【完結】「魔獣と戦う僕より、幼馴染の方がよっぽど危険だった件」

ブヒ太郎

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第29話『看病と飛び入り参加』

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夕闇が王都を深い藍色に染め上げる頃、軍本部の重厚な門を一台の高速馬車が静かにくぐった。時刻は、とうに19時を過ぎている。石畳の上を滑るように進んだ馬車が停止すると、カリス、レーヴェ、そしてノクスが、長い戦いの疲労をその身に纏いながら、ゆっくりと姿を現した。ひんやりとした夜気が、火照った肌に心地よかった。

「じゃぁ、またな。もし、例のミスコンテストの審査官の仕事、手伝えそうにないなら、二日後の夕方までには連絡くれよ」

カリスは、まるで近所の散歩から帰ってきたかのような軽い口調で言うと、ノクスの肩を一度だけ、力強く叩いた。その衝撃に、ノクスの右腕に隠していた激痛が奔る。彼は奥歯を強く噛みしめ、漏れそうになる呻き声を必死に飲み込んだ。
(痛…っ!この人は、本当に力加減というものを知らない…!)

「わかりました。お疲れ様です」

「お大事に、ノクスくん」

レーヴェが、いつもと変わらぬ穏やかな表情で、小さな薬瓶をそっとノクスに手渡す。中には、強力な鎮痛剤が入っているのだろう。ガラス瓶の冷たい感触が、彼の気遣いを伝えてくるようで、今のノクスには何よりもありがたかった。

二人を見送り、ノクスは一人、自身の事務室へと向かう。三角巾で吊った右腕は、ジャケットで巧みに隠しているが、一歩進むごとに、断裂した筋繊維が悲鳴を上げた。冷や汗が、じっとりと背中を濡らしていく。
(…早く、部屋に戻らないと。誰かに会う前に…)
痛みに耐えながら、慣れた廊下の角を曲がる。そして、彼は息を呑んだ。
事務室の扉の前に、一人の少女が、まるで主を待つ忠犬のように、ちょこんと座り込んでいたのだ。

「お、、おかえりっ!大丈夫だった!?」

ノクスの姿を認めた瞬間、リアが弾かれたように立ち上がり、駆け寄ってくる。その瞳には、隠しきれない心配の色が、満面に浮かんでいた。彼女の切羽詰まった声が、静かな廊下に響き渡る。

「ああ、ただいま。大丈夫だ」

(まずい…一番会いたくない相手に…)
ノクスは、迫ってくるリアから、無意識に右腕を庇うように身を引いた。その、ほんの僅かな動き。それが、リアの鋭い観察眼から逃れるはずもなかった。

「ちょっと、今、右腕庇ったでしょ!やっぱり怪我したんじゃない!」

「いや、してない。ただ、ちょっと右腕を捻ったくらいで…」

痛みを押し殺し、必死で平静を装う。だが、声が僅かに上ずるのを、自分でも止められなかった。リアの真剣な眼差しが、彼の心を突き刺すようだった。


夕闇に沈む軍本部の廊下は、人の気配がなく、ひやりとした静寂に満ちていた。窓から差し込む月明かりが、埃の舞う空気を銀色に照らし出し、二人の間に流れる張り詰めた緊張を浮かび上がらせる。ノクスが必死で取り繕った平静は、リアの真っ直ぐな視線の前で、まるで薄氷のように脆く、今にも砕け散りそうだった。彼の声の、ほんの僅かな上ずり。その一瞬の揺らぎを、リアの研ぎ澄まされた感覚が聞き逃すはずもなかった。

(嘘…)

リアの心に、冷たい確信が広がっていく。心配が、疑念へと変わり、そして今、怒りに似た感情へと変質し始めていた。なぜ隠すの。なぜ大丈夫なフリをするの。あたしは、そんなに頼りない?その無言の問いが、彼女の瞳に険しい光を宿らせる。

「診せてっ!」

静寂を切り裂いた声は、もはや懇願ではなかった。有無を言わさぬ、命令。その鋭さに、ノクスはびくりと肩を震わせる。リアは一歩踏み込むと、彼の返事を待たずして、その白い指をジャケットの袖へと伸ばした。その動きにためらいはなく、真実を暴き出すという、揺るぎない意志が満ちていた。
「ま、待て、リア…!」
ノクスは咄嗟に身を引こうとするが、リアはそれを許さない。彼女は痛めていない方の腕を強く掴むと、彼の抵抗を封じ、慎重に、しかし力強くジャケットをめくり上げた。
そして、その下に隠されていた光景に、リアは息を呑んだ。

そこにあったのは、「捻った」などという生易しい言葉では到底表現できない、凄惨な現実だった。
おびただしい量の包帯が、彼の右腕を痛々しく覆っている。だが、その純白であるはずの布地は、内側から滲み出すおびただしい量の血で、赤黒く、禍々しい模様を描いていた。戦闘の激しさを物語るように、所々が擦り切れ、その僅かな隙間からは、紫にどす黒く変色した皮膚と、まるで獣の爪で抉られたかのように、ズタズタに引き裂かれた筋繊維が生々しく覗いていた。血の鉄錆びた匂いが、ツンと鼻をつく。

「………これのどこが、捻った程度なの…?」

絞り出すような、震える声。リアの瞳から、みるみるうちに光が失われていく。その代わりに宿るのは、深い悲しみと、彼の嘘に対する静かな怒り、そして、治癒術士としての冷静な分析眼だった。
(酷い…筋繊維の断裂だけじゃない。魔力による熱傷の痕跡もある。神経もいくつか焼き切れてるはず…。こんな状態で、どうして平気な顔ができるのよ…!)

