動かす。
 しばらくは、どちらも無言だった。どう話せばいいか分からなかったし、相手もそうだろうと思った。自分は無言で去った。手紙も読まずに捨てた。マリアの意志は伝わっているはず。だからこそ、こうして彼が自分を誘うなんて信じられなかった。
「…驚きました」マリアはやっと声をかける。「まさかこのような所でお会い出来るとは」
「ずっと仕事をしていたから」彼がポツリと言う。「母が偶には休むようにと」 
「この度は…ご即位おめでとうございます」
 他に言い方が思い浮かばなかった。先王を早くに亡くしたことを思えば、あまり適切でないように思えた。
「君は、元気だったか?」
「──ええ、もちろん」
「離婚したと聞いた」
 ええ、とだけ答える。それ以上は明かさなかった。
「貴方様も、王妃様を迎えられるとか。喜ばしいことです」
「そんな話はない。私は、貴女がいい」
 強く手を握られる。この先の言葉を聞いてはいけない。反射的にそう思った。
「貴女を妻にしたい」
 マリアは自嘲気味に笑った。はたから見たら、馬鹿にした笑いに見えたかもしれない。その方が良かった。
「陛下、もう任を解かれましたから申し上げますが、私はただお金が欲しくて貴方様をお導き致しました。当時は旦那が煩わしく自由になるためにお金が必要でした。お陰でこの通り、毎日気ままに暮らしております。感謝しております」
 貴方を騙していたのですよ、と暗に告げる。
「ですから、王妃の座など息が詰まります」
「どうして嘘をつく」
 腰に手が周り引き寄せられる。仰け反るような格好になって、耳元で囁かれる。
「貴女は随分痩せた。手もこんなに冷たい」
 マリアはやんわりと、胸を押した。体を起こして、何事も無かったかのように、踊りを再開する。
「患っていただけです。養生のために、ここにおります」
「どういう経緯で離婚したのか。私が、知らないとでも思うか?」
 どきりとする。まさか流産したことを知っている?
「…経緯とは?」
「借金を肩代わりするのと引き換えに離婚したのだろう?」
 マリアは胸を撫で下ろした。
「ええ。…心配なさらず。父の援助もありますから」
「相当な金額だと聞いた。子爵は苦しいのではないか?」
「陛下。つまり私をお金で買うと、そう言いたいのですね」
 彼は首を横に振る。言いかけて、曲が終わる。周りが次のパートナーを選ぶ中、自分たちだけが取り残される。
「…マリア」
「このような場でこんな辛気くさい話、したくはありませんでした。楽しみにしていたのに、台無しです」
「わざと冷たく言って諦めさせようとしているな」
 苦々しい顔をして彼は言った。マリアは睨みつける。
「私が子を宿せないのを知りながら王妃にと求めるなど、こんな屈辱ありませんわ」
「関係ない。弟が継ぐだけだ。私は貴女がいいんだ」
「金をチラつかせて?」
「金のために指南役になったのだろう?」
「…ええ。そうです。でも、それだけじゃないんです」
 曲が始まる。マリアは手を振り払って、その場から離れる。彼も後ろをついてくる。
「マリア」
「子供は嫌いなの。だから貴方も嫌い」
 出来るだけ冷たく言う。振り返らずに早足で歩く。彼は追いかけてこなかった。





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