「…別に、千切れたわけでも折れたわけでもないし…」

ノクスは、リアの絶望に満ちた視線から逃れるように、ふいと顔を逸らした。その声には、自分でも分かるほど力がない。これ以上、彼女に心配をかけたくない。その一心で紡いだ言葉だったが、それはリアの心をさらに深く抉るだけだった。

「激痛なのには変わりないじゃないっ!」

リアの叫び声が、廊下に響き渡る。その声には、抑えきれない涙が滲んでいた。彼の痛みを、自分のことのように感じていた。

「大丈夫…痛みには、慣れてるから…」

諦めにも似た、静かな声。
その一言が、リアの世界を打ち砕いた。
慣れてる?こんな、全身が引き裂かれるような痛みに?
その言葉は、彼がこれまで歩んできた道のりの、想像を絶する過酷さを物語っていた。自分が知らない三年間。彼が一人でどれほどの地獄を潜り抜け、どれだけの傷をその身と心に刻み込んできたのか。その事実が、巨大な壁となって二人の間に立ちはだかる。
リアは、ただ唇をきつく噛みしめた。拳を握りしめる。彼の強さと、その裏にある孤独。自分ではどうすることもできない、圧倒的な現実。その無力感が、彼女の胸を締め付ける。
(あたしは…また、ノクスに心配をかけて、泣いてるだけ…)
違う。
そうじゃない。
ただ心配して、泣いているだけの存在で終わりたくない。彼の隣に立ちたい。彼を、支えたい。この腕を、この心を、あたしの全てで、癒したい。
その想いが、彼女の中で一つの確かな決意へと変わっていく。
潤んでいた瞳に、強い光が宿った。涙はもうない。あるのは、燃え盛るような意志の炎だけ。

「…する」

ぽつりと、決意が零れ落ちる。それは、誰に言うでもない、自分自身への誓いだった。

「リ、リアさん?」

ノクスの、困惑した声。リアは、その声に応えるように、ゆっくりと顔を上げた。その表情には、もう迷いも悲しみもない。ただ、揺るぎない覚悟だけがあった。

「看病するっ!」

決意に満ちた声が、力強く響き渡った。
それは、ただの提案ではない。ノクスの都合など一切考慮しない、一方的で、絶対的な、愛の宣言だった。彼の傷も、痛みも、孤独も、全て自分が受け止める。その覚悟が、彼女の全身から、オーラのように迸っていた。


リアの、有無を言わさぬ絶対的な宣言が、静まり返った廊下にこだまする。その言葉の持つ力に、ノクスは完全に気圧されていた。だが、ここで引き下がるわけにはいかない。これ以上、この少女に面倒という名の心配をかけるわけにはいかないのだ。彼は痛む腕の感覚を意思の力で押し殺し、最後の理性を振り絞って説得を試みた。

「で、でも別に入院するほどのことでもないし、一応レーヴェさんに処置は入れてもらったし、鎮痛剤ももらったし、あとは僕の強化術式で、肉体強化かけ続ければ、たぶん大丈夫…」

早口で、しかし必死に紡がれる言葉。それは、彼女を安心させるための嘘であり、同時に、自分自身に言い聞かせているだけの、空虚な強がりだった。
(そうだ、大丈夫だ。今までだって、これくらいの怪我は一人で治してきたじゃないか。僕一人で、なんとかできるはずだ…!)
その、あまりにも痛々しい言い訳を、リアは冷たい視線で一刀両断した。

「だめっ!そんなの心配だよっ!」

その声は、ただの反対意見ではなかった。彼の自己破壊的な癖を、心の底から憂う魂の叫びだった。彼女は一歩踏み込み、ノクスの瞳を真っ直ぐに見据える。その潤んだ瞳の奥には、決して屈しないという、燃えるような意志の炎が宿っていた。
「肉体強化をかけ続ける?それで誤魔化してるだけじゃない!あんたはいつもそう!自分の身体が壊れるまで無理して、ボロボロになって、それで『慣れてる』なんて言うんでしょ!もう、そんなあんたを見てるのは嫌なの!」

「ど、どうしろと?」

ノクスの声は、もはや蚊の鳴くようにか細い。リアのあまりにも正論な指摘に、彼はぐうの音も出なかった。リアは、そんな彼の弱々しい問いかけを待っていたかのように、静かに、しかし、はっきりと告げた。

「ノクスの部屋、案内して…」

リアは、僅かに顎を上げ、ノクスをじっと見上げていた。そのジト目には、甘えも、懇願もない。ただ、「拒否は許さない」という、絶対的な圧だけが込められていた。

「へ、部屋?」

「そう!泊まり込みで看病するっ!」

その、あまりにも突拍子もない宣言に、ノクスの思考は完全に停止した。泊まり込み?この、自称・未来のお嫁さんが?自分の、あの殺風景な部屋に?冗談じゃない。

「い、い」

「今は、『妹よ、それははしたないからやめなさい』って言葉は聞く気はない」

ノクスが、いつもの常套句で彼女をいなそうとする、まさにそのコンマ数秒前。リアは、彼の思考を完全に先読みし、その逃げ道を完璧に塞いだ。

「よ、よくおわかりで…」

ノクスは、がっくりと肩を落とした。もはや、打つ手がない。目の前の少女は、自分のことを、自分以上に理解している。そして、その上で、絶対に引かないという覚悟を決めている。その圧倒的な現実の前に、ノクスの抵抗する意志は、砂の城のように脆くも崩れ去った。
彼は、深いため息をつくと、諦観に満ちた表情で、自室の棟と部屋番号をぽつりと告げた。
その言葉を聞いた瞬間、リアの顔が、ぱあっと満開の花のように輝いた。彼女は、勝利を確信すると、まるで今から戦場に赴く兵士のように、きびきびとした動きで踵を返した。

「わかった、数日分の着替えと、食べ物もっていくから、ノクスは先に行っててっ!」

その声は、もう心配に震えてはいなかった。これから始まる「任務」への、期待と喜びに満ち溢れている。
言うが早いか、彼女は廊下を猛然と駆け出していった。その軽やかな足音は、あっという間に遠ざかり、再び廊下には静寂が戻ってきた。
一人残されたノクスは、血が滲む右腕の鈍い痛みと、これから訪れるであろう、それ以上に過酷な現実を思い、ただ呆然と立ち尽くす。

「な、なんか大変なことになってきたな」

その呟きは、誰に聞かれることもなく、夕闇に沈む廊下の冷たい空気の中へと、虚しく吸い込まれていった。


ノクスの自室は、軍の支給品で構成された、殺風景な空間だった。きちんと整頓された机、きっちりと畳まれた毛布、壁には装飾の一つもない。彼の、真面目で、そしてどこか孤独な性格が、その部屋の隅々から滲み出している。先ほどリアに言い渡された部屋番号の主として、ノクスは諦観の境地でベッドの縁に腰掛け、これから始まるであろう嵐を静かに待っていた。右腕のズキズキとした痛みが、現実感を嫌というほど伝えてくる。

やがて、廊下からタタタッと軽快な、しかしどこか切迫した足音が近づいてきた。扉が、ノックもなしに勢いよく開かれる。そこに立っていたのは、数日分の着替えと食料がパンパンに詰まった大きな鞄を肩にかけた、完全武装のリアだった。その姿は、もはや「看病」というより「籠城戦」に挑む兵士のそれである。

「お待たせ、ノクス。さ、腕を出して」

部屋に入るなり、リアは手早く鞄を床に置くと、真っ直ぐにノクスへと向き直った。その声には、先ほどまでの心配に震える響きはない。あるのは、患者を前にした治療士としての、冷静で、揺るぎない覚悟だけだった。
「…」
ノクスは、もはや抵抗する気力もなく、黙って血の滲む右腕を差し出した。リアは、その隣に静かに膝をつくと、慣れた手つきでレーヴェが巻いた応急処置の包帯を、一層一層、丁寧に解いていく。血で固まったガーゼが剥がれるたびに、ノクスの眉間に僅かな皺が寄るが、彼は声一つ上げなかった。

「ホントにひどい状態…」

露わになった傷口を前に、リアが痛ましげに呟いた。彼女の治癒術士としての目が、断裂した筋繊維、熱傷で変質した皮膚、そして損傷した神経の経路を正確に捉えている。
彼女は、そっと両手をノクスの腕にかざした。目を閉じ、精神を集中させると、その掌から、温かく、そして柔らかな光が溢れ出す。光の粒子が、まるで傷口に吸い込まれるように集まり、ズタズタになった組織を優しく包み込んでいく。灼熱の鉄を押し付けられるようだった激痛が、温かい湯に浸かるかのように、ゆっくりと和らいでいった。

「ありがとう。少しは痛みが引いてきたよ」

数分後、リアが額の汗を拭うと、ノクスは心からの感謝を口にした。

「なら、いいんだけど…これから3時間おきにかけてくね」

「3時間置き…ほんとに泊まる気?」

「泊まる気」

リアの、あまりにもきっぱりとした即答に、ノクスの額に冷や汗が伝う。

「べ、ベッド貸そうか?僕は床で寝るから」

せめてもの抵抗として、そして男としてのけじめとして、ノクスはそう提案した。だが、リアはその言葉を、心底呆れたという表情で一蹴した。

「怪我人が何言ってるのよ!ベッドを使うのはノクスでしょ!」

「…いや、流石に妹を床に寝かせるわけには!」

ノクスが、いつものように彼女を「妹」と呼んだ、その瞬間。リアの纏う空気が、ぴしりと凍り付いた。

「その妹っていうの、今はやめて」

低く、静かな声。だが、その一言には、これまでのどんな我儘よりも重い、拒絶の響きがあった。
ノクス(な、なんか今日のリア…迫力が違う…)
目の前にいるのは、いつもの暴走気味な幼馴染ではない。一人の患者の命と健康に、全責任を負うと覚悟を決めた、治療士としてのリア・エステルだった。その気迫に、ノクスは完全に呑まれてしまっていた。

「でも、ほんとにリアを床に寝かせるのは」

「それには及ばない。ノクスと一緒に寝る」

「はぁ!?」

ノクスの、悲鳴に近い声が、静かな部屋に響き渡った。リアは、そんな彼の動揺など意にも介さず、淡々と、しかし、あまりにも衝撃的な作戦内容を告げる。

「ノクスの右腕を抱いて寝る。それで3時間ごとに回復術式をかける。密着度があるほうが、効率がいい」

それは、治癒術士としての、あまりにも合理的で、そして、一人の男にとっては、あまりにも非人道的な提案だった。

「ひぇ…」

ノクスは、もはや短い悲鳴を上げることしかできない。リアは、そんな彼の恐怖を和らげるように(あるいは、自分自身に言い聞かせるように)、胸を張って宣言した。

「大丈夫っ!いまのあたしは治療士としての覚悟があるっ!本能には負けない自信があるっ!」

その力強い言葉は、しかし、逆にノクスの恐怖を増幅させるだけだった。

「…本能の部分は聞かないでおこう」

「…そうだね」

リアも、さすがに少しだけ気まずそうに視線を逸らした。
こうして、ノクスの意思を完全に無視する形で、彼の私室での、一人の負傷兵と、一人の過保護すぎる治療士による、奇妙で、そして危険な同棲生活が、静かに幕を開けたのだった。


翌朝、ノクスは慣れない柔らかな気配に意識を浮上させた。
右腕のズキズキとした痛みよりも先に鼻腔をくすぐったのは、香ばしい匂い。焼きたてのパンと、卵が焼ける音。自分の殺風景な部屋には、あまりにも不釣り合いな生活感に満ちたその気配に、彼はゆっくりと瞼を開いた。
視界の先、部屋に備え付けられた簡素なキッチンスペースで、リアが軽快に動き回っていた。普段の軍服ではなく、持ってきたであろう動きやすいシャツ姿の彼女は、慣れた手つきでフライパンを操っている。その背中は、どこか昨日までとは違って見えた。

「おはよう、ノクス。朝ごはんできたよ」

ノクスの視線に気づいたリアが、振り返って花が咲くように微笑んだ。テーブルの上には、既に湯気の立つスープと、彩りの良いサラダが並べられている。

「ありがとう…でも、いつの間にそんなに…」

「早起きして作ったの。栄養バランス考えて、卵とお肉とお野菜たっぷりにしたから」

まるで新婚の妻のような、完璧な手際の良さ。ノクスは、まだ半分眠っている頭で、目の前の光景が現実であることを、ゆっくりと受け入れていった。

食事は、ある意味で拷問の始まりだった。
リアは、ほかほかのスクランブルエッグをスプーンに乗せると、満面の笑みでノクスの口元へと差し出した。

「はい、あーん」

「いや、左手があるから自分で…」

ノクスが、戸惑いながらも無事な左手を持ち上げると、リアはぷっくりと頬を膨らませて首を横に振った。

「だめ!怪我人は大人しくしてなさい!それに…」

彼女は、急に視線を落とし、頬をほんのり赤らめる。そして、消え入りそうな声で、こう続けたのだ。

「…あたしが、食べさせてあげたいの…」

(こ、これは完全に新婚夫婦のそれでは…!)
その、あまりにも反則的な上目遣いと健気な言葉のコンボに、ノクスの抵抗する意志は一瞬で霧散した。彼は、観念して、おそるおそる口を開ける。温かい卵が、口の中に優しく広がった。

その日一日、リアの献身的な「お嫁さんムーブ」は、留まることを知らなかった。

「お薬の時間よ。ちゃんと飲まないとダメ」

リアは、壁の時計をちらりと確認すると、レーヴェから渡された薬を正確な量だけ取り出し、水の入ったコップと共にノクスの前に差し出した。その無駄のない動きは、優秀な補助隊員としての彼女の能力を物語っている。

「ありがとう、助かるよ」

「当然よ。あたしがノクスの世話をするのは当たり前だから」

彼女は、ふふん、と得意げに胸を張った。

食事が終わると、リアは休む間もなく、部屋の片付けを始めた。

「ノクスはベッドで休んでて。お部屋の掃除するから」

「そんな、悪いよ…。僕の部屋なんだし、自分で…」

「いいの!あたしがやりたいからやってるの!」

リアはそう言うと、どこからか見つけてきた雑巾を手に、鼻歌混じりで床を磨き始めた。その楽しそうな姿は、まさに家庭的な妻そのものだった。ノクスは、ベッドの上でなすすべもなく、自分のテリトリーが、リアの色に染め上げられていくのを、ただ呆然と眺めていた。

「着替え持ってきたから、汚れた服は洗っておくね」

昼過ぎ、リアはそう言うと、ノクスが脱ぎ捨てていた戦闘服を手際よく回収し始めた。

「ちょ、ちょっと!下着も混じって…」

ノクスの悲鳴に近い声も、彼女には届かない。リアは、彼のパンツをひらりと摘み上げると、悪戯っぽく微笑んだ。

「何よ、恥ずかしがることないじゃない。将来はもっと色々…」

「将来って何だ将来って!」

ノクスの顔は、羞恥で真っ赤に染まっていた。

午後になると、リアはふと、ノクスの顔を覗き込んできた。

「熱はない?体調は?痛みは?」

そう言うと、彼女は自分の額を、こつん、とノクスの額に合わせた。ひんやりとした、柔らかな感触。すぐ目の前にある、キラキラと輝く大きな瞳。その、あまりの距離の近さに、ノクスの心臓が、ドクン、と大きく跳ね上がった。

「大丈夫…リアが近いと心臓がばくばくするけど…」

「え?それって体調悪いってこと?」

リアは、心底心配そうな顔で、さらにぐっと顔を近づけてくる。その純粋な眼差しに、ノクスはもはや何も言えなかった。

「いや、それは別の理由で…」

夕暮れ時、窓の外が茜色に染まり始める頃には、リアはもう明日の献立を考えていた。

「今日の夕ごはんは何がいい?」

「え?もう夕食の心配?」

「当然よ!ノクスの好きなもの作ってあげたいもの」

「そんなに気を使わなくても…」

「気を使ってるんじゃないの。あたしがノクスの世話をしたいだけ」

彼女は、そう言って、心底幸せそうに微笑んだ。

その笑顔を見ながら、ノクスは一日中感じていた困惑の正体を、ようやく理解した。
(これは…完全に新妻のそれだな…)
一日中、彼の身の回りの世話を焼き、甲斐甲斐しく尽くす姿。そのどれもが、彼の想像していた「リア・エステル」とはかけ離れていた。
(でも、リアがこんなに家庭的だったなんて知らなかった…)
驚きと、そして、それだけではない感情が、彼の心に静かに広がっていく。
(なんだか、悪い気はしない…というか、むしろ…)
その思考に気づいた瞬間、ノクスは自分の心臓が、また少しだけ速く打つのを感じていた。自分の気持ちの変化に、彼自身が一番戸惑っている。
そんな彼の内心を見透かしたかのように、リアが心配そうに声をかけた。

「ノクス、何か困ったことない?」

その問いに、ノクスは、思わず本音を漏らしていた。

「いや…リアがいてくれると、すごく心強いよ」

「本当?」

その瞬間、リアの表情が、ぱぁっと春の陽光のように輝いた。それは、どんな高価な宝石よりも眩しく、彼の心を温かく照らす、最高の笑顔だった。
(この笑顔を見てると、怪我した甲斐があったかも…)
そこまで考えて、ノクスははっと我に返った。
(って、何考えてるんだ僕は!)
彼は、ぶんぶんと頭を振り、込み上げてくる照れ臭さを必死に誤魔禍す。だが、一度芽生えてしまった温かい感情は、もう消すことができないことを、彼はまだ知らなかった。


看病生活二日目の朝、ノクスは昨日よりもさらに濃密な生活感の気配で目を覚ました。部屋に満ちる香りは、もはや単なるパンが焼ける匂いではない。出汁の優しい香りと、ほんのりと甘い醤油の香ばしい匂いが、彼の食欲を優しく刺激する。ベッドから身を起こすと、右腕の痛みはリアの夜通しの治癒術のおかげか、昨日とは比べ物にならないほど和らいでいた。

「おはよう!今日の朝ごはんは、昨日ノクスが美味しいって言ってくれた卵焼きを少し甘めにしてみたの」

キッチンスペースからひょっこりと顔を出したリアが、朝日よりも眩しい笑顔で言った。その手には、湯気の立つご飯と味噌汁が乗ったお盆がある。テーブルの上には、完璧な焼き加減の鮭と、黄金色に輝く卵焼きが並べられていた。

「覚えててくれたんだ…」

ノクスは、思わず感心したように呟いた。昨日の何気ない一言を、彼女はしっかりと記憶していたのだ。

「当然よ!ノクスの好みは全部覚えてるから」

リアは、ふふん、と得意げに胸を張る。その言葉は、もはや脅しではなく、純粋な愛情の表明として、ノクスの心に温かく響いた。

リアの完璧な妻ぶりは、朝食だけでは終わらなかった。

食後、ノクスが何気なくクローゼ-ットから昨日着ていたシャツを取り出すと、リアが「あ、それね」と声をかけた。

「ノクスのシャツ、ボタンが取れそうになってたから直しておいたよ」

彼女は、どこからか取り出した小さな裁縫箱を手に、にこりと微笑む。ノクスがシャツを確認すると、確かに、少し緩んでいた胸元のボタンが、しっかりと、そして驚くほど綺麗に縫い付けられていた。その丁寧な仕事ぶりに、彼の知らないリアの一面を見た気がした。

「そんなところまで…ありがとう」

昼前、少し部屋の空気を入れ替えようとリアが窓を開けると、彼女は「あ、そうだ」と思い出したように鞄からいくつかの紙袋を取り出した。

「お昼に食べたいって言ってた果物、買ってきたから!あと、お肉も新鮮なのが手に入ったの。夕食はシチューにしようと思って」

袋の中には、瑞々しいリンゴやオレンジ、そして見るからに上質な肉の塊が詰められていた。

「僕のためにわざわざ…」

「当たり前でしょ?これくらい」

リアは、こともなげに言う。彼女にとって、ノクスのために時間を使い、心を配ることは、呼吸をするのと同じくらい自然なことらしかった。

そして、ノクスが少しうたた寝をして目を覚ました時、彼は部屋の景色が僅かに変わっていることに気づいた。

「ノクスが寝てる時に少し模様替えしたの。どう?過ごしやすくなった?」

ベッドから机までの動線が確保され、窓からの光が部屋全体に届くように家具の配置が微調整されている。それは、この部屋で療養する彼のことを、心の底から考えていなければできない、細やかな配慮だった。

「本当に気が利くな…まるで…」

その言葉は、ほとんど無意識に、ノクスの口から零れ落ちた。

「リアは…いい奥さんになるよ」

しん、と部屋の空気が静まり返る。
その言葉に、それまでテキパキと動き回っていたリアの動きが、ぴたりと止まった。彼女はゆっくりとノクスの方を振り返る。その顔は、耳まで真っ赤に染まっていた。

「ノクスの…ね」

恥ずかしそうに俯きながら、しかし、はっきりと聞こえる声でリアは答えた。その一言が、ノクスの思考を完全に停止させた。

「い、いや、今のはそういう意味ではっ!」

ノクスは、自分がとんでもない失言をしたことに気づき、慌てて手を振って否定する。だが、その狼狽ぶりは、もはや火に油を注ぐだけだった。

「はいはい、今更恥ずかしがる必要もないでしょ別にっ!」

リアは、顔を真っ赤に染めたまま、しかし、その瞳はこれ以上ないほど嬉しそうに輝いていた。彼女は、ノクスの否定の言葉など、全く意に介していない。
ノクス(あれ…僕、今何を言ったんだ?)
リア(ノクスの奥さん…ノクスが認めてくれた…)
二人とも、心の中でその言葉の意味を反芻していた。ノクスにとっては取り返しのつかない失言。リアにとっては、三年間待ち続けた、事実上のプロポーズ。その認識の決定的なズレが、二人の間に甘く、そして危険な空気を生み出していた。

その言葉を境に、二人の間に流れる空気は、明らかに昨日までとは違うものになっていた。

「あ、そうそう。お薬の時間よ」

リアが、いつもより少しだけ高い声で言う。彼女は薬と水の入ったグラスを差し出すが、その視線は恥ずかしさからか、ノクスの顔を真っ直ぐに見ることができない。

「ありがとう…」

ノクスがそれを受け取ろうとした時、彼の指先が、リアの指に、そっと触れた。
びくり、と二人の肩が同時に跳ねる。
ノクス(なんだこの感じ…今までと違う…)
リア(ノクスの手、温かい…)
触れたのはほんの一瞬。だが、その僅かな接触が、まるで電流のように互いの心臓を貫いた。慌てて手を引く二人。グラスの水が、ちゃぷん、と小さく揺れた。
それは、ただの看病ではない。
昨日までの「お兄ちゃん」と「妹のような幼馴染」という関係が、音を立てて崩れ、その瓦礫の中から、全く新しい何かが生まれ始めようとしている。そんな確かな予感が、静かな部屋の中を、甘く、そして少しだけ息苦しく満たしていくのだった。

Aランク魔獣との死闘から三日後。軍本部の最も大きな講堂は、普段の厳粛な空気が嘘のような、むせ返るほどの熱気に包まれていた。壁には色とりどりの旗が飾られ、ステージ上には眩いほどの照明が設置されている。客席を埋め尽くしているのは、そのほとんどが普段はむさ苦しい訓練に明け暮れている男性隊員たちだ。彼らの、これから始まる饗宴への期待に満ちた野太い声が、巨大な空間をビリビリと震わせていた。

その喧騒から隔絶されたように、ノクスは会場の後方に設置された簡素な長机で、一人静かに集計用の書類を整理していた。レーヴェが巻いてくれた包帯はもうないが、まだ痛みの残る右腕は、黒い三角巾で痛々しく吊られている。左手だけで器用にペンを走らせる姿は、どこか痛々しくも、彼の真面目な性格を物語っていた。

(本当に、一体何をやっているんだ僕は…)

Aランク魔獣を討伐した英雄が、その三日後にアイドルのオーディション会場のスタッフのような仕事をしている。この国の歪んだ現実を、彼は身をもって体感していた。

「ノクス、調子はどうだ?」

不意に、背後から陽気な声がかかった。振り返ると、今日の主役であるMC、カリスがステージ衣装……というわけではなく、いつもの隊長服の胸元を少しだけはだけさせた、妙に気合の入った姿で立っていた。

「おかげさまで、だいぶ良くなりました。痛みもほとんどありません」

「それは良かった。今日はよろしく頼む」

カリスは満足そうに頷くと、ウインクを残してステージへと向かっていく。その背中を見送りながら、ノクスは深いため息をついた。

やがて、けたたましいファンファーレと共に、イベントの幕が上がった。

「諸君、待たせたな!これより、未来のヴァルグレアを彩る女神たちの祭典!第4回補欠新人限定ミスコンテストを開催する!」

カリスの、腹の底から響くような声に、会場のボルテージは最高潮に達した。割れんばかりの歓声と指笛が鳴り響く。
ステージには、番号札をつけた補欠採用の新人女性隊員たちが、一人、また一人と姿を現した。軍服を少しだけ着崩し、はにかみながら自己紹介をする者。緊張で声が上ずり、しどろもどろになる者。そして、明らかに観客席の隊長格の男たちに、媚びるような視線を送る者。その姿は、まさに千差万別だった。

ノクスは、その光景を冷静に、そして冷徹に観察していた。彼の仕事は、彼女たちの容姿や愛嬌を評価することではない。その瞳の奥にある「動機」を見抜き、点数という形で記録することだ。

(確かに、明らかに婚活目的っぽい人もいるな…。視線が常に幹部席を向いている。自己PRも、自分の能力ではなく、いかに家庭的であるかをアピールしている…)

彼は、ただ淡々と、左手で集計用紙に評価を書き込んでいく。それは、もはや事務仕事というより、敵性存在の分析に近い作業だった。

コンテストが中盤に差し掛かり、参加者19人全員がステージ上に勢揃いした。カリスが、次の審査内容を発表しようとマイクを握りしめた、まさにその時だった。

「あ、あの!飛び入り参加させてください!」

凛とした、しかし、どこか焦ったような声が、会場の喧騒を切り裂いた。
全ての視線が、声のした方へと一斉に向けられる。音楽が止まり、スポットライトが慌てて客席の後方へと動いた。
そこに立っていたのは、息を切らし、肩で呼吸をするリア・エステルの姿だった。

「!?!?」

ノクスの思考が、完全に停止した。左手で握りしめていたペンが、カタン、と音を立てて机から滑り落ちる。

(リア…何をしてるんだ何を…)

呆然とステージに乱入した彼女を見つめながら、彼の口から、無意識の分析がぽつりと零れ落ちた。

「…でも、あいつ黙ってたら、上位5位には入れるかもな…」

その呟きを、隣にいつの間にか戻ってきていたカリスの耳が、聞き逃すはずもなかった。

「ほほー…お前にはそう見えるか」

カリスは、獲物を見つけた狩人のように、ニヤニヤと楽しげに笑いながらノクスの顔を覗き込んだ。ステージ上では、リアがマイクを握りしめ、審査員席のカリスに向かって、はっきりと、そして少しだけ挑戦的に言った。

「リア・エステルです!飛び入り参加、だめですか?」

その言葉に、カリスは満面の笑みを浮かべると、マイクを通して、会場全体に響き渡る声で高らかに宣言した。

「いいよ、大歓迎だ!面白いじゃねえか!これで参加者20人だ!」

その瞬間、それまで戸惑っていた観客席から、「おおおぉぉぉっ!」という、地鳴りのような歓声が沸き起こった。
ノクスは、その熱狂の渦の中心で、ただ一人、頭を抱える。

(始まった…僕の胃痛が…)

Aランク魔獣との死闘以上に過酷で、そして予測不可能な戦いの火蓋が、今、切って落とされたのだ。


会場の熱狂が、一人の少女の登場によって、奇妙な期待感をはらんだ静寂へと変わっていく。ステージに上がったリアは、眩いスポットライトを一身に浴びながらも、少しも臆することなく、まっすぐに審査員席…いや、その後方で呆然と自分を見つめる、ただ一人の男を見据えていた。
カリスは、この予測不可能な展開を心底楽しむように、マイクを通して彼女を促した。

「それでは、エントリーナンバー20番、リア・エステルさん!自己紹介をどうぞ!」

リアは、こくりと一度頷くと、マイクを両手でぎゅっと握りしめた。そして、深呼吸を一つ。彼女は、集まった全ての隊員、全ての視線を無視して、ただノクスの瞳だけを射抜くように、はっきりと、そして、どこまでも朗らかに宣言した。

「私は将来、そこに居る審査官のノクス・アルヴァと結婚する予定の婚約者です!」

しん、と。
あれほど騒がしかった講堂の空気が、一瞬にして凍り付いた。誰もが、自分の耳を疑った。ステージ上の他の参加者たちは目を丸くし、観客席の兵士たちはあんぐりと口を開けている。
だが、リアの独壇場はまだ終わらない。彼女は、にこりと、天使のように愛らしい笑みを浮かべたまま、その言葉に、絶対零度の続きを付け加えた。

「もし、万が一にも…あたしの大切なノクスにちょっかいを出す悪い虫さんがいたら…」

彼女は、こてん、と可愛らしく首を傾げる。その仕草は、これから続く言葉の恐ろしさを微塵も感じさせない、無垢なものだった。

「そうですねぇ…その羽を、ぜーんぶ、一本残らず丁寧にむしってあげます。二度と、どこにも飛んでいけないように。ね?」

その瞬間、会場の空気は凍り付くどころか、完全に砕け散った。
「!?!?!?」
ノクスの思考回路が、パチパチと音を立ててショートする。口は半開きのまま、声にならない悲鳴が喉の奥で詰まっていた。右腕の痛みなど、もはやどこかへ吹き飛んでいる。それ以上に致命的な、社会的生命の危機が、今、彼の目の前で繰り広げられていた。
(言った…この子、大観衆の前でとんでもないこと言ったぞ…!)
その地獄のような光景を、カリスだけが、腹を抱えて笑い出しそうなのを必死に堪えている。

「おお、これは…なかなか面白い展開だ」

結果、会場は異様な盛り上がりを見せた。審査員たちの困惑をよそに、観客席の兵士たちからは「面白い子だから一票!」「怖すぎて逆に推せる!」といった声が飛び交い、投票用紙が次々と投じられていく。

やがて、全ての審査が終わり、カリスが再びステージの中央に立った。

「それでは結果発表!栄えある第4回ミスコンテスト、まずは第18位から!エントリーナンバー20番、リア・エステル!」

その瞬間、会場は爆笑と拍手の渦に包まれた。リアは、不本意極まりない順位に「ぐぬぬ…」と唸りながらも、どこか満足げに胸を張っている。彼女の目的は、もはやコンテストの順位などではなかったのだから。
美人は美人なのだが、あまりにも強烈な独占宣言により順位は大幅にダウン。実際には、いい子ぶって精々11位止まりだったであろうところを、さらに下げる結果となった。

ノクスは、集計係として、その結果をただ呆然と眺めていた。彼の左手が、集計用紙の上で止まっている。
(あれ…18位?でも、僕には確実に、ステージ上の誰よりも…上位に見えたのに…)
その、あまりにも素直で、そして致命的な心の声。それを、隣に立つカリスが聞き逃すはずもなかった。

「ようやく自分の気持ちに気付けたかい?鈍感くん?」

カリスが、ニヤリと笑いながらノクスの顔を覗き込む。

「え?」

「お前の『黙ってれば確かに美人』ってのは、要するに、お前の好みがリアちゃんってことじゃないか」

「そ、そんな…」

ノクスの顔から、さっと血の気が引いていく。カリスは、そんな彼の動揺をさらに抉るように、言葉を続けた。

「孤児院の先生の『黙ってれば花のように綺麗だね』ってのは、社交辞令だ。だがな、お前の評価は本音だろ?」

その言葉は、まるで真理を突く刃のように、ノクスの心の最も柔らかな部分に突き刺さった。
そうだ。あの時、自分が口にした言葉。それは、客観的な分析などではなかった。ただ、自分の心が、そう感じただけだ。ステージ上の誰よりも、必死で、無茶苦茶で、そして、どうしようもなく輝いて見えた。
ノクスは、何も言い返せなかった。彼は、ステージの上で不満そうにしながらも、どこか誇らしげに自分を見つめているリアの姿から、もう目を逸らすことができなかった。
自分の心が、ずっと前から、たった一人の少女に囚われていたという、あまりにも単純な真実。
その事実に、彼は、今、ようやく気づかされたのだった。

(確かに…僕にはリアが一番美しく見える…これって…)

カリスは、そんなノクスの狼狽ぶりを、面白くてたまらないといった表情で眺めながら、容赦なくとどめの一撃を放つ。

「ちなみに、一般的な評価だと、リアちゃんは精々11位程度の容姿レベルだ。それを5位以内だって言ったお前の評価は…」

カリスはそこで一度言葉を切り、ノクスの顔を覗き込んだ。その瞳は、全てを見透かしているかのように、悪戯っぽく輝いている。

「…」

ノクスは、ただ黙ってカリスの次の言葉を待つしかなかった。心臓の音が、やけに大きく聞こえる。

「完全に恋する男の目だったってことさ」

その言葉が放たれた瞬間、ノクスの頬に、じわりと熱が広がった。自分でも分かるほど、顔が赤く染まっていく。彼は、カリスの視線から逃れるように、慌てて俯いた。だが、その反応こそが、カリスの指摘が真実であることを、何よりも雄弁に物語っていた。


コンテストの熱狂が嘘のように過ぎ去り、講堂には後片付けをするスタッフの足音だけが響いていた。観客席の兵士たちは、今日の出来事を肴に、楽しげに語らいながら三々五々と散っていく。
ノクスは、集計係の机で一人、まだどこか上の空のまま、書類をまとめていた。だが、彼の視線は、ステージの袖で所在なげに佇む、一人の少女の姿を捉えて離さない。
意を決し、彼はゆっくりと立ち上がると、リアの元へと歩み寄った。

「お疲れ様…でも、なんで急に参加を?」

彼の、どこかぎこちない問いかけに、リアはびくりと肩を震わせた。彼女は、ノクスの顔をまともに見ることができず、視線を足元に落としたまま、もじもじと指先を弄んでいる。

「えーと…実は…」

その声は、ステージ上での堂々とした宣言が嘘のように、か細く、そして、恥ずかしそうに震えていた。

「…賞金で、ノクスに美味しいものでも買ってあげようと思って…」

「僕のために…?」

ノクスの、間の抜けたような問い返し。その言葉に、リアはこくりと頷いた。

「でも、18位だと賞金ほとんどないな…独占宣言しちゃったから」

彼女は、心底悔しそうに、そして少しだけ照れくさそうに、ぺろりと舌を出した。

その、あまりにも純粋で、健気な言葉。
それが、ノクスの心に深く、深く突き刺さった。

(僕のために、参加して…)
(僕のために、あの無茶苦茶な独占宣言まで…)

ノクスの脳裏に、様々な光景が蘇る。彼女が自分を追いかけて軍に入ってきたこと。セグリッドで必死に治癒術を学んでいたこと。そして、この三日間、自分のために甲斐甲斐しく看病してくれたこと。その全ての行動の根源にあるのが、ただ、自分に向けられた、あまりにも真っ直ぐな想いなのだと、彼はようやく理解した。

(それなのに僕は、この子を査定対象として、冷静に点数をつけようとしていた…)

罪悪感が、彼の胸を締め付ける。そして、その罪悪感と共に、これまでずっと蓋をしてきた、もう一つの感情が、堰を切ったように溢れ出してきた。

(この気持ちは…確かに、ただの兄妹愛じゃない)

リアの、あまりにも純粋な想い。そして、それに気づいてしまった、自分自身の本当の気持ち。
ノクスは、ゆっくりと顔を上げた。目の前で、まだ賞金のことを悔しがっている少女が、どうしようもなく愛おしい。
彼は、まだその感情に名前をつけることができない。だが、それが、これまで自分が感じてきたどんな感情とも違う、特別で、温かいものであることだけは、はっきりと分かっていた。
二人の、長いようで短い一日が、今、終わろうとしていた。そして、ノクスの心の中では、全く新しい物語が、静かに始まろうとしていた。


講堂の熱狂は、ゆっくりと潮が引くように去っていった。満足げな顔で今日の出来事を語り合う兵士たちが三々五々と散り、ステージの上ではスタッフが慌ただしく後片付けを始めている。
その喧騒から少し離れた、会場の一角。壁に寄りかかり、腕を組んでその光景を眺めている一人の少女がいた。彼女の名はエリナ・ロウザ。先ほどのミスコンテストで、3位に入賞した新人隊員だ。彼女は、ステージ袖でぎこちなく言葉を交わすノクスとリアの姿を、細められた瞳で、じっと観察していた。

(なに、あのリアって子…)

エリナは、心の中で冷ややかに呟く。

(あの程度の容姿で、よくもまあ、あんな大それた婚約宣言ができたものだわ。それに、あの審査官のノクスって人…)

彼女の視線が、値踏みするようにノクスへと注がれる。

(容姿からすれば、上の下、ってところかしら。絶世の美男子ってわけじゃない。でも…真面目で、優しそう。リアって子に見せる表情、どことなく庇護欲をそそるし…それに…)

エリナの目が、きらりと鋭く光った。彼女の観察眼は、ノクスが身に着けている一見地味なジャケットの仕立ての良さ、そして、三角巾から僅かに覗くシャツの生地の上質さを見逃さなかった。

(身に着けてる物も、何気に上質なものが多い。派手さはないけど、育ちの良さが滲み出てる。…決めたわ)

獲物を見るような目で、エリナはノクスを見つめる。彼女の美しい顔に、計算高い光を宿した笑みが浮かんだ。

(ちょっと、ちょっかい出しちゃおうかしら)

彼女にとって、男とは手に入れるべきトロフィーであり、リアの存在は、ゲームを面白くするための障害物に過ぎない。

「ふふ…面白くなりそう」

その呟きは、誰に聞かれることもなく、祭りの後の寂寥感に満ちた空気の中へと、静かに溶けていった。

【次回予告】
ノクスが、リアへの本当の気持ちに気づき始めた、まさにその矢先。
新たな波乱の影が、静かに忍び寄る。
3位入賞者、エリナ・ロウザの参戦により、物語は予測不能な三角関係へ…!?
果たして、ノクスとリアの関係はどうなるのか?

――第30話へ続く
